駿河の国をwebで歩く(40)「島田宿」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開ける西端だった「藤枝宿」を選択して散歩していたが、前回「一里山」を過ぎて島田市に入ったので
古地図の範囲を越えてしまった。
 
今回の東海道は古地図は無いけれど「島田宿」周辺を行く。

 

 

藤枝市の一里山交差点から県道381号を西進すると200mほどで島田市に入る。
 
〇島田市との境
ここから先、住所は島田市岸町。
 
今回の古地図を巡る旅で西へ進む絵地図は「藤枝宿」より先を見ることができない。
 
次は府中宿へ戻り東へ向かうつもりだが、古地図が無いけれど大井川までは旅を続けてみる。
 
 
〇御仮屋交差点
国道が右へと大きく曲るところが御仮屋交差点だ。
真っ直ぐ細い道へ向かうのが旧東海道。
 
〇本通り7丁目

本通りは、本通り7丁目交差点で県道34号線を合流する。
写真は合流して県道34号線になった旧東海道から撮った。ここを左に曲り700m南に進むと蓬莱橋に出る。
 
〇蓬莱橋

島田宿大井川川越遺跡から2.5kmほど下流に木造の橋が掛かっていて、橋の手前に説明書きがある。(概略)
<大井川の変遷>
○大井川の昔の流れ
大井川の流路は、堤防などの治水施設が不完全で何本もの支流が存在し、洪水のたびごとに変化していたが本流はある程度一定していたと考えられている。
○舟型屋敷
大井川沿いの集落は、田畑、家屋敷を水害から守るため、家のまわりを三角形に囲む小規模な水はね用の土手「舟型屋敷」が造られていた。
<現在の改修事業>
大井川は、1882年、国の直轄河川として改修工事が開始された。その後県単独事業となっていたが1958年からふたたび国の直轄に編入され改修工事を実施している。
 
〇一里塚
旧東海道は本通り6丁目付近で大きく曲る。右側に一里塚の石柱があって説明板が立っている。(概略)
<島田宿一里塚>
1604年徳川家康は、東海道の一里(36町)ごとに、通常は街道の両側に対で塚を築かせた。
島田宿一里塚は、1681年ころに描かれた最古の「東海道絵図」の中で、北側の塚しか描かれていない。
幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されている。
 
〇島田宿
一里塚の石柱の向かいに「江戸時代の島田宿」の説明板が立っている。(概略)
一、島田宿の成立
1601年徳川家康により、東海道の「伝馬駅」として指定される。
1604年頃 大井川の大洪水で宿駅施設はすべて押し流され、北の「元島田」で仮に庭立てを行い、11年後に元の島田宿に戻り復興した。
一、位置
 江戸へ 52里(約204km) 藤枝宿へ 2里8町(約8.7km) 金谷宿へ 1里(約3.9km)
一、宿内人口(1843年)
  6727人(男3400人、女3327人)
一、宿内総家数(1843年)
  1461軒
一、宿内施設
  本陣 3軒
  脇本陣 なし  
    旅籠屋 48軒 
      問屋場 1ケ所 宿建て人馬 人足136人・馬100疋
 
〇刀鍛冶
刀の先端を形取った石碑が立っていてその脇に説明書きが立っている。(概略)
島田の刀鍛冶は、室町時代から江戸時代末期の約400年間の歴史をもつ。繁栄期には、鍛冶集団を形成していたという。
系譜は、義助・助宗・広助を主流とする。作風は、相州風・備前風などのみえる業物打ちであった。
島田鍛冶は、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に珍重されている。
室町末期に活躍とした連歌師宗長は、島田の刀工義助の子であったといわれている。
 
〇問屋場跡

刀匠の碑と並ぶように問屋場跡の碑が立っている。説明板があるので読んでみます。(概略)
問屋場とは、主に公用の文書や物品、公務旅行者に人足や伝馬を提供し、継ぎ立てを行う施設でした。
常備人足は136人、伝馬は100匹、飛脚(御継飛脚)は10人が常駐。

 
〇島田宿案内

島田宿案内図が絵付きで看板になっていた。説明を読む。(概略)
1 東の升形跡(宿東入口)(七丁目)
 島田宿家並みの東端には、土塁で三方を囲み、上には竹矢来を設けた「升形」の見付が設けられていた。
2 一里塚跡(七丁目)
 1604年、江戸日本橋を基点として主な街道に1里ごとに距離を示す塚がつくられた。
 島田宿の一里塚は江戸から50里、京都から70里と記録されている。
 一里塚は街道の両側に設けられるのが一般的だが、島田宿の場合は北側の塚しか無かった。
3 庚申堂と牛頭天王社(祇園町)
 江戸の始めころ、旅の修験者が、七丁目天王小路西角に屋敷を構え、背負ってきた青面金剛を祀る庚申堂を建てた。
 彼はその後、疫病退散を願って、宿北裏の森に、京都祇園の御本体牛頭天王を勧請して天王社を創建した。
 これ以後七丁目北裏の集落を「天王村」(現祇園町)と呼び明治42年に神社名は「須田神社」と改称された。
4 島田五鍛冶(5・6丁目)
 島田宿には、戦国時代から江戸初期に多くの刀鍛冶が住み、助宗作「おそらく」造りの短刀や儀助作「お手杵の槍」は名作として有名。
5 問屋場跡(五丁目)
 江戸時代、公用で送られる文書と荷物および旅人は、宿場ごとに人馬を継ぎ立てることになっていた。
 各宿場には人馬を継ぎ立てる問屋場が設けられていました。
6 御陣屋(代官所)跡(四丁目北裏)
 徳川幕府は、交通や軍事上重要な地域を、直接支配し、これを幕領または天領と言っている。
 そこに御陣屋(代官所)を置き、年貢の徴収や、訴訟の取り扱いなどを行った。
7 本陣跡(三丁目・四丁目)
 本陣とは、大名や身分の高い公家、僧侶などが宿泊したり、休憩したところ。
 宿場の中でも大きな屋敷を持ち、経済的にも裕福な民家が幕府から指定され、主人は「苗字帯刀」を許されていました。
 島田宿の本陣は、3軒があったが、脇本陣は置かれなかった。
8 塚本如舟屋敷跡(三丁目)
 1691年と1694年の2回、松尾芭蕉が旅の途中に客として泊まった島田宿組頭の塚本孫兵衛の屋敷跡。
9 桑原家跡(一丁目)
 文化・文政期から幕末期にかけて、島田宿随一の素封家(財産家)だった。
10 大井神社(一丁目)
 1689年頃、下島(御仮屋)から現在の場所に遷座されて以来、島田宿の総鎮守として祀られています。
 3年に一度大祭が行われてきた。
 この祭は大名行列・御神輿渡御行列・鹿島踊り・屋台踊りなど華やかで彩り豊かな祭として知られる。
 とくに大太刀に丸帯を下げて舞う絢爛豪華な大奴の行列と鹿島踊りは静岡県指定見慶文化財に指定されている。
11 高札場跡(一丁目)
 幕府は、禁令や法度を人々に知らせるため板礼に書いて宿場の入口など人通りの多いところに掲示した。
 島田宿には宿場の西入口にあたる大井神社南鳥居脇に立てられていた。
12 西の升形跡(宿西入口)(一丁目)
 島田宿西の入口に当たる大井神社南鳥居向かい側に、宮川と正覚寺小路の間を土塁で囲った、升形の見付が設けられていた。

 
ホテルの前に本陣跡の小さな石柱が立っている。
 
〇本陣
島田宿には3つの本陣があったそうだ。
 
〇からくり時計と御陣屋小路
時計台があり、説明があった。
このからくり時計塔は、和風街並みエリアのシンボルとして建てられた。
定時になると島田大祭(帯祭り)の風情を、大奴と鹿島踊りの人形が伝えてくれる。
(大奴)
神様が乗ったご神輿を護衛する人で、大名行列の花型。総勢25人からなり、昔ながらの奴の姿に金襦の廻しを付け、左右に突き出した1間近い木太刀には、見事な丸帯を1本ずつ掛けています。左手には唐傘を持ち右手で全体の調子をとり、大きくゆったりと空を描いて一糸乱れず鷹揚に練って歩きます。
(鹿島踊り)
鹿島踊りでは、雅楽の音色にのって優雅にして荘厳な舞踊が展開されます。永宝年間、島田に疫病(伝染病)が流行した時、大井神社の境内に春日神社の神霊をお祭りし、疫病退散を祈願したのが始まり。(御陣屋小路)
きれいに整備されている割に人気のない歩道。時計の前に本陣の説明書きがあった。
(島田本陣跡)
この地は江戸時代の参勤交代の折、諸国の大名が宿泊した島田宿の本陣があったところです。
この奥に島田代官の御陣屋がある。
(御陣屋稲荷神社 由緒)
 島田代官所が野田から柳町に移った翌年の、元和3年(1617)に代官の長谷川藤兵衛長親が地域住民の安泰と五穀豊穣を祈るため代官所の屋敷内に稲荷祠を建立した。寛政6年代官所が駿府に統合された後も陣屋が置かれていたので御陣屋稲荷神社と呼ばれている。

 
 
〇大井神社

大井神社の由緒看板を読む。

<御由緒>
 創建 建治2年
 当地御遷座 元禄初年
 大井川鎮護の神として奉齋される
 勅宣正一位宣下  嘉永7年7月
 島田の総氏神
 祭典 日本三奇祭 帯祭
 3年毎秋10月執行

 
〇大井神社(大奴の銅像)

神社の脇、境内の真ん中に大奴の像が立っていた。
 
旧東海道は大井神社の辺りから市街地の様相が終わり、ビルも目に付かなくなる。
400mほど進んだ交差点の角に大善寺がある。
 
〇大善寺

説明看板があったので読む。
■大善寺
当山の鐘は1784年、「時の鐘」として備え付けられました(旧鐘明)。
それ以後、昼夜6時(2時間おき)にこの鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)とくれ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図ともなっていました。
しかし、この鐘は、昭和19年(1944)年、太平洋戦の際に供出され、現在の鐘は昭和48(1973)年に新しく造られたもので、毎月1日・15日と大晦日に撞かれています。
 
旧東海道は大善寺から500mほどの分岐点で幹線道路から分かれて左に入る。
 
〇分岐交差点
左に見える工場は新東海製紙。
いまだに東海パルプと言った方がなじみ深い。
 
500mほど行くと島田市博物館の分館があって古い町並みが300mほど続く。
 
江戸の雰囲気を味わいながら散歩した後、通りを振り返って見る。
 
〇島田宿大井川川越遺跡

 
町並みの最後の所に川会所がある。

〇川会所

中に入ると説明書きがある。
1696年に川越制度が改定されてから、川役人が川越業務をおこなってきたところです。
現存する建物は、1851年に建てられたもので、明治以降、数回に及ぶ移転を経て、1970年に建立当初の位置に近い現在地に復元保存されました。
なお、金谷宿側にも同様の施設があったと考えられますが、現存はしていません。
 
土手に出る手前に立派な建物がある。
 
〇島田市博物館

この日はすでに閉館時間だったので、又の機会に覗いてみたいと思う。
 
土手からもう一度、今来た道を振り返る。
 
〇東海道

 
「島田宿」は古地図が無いので、1投稿で急いで通り過ぎてしまった。
見どころも多かったので古地図があればもっと楽しめただろう。
 
府中宿から30kmあまり。
仮想の旅をして40回目のブログへの投稿で大井川までやってきた

「東海道まちあるきweb」を見て大変楽しかったので、思いついて古地図の旅を始めてみたもののボリュームが思いがけず大きかった。
 
次回からは府中宿へ戻り「伝馬町」から東へ向かって巡る

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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