「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。
***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。
https://stroly.com/users/9756472369/
**********************************
このあたりは「八幡」「仮宿」「横内」「上当間」「下当間」「鬼島」などの古地図に描かれている村が明治時代に合併して「広幡村」になった。
さらに、現在は藤枝市と合併して広幡村以前の地名が町名として残っている。
前回の「横内村」を出ると「仮宿交差点」
〇仮宿交差点から左斜めに旧道の雰囲気がある道へと入る。
「従是西田中領」と書かれた石柱が道路脇に立っていた。
これより西が「田中領」だったということなのだろう。
道は県道381号と出会うが合流しないまま、また分かれる。
県道381号と県道208号(旧東海道)の三角地に交番が建っている。
〇八幡
旧東海道を感じながら進む。
この辺りは「八幡村」と「鬼島村」と入り組んでいる。
〇鬼島一里塚
通りに面した新築の住宅の脇に一里塚の標柱が立っている。
邪魔だろうに立ててくれて有り難い。
街道を歩いているとこのような標示が楽しみ。
旧東海道は葉梨川を渡る。
を八幡橋と言う。
旧東海道は橋を渡ってすぐ右へ曲って進む。
橋を渡って真っ直ぐ進むと田中城へ徳川家康が出向くときに使った道で「御成り道」と呼ばれていて、今は途中で道が分からない所がある。
古地図を見てもこの「御成り道」が描かれていて「田中城」の「不明門」へとつながっている。
この道沿いに「光明寺」「東泉寺」「馬上井戸」「高札場」などが描かれていて人通りも多かったことが推察できる。
今でも「光明寺」「東泉寺」は、この道沿いに存在している。
〇鬼島東海道碑
八幡橋を渡った所の土手際に東海道を伝える道標が立っていた。
立っているというより埋もれていた。
旧東海道を藤枝宿方面へ向かう。
燈籠と半鐘が道路脇にある。古い施設ではないが、燈籠の前に膝栗毛の一部が引用されて石に刻まれていた。
街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の2人も、そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。
ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペッ、ブツブツいいながら、鐙ケ縁にさしかかる「処もとは鞍の鐙ケ淵なれど、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの富士枝の宿」
十返舎一九・道中膝栗毛より
さらに進む。
〇青山八幡宮
八幡橋から500mほど進むと右に「青山八幡宮」の石柱がある道を入ってみる。
細い橋で葉梨川を渡り、県道381号線を渡ると八幡神社がある。
〇青山八幡宮
鬱蒼とした森の前に鳥居がある。
社は山の上にある。
説明書きを読むと由緒が立派だった。(概略)
祭神 誉田別命 玉依姫命 息長足姫命
由緒
社伝によれば当宮は山城国(京都)の男山、石清水八幡宮の別宮
源頼義・源義家(八幡太郎義家)が前9年の役で奥羽下向の時、東北征討祈願のため天皇の命により現神社地が石清水八幡宮の地形によく似ていたので御分霊を観請して奉斎した社
源氏が5里ごとに八幡社を建てた5里八幡の1社
3年に1度行われている飽波神社の藤枝大祭は藤枝宿の屋台が青山八幡宮の神輿渡御の行列に付き従ったものが始まりとされる。
〇鳥居の横に力石がある。
猶病気平癒祈願の為には石を持ち上げることによって病気が平癒し石をさわることによって無病息災家内安全を祈って来た。
[青山八幡宮]
井戸の跡にも「御供井戸」と書かれた説明があった。
〇青山八幡宮
山を登ると八幡宮がある。
現地の「青山八幡宮 由緒」には「石清水八幡宮」の別宮として建てられたとのことなので、なぜ「青山八幡宮」なのかわからなかった。
古地図で見ると山の頂上に「御朱印地八幡宮」と書かれていて、その麓には「青山寺」が描かれている。
神仏習合時代には寺と神社が同居している所が多かった。
「青山寺」の所にある「八幡神社」ということで「青山八幡宮」なのだろうか?
青山八幡宮から旧東海道に戻って100m進むと大きな楠の神社が見える。
〇須賀神社
須賀神社の由緒は書かれていないが楠の説明書きがあったので読んでみます。
静岡県指定天然記念物 須賀神社のクス
このクスは樹齢およそ500年、御神木として大切にされてきた大木。
近くには「東海道膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ渕など、東海道ゆかりの史跡がある。
〇鐙ケ淵と観音堂
その裏側の小山にお堂が立っていて謂れが書かれている。
史跡鐙ヶ渕(あぶみがふち)と観音堂
一.此処の広場は、元葉梨川の渕でその形が馬具の鐙に似ていたので古来より鐙ヶ渕と呼称されていた。
一.崖上の観音堂は通称山之堂と言われ人々に親しまれて来た。御本尊は蛇柳如意輪観世音菩薩と言いお腹篭りという珍しい尊像で胎内仏は平安時代中期の名僧で恵心僧都の御作と伝えられる。昔から子宝、安産等に霊験あり、婦人の参詣者が絶えなかったという。
一.昔、渕のかたわらに柳の大木が有りその木に触れたものは浄土往生の志を覚え渕に身を投げたという。人々はこれを「人取り柳」と呼び恐れて近づかなかった。後に聖僧のより切り取られ一体の観音像として鐙堂の御本尊となる。(鐙堂略縁起より)
一.伝説に依れば徳川家康は戦勝祈願の為、愛用の鐙を渕に沈めたという。(鐙堂略縁起より)
一.弥次喜多道中で有名な十辺舎一九は東海道中膝栗毛三編の中で鐙ヶ渕の歌を詠んでいる。
ここもとは 鞍のあぶみが 渕なれば 踏んまたがりて 通られもせず。
古地図にも観音堂が建っていて当時からこの場所にあったのがわかる。
〇水守
旧東海道はホームセンターに突き当たる。
右折すると松並木の名残りが見える。
古地図を見ても街道はクランク状に曲っていたのが描かれている。
*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
*****************