駿河の国をwebで歩く(41)「府中宿・伝馬町」その1 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「府中宿」などを選択して散歩する。
 
 
 
前回まで「府中宿」の江川町交差点から旧東海道を西へ向かって旅をした。

 

4月から西への旅を始めて4ヶ月かけて、40回の投稿で大井川に到着した。

思いがけずにボリュームのあるテーマだった。

 

今回から江川町交差点を東へ向けて仮想の旅をする。

 

まずは西への旅の出発点だった江川町交差点からの再出発。

 

古地図では「新谷町」という今は無い町名が付いている。

 

〇江川町交差点から伝馬町を臨む。

そびえるビルは再開発された「ベガサート」。

その建物の南側の一方通行が伝馬町通り。
この江川町交差点から伝馬町通りを東に向って出発する。

 

「ベガサート」前の歩道に碑が立っている。
 

〇西郷山岡会見

幕末の重要な史跡。

碑が立っている。いわれを読む。(一部抜粋)

ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鉄太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります。

 

ペガサートの隣にシティオというビルがある。
以前は安田屋旅館があった場所。ビルの前に看板が立っていて「西郷・山岡の静岡会見」 のエピソードが書かれていた。
 

〇シティオ前


維新の歴史を変えた街「西郷・山岡の静岡会見」の看板を読む。(一部抜粋)

1866年慶喜が江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎した直後に追悼軍が江戸に到着した。

官軍の江戸総攻撃は目前に迫り、一部では慶喜の処刑と大江戸大決戦がささやかれた。
そんななかで、勝海舟らは山岡鉄太郎(鉄舟)を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に派遣し、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当らせた。
山岡は江戸から静岡まで官軍兵士の居並ぶなか、「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府に参る」と叫びつつ、早馬を走らせた。

山岡は西郷の宿舎だった伝馬町の松崎屋源兵衛方を訪ね、「西郷・山岡の会見」が実現した。
両者は折衝し、その結果を、西郷から駿府城代屋敷を御座所として静岡に滞在していた熾仁親王に伺いを立て、宮から七カ条の内論書を得た。
最終的には江戸での西郷と勝の会見で決着するのだが、実質的な交渉は、この静岡会見で行われ、江戸の会見はセレモニーにすぎなかった。

 

〇伝馬町通り


古地図では「新谷町」の次は「上伝馬町」

 

現在の伝馬町通りを行く。正面のビルが東急スクエア。

以前には「109」が入っていた所。

 

〇本陣・脇本陣跡の石碑


石碑の説明書きを読む。
伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった宝泰寺や法伝寺、新光明寺などの寺院や、怪力鬼彦の伝説が伝えられている珠賀美神社等があります。
徳川幕府末期の動乱期に、15代将軍徳川慶喜公の処遇や江戸城の無血開城への道筋を決めた東征軍参謀西郷隆盛と勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄舟の会談が行われた松崎屋敷跡が市指定史跡「西郷山岡会見の地」となっています。

 

〇伝馬町の由来


東急スクエアの前に伝馬町の由来が書かれた石碑が建っていたので読む。(抜粋)
伝馬町の歴史は慶長14年(1609)に家康公が駿府を町割して、東海道53次の宿(しゅく)と定めたことに始まる。宿には本陣や脇本陣が置かれ旅宿や商家が軒を連ね、街道を往来する大名行列や旅人により賑わいを呈した。

〇伝馬町本陣


先ほどの本陣跡とは別の本陣の碑が立っている。
大きな本陣が2か所あったらしい。当時の繁栄ぶりが偲ばれる。

 

伝馬町の界隈には古地図にも描かれている神社仏閣が今でも見ることができる。

 

旧東海道を南に入ると臨済宗妙心寺派「金剛山 寶泰禅寺」がある。

古地図には東海道から「宝泰寺門前町」と書かれた路地を入った突き当りに宝泰寺がある。

〇寶泰禅寺


入口に看板があった。
当山は1381年(永徳元年)に開創される。山号を金剛山と号し、臨済宗に属する。後醍醐天皇の皇子無文元選を開山とし、雪峰禅師を中興とする。
中興より妙心寺派となる。
江戸時代、朝鮮通信使の正使服使従事上官等の休憩所に宛てられ、綺麗第一の名を得た。府中の臨済寺、興津の清見寺とともに駿河3刹と称せられている。寺内に今川家最後の勇将岡部正綱の墓、江戸後期の漢学者山梨稲川と儒医戸塚柳斎の碑などがある。
また、わらべ地蔵の庭としても知られている。


〇宝泰寺・客殿


ビルの合間に落ち着いた空間を作っている。
 

伝馬町通りの静岡銀行のある交差点を南に曲がると100mほどで珠賀美神社があり、「砥園さん」といわれ敬われている。
 

〇伝馬町・珠賀美神社


謂われの看板を読んでみる。
当神社は金剛山寶泰禅寺の鎮守。牛頭天王社として、慶長19年(1614年)6月、徳川幕府譜代の候でありました、京都所司代板倉伊賀守勝重の創建といわれ、宝暦8年(1758年)9月、現在地に移されたと云われています。明治3年12月、今の社号に改められ、昭和15年1月、静岡大火後、区画整理に伴い現在の社境になりました。
御祭神の主神は健速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)で、誉田八幡大社と松尾大神とを併せて奉祀してあります。この誉田八幡大神は、現在の鷹匠町、旧誉田町華陽院境内に鎮守として、明治12年村社に列格しておりましたが、明示20年1月、相殿神の市杵島姫命(いつくしまひめのみこと)とともに当社の境内に合祀され、今日に及んでおります。


古地図には「珠賀美神社」は描かれていない。

「不動」と書かれた鳥居が描かれているので、そこがこの神社かもしれない。

〇これが「鬼彦伝説」の石灯籠

社前にある久能山東照宮の石灯籠は「鬼彦伝説」の石灯籠として知られ、駿府に鬼彦という怪力者がおり、久能山東照宮の石灯籠を天秤棒でかついできましたが、この地で折れてしまったので、当神社に奉納したと伝えられています。

 
古地図には他に

「新光明寺」「法伝寺」が描かれていて50年ほど前まで伝馬町に在ったが現在は共に、墓地を郊外へ移転した。

 

「新光明寺」は知恩院派の浄土宗。宝泰寺の隣接地に別院としてビルの中に本堂があって「快慶作の阿弥陀如来立像」が祀られている。

 

「法伝寺」も知恩院派の浄土宗。デパートのマルイA館のビル9階に本堂がある異色の寺。

 

伝馬町はまだまだネタがある。

 

次回は「府中宿・伝馬町」の続きを巡る。

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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