(D)私の隣人

 

私の隣人によってつきまとわれている一つの世界の中に生きるということは、ただ単に、道のすべての曲がり角で他人に出会うことができるというだけのことではない。それは私がただなかにいるところの、この世界が、すでに他者によって意味を持たされたものとして存在するということである。事実、もし私が一つの世界に属していて、この世界のもろもろの意味が、単に私自身の諸目的の光のもとにおいて現れるならば、万事はきわめて単純なものになるであろう。世界のあらゆる意味はすべて私一人によってもたらされることになるだろうし、ある対象がそれ自体において、いかなる意味を持つかは問題にならないであろう。世界の全ては、私が理解するところの全てとなるであろう。だが、現実には他者が存在する。他者の存在は対自の本性からも自由からも導けないまったく偶然的な事実であるにもかかわらず、対自の存在にもう一つの新たな次元を生じさせる。私はもろもろの意味を事物へ到来させるただ一つの存在であるはずなのに、その私が、〈すでに意味を担った〉一つの世界のうちに拘束されている。街路、家屋、商店、電車、バス、道路標識、警笛、ラジオの音楽…、これらは私が私の目的に向かって諸存在に意味を持たせる以前から、「対象-目的」というありかたですでに意味を担った存在として、私に対して現れる。このような存在物の出現は、私が私の自由の企てにおいて諸事物の上にとらえる逆行性や有用性に、私の自由に与るのではない人間的なそれを付け加えることになるだろう。そうなると、次のようなことが言えるのではないか?「してみると、明らかに、私の自由はいたるところで私から脱れ出るということになる。私の自発性や自由な選択を取り巻く一つの有意味的な世界の組織としての状況は、もはやそこには存在しない。そこに存在するのは、人が私に課する一つの〈状態〉である。」差し当たり検討しなければならないのは、この点である。

 

私が他者の存在する一つの世界に属しているということは、一つの事実としての価値をもつ。この所属はまさに、世界のなかにおける他者の現前という根原的な事実を指し示す。この事実は対自の存在論的構造から導くことも、また対自の自由な選択と同一視されることもできない。そして、この《事実性》の事実上の諸特徴の間に、言い換えれば演繹されることも証明されることもないできないで、単にそれと認められるだけの諸特徴の間に、いわば「他者の-現前に-おける-世界-内-存在」と呼ぶべきところの一つの特徴がある。この特徴が何らかの仕方で有効であるためには、それが私の自由によって取り戻される必要があるかどうかは、後ほど検討することにしよう。さて、世界を目的にしたがって構成しようとする技術の次元においては、他者の現実存在という事実から、もろもろ技術の集団的な所有という事実が結果する。それゆえこの次元においては、事実性というのは、すでに構成された集団的な諸技術を通してしか私に顕示されないような一つの世界のなかに、私が出現するという事実のことである。しかも、それらの技術が目指すところは、私の外ですでに規定されている意味を有する一つの相のもとに、世界を私にとらえさせることである。それらの技術は、例えばもろもろの集団への私の所属、すなわち人類への、民族への、職業的なグループや家族的なグループへの私の所属を決定することになる。このことは大いに強調されなければならないだろう。私の対他存在(このありかたについては後述)の外で、私がこれらの集団への私の事実的所属として存在するときの唯一の積極的なしかたは、それらの集団に属する諸技術を私がたえず使用しているということによって、規定される。例えば人類への所属は、我々が極めて基本的一般的な諸技術を使用していることによって、規定される。歩くことができる、掴むことができる、知覚される諸対象の凹凸や、相対的な大きさを判断することができる、話すことができる、一般に真偽を識別することができる、などということがそれである。けれども我々は、それらの技術を抽象的普遍的なかたちで所有しているわけではない。話すことができるというのは、名指したり、単語を理解したりすることができるという意味ではない。それは、ある国語 langue を話すことができるということであり、したがって、民族的集団の次元において自分が人類に属していることを示すことである。さらにまた、ある国語を話すことができるということは辞書や文法が規定するようなしかたで、その国語について抽象的な知識を持っているということではない。それは地方的、職業的、家族的な、歪みや選り好みを通して、その国語を自分のものにすることである。それゆえ、言語 langage の〈現実〉は国語であり、国語の現実は方言、隠語、訛り等々であるという意味において、同様に、人類への我々の所属の〈現実〉は国であり、地方であり、家族であり…等々である。逆にいうと、方言の〈真理〉は国語であり、国語の真理は言語である。言い換えれば、家族や地方への我々の所属が現れるときの具体的な諸技術は、それらの技術の意味と本質を構成するいっそう抽象的、いっそう一般的な諸構造を指し示す。そしてついに、一人の〈誰でもいい誰かの〉存在が世界を自分のもとにとらえようとするときの、ある〈誰でもいい誰かの〉技術の普遍的で、まったく単純な本質にまで到達する。

 

このことを、言語を例にとって考えてみよう。言語の実在的なありかたは国語であり、方言であった。ところで、ある一つの文は個々の単語から構成されているにしても、その文は個々の単語によって〈作られて〉いるのではない。文は一つの〈表現されるべきことがら〉、すなわち話し手の目的を指し示す。この目的がなければ単語も、配語法も、決まり文句も、何の役にも立たないであろう。有意味的な文は一つの建設的な行為であり、この行為は、ある目的へ向かって所与を超出し無化する一つの超越によってしか考え出されない。文の光に照らして単語を理解することは、まさに、状況から出発して何らかの所与を理解することであり、根原的な諸目的の光に照らして状況を理解することである。話し手のある文を理解することは、ただ単に話し手が言うことを理解することではなくて、話し手が言うことを通して、話し手が《言おうとすること》を理解することである。言い換えれば、それは、相手の超越運動に加担し、相手とともに諸可能へ向かって、目的へ向かって私自身を投企し、ついで組織的諸手段の総体に立ち戻り、それらの手段の機能や目標によって、それらの手段を理解することである。だが一方で、我々がこの状況に対して、用いられた単語、特殊な文法規則等々について客観的な立場をとるならば、我々は話者の自由に課せられた事実上の限界について語ることができるだろう。それらは単語の素材的音声的な性質、使用可能な語彙の有限性、表現に対する文法規則の制限等々によって語られるだろう。そうなると、例えば言葉を一つの巨大な生き物の如くたとえ、その特殊な有機的構造の制限のうちにおいて我々が表現を行うということになるだろう。だがこのような見方は、聞く側にとっての「話された言葉」の解釈であって、話す側にとっての「話す言葉」の解釈ではない。言葉は表現の技術である。だが、あらゆる技術は、それが技術であるためには、言い換えれば、それが所与に対する瞬間的な行為の積み重ねでなく、一つの目的へ向かっての所与の超出であるためには、自由との関係無くしてはとらえられ得ないものである。このような誤謬は〈他のすべての〉技術と同様、言語の場合にも犯されてはならない。

 

以上のことはあらゆる技術にも適用される。例えば人種というのは存在の技術の一つであるが、もし種が個別者の真理であるならば、種は深い矛盾なしには個別者のうちにおける一つの所与ではあり得ないだろう。言語の諸法則は、文の自由な具体的な企てによって維持され受肉させられるのであるが、それと同様に、種は個々の落下が物体落下の法則を例示するような具合に、自らを現すところの個別者に先立って存在するどころか、むしろ、自由な個別的選択によって維持される抽象的諸関係の総体である。個別者は種に条件づけられ、種は個別者に条件づけられ、一見そこには循環があるように見えるが、そうではない。種と個別者との展開は、個別者の自由な企てのうちにおいて一挙に行われるからである。

 

「なるほど、それはそうかも知れないが、だが」と言って、次のように反駁する人もいるだろう。「君は、うまく問題をごまかした。なぜなら、それらの言語的もしくは技術的な組織は、対自が自己のあるべきありかたに到達するために、自分で作り出したものではないからである。むしろ対自は、これらの組織を他者から取り戻したのである。私がこれらの諸技術を使用するのは、私が他者たちから学ぶことによってであり、私がそれを私自身で使用するのは、他者たちが彼らの個人的な企てにおいて、それらの諸技術を存在させるからである。してみると、私の言語は他者の言語に従属し、結局は民族的な言語に従属する」。

 

我々は、そのことを否定しようとは思わない。というのも、我々にとっては対自を自己の存在の自由な根拠として示すことが問題なのではないからである。対自は自由であるが、〈境遇の内に〉en condition ある。我々が状況という名のもとに明らかにしようとしているのは、境遇と自由とのこの関係である。しかるに、対自は自己がその起原ではないある種の意味作用のかなたにおいてしか自己を選ぶことができないという、この否定され得ない事実を、いっそう明らかにすることが必要である。

 

事実、対自は配語法や形態素のかなたにおいて指示を選ぶことによってしか、話すことができないのと同様に、各々の対自は民族のかなたに人類のかなたにおいて、自己を選ぶことによってしか、自己の存在であることができない。この《かなた》は、対自が超出する諸構造に対して対自が全面的に独立であることを確かめるのに十分であるが、一方で対自は、これこれのこの構造に対する「かなた」として、自己を構成する。このことは何を意味するだろうか?つまり、この構造は世界のうちにおける客観-対象であり、対自は、他のもろもろの対自にとっても世界であるような一つの世界のなかに出現する、という意味である。また、そのことのゆえに、世界の意味は対自にとって〈他有化〉されている。言い換えれば、対自は自分が世界に到来させるのではないもろもろの意味の現前に、自己を見いだす。対自は一つの世界のなかに出現するのであるが、この世界はあらゆる方向において、すでに〈まなざしが向けられ〉、畝が作られ、探検され、耕されたものとして対自に存在する。対自は自分が世界に意味を到来させる以前に、世界のうちに他者を認めるや否や、すなわち世界のうちに自分以外の超越を認めるや否や、対自の超越のかなたにある有意味的な対象を、一つの「対象-目的」を、一つの技術をとらえる。それゆえ、対自は、他人の諸行為が世界のなかに諸技術として現れることについての責任者である。対自は自分がそこへ出現するこの世界をして、これこれの技術によって畝が作られるようにさせることはできない。むしろ、対自は

、まさに自己をして一つの「外」を他人にもたらすところの者たらしめることによって、自由な企てとしての他者が体験するところのものを、技術として、他者の外に存在させるのである。先に言語の例において考えたように、問題は具体的に考えられなければならない。対自の自由が働くのは、これこれのこの世界の内においてであって、他のいかなる世界においてでもない。対自が自己自身の存在を問題にするのは、これこれの世界の内における対自の存在に関してである。なぜなら、自由であるとは、我々がそこへ出現する歴史的な世界を選ぶことーそういうことはまったく無意味であろうーではなくて、いかなる世界であるにせよ、その世界のなかで、自己を選ぶことであるからである。その意味で、諸技術のある状態が人間的な諸可能性を制限するなどと考えるのは、不条理であろう。なるほど、昔の人は自動車や飛行機を使用することを知らない。けれども、当時の人々が無知として現れるのは、自動車や飛行機が存在している一つの世界から出発して当時の人を欠如的にとらえる〈われわれにとって〉、われわれの観点からでしかない。これらの対象やそれに関連する技術といかなる関係をも持たない当時の人にとっては、考えることすらもできない一つの絶対的な無がそこにある。そのような無は、自己を選ぶ対自を、決して限界づけることができないであろう。そのような無が可能性の限界として、欠如として現れるのは我々にとってであり、当時の人は存在充実の核心において自己を無化するのであり、言い換えれば我々の世界と同様に、〈それがありうるところの全て〉であるような一つの世界の核心において、自己を無化するのである。

 

それゆえ、対自が「対象-他者」の面前において自己を確認するとき、対自はそれと同時に、もろもろの技術を発見する。そのとき以来、対自はそれらの技術を自分のものにすることができる。言い換えれば、それらの技術を内面化することができる。対自は一つの技術を利用することによって、この技術を自己の目的に向かって超出する。また技術が内面化されるという事実からして、誰でもいいある「対象-他者」の、単なる有意味的な凝固した行為であるところの技術は、技術としてのその性格を失う。この技術は、目的へ向かって所与を超える自由な超出のうちに取り込まれる。この技術は、それを根拠づける自由によって取り戻され支えられる。それは言葉が、文の自由な企てによって支えられるのと同様である。誰も話せなくなった言葉は、もはや存在するという資格を持たないのと同様に、あらゆる技術はそれを自己のうちに内面化する自由によって、その超越的な意味を支え続けられる。

 

それにしても、他者の存在はその「超越」のために、私の自由に対して事実上の一つの限界をもたらす。というのも、他者の出現によって、私が選んだのではないのに私が〈それである〉ところのある種の決定が現れるからである(対他存在)。それらすべてのことは、私が他人にとってそうであるのであって、私が私の〈外において〉持つこの意味を、私はとらえようと思ってもだめだし、ましてこれを変えようと思ってもどうにもならない。言葉のみが、私の何であるかを私に知らせるであろう。言葉を抜きにしては、それはどこまでも空虚な志向対象としてしか存在しないであろう。問題なのは、私の対他存在において私を規定するもろもろの対象的な性格である。私の自由とは別の一つの自由が、私の面前に出現するや否や、私は一つの新たな存在次元において存在し始める。しかもこの度は、もろもろの只の存在者に対して一つの意味を付与するのが問題なのではなく、他人たちがある対象に付与した意味を私の責任において取り戻すことが問題なのではない。一つの意味を付与する私を見るのは私自身であるが、私は、私の持っているこの意味を、私の責任において取り戻す手段を持たない。というのも、この意味は空虚な指示として以外には、私に与えられえないからである。それゆえ、私の持つこの何ものかは、ーこの新たな次元ではー少なくとも〈私にとっては〉、〈所与〉として存在する。なぜなら私がそれであるところのこの存在は、〈蒙らされる〉からであり、私によって存在することなしに存在するからである。私がこの存在を知り、この存在を蒙るのは、他人たちとの間に保っている諸関係のうちにおいてであり、この諸関係によってである。それゆえ、ここにおいて、私は私の人格の全面的な他有化に出会う。私は、私がそれであることを選んだのではない何ものかである。状況に関して、そこから何が出てくるであろうか?

 

我々は今しがた、我々の自由に対する現実的な一つの限界に出会った。言い換えれば、我々は我々の自由がそれの根拠であることなしに、我々の上に押し付けられる一つの存在のしかたに出会った。しかし言うまでもないことであるが、この限界は他人たちの〈行動〉から由来するのではない。拷問でさえも我々から自由を奪うことはできない。我々が拷問に屈するのは、〈自由によって〉である。事実、あらゆる対象的な次元での強制は、我々の自由な企てにおいて、それを無視することが可能である。〈立入禁止〉の看板も、あらゆる法律の規制も、我々の自由にいささかも触れるものではない。私の自由の真の限界は、ただ単に、他人が私を「対象-他者」としてとらえるという事実そのものの内にあるのであり、さらに、私の状況が他人にとっては状況であることをやめて対象的な形態となり、私がそのなかに対象的な構造として存在するという、この派生的なもう一つの事実の内にあるのである。私の状況の不断の特殊な限界をなすところのものは、私の状況を他有化するこの対象化である。それゆえ、私の自由に対するこの限界は、他者の単なる存在によって、言い換えれば、私の私以外の超越との遭遇によって立てられる。かくして、極めて重要な一つの真理をとらえることができる。我々が対自存在の枠のなかにとどまることによって今しがた見たように、ひとり私の自由のみが、私の自由を限界づけることができる。我々が我々の考察のうちに他者の存在を復帰させることによって今ここに見るように、この新たな次元における私の自由は、やはりその限界を、他者の自由の存在のうちに見いだす。スピノザによれば、思想は思想によってしか限界づけられえないのであるが、それと同様に、自由は、自由の出会う唯一の限界を、自由のうちに見いだす。結局、自由には二種類の事実的な制限が存在することを認めざるを得ない。第一に、内的有限性としては「自由は自由であらぬことができない」という〈事実〉からくるのであり、第二に、外的有限性としては「私の自由は、自由であることによって、他者の自由にとって存在し、他者の自由は、それ自身の目的の光に照らして、自由に私を把握する」と言う〈事実〉から由来する。

 

私の対他存在のありかたについてはすでに述べた。それでは私の対他存在の出現に必然的に伴うことになる私の状況の対象的な形態、すなわち私の状況の他有化はどのような意味を持つであろうか。まず明らかなことであるが、私の状況の他有化は、一つの内的な断層を表すものでもなく、私がそれを生きる状況のなかへ、単なる抵抗としての所与を導入することでもない。むしろ他有化は、原理的に私から脱れ出るものであり、状況の外面性そのものである。それは言わば、状況の「対他-外部-存在」である。ここで問題なのは、あらゆる状況一般の本質的な性格である。この性格は、自分の内容の上に働きかけることができないで、状況のうちに身を置く当人によって受け入れられ、取り戻される。それゆえ我々の自由な選択の意味は、その意味を表現する一つの状況を出現させることであるが、この状況の本質的な一つの特徴は、他有化されているということであり、言い換えれば、他人にとって即自的な形態として存在すると言うことである。私の書いた小説は、それが他者にとっても存在するがゆえに、原理的に私から脱れ出る。私の期待に反して酷評されるかもしれないし、あるいは私が見通さなかった思わぬ意義を見つけ出されるかもしれないが、それはすべて私の手の届かないところにある。結局のところ、自由が出会うのは真っ向からの障碍でなくして、自由のうちにおける一種の遠心力であり、一つの弱さである。それにしても他者の存在はまったく偶然的な一つの事実であるから、他者の存在する世界のうちでみずから自由であろうと欲するならば、あえて自己の自由の〈受難〉passion をも欲することになるだろう。この世界のうちで私が自由として存在することは、私の自由に背後を与えるようなものである。例えば、私が他者から「俗悪である」と評されたとしよう。なるほど、私は直観によって他者の上に俗悪さの本性をとらえることができる。そうすることによって、私は《俗悪》という語を、私自身に適用することができる。けれども、私はこの語の意味作用を私自身に結びつけることができない。確かにそこには行われるべきある種の結びつきの指示がある。けれどもこの結びつきは、私が俗悪で〈あるべき〉ものとして自己を投企することによってか、あるいは私自身を俗悪で〈あった〉ものとして対象化することによってしかなされ得ないだろう。結局、私が他者にとってそうであるところの存在は、私にとってもそうであることができない。たいていの人は、他人のことが問題であるか自分のことが問題であるかにしたがって、〈二つの錘、二つの尺度を使い分ける〉という非難に値するのであり、また、たいていの人は、つい最近咎めた他人の過ちに自分が陥っていることを指摘されると、「それは同じことではない」などと答える傾向があるが、その理由は事実、〈それが同じことではない〉からである。他者の行動は道徳的評価の与えられた対象であるが、自身の行動は自己の存在が選択であるがゆえに、自己の現実存在そのものの内に自己の理由づけを担っているような純然たる超越である。実際、我々はもろもろの結果の比較によって、それら二つの行為が厳密に同一の〈外部〉を持っていることを指摘できるであろうが、それでもこの同一性がまさに行為者の外部にあるがゆえに、行為者はこの同一性を実感することができないだろう。

 

 

言語、特にその技術的側面である文法についての補足、感想

 

サルトルは、すでに意味作用に溢れた世界の内への対自の到来について、言語を例にとって示した。確かに単語や文の諸構造は、〈なされるべき指示表現〉という対自の目的に先だって存在するのではないだろう。我々が文法を発見するのは、実際に言葉が話された後である。そのため国語の法則の存在は、もしそれがあらかじめ表現に先立って与えられていると考えるのであれば、ほとんど天才の所産のようにも思える。実際、これから外国語を学ぼうとする人は、初めにその言語の緻密な文法規則とさまざまな例外に面食らう一方で、ネイティブがその困難さを感じさせることなく流暢に話すのを見て、しばしば驚嘆の念を覚えるものである。だが、そのような困難さが感じられないのは、事実、そのような困難が存在しないからである。ネイティブはいちいち文の構造を思い描きながら話すわけでもないし、むしろそのような緻密な文法的諸構造は、指摘されて初めて気づくことが多いものである。国語の法則が存在するのは〈誰〉にとってであるか?それは話し手にとってではなく、聞き手にとってである。つまり一つの目的へ向かっての一連の所与(発声器官、空気、鉛筆、紙、単語など)の無化を、「手段-目的」複合体として対象たらしめる側にとってである。話す側は、一つの〈表現されるべきもの〉へ向かっての意味作用の選択であり、話す側が単語の順序をとらえるのは、話し手がこの順序を作るかぎりにおいてでしかない。よって、話す側がこの組織的複合の内部においてとらえるところの唯一の諸関係は、話し手がすでに打ち立てたところの諸関係である。それゆえ、話し手との関係を断たれて対象化された文は、話し手が打ち立てた一つの目的へ向かっての超越的な意義を失っているのであり、そこから国語の法則にしたがって再構成された一つの目的は、原理的に元の目的と同一ではあり得ない。聞き手は話し手とともに、文を構成する一連の所与を同一の目的へ向かってともに超越しようとするが、しかしこの二つの超越は絶対的な無によって隔てられている。そこに原理的な齟齬の可能性が存する。

 

以上のことからして、国語の技術というのは、《言おうとしているところのもの》である真の目的と、単に言うところのものを国語の法則にしたがって再構成させた目的とを、一致させようとする技術に他ならない。そのため、案内文、説明文、学術論文など、聞き手優位の状況において構成される文は、もっとも国語の技術を反映させた文であり、またそうあるべき文であるだろう。そこでは常に、話し手の自由のうちにおいて話し手の自由を限界づける聞き手の自由を考慮しなければならないからである。一方で詩文や歌詞など、話し手優位の状況において構成される文は、話し手が自身の全き自由のうちにおいて所与を超出した結果ということになるだろう。