駿河の国をwebで歩く(42)「府中宿・伝馬町」その2 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
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「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「府中宿」などを選択して散歩する。
 
 
前回は「府中宿」の伝馬町を巡った。

 

今回も伝馬町の続きを巡る。

 

 
前回巡った宝泰寺から伝馬町通りへ戻る。

 

〇艾屋

伝馬町にはかつて老舗が多かったが今は世代交代されているが、数少ない昔ながらの商売をやっている。
今の時代に艾(もぐさ)屋で商売になるのか心配だが、続けていって欲しい気がする。
現在は、10年前の写真と、店は改修されて少し店構えが変わっている。

 

〇鋳物師町


今は無き旧の町名、鋳物師町を説明する碑が立っている。裏に説明があった。
東海道府中宿の一画に位置し、町名は江戸時代のはじめに鋳物師が住んでいたことに由来します。
「鋳物師町」の名は今はなく、現在は伝馬町・横田一丁目・日出町に分かれています。


〇花陽院門前町


今は無き旧の町名、花陽院門前町の説明の碑。
碑の裏に説明がある。
「此町は元横田の内にて、寺門前なるによって然唱(しかりととな)へ、寺に隷(つ)くなり」と江戸時代の地誌「駿河志料」に記されています。町は伝馬町と鋳物師町とに挟まれ、東海道に面し府中宿の一画を構成しています。
町名の華陽院は、1692年「駿府数并家数人数覚帳」などによります。華陽院門前町は、明治5年誉田町と中八幡町となり、現在は伝馬町と鷹匠二丁目の一部となっています。
町名の由来となった玉桂山華陽院は、元来智源院と呼ばれ、松平竹千代、後の徳川家康公が今川氏の人質時代に勉学に通った寺として知られています。
駿府ででの竹千代の養育にあたった外祖母源応尼(家康公の生母お大の方の母)の法名に因み華陽院に名を改めました。華陽院には源応尼の墓と並んで家康の5女市姫の墓があります。


〇華陽院


花陽院門前町の説明の碑のある路地を北に入るとすぐに保育園がある。浄土宗「玉桂山 華陽院 府中寺」に併設されている。
ちょっと入らせてもらうと華陽院の謂われの説明看板があった。
華陽院は、徳川家康の祖母・源応尼の菩提寺で、はじめ知源院と呼ばれていた。源応尼は1551年当時今川家の人質となっていた竹千代(後の家康)の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに寓居を構えた。
源応尼の親身の愛情は、肉親と遠く離れて淋しく暮らしていた幼い竹千代の心を大いに和ませた。竹千代は源応尼の寓居と田んぼをはさんで隣り合ったこの寺へよく遊びに来たが、竹千代を慈愛を持って迎え、時には文筆の師となって訓育したのが、住職・知短(ちたん)だった。
源応尼は1560年、成人した徳川家康が、今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、駿府で逝去した。後年、大御所として駿府に引退した家康は、祖母のために盛大な法要を営んだ。「華陽院」の名は、その法要名から改められたものである。


古地図には「花陽院」と書かれている。

〇市姫墓


市姫は家康の5女
境内には、源応尼の墓と並んで、7歳で死んだ家康の5女市姫の墓があり、近くには側室のお久の方の墓もある。
 
〇源応尼墓

源応尼は家康の母方の祖母で竹千代時代の養育者。

〇華陽院お久の方墓


徳川家康公の側室 お久の方の墓

〇華陽院掛軸


寺の玄関に旧駿府の絵図が掛軸にして架かっていた。
僧正にに伺ったらコピーとのこと。
 

旧東海道の伝馬町通りへ戻る。

 

〇久能街道

久能山東照宮道。説明文を読む。
東海道府中宿(静岡市伝馬町)から、久能山の麓に通じる久能街道はここから始まります。目の下に葵駿河湾、遠くに伊豆半島を見ることができる久能山の頂には、久能山東照宮があり、そこには300年にわたる平和な江戸時代を開いた徳川家康がまつられています。江戸時代、東海道を上り下りする大名たちは、ここで東海道を離れ、久能山にお参りに行きました。幕府に仕えた大名たちにとって、家康は神様と同じに考えられていたからです。
昭和20年代まで、この場所には
「久能山東照宮道」と記した石碑がたっていました。
もともと久能街道は、久能海岸で作られた塩を始めとする海の産物を駿府に運び込むために、古代から使われてきた静岡でもっとも古い街道の一つで、駿府の町に北側から入ってくる安倍街道や藁科街道につながります。そして、町の中央には、東海道が東西に走っています。駿府の町は。南北から生活物資が運び込まれた久能街道や安倍街道と東西から人や情報が流れ込んだ東海道が交差するところに発展したことになります。久能街道は、はるか昔から駿府を支えてきた大切な道でした。

 

久能山東照宮道の説明にあった「久能山東照宮道」という石碑は現在、静岡駅南口の出口に設置されている。

 

〇東照宮碑

駅の南口を出てすぐの西側に「東照宮」「是より2里11町」と彫られた碑が建っている。
東照宮没後300年を祈念して建立された。台座には大正4年4月17日と彫られている。
もとは久能街道の起点だった伝馬町にあったらしいが宝台橋脇に移設、そしてこの地に移って来たものだ。
家康の遺訓も台座に書かれていた。
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基 怒は敵と思へ
勝事ばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る
己を責めて人を責むるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり
人はただ身の程を知れ草の葉の露も重きは落るものかな

 

家康の遺訓は「聞いたことがある人」も「聞いたことが無い人」も静岡人気質に影響している?

 

古地図を見ると久能街道は「華陽院」の向かい側の路地が入口となっている。

 

 
次回は「府中宿・伝馬町」から「久能山東照宮道」へ寄り道。

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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