「為す」と「持つ」

 
I - 実存的精神分析
 
ここまでの研究では、対自がその目的へ向かって自己を投企するときの飛躍という角度のもとにおいてしか、対自を考察しなかった。いまや、この目的そのものを検討するべき時であるだろう。まず注意しておかなければならないのは、この研究において、我々は、くれぐれも実体論的錯覚に陥ることがないようにしなければならないということである。例えば欲望を、ある対象の観念をその内に含むものとして記述したり、ある個別的な心理事実が、抽象的普遍的な心理法則の交叉によって生じると考えたりしてはならない。そのような研究は、諸心理の説明の途中においてはどれほどうまく説明しているように思われても、結局真に説明されるべきものを説明することができない。ブールジェは若きフローベールの《心理》を解き明かそうとして、次のように書いた。
 
彼は年少の頃からすでに、自己の偉大な野心と自己の押さえ難い力との二重の感情から由来する不断の昂揚を、自分の正常な状態として知っていたように思われる。……彼の若い血の沸騰は、そこで、文学的情熱に転じた。そういうことは、早熟な魂を持つ人々にとって、十八歳前後に起こりがちなことである。彼らは、大いに行動し激しく感受したいという欲求につきまとわれており、それを紛らすために手段を、文章の力、もしくは虚構の強烈さの内に見いだすことになる。
 
それにしても、この叙述の一段ごとに、我々は一つの空隙にぶつかる。野心と自己の感情とがフローベールの内に、静かな期待あるいは暗い焦燥を生まないで、むしろ昂揚を生むのはなぜであるか?この昂揚が限定されて、大いに行動し激しく感受したいという欲求になるのはなぜか?それにしても、この文章の終わりで、自発的な発生によって突如現れたこの欲求は、そもそも何をなそうとするのか?この欲求が乱暴な行為、放浪、愛の冒険あるいは遊蕩の内に自己を堪能させようとする代わりに、象徴的に自己を満足させることを選ぶのはなぜか?また、他の人々の場合には芸術的領域に属しないこともありうるのに、彼のこの象徴的満足が、絵画や音楽においてよりも、むしろ文学的著作の内に目的を達するのはなぜか?フローベールはどこだったかで書いている。《私は偉大な俳優になることができたかもしれない》と。彼がそれになろうと試みなかったのは何ゆえであるか?要するに、我々は何ひとつ理解しなかったのである。だが、これが一般に心理と呼ばれているところのものである。それは抽象心理から一つの具体的な心理への移行であるが、具体的なものの説明のために抽象的な理屈をこねくり回した挙句、肝心の説明されるべき〈この〉具体的なものを説明することをまったくしない。(それでドストエフスキーはこう書いたわけである。「心理学なんて何とでも言えるのだ」と。)それでも、その種の理論は蓋然性をともなうものであるから、一般的、平均的な傾向としての個人の心理状態を記述することには役立つであろう。ヤスパースが『精神病理学概論』の中で言っているような意味において、〈理解されうる〉心理状態はこのようなものである。けれども、このような理解はやはり、一般的なものである。それゆえ、一般的平均的な人間を考察する心理学は、具体的な個人の心理については何も教えるところがない。
 
一方で我々の研究において要求するところのものは、一つの〈真に〉還元不可能なものである。言い換えれば、それの還元不可能性が我々にとって明証的であるような一つの還元不可能なものである。この還元不可能性は、それ以上遡ることに対する心理学者の拒否もしくは無能の結果ではなく、むしろ反対に、その還元不可能性を確認することが我々の内にあって、一つの満足感を伴うようなものである。この要求が我々の内に生じるのは、心理学的探究のみならず、一般に学問に共通して見られるような原因の追求からではないし、またそれは、いかなる《なぜ?》を起こさないような一つの《だから》を求める子供じみた詮索でもない。むしろそれは、人間存在についての存在論以前的な一つの了解に基づく要求であり、またそれと関連して、人間を分析可能なものとみなすことに対する拒否、人間をもろもろの原初的な所与に、つまり対象によって支えられている特性と同様、主観によって支えられているさまざまな欲望に還元されうるものとみなすことに対する拒否、に基づく要求である。もちろん、個人を一つの実体観念に帰してはならない。というのも、実体観念は対象的なものとして、人間存在の外に存在するからである。だからといって、当の存在を粉々にしてしまってはならない。我々は、当の存在の内に一つの中心を発見するのでなければならない。実体とは、この中心のカリカチュアでしかない。そしてこの中心は、責任の中心、愛されるべきもしくは嫌われるべき中心、非難されるべきもしくは称賛されるべき中心、要するに、〈人格的な〉中心であるのでなければならない。当の人間の存在たるこの中心は、自由な統一である。フローベール〈なる〉ところの、還元不可能なこの統一、それこそが一つの根原的な企ての統一であり、非実体的な一つの絶対者として我々に顕示されるところの統一である。それゆえ、我々は還元不可能な細部の一々の点を断念しなければならないし、また明証性そのものを基準とすることによって、我々がそれ以上先へ進むことができないということが明白になるまでは、探究において立ち止まってはならない。特に、我々はその人のもろもろの性向によって、ひとりの人物を再構成しようなどと試みてはならない。還元不可能なものとして提示されるあらゆる欲望は、不条理な偶然性に属するものであり、総体としてとらられた人間存在を、不条理のうちに引きずり込む。自由の裏面は、偶然性である。必然的なものに自由はないからである。有機的複合体は、それを構成する個別の要素がより抽象的普遍的な要素に還元されるのではない。それはコントが名付けたところの〈マテリアリズム〉(素材本位)の道、すなわち上位のものを下位のものによって説明しようとする道に踏み込むことになるだろう。だが、そのような説明ではとうてい有機体を理解できないことはすでに述べたとおりである。有機体において抽象的なものはなく、ただこれこれの具体的なもののみが存在する。〈この〉具体的なものが全体をあらわし、全体は〈この〉具体的なものにおいて自身を顕示する。それゆえ実存的精神分析においては、我々は具体的なものの背後に抽象的なものを見るのではなく、やはり同じく具体的なものを見るであろう。我々が求めるのは〈この〉具体的ものの真理であり、この具体的なものによって自身を顕示する〈真に〉具体的なものである。
 
もちろん、可能的な人間が無限に存在するのと同様に、可能的な企ても無限に存在する。それにしても、もし我々がそれらの企ての間に共通する何らかの特徴を認め、それらの特徴をいっそう広いカテゴリーに分類することを試みなければならないとすれば、まず第一に、我々にとっていっそう研究しやすいもろもろの場合について、個別的な調査を行うのが適当であろう。特に、我々が実存的精神分析の原理から出発する場合、その資料はすでにそろっている。すなわち、それは「死」についての研究である。我々にとって死が不安であるのは、我々が生に執着しているからというのは、自明の理である。対自の「死」が、対自自身にとっていかなる意義を持つかは、先の章ですでに記述した。それによると、一つの対自の根源的な企ては、この対自自身の存在をしか目指すことができない。存在投企、もしくは存在欲求、もしくは存在しようとする傾向は、事実、生理学的分化あるいは経験的偶然性から由来するものではない。対自とは「その存在において、その存在が問題であるような一つの存在」であったが、その意味において、存在投企は対自の存在と異なるものではない。それゆえ、我々は〈存在投企〉に到達するとき、もはやそれ以上遡ることができないで、明らかに還元不可能なものに出会う。なぜなら、明らかに我々は、〈存在〉より以上に遡ることができないからであり、存在投企、可能、価値と、存在との間には、何らの差異も存しないからである。人間は根本的に〈存在欲求〉であり、この欲求の存在は、経験的な帰納によって確かめられるはずはない。この欲求の存在は、対自存在についてのア・プリオリな記述から引きだされる。というのも、欲求は欠如であるからであり、対自は、自己自身に対して自己自身の存在欠如であるような存在だからである。経験的に観察されうる我々の諸傾向の各々の内に表現される根原的な企ては、それゆえ、〈存在投企〉である。
 
ところで、この欲求の対象たる存在に関しては、我々はそれが何であるかをア・プリオリに知っている。対自は常に、自己自身に対して自己を欠いているような存在である。また、対自が欠いている存在は、即自である。欲求において、対自はこの即自へ向かって自己自身を超出する。対自は自己自身の存在において、この即自を欠いた存在脱落である。対自は常に、剥奪された自己の即自存在を取り戻して、自己自身の根拠でありたいと欲する。だが、対自が即自の不浸透性と無限の密度を自分も持ちたいと思うのは、意識としてのかぎりにおいてである。それゆえ、この企てをつかさどる根本的な価値は「即自-対自」である。言い換えれば、自己自身について持つ単なる意識によって、自己自身の即自存在の根拠であるような、一つの意識の理想である。それゆえ、こう言っても良いだろう。「人間は神であろうと企てる存在である」。個々の宗教の神話や祭祀がいかなるものであるにせよ、神は人間をその究極の根本的な企てにおいて告知し規定するところのものとして、何よりもまず、人間の《心情に感じられるもの》である(訳註:「心情に感じられる神」Dieu sensible au cœur は、パスカル『パンセ』に出てくる有名な言葉)。そしてもし、人間が神の存在について存在論以前的なある了解を持っているとすれば、それを人間に授けたのは、自然の偉大な景観でもなく、社会の力でもない。むしろ、神、すなわち価値や超越の最高目標は、恒久的な限界を表すものであり、そこから出発して人間は自己が何であるかを自己に告げ知らせる。人間であるとは、神であろうとすることである。言い換えれば、人間存在は根本的に、神でありたいという欲求である。 けれども、もし人間がその出現そのものにおいて、あたかも自己の限界へ向かうがごとく神へ向かわせられているならば、もし人間が神であることをしか選ぶことができないならば、自由はどうなるのか?そう反問する人もいるだろう。なぜなら、自由とは自己自身の諸可能性を自ら創造する一つの選択より以外の何ものでもないはずであるのに、ここでは人間を〈規定する〉ところの神であろうとするこの原初的な企ては、一つの人間的本性、あるいは本質にかなり近似しているように思われるからである。だが、この欲求の意味が最後のよりどころにおいて、神であろうとする企てであるにしても、この欲求は決して、この意味によって構成されるのではない。むしろ反対に、この欲求は常に、自己の諸目的の〈個別的な案出〉である。事実それらの諸目的は、個々の経験的な状況から出発して追求される。しかも、環境を〈状況〉として構成するのは、まさにこの追求である。存在欲求とは、常に、存在のしかたの欲求として実現される。要するにここにも、実体論的な錯覚があるわけである。問題なのは〈何が存在するか〉ではなく、〈いかに存在するか〉であり、単に〈ある〉という無差別的な存在ではなく、〈ありかた〉という存在論的関係である。よって、存在のしかたのこの欲求は、その抽象的純粋性においては、経験的具体的欲求の〈真理〉であるが、それ自体としては存在しない。対自は〈無〉néant である。それは我々の意識的生活の横糸をなす無数の具体的な欲求の意味として、我々に対して顕示される。それはあたかも、空間が独自な実在であって単なる概念ではないにしても、その内にあらわれるもろもろの物体を通してしか顕示されないのと同様である。あらゆる経験的な欲求は、個別的な状況における根原的な欲求の象徴化でしかないし、また、自己の環境をその個別的な状況として構成するのも根原的な欲求である。それゆえここで得られた構造は、自由の〈真理〉と言われていい。言い換えればこの構造は、自由の人間的な意味である。
 
これによって、実存的精神分析の粗描が与えられる。この精神分析の《原理》は「人間は一つの全体であって、一つの集合ではない」ということである。人間はその最も皮相的な行為のうちにおいても、そっくりそのまま自己を顕す。何ものをも顕示しないような一つの好み、一つの癖、一つの人間的行為があるわけではない。実存的精神分析の目標は、人間の経験的な諸行為を〈解読する〉ことである。すなわち、経験的な諸行為のうちに含まれる顕示を明白ならしめ、それを概念的に定着させることである。この精神分析の〈出発点〉は〈経験〉であり、その〈支柱〉は人間が人間的人格について持っている存在論以前的、根本的な了解である。それゆえこの探究は、砂浜の中から宝石を探すようなものではない。真理は〈ア・プリオリ〉に、人間的な了解に属しており、本質的な仕事は、一つの解釈学である。すなわち解読、定着、概念的把握である。この精神分析の《方法》は、比較的方法である。事実、各々の人間的行為は、明らかにされなければならない根本的な選択をそれぞれのしかたで象徴化しており、またそれと同時に、各々の人間的な行為は、その偶因的性格やその歴史的機会のもとに、この根本的性格を覆い隠しているがゆえに、我々はそれらの行為を比較することによって、それらの行為がいずれもそれぞれ異なるしかたで表現している唯一の顕示を、出現させるであろう。この方法の最初の粗描は、フロイトおよびその弟子たちの精神分析によって、我々に提供される。それゆえここでは、実存的精神分析がいかなる点で従来の精神分析から影響を受けており、いかなる点で異なっているかをはっきりと示すのが適当であろう。
 
いずれの精神分析も、心的生活の対象的に認知されうるすべての表出と、まさに人格を構成する根本的全体的構造との関係を、象徴するものと象徴されるものとの関係と見る。いずれの精神分析も、遺伝的性向、性格というような、原初的所与は存在しないと考える。実存的精神分析は、人間的自由の根原的出現より以前の何ものをも、認めない。それに反して経験的精神分析の主張するところによれば、個人の原初的な気分は、その人の歴史より以前の処女的な蜜蠟である。リビドーは、その具体的な定着の外においては、何らかのしかたで何ものかの上に自己を定着しうる一つのたえざる可能性より以外の何ものでもない。いずれの精神分析も、人間存在を一つのたえざる歴史化と見る。そして静的固定的な所与を発見するよりも、この歴史の意味や方向、有為転変をあらわにしようとする。この事実からして、いずれの精神分析も、人間を世界のうちにおいて考察する。そして、ある人間が何であるかについて、まずこの人の〈状況〉を考慮に入れずにこの人に問いかけることができる、などとは考えない。いずれの精神分析的研究も、主人公の生活を誕生から、治癒の瞬間に至るまで再構成しようとする。両者はいずれも、見いだしうるかぎりのすべての客観的資料、例えば書簡、証言、内面的日記、あらゆる種類の社会的情報などを利用する。両者が復原しようとするところのものは、単なる一つの心的出来事であるよりも、むしろ、幼年期の決定的な出来事とこの出来事の周りにおける心的結晶作用という、一対のものである。ここでも問題なのは、一つの〈状況〉である。各々の歴史的事実は、この観点において、心的発展の〈要因〉と見られると同時に、この心的発展の〈象徴〉とも見られる。なぜなら歴史的事実は、それ自体としては何ものでもないからである。歴史的事実は、それが受け取られるときのしかたに応じてしか働きかけることができない。また、それを受け取るときのこのしかたそのものは、個人の内的気質を象徴的に表現する。
 
二つの精神分析のいずれも、状況のうちにおける根本的態度を探求するが、この態度はあらゆる論理に先行するがゆえに、単なる論理的な定義によっては言い表せないであろう。それは、特殊な総合の法則に従って再構成されるのでなければならない。経験的精神分析は、〈コンプレックス〉を規定しようと試みるが、これは、その名称そのものからして、それに関係のあるすべての意味指示の多価であることを示している。実存的精神分析は〈根原的な選択〉を規定しようと試みるが、この選択は世界に面して行われるものであり、世界のなかにおける身構えの選択であるから、コンプレックスと同様、全体的である。この選択は論理に先行しており、論理に従ってこの根原的な選択に問いかけるのは問題になりえない。むしろ、論理や諸原理に直面した際に、その人自身の態度を選ぶのが、この根源的な選択である。この根源的な選択は、論理以前的な綜合のうちに、実存者の全体を集約しており、かかるものとしてそれは、無数の多価的な意味の帰趨中心である。
 
二つの精神分析はいずれも、自己自身についてのそれらの訊問に着手するのに被験者が特権的な位置にあるとは考えない。両者はいずれも、反省の所与や他者の証言を記録としてとりあつかうことによって、厳密に客観的な方法であろうとする。もちろん被験者は自己自身についても、精神分析的な訊問を行うことができるのであるが、その場合でも被験者は、自己の特殊な位置についてのあらゆる特権を破棄しなければならない。被験者は自己自身について、まるで他人に問いかけるように、自分に問わなければならないであろう。事実、経験的精神分析は、原理的に被験者の手の届かないところにある無意識的な心的過程の存在という仮説から出発する。一方で実存的精神分析は、無意識的なものというこの仮説をしりぞけ、あらゆる心的事実は意識と広がりを同じくするものであると考える。けれども、根本的な企てが当人によって十分に〈体験〉され、かかるものとしてまったく意識的であるにしても、それは決して、この根本的な企てが当人によって〈認識〉されなければならないという意味ではない。事情は、むしろ全く反対である。読者は、我々が緒論で意識と認識の区別に気を配ったことを憶えておられるであろう。確かに反省は、根原的な企てをとらえるように思われる。だが反省は、まさに根源的な企てで〈ある〉がゆえに、眼が自分自身を見ることができないのと同様、それ自身の働きだけによっては、根源的な企てをとらえることができない。眼が自分自身を見ることができるのは鏡を通してであるが、それと同様に、精神分析が再構成するのは〈対象〉としてのかぎりでの意識であり、被験者は、鏡に映った自分という〈他人〉を通して、自己の真理を把握する。それゆえ精神分析の目標は、被験者の思いもよらぬ真理を明らかにすることではなく、被験者が〈すでに理解していた〉ところのものを〈認識させる〉ことである。このようにして明るみに出された〈対象〉は、対他-存在の場合と同じく、「超越される-超越」の諸構造に応じて、分節されることになるだろう。
 
二つの精神分析の類似が認められるのは、そこまでのところである。要するに経験的精神分析がその還元不可能なものについて決定を下し、これをして一つの明白な直観の内に自分で自分を告げ知らせることを許さなかったかぎりにおいて、二つの精神分析は相違する。事実、リビドーもしくは権力意志は、それ自身によっては明白でない一つの心理-生物学的な残滓を構成する。しかもこれは、探究の還元不可能な終極であるべきものとして、我々に現れるのではない。コンプレックスの根拠が、このリビドーもしくはこの権力意志であるということを我々に認定させるのは、結局のところ経験である。しかも経験的研究のそれらの結果はまったく偶然的であり、何ら説得的なものではない。言い換えれば、我々が権力意志によっては表現されないような人間存在、あるいはそれの根原的、無差別的な企てがリビドーによっては構成されないような人間存在を、〈ア・プリオリ〉に考えてみることが可能である。それに反して、実存的精神分析は選択にまで遡るが、かかる選択はまさにそれが選択であるがゆえに、その根原的な偶然性を理解させてくれる。なぜなら選択の偶然性は、選択の自由の裏面であるからである。さらにこの選択は、それが存在の根本的特徴として考えられた〈存在欠如〉の上に根拠を置いているかぎりにおいて、〈選択〉として承認される。我々はもう、それ以上におしすすめるべきではない、ということを知っている。それゆえ、各々の結果はまったく偶然的であるにもかかわらず、それでいて還元不可能であるということが、《なぜ》を問うことができないということが、ア・プリオリに理解されるであろう。よって、実存的精神分析は、まさに存在選択に他ならぬ根本的な《コンプレックス》から、それを説明するリビドーというような一つの抽象にまで遡る必要はない。コンプレックスは究極の選択であり、それは存在選択として、自己をかかるものたらしめる。
 
この実存的な問いの終極が一つの〈選択〉であるのでなければならないという事実は、我々がその方法と主要な特徴を粗描しているこの精神分析を、いっそうよく区別する。つまり、我々の精神分析は、まさにそのことによって、当人の上に働きかける環境の機械的な作用を想定することを断念する。環境は、まさに当人がその環境を了解するかぎりにおいてしか、言い換えれば当人が環境をして状況たらしめるかぎりにおいてしか、当人の上に働きかけることができないであろう。また、このことに関連して我々は、象徴的意義の一般的解釈(例えば糞=黄金、針差し=乳房、等々)というものをことごとく断念する。我々の目標は経験的な継起法則を打ち立てることではあり得ないのであるから、普遍的な象徴解釈を構成することができないであろう。むしろ反対に、我々の精神分析者は、自分の考察している個別的な場合に即応して、そのつど一つの象徴的解釈を再発明しなければならないであろう。また、選択は生きているということ、すなわち被験者によって常に取り消されうるということも念頭に置かなければならない。先の章で《回心》の事例に触れたように、象徴は意味を変えるものだということを念頭に置いて、従来用いられてきた象徴解釈を放棄する心構えを常に怠ってはならない。それゆえ我々の精神分析者はみずから完全に柔軟でなければならないし、被験者の内に観察される些細な変化にも自己を順応させなければならないであろう。またこのことからして、ある一人の被験者の場合に役立った方法は他の一人の場合には用いられ得ないであろうし、同一の被験者の場合でも、二度目には用いられ得ないであろう。
 
 

実存的精神分析の感想

 
ここまでサルトルが言うところの実存的精神分析の素描を見てきた。その説明においては、従来の経験的精神分析との共通点と差異が念頭に置かれていた。確かに理論面では経験的精神分析との相違点があるものの、しかしここまでの記述を見たかぎりでは、実践面においては、従来の精神分析とほとんど異なるところがないように思われる。サルトルは本書p360で、「経験的精神分析は、その方法が原理よりもすぐれているかぎりにおいて、しばしば、実存的発見の途上にある」と書いている。つまりサルトルはその理論的側面以上に、実践面において従来の精神分析学を高く評価している。事実、方法論における差異として見られるのは、象徴的意義の一般的解釈を断念するくらいのものだが、これは実践面においては何ら意味を持たないであろう。というのも従来の精神分析学も、実践面においては個々の事例に応じた一度きりの特殊な解釈を行うからである。また実存的精神分析は、一般的な解釈を断念するといっても、実際の精神分析過程ではより蓋然的な可能性から検討するだろう。そうなると結局、実践面において両者の差異は無いに等しいことになる。つまり問題は、一つの方法に対し二つの解釈学が存在するという点にあり、どちらの理論がより実際の諸現象に対応した解釈であるかということである。