ここまでの記述から、人間存在にとって「ある」とは、「為す」に帰着するものであることがわかる。人間存在とは〈所与〉ではない。むしろ、人間存在は〈所与〉から絶縁することによって、また「いまだあらぬものであり、自己がそれであるべきところのもの」の光によって〈所与〉を照らすことによって、〈所与〉を「そこに存在する」ようにさせる存在であり、不断の行為である。人間存在は、現に存在する〈所与〉からの自己解放であると同時に、目的へ向かって自己拘束する存在である。この内的否定は、自己自身に対して常に距離を取るような一つの存在に関してしか、事実であり得ない。これが、人間が自由であるということの意味である。自由は一つの所与でもなく、一つの性質でもない。自由とは、それに向かって自己を拘束するところの目的の選択が、常に無条件であるという事実である。そうはいっても、必ずや向けられる様々な異論にぶつかるだろう。「仮に私が小男である場合、私は大男であることを選ぶことができるか?」、「片腕がない場合、私は両腕を持つことができるか」等々。これらの異論はまさに、私の事実的な状況が、私自身に関する私の自由な選択に加える制限に関わる問題である。それゆえ、自由の他の様相、自由の裏面、すなわち自由と事実性の関係を検討するのが適切であろう。

 

 

自由と事実性 - 状況

 

私がどこで生まれたか、いつ生まれたか、どの家庭で生まれたか、生まれつきどのような体格であったか、生まれつきどのような能力を持っているか等々は、私が私自身で変えることのできない事実である。それにまた、人生の歴史がいかなるものであるにせよ、人生は常に思う通りに事が運ぶことがない。人生は挫折の歴史である。してみると、我々は自由に《自己を造る》ことができるどころか、むしろその反対であるように思われる。だが、このような事情は、いまだかつて自由の支持者たちに甚だしい動揺を与えたためしがない。無論、決定論者たちが述べたてる諸事実の多くは考慮に値しないであろう。とりわけ、事物の〈抵抗〉なるものは、我々の自由を反駁する根拠とはなり得ない。なぜなら、事物の抵抗は、我々があらかじめ一つの目的を立てることによって初めて現れるからである。ある岩は、もし私がそれを移動させようとするならば甚だしい抵抗を示すが、反対に私が風景を眺めるために高いところに登ろうと思うならば、貴重な助けとなりうるであろう。それゆえ、ハイデッガーが《自然的存在》と呼ぶところのものは、なるほど、初めから我々の行動的自由を制限することがありうるにしても、そのためには我々の自由そのものが、あらかじめ枠や技術や目的を構成するのでなければならない。それにまた、〈自由〉だと言われる存在は、自己のもろもろの企てを〈実現する〉ことができる存在である。実現するということは、世界のありかたに変化をもたらすことであり、そのためには実現されるべきものが、実現しようとする段階においては、まだ存在しないのでなければならない。もし我々が思ったり考えたりするだけで実現するのであれば、我々は可能と現実が区別されない夢の世界にも似た一つの世界に沈潜することになる。そうなれば単なる希求、選択されるべき目的の表象、目的の選択、それらの間の区別がなくなり、かくして我々の投企は消失し、自由も消失する。「障碍なくして自由なし」という言葉の意味は、そこにある。だが、そこにはやはり不条理があるように思われる。自由が自分で自分にその障碍を作り出すなどということは、ことさら不条理であるから、これを認めるわけにはいかない。すると、ここには対自に対する即自の存在論的優位ともいうべきものがあるように思われる。ここまでの考察は単なる地ならしとして、あらためて、事実性の問題を初めから考察してみなければならない。

 

対自は自由である。けれどもこのことは、対自が自己自身の根拠であるという意味ではない。言い換えれば、対自は自由であるが、自己が自由であることを〈選択〉するのではなく、自己が自由であるように運命付けられている存在である。また、対自は自分の立てる目的によって自己が自由であることを定立する存在であるが、しかし、自分が何であるかを自己の目的によって自己自身に知らせるような一つの自由が存在するという事実を、左右することができない。それゆえ、自由は、存在から逃れるために存在を前提とするような逃亡的存在である。自由は存在しないことに関しても自由でなく、自由であらぬことに関しても自由でない。我々はこの二つの構造の結びつきを直ちに把握する。この、自由であらぬことができないという自由の必然的事実性と、存在しないことができないという偶然的事実性は、一つのものでしかない。それは、自由が根原的に〈所与との関係〉であるという意味である。かかる所与は、対自によって無化される即自であり、世界に対する観点としての身体であり、対自がそれであったところの過去である。これらは同一の実在に対する三つの名称である。裸の所与などという空虚な概念を弄んだところで無駄であろう。所与は目的というそれを照らす光のもとで、対自に対して顕示されるために、常に〈動機として〉現れる。状況と動機づけとは一つのものでしかない。所与が所与として現れるのは、対自が自己を投企するところの企てにおいて、またそのうちにおいてのみである。というのも、その企ては目的へ向かっての対自の自己投企のために、即自を即自として〈それであるところのもの〉にさせるからであり、またそれは、対自が〈自己がそれであらぬところのもの〉を無化することであるから、必然的に対自が〈自己がそれであらぬところのもの〉である即自を前提とするからである。この事実は、世界のうちにおける対自の出現とともに一挙に与えられる。ゆえにそこに循環は存在しない。所与の有用性や抵抗性は、所与の即自的な性質として直接認められるわけではなく、自由の照明のもとに自由の屈折を通して、単にあるとらえがたい何ものかを指示するものとして認められるにすぎない。これらのことを念頭において、いくつかの場合に分けて検討していくことにしよう。

 

 

(A)私の場所

 

私の場所は、空間的な秩序によって規定されるとともに、世界という背景の上に私に対して顕示される《このもの》たちの独自の本性によって、規定される。ところで、私の今の〈この〉場所はすぐその前の場所を、それからの継起として指し示す。以下同様に進めていくと、最後には根原的な場所、すなわち私の生まれた場所を指し示す。生まれるとは他にもいろいろな特徴があるが、まず第一に〈自己の場所を占める〉ことである。それゆえこの場所は、私がのちに一定の規則に従って色々新たな場所を占めるための起点となる場所であるから、そこには私の自由に対する強い束縛があるように思われる。だが、実のところ問題は次のようなものである。すなわち、人間存在は根原的に、諸事物のただなかにおいて自己の場所を受け取る。同時に人間存在は、それによって一つの場所としての何ものかが、諸事物にやってくるところのものである。要するに、場所が諸事物にやってくるのは人間存在によってであるにしても、この人間存在は諸事物の間に自己の場所を受け取りに来るのであって、このことに関して人間存在は決定権を持たない。

 

私の「そこに-ある」être-là, Da-sein は、私の自由からも事物の本性からも演繹されない、根原的で偶然的な事実である。しかしこのことは、私と対象との一つの根本的な関係である。もし私が私の場所に存在するだけにとどまるならば、私はこの根本的な関係を打ち立てるために、同時に他の場所に存在することができないだろう。私は私を取り巻いているもろもろのとらえがたく考えの及ばない対象が、私の中に生ぜしめる内的な諸決定を意識することしかできないだろう。私が対象との根本的な関係を打ち立てるのは、私がここに存在すると同時に、他の場所に存在するものとして、すなわち「ここに存在する私」を無化し、「あそこに存在する私」を自己のそれであるべき存在として定立し、それに向かって自己を投企することによってである。それは同時に、私がそれであらぬところの世界の(ただなかにおける)もろもろの《このもの》、それらによって私が自分の何であるかを自分に告げ知らせるところのもろもろの《このもの》から、内的否定によって脱出することであり、それらの《このもの》がそれであるべきありかたへ向かって超出することである。このように、私が私の場所をそれであるものとして定立するのは、私の自由による二重の無化を通してである。特定の場所や特定の時間に意味がもたらされるのは、対自によってである。というのも、この場所があの場所から区別されるのは、またこの時間があの時間から区別されるのは、自己を〈世界の-ただなかにおける-存在〉として定立すると同時に、そのように現れた自己自身と世界を直ちに括弧に入れるような一つの存在によってであるからである。事実性は根原的な偶然性として、また不条理として自由に付きまとうのであるが、この事実性は自由によって世界に到来し、また自由に対してのみ現れるものである。我々はここにおいて、いっそうはっきりと、状況のうちにおける自由と事実性との錯綜した絆を見る。

 

 

(B)私の過去

 

我々は一つの過去を持っている。この過去は、先行の現象が後続の現象を決定するのとは違って、我々の諸行為を決定するものではない。また、過去は現在を構成し未来を粗描するには無力である。けれども、未来へ向かって自己を脱出する自由は、自分の気の向くままに自己に過去を与えることができないであろう。まして自由は、過去なしに自分で自分を生み出すことができないであろう。自由は、〈それであったところのもの〉として自己自身の過去であるべきであり、この過去は取り返しのつかないものである。過去は、そこから出発してでなければ、我々が新たな決心を行うことのできないところのものであり、我々が我々自身を新たな諸可能性を向かって超出していくときの踏み台であり、また我々が自己をそれへ向かって投企するところのあらゆる諸目的が、それを中心として展開されるところの一つの極である。かりに我々が自身の過去に否定的な立場をとるにしても、それは同じことである。一方で、過去が過去であるのは、過去を即自たらしめ、それを超出する対自によってである。過去は常に全体分解的な全体性として、その一端は未規定のまま開かれており、そこにおいて過去は過去としての全体的な性格を受け取る。すなわち、過去は対自の未来への選択によって、その過去としての本性を受け取る。過去は、未来における世界の新たな状態を私が企てる時の出発点であるが、未来のあるべき世界のありかたは、それであるところの世界を無化することによって実現する。ゆえにそこには、無化されるものとしての世界、〈その場に置き去りにされる〉世界があるのでなければならず、この世界こそが過去に他ならない。それゆえ、未来が実現されるためには、過去は取り返しのつかないものでなければならない。過去の考察については、ここまでは時間的な観点から考察されてきたが、実はこれも場所の考察と同様に、自由の最初の構造と異なるものではない。事実、過去は、場所の考察において世界のあるべきありかたが根原的な企てであったように、私の存在の本質として根原的な企てである。しかも、過去が企てであるかぎりにおいて、過去とは先回りである。過去の意味は、過去によってあらかじめ粗描される将来から由来する。言い換えれば、過去は、生きている要素、半ば死んでいる要素、生き返らされた要素、また大きな要素、小さな要素、このような諸要素の有機的複合体として存在するが、このことは私の存在の現在的な出現として現れると同時に、この有機的複合体は常に未来に対して開かれており、過去が上に挙げたような様々な意味を受け取るのはその未来からである。対自がこの有機的複合体に否定的な立場をとる者として自己を投企するならば、それは進歩的な態度として言い表されるだろうし、一方でまた、対自がこの有機的複合体を肯定的にとらえる者として自己を投企するならば、それは保守的な態度として言い表されるだろう。要するに、過去は踏み台として未来の諸可能性の範囲を規定するが、その踏み台としての価値を持つのは、対自が選択した一つの可能性である、未来の目的の光に照らされることによってである。

 

 

(C)私の環境

 

私の《環境》entours と、先に記述したところの、私の占める場所とを混同してはならない。環境とは、私を取り巻くもろもろの道具-事物のことであり、それらはそれぞれの抵抗性や有用性を持っている。なるほど、私は私の場所を占めることによって、環境の現れを根拠づけ、また、場所を変えることによっても(これは先に見たように、私が自由に実現する操作である)、新たな環境の出現を根拠づける。だが、私が環境の変化に無関係であるにもかかわらず、環境が変わったり、他の人によって変えられたりすることもある。ベルクソンが『物質と記憶』の中で語ったように、確かに私の場所の変更は私の環境の全面的な変化を引き起こすけれども、このことについて語りうるためには、私の環境の全面的、同時的な変更を考慮しなければならない。一般的に言えば、もろもろの道具複合の抵抗性、あるいは有用性は、ただ私の占める場所にのみ依存するのではなく、それらの道具そのものの潜在性にも依存する。かくして、私が存在するや否や、私は私自身とは異なるもろもろの存在のただなかに投げ出されており、それらの存在は私の周囲に、私のために、また私に反して、それぞれの潜在性を展開する。私が自転車に乗って、できるだけ隣町に着きたいと思うならば、この企てのうちに含まれているのは、私の個人的な諸目的であり、私の場所についての、また町から私の場所までの距離についての見積もりであり、追求されている目的への諸手段の自由な適用である。しかし、タイヤがパンクする、太陽がじりじりと照っていて暑い、風が真っ向から吹いてくる等々、すべてそれらの現象は、計画のうちにおいて私が予測しなかったところのものである。それがすなわち環境である。なるほどそれらの現象は、私の主要な企てのうちに、また私の主要な企てによって現れる。風が向かい風、あるいは追い風として現れるのも、太陽がほどよい、あるいはたまらない熱さとして現れるのも、私の企てによってである。この《環境》が現れるのは、一つの自由な企ての限界内、すなわち私がそれであるところの諸目的の選択の限界内においてでしかない。それにしても、この記述をそれだけにとどめるならば、それはあまりにも単純すぎるであろう。確かに私の環境の各々の対象は、すでに顕示されている一つの状況のうちに現れるにしても、また、それらの対象の総体は、それだけでは一つの状況を構成することができないにしても、さらにまた、各々の道具は、世界の中に状況という背景の上に浮かび上がるにしても、それにもかかわらず、一つの道具の突然の変形もしくは突然の出現は、状況のある根本的な変化に影響を及ぼすことができる。私の自転車のタイヤがパンクする。そうなると、隣の町から私までの距離は、たちまち変化する、それは今では徒歩で測られる距離であって、車輪の回転で測られる距離ではない。もしかすると隣町へ着く頃にはもう間に合わないかもしれない。このような状況の変化は、私の側に色々な決心をさせる動機となる(諦めて引き返す、遅れを連絡する等々)。それにしても、私が計画していなかったところのこのような状況の変化は、すなわち私の無力さについてのこの明白な認知は、私の自由の限界についての最も率直な告白ではないだろうか?もちろん、私の選ぶことの自由は、私の獲ることの自由と混同されてはならない。だが、ここで問題になってくるのは私の選択そのものではないだろうか?というのも、環境の逆行は多くの場合、まさに私の企ての変化の機会であるからである。

 

ところで、環境の突発するもろもろの変化が、私の企てに変更を起こさせることができるのは、次の二つの条件にもとにおいてである。第一の条件は、それらの変化は、私の主要な企ての放棄を引き起こすことができないということである。というのも私の主要な企ては、反対に、それらの変化の重要さを測るのに役立つからである。それらの変化がこれこれの個別的な企てを放棄することの動機として現れるのは、あるいっそう根本的な企ての光に照らしてでしかあり得ない。空を覆う雨雲が私のハイキングを断念させるのは、この雨雲が一つの自由な投企のうちにとらえられ、そこではハイキングの価値が空のある状態に結び付けられているからである。第二の条件は、いかなる場合にせよ現れた対象、もしくは消失した対象は、一つの個別的な企ての断念を部分的にも引き起こすことができないということである。事実、この対象は根原的な状況において、一つの欠如としてとらえらなければならない。したがって、この対象の出現もしくは消失という〈所与〉は、無化されるのでなければならない。私が一つの個別的な企てを断念したのは、私がこの所与から距離をとり、この所与の現前において私自身で自己を決定したことの結果である。死刑執行人のボタンでさえも我々を自由であることから免除してはくれない。我々の断念が続行されるべき行為の不可能性によって引き起こされるのではなく、逆に、続行の不可能性が我々の断念によって事物にやってくるのである。

 

してみると、所与の現前は我々の自由に対して一つの障碍であるどころか、かえって自由の存在そのものによって要求されるものであることを認めなければならない。緒論で指摘したように、意識は即自存在の《存在論的な根拠》として役立つことができる。事実、何ものかについての意識があるならば、根原的に、この〈何ものか〉は、ある実在的な存在、すなわち意識に対して相対的ならざる存在を持っているのでなければならない。けれども今にして分かるように、この証拠はいっそう広範囲な効力を持っている。もし私が、一般に何ごとか為すことができるならば、私は私の存在から独立した存在を持つ諸存在、特に私の行動から独立した諸存在の上に、私の行動を及ぼすのでなければならない。私の行動はこの存在を顕示することができるが、この存在を根拠づけるのではない。「自由である」とは「変える-ために-自由-である」ということである。それはまた、「為す-ために-自由-である」ことであり、「世界の-なかで-自由-である」ことである。自由は変えることのできる自由として自己を認知するとともに、自由が作用を及ぼす所与の独立的存在を自己の根原的な企てのうちに暗々裡に認知し予見する。即自を独立的なものとして顕示するのは内的否定であり、即自においてその事物的な性格を構成するのは、この独立性である。即自のこの無関心的な外面性がないならば、〈為す〉という観念そのものは、その意味を失うであろう。一般に、自由の企てそのものは、一つの抵抗的な世界のなかで、その抵抗にうちかって〈為す〉という企てでもある。あらゆる自由な企ては、自己を投企することによって、事物の独立性に基づく予見不可能な余白を予見する。というのも、まさにこの独立性こそが、自由が自己を構成するときの出発点であるからである。私の企てを狂わせるこの思いがけないパンクは、予想だにしていなかった突然の大雨は、私の選択によって粗描された一つの世界のなかに、その場所を占めにくる。だがそれらは、私の投企のうちに《予見不可能なもののために》残されていた原理的な余白のうちに予見されていた。それは、こう言っていいならば、私はこのパンクを思いがけないものとして予期することを決してやめなかったからであり、突然の大雨を想定外の事態として考慮しておくことをやめなかったからである。自由の企ては原理的に〈開かれた企て〉であって、それ以降の変更可能性を自己のうちに持っているのであり、また、あらゆる企てはその構造のうちに、世界の諸事物の《独立性》についての了解を含んでいる。今こそ我々は、諸事物の状態の意味を理解することができる。我々が諸事物から切り離されているのは、我々の自由より以外の何ものによってでもない。諸事物をその外面性、予見不可能性、逆行性あるいは有用性として、そこに存するようにさせるものは、自由である。なぜなら、諸事物が出現し、それらが互いに結びつけられたものとして顕示されるのは、無化という背景の上においてであるからである。自由の出現は〈所与〉を無化のうちにあらわす同時に、その無化は〈所与〉を通しての一つの目的の結晶作用である。それゆえ、私の自由の企ては、諸事物に対して何ものをも付け加えはしない。私の自由の企ては、諸事物が、もろもろの有用性や逆行性を備えたままの実在として、そこに存するようにさせるだけである。