駿河の国をwebで歩く(46)「府中・南安東村・曲金村」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「府中宿編」を選択して散歩する。
 

今回は「府中宿」から「南安東村」「曲金村」へ進む。

 

前回は「府中宿」の「下横田町」周辺を巡った。

 

「下横田町」で「府中宿」の「東見附」を出て、これから進む東海道は

古地図の時代には「南安東村」「曲金村」「柚木村」「南長沼村」「北長沼村」「古庄村」「栗原村」と続く。

 

明治の頃にこれら村がまとまって「豊田村」になった地域だ。

 

旧東海道はJRの東海道本線と交差する。

 

〇下横田踏切跡


旧東海道は国道1号線を横切るとすぐにJRの線路の下をくぐる。
昔はここに踏切があり、下横田の踏切と呼ばれていた。
 

〇アンダーパスの道路

JR在来線と新幹線の下を抜けると旧東海道は豊原町を通る。
 

「南安東村」は谷津山山麓から続いている村で、JRを越えるとすぐに「曲金村」に入る。

 

〇曲金

JRのガード下を抜けてから100mほどの変則交差点を左側へ進み、また200mほど進んだ場所から東を臨む。
このあたりは曲金と呼ばれる町名。

曲金の町名の由来は2説ある。

(1)直角に曲った金尺のような区画された水田があったことから呼ばれるようになった

(2)『和名抄』にも載っている「真壁郷」がなまった。付近一帯には奈良時代に区画した条里制の遺構がある。

 

この写真の付近はかつて「狐が崎」という場所があった。

この後に紹介する「法蔵寺」境内に「狐が崎地蔵尊」があり説明書きがある。

 

〇狐が崎地蔵尊

狐が崎とは、寺の正面に見える谷津山の南麓曲金1丁目地先のこと、谷津山の尾崎で突出しているので「狐の鼻」のような地形
 往古「狐が崎の渡し」「梶原合戦古戦場」として史話に残っている。
 此處(勝田医院前辺)は昔、東海道を往来して府中に出入りする山脚の要所で、京都の清水寺と永観堂(禅林寺)の地形と駿府音羽の清水寺とこの地と相似していることから名付けられたという「永観堂」という堂宇が建ち、地蔵尊が祀られていた。

 

「狐が崎」と言えば清水区上原の有度山麓にある「狐ヶ崎」が有名だが、こちらは今では「知る人ぞ知る」状態だ。

路地を北に入ったJRの線路脇にわずかに痕跡を残している。

 

旧東海道を南に入ると「法蔵寺」がある。

 

〇法蔵寺

曹洞宗「佛国山 法蔵禅寺」。本尊は聖観世音菩薩。
この寺には文部省唱歌の「背くらべ」や「おもちゃのマーチ」の作詞家「海野 厚」の墓がある。

 


「法蔵寺」に隣接して古地図にも描かれている軍神社がある。  
 

〇軍神社

祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、建御雷神とも表記する。
軍神社は日本武尊が東征の際に、戦勝を祈ったのがはじまりという伝説がある。

律令時代に有渡郡の正倉と郡役所がこのあたりにあったといわれ、それを護る軍隊の軍神を祀ったともいわれている。

 

〇軍神社の楠

軍神社は楠の大木が数本。
数百年の樹齢がこの神社の古さを物語っている。

 

古地図に描かれている軍神社には「曲金村 氏神」と書かれていた。

昔から氏神様として信奉されていたようだ。

 

軍神社から400mほど南へ向かう。

農業会館近くの交差点に「金地蔵」と呼ばれる地蔵堂が建っている。

 

〇金地蔵

「金地蔵」由来記と書かれた由緒書きを読んでみる。(一部抜粋)
今から凡そ300年程前、悪疫流行し、その上、1675年ころコレラ病が蔓延し、農民たちは力を注ぐ一方神仏に祈祷祈願を続けた。
1853年天候不順、干魃に見舞われ、作物の枯死は見るに絶えぬ程無残でした。
当時天災地変、災害の続く折りには、村の角地に地蔵尊を建立するならわしがあったと伝えられる。
曲金5丁目「蔵屋敷」の字名は遠い昔、奈良時代に「正倉」のあった地で、古い水田址には条理性の遺構が巡っており整然とした水田、農道が開かれ、農民に便利さを与えていた。
何時の頃からか、この農道の辻角に「金地蔵」が建立され、その脇地に庚申塔が建てられた。

 

 

軍神社まで戻る。

戻る途中、法蔵寺の隣に馬頭観音の祠がある。

 

〇馬頭観音

説明看板があるので読む。(抜粋)

<馬頭観音の由来>
古来ここ曲金、谷津山南麓の地を「狐ケ崎」と称し「古戦場」として知られている。1200年梶原景時は、源頼朝の寵臣であったが、その薨後、幕府に追われ、一族33騎は上洛の途中、近郊の武士団に露見して弓矢を射かけられた。
梶原主従は、ここ、狐ケ崎まで追い詰められ合戦川(曲金1丁目)付近で返し合わせて大合戦を展開した。

景時は、この戦いで斃れた一族郎党の愛馬を懇ろに葬るよう村人に頼み、武士団を瀬名川、大内辺まで退却させたが力尽き、全員討死した。(今も大内の梶原堂に祀る)
村人達は、堂塔を建てて供養し、「願かけ馬頭観音」として近在の信仰を集めていると、村の古老達によって語り継がれて来た。

 

軍神社や法蔵寺の隣に西豊田小学校がある。


敷地内に西豊田小学校の卒業生「海野厚」作詞の童謡「せいくらべ」の碑が立っているらしいが、不審者と間違えられると厭なので小学校へ入るのはやめて旧東海道に戻った。
 

旧東海道をしばらく行くと道標が立っていた。

 

〇曲金道標

 

今の「曲金村」はほぼ平坦だが、江戸の頃までは谷津山がせり出して「狐が崎」と呼ばれるほど高低差があったようだ。

「狐が崎」の東側から池田村にかけては湿地帯が続いていて田んぼが広がっていた。

舟で池田村へ渡ったという話も残っているほどの沼もあったそうだ。

 

古地図を見ても東海道は谷津山の麓方面へ向かい、湿地帯を避けるように「柚木村」へ入る。

 

現在の旧東海道は「柚木地下道」と呼ばれるアンダーパスの4車線の市道あたりからJRの線路に分断されて一旦消滅する。

 

〇JRに旧東海道は寸断されている。


旧東海道は「柚木地下道」を跨いだあたりで、JRの向こう側に見える谷津山方面へ向かっていたらしい。
 

 

次回は「柚木地下道」をくぐって柚木方面の旧東海道を探す。

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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