「ある」と「為す」、行動の第一条件としての自由(2)

 

私の個別的な行為は、私の根原的な企てから出発してのみ解釈されうる。私は私の諸可能性のうちの一つに向かって自己を投企したのであるが、この諸可能性の根原的積分としての私の究極的全体的な可能性と、個別的な存在への私の出現と同時的に現れる全体性としての世界とは、厳密に相関した観念である。ところで、我々が個別的な対象を志向するとき、全体性としての世界は背景として側面的にとらえられるのだから、この根原的な企てから演繹される全ての派生的な企てに、一々分析的細部的な意識が対応すると考えるのは誤りである。むしろこの根原的な意識は、私の個別的な行為の条件であるとともに、その表面において個別的な行為の意識を浮き立たせているような、非措定的な意識でしかあり得ないであろう。

 

それではこの根原的な意識とは、どのような意識であるか。はじめに指摘しておいた方がいいと思うが、全体的な諸目的の選択は、それが完全に自由であるにせよ、必ずしも、またしばしば、喜びにおいて行われるものではない。我々自身を選択しなければならないという、我々に課せられている必然性を、権力意志と混同してはならない。選択は諦めから行われることもあるし、不承に行われることもある。選択は一つの逃亡であることもあるし、自己欺瞞のうちに実現されることもある。あるいは、自己の選んだ根本的な諸目的に反するような意志的諸決定が行われる場合さえあるが、この場合は個別的な行為についての意識は、反省的なものでしかあり得ないだろう。すなわち、反省的意識という境位においては、意志は動因としての偽りの心的対象を自己欺瞞的に構成するのに対して、非反省的意識、自己の非措定的な意識という境位においては、意志は自己欺瞞であることの意識であり、したがって対自によって追及される根本的な企ての意識である。この自己欺瞞という概念については、本書の第一部(読後感想1を参照)ですでに明らかにしたところのものである。

 

自己欺瞞的な行為は意識の諸構造をもっとも顕著に表すものであるから、これを代表例として考えてみよう。例えば患者が精神分析医のもとへ行くときの精神状態とは、どのようなものであるか。この場合患者は、彼が自分にもはや隠すことのできないある種の障碍から癒されるために、精神分析医のもとに行くことを意志的に決定する。しかも、彼が医者の手に自分を委ねるという事実からして、彼は癒されるかもしれないという危険を冒す。けれども彼がこの危険を冒すのは、「自分は癒されるためにあらゆる手段を尽くしたが無駄であった。自分はとうてい癒されないのだ」と自分で自分に言い聞かせるためである。それゆえ、彼が精神分析医のもとに近づくのは、自己欺瞞と不誠意をもってである。彼は精神分析医の治療に自分を委ねることを意志的に続けるにもかかわらず、彼の一切の努力はこの治療を失敗させることを目標とするだろう。同様に、ジャネが研究した神経衰弱症患者たちは、彼らが故意に保持する一つの強迫観念に〈悩み〉、それから癒されたいと〈欲する〉。けれども、まさにそれから癒されたいという彼らの〈意志〉は、それらの強迫観念を〈悩み〉として肯定することを目標としている。その結果がどのようなものかは、周知の通りである。患者は地上をのたうち回り、すすり泣くが、必要な告白をする決心をしない。同様に、精神分析医が患者の原初的な企てをまさにとらえそうになると、患者は治療を受けることを放棄したり、嘘をつきはじめたりする。このような抵抗を、医者に対する反抗とか、無意識的な不安ということで説明しようとしても無駄であろう。無意識的なものが精神分析学的訊問の進展を知っているなどということが、どうしてあり得ようか。けれども、もし患者がこの戯れを最後まで演じ通すなら、彼は部分的な治療を蒙らなければならない。言い換えれば、患者に医者の援助を求めさせるに至った色々な症状が、患者のうちにおいて消え去る結果にならなければならない。かくして、患者は最小限の災いを選んだことになるだろう。彼は自分がとうてい癒されない者であることを自分に言い聞かせるために、医者のもとに来たのであるから。

 

それでは、もしこの根原的な企てが転覆される場合はどうなるであろうか。そのとき我々は、我々自身の危機を感じるだろう。もはや次の瞬間には我々自身では無くなってしまうのではないかというおそれを感じるだろう。というのも、我々は〈この〉根原的な企てを抱いている以外の自分は考えられないからである。思考も、判断も、行為もすべて、〈この〉根原的な企てのうちにおいて為されるからである。だが次の瞬間、我々は人生のうちでも最も開放的で鮮烈な瞬間を経験することになるだろう。《回心》とは、そのような状況である。そういう瞬間においては、屈辱、不安、歓喜、希望が互いに密接に結びついており、我々は新たな根原的な企てをとらえるために、今までの自分を手放す決心をする。このような現象は哲学者たちによっては研究されなかったものの、しばしば文学者たちに霊感を与えてきた。ジイドのフィロクテートが自分の憎しみ、自分の根本的な企て、自分の存在理由、自分自身の存在さえも手放すあの瞬間を、思い起こしていただきたい。また、ラスコーリニコフ(ドストエフスキー『罪と罰』の主人公)が自首しようと決心するあの瞬間を、思い起こしていただきたい。そういう異常な驚くべき瞬間においては、先行する根原的な企てが新たな根原的な企ての光に照らされて、過去のうちへと崩れ去り、その廃墟の上に新たな根原的な企てが出現する。そのような瞬間は、しばしば、我々の自由の最も明白で最も感動的な姿を提供してくれるように考えられてきた。けれどもそれは、自由の種々なる現れのうちの一つでしかない。

 

「行動の第一条件としての自由」の感想(2)

 

サルトルは対自の存在論的構造の分析によって、自由の支持者と決定論者との対決を退けたのだが、それでもやはり、自由の問題に関してこのように問うこともできよう。「もし、ある瞬間に人間を構成するすべての分子の振る舞い、および現在、また将来においてその振る舞いに影響を与える宇宙のすべての分子の振る舞いを完全に把握できるならば、その人の将来の行動をすべて予測できるか」。これはラプラスの悪魔と呼ばれる古典的な問題であるが、現代に至るまで完全な解決には至っていない。この問題には(1)自由意志の問題を含むものと、(2)そうでないものの二つのパターンがあるが、後者に関しては、一般的に、解を一意に定めるために必要な初期条件を与えることは、解を一意に定めることの十分条件であるかどうかという問題がある。あるいはまた、量子力学的な振る舞いに自由意志の存在根拠を見いだそうとする人々もいる。つまり位置と運動量の不確定性が現れる量子的なスケールにおける量子の振る舞い(たとえば脳内の神経細胞中の微小構造の振る舞い)を自由意志の源泉であると考えるわけである。それでは(2)の解決をもって(1)の解決とみなせるだろうか。すなわち、(2)の否定的解決は自由意志の存在根拠であるだろうか。このような問題に対し、サルトルならば次のように答えるだろう。

 

「まず、未来と過去から分離された、ある瞬間というものが実在するという考えが誤りである。時間は、しばしば数学的操作においてそうであるように、微小な諸瞬間の積分として実在するのではない。ある瞬間というのは、その瞬間とともに、過去と未来へと浸透する拡がりをもって存在する。瞬間というのはまったく知性的な操作に基づいた、過去と未来の接近の極限としての理想的な概念でしかない。事実、このような考え方ではある瞬間から次の瞬間への移行、すなわち運動といったものがいかにして可能なのか理解することができなくなるだろう。よって、かりに人間の意識状態が、その人間を構成する諸分子の配置に厳密に対応していることを認めるにしても、それを把握するためには瞬間という空虚な概念によってではなく、時間的な拡がりのうちに把握されなければならない。それゆえ、以上の問題は次の問題と同じことをいっているに過ぎない。『もし、ある人の人生を初めから終わりまで観察したならば、その人の任意の瞬間における行動を知ることができるか』この問題の答えは自明である。なぜなら初期条件のうちに、すでに答えが与えられているからである。

 

そもそも以上のような問題の立てかたは、まず我々の〈外側に〉真理があって、我々の認識をそれに合わせていくという、現象に関する転倒した見方に由来する。このような見方からすれば、意識の存在といえども世界の諸事物のうちの一つとして、対象世界のうちに包摂されることにだろう。確かに世界の諸現象は、《現れの法則》という事物の客観的な規則に厳密に従う。だが、この法則はそれ自体としては何ものでもない。法則は現れることによって、初めて法則となる。それでは《現れの法則》は何に対して現れるか。対自に対してである。世界の諸現象は対自との存在論的関係のうちに現れるのであるから、対自を抜きにして世界をそれ自体において独立に考察しようと考えるのが、そもそも誤りなのである。」

 

 

また、何よりも注目しなければならないのは、サルトルが理性的な判断のみならず、感情的な自発性にも《全面的な自由》を認めた点である。実際、感情の問題はこれが自由に属するのか、あるいは諸事物の系列に属するのか、多くの人々の頭を悩ませてきた。だが、自由と諸事物の系列を「混ぜ合わせる」などということは、サルトルが到底容認するところではない。確かに飢えや喉の渇きとは違って、感情は単なる生理的な欲求ではない。感情が発露するときには、それは必ず意識の受動的な同意を含んでいる。性的欲望の場合と同じように、意識は感情の共犯者である。それゆえ、性的欲望の場合に対自的な諸構造が全面的に認められたのと同様に、感情の場合もまた、完全に対自的な諸構造に属するものとして認められなければならない、というわけである。それでもやはり、疑問が残る点があるだろう。

 

サルトルは、欲せられた感情と体験された感情の間には、いかなる差異も存在しないという。「愛しようと欲することと、愛することは、一つのことでしかない。というのも、愛するとは、愛することについて意識することによって、愛するものとして自己を選ぶからである」。これが納得できないのは、まず第一に、我々がサルトルが言うように感情を目的への自己投企であると考えず、身体の生理的な反応を含むものと考えるからである。つまり、身体の生理的状態においては、「愛しようと欲する」ことと「愛すること」は同じではない。なぜなら「愛しようと欲する」ということは、「今は愛していない」からである。実際、我々はそれを心拍数の増加やホルモン量の変化など、さまざまな身体的徴候を通じて認識することができる。一方で感情を目的への自己投企と考えた場合、二つの感情は同一である。なぜなら「愛すること」は、自己を愛する者として投企することの不断の選択だからであり、これは「愛しようと欲すること」と変わるところがないからである。サルトルは時間的な拡がりを持たない、現在的な反応である身体の生理的状態を、感情を構成する本質的な要素ではないと判断している。事実、もしそれを本質的な要素として認めるのであれば、再び自由と決定論との際限のない論争に陥るだけであろう。だが、やはりこれは無理があるように思われる。少なくとも現代の法理論においては、サルトルの考えるような人間の全面的な自由を認めていない。それは刑事事件における量刑が、精神鑑定による〈責任能力〉の判定に左右されることからも明らかである。もちろんそれは、現代法理論の正しさを立証しているわけではない。サルトルの理論では、責任能力は完全にあるか、あるいは全く無いかのいずれかである。部分的に責任能力が認められる「心神耗弱状態」などというものは、まさに自由と決定論との俗物的妥協の産物であるだろう。〈根拠に基づいた学問である〉精神医学がそう判断しているというのは全く根拠にならない。精神医学は自由の何たるかについて研究する学問ではない。それは自由というものを、差し当たり常識から見て妥当するような適当な尺度に還元して、後は数字的な手続きによって機械的に判断しているに過ぎない。だがこのような理論は、陳腐であるがゆえにもっとも常識的な法体系ということでもある。というのも常識の関心は徹底して実践的なものであり、自由という法の根幹を揺るがす問題ですらも、差し当たりの判断でごまかして気にしないほどだからである。

 

だが、欲される感情と体験される感情の相違に関するサルトルの主張が納得しがたい理由はこれだけではない。事実、仮に身体の生理的な諸状態を感情の構成契機として認めないとしても、「今は愛していないが、これからは愛する者として自己を選択する」ことと、「今も愛しているが、これからも愛する者として自己を選択する」こととは、サルトルの理論に照らし合わせてみても同じではない。というのも、「愛しようと欲すること」は、根原的な企てのうちにおいて、反省的にのみ行われる自己欺瞞的な企てであるからである。愛しようと欲する以上は、今は愛していない。ゆえに根源的な企てにおいては「愛すること」は含まれていない。そうであるならば、根源的な企てに反して意志決定を為すのだから、それはサルトルのいう自己欺瞞的な企てでしかあり得ない。よって、「愛しようと欲すること」は、「愛さない」という根原的な企てのうちに行われる「愛する」という反省的な企てであり、「愛すること」は「愛する」という根原的な企てのうちに行われる「愛する」という非反省的な企てである。サルトルが何を思って「いかなる差異も存在しない」と書いたのかは不明だが、少なくともこの部分だけを見れば「同じ」感情だというのは無理があるように思われるし、経験に照らし合わせてみてもそうであろう。

 

 

また、ここまでの記述からして、サルトルのいう《人間の絶対的自由》が何を意味するのかが明らかになる。従来、あるいは今でもそうだが、自由というのはほとんど意志的判断能力と同義に扱われてきた。だがサルトルによれば、自由というのは意志的なものでもなければ、一つの未解決な能力でもない。それらはすべて、自由を擬物論的錯覚のもとにとらえたものである。「意志が判断を生むのではない、判断が意志を生むのである」という言葉は、あまりにも省略が行き過ぎていて解釈に注意を要する格言であるが、意志という〈事物〉がまずあって、それが判断を為すのではなく、判断という〈行為〉が最初にあって、それが擬物論的にものを考えたがる知性的傾向によって、意志という実態のない概念を生むのだと言うのであれば、問題のない言葉である。サルトルによれば、本来の自由とは、それ自体としては概念的に記述することのできない対自の存在論的条件である。対自は脱自によって時間的な拡がりにおいて存在する存在者であり、世界、身体、過去といった、対自がそれであらぬものである即自を自己の究極目的へ向かって超出する存在者であり、自由である存在者である。これら三つは、同じことを言っているにすぎない。自由のこの深い意味においては、例えば「好き嫌いに理由なんてない」などという主張はあたらない。確かに好き嫌いというのは、反省的な意識が自覚的に対象を志向する企てではない。言い換えれば、そのようになろうとしてなるような企てではない。だが、私が根原的な企てにおいて、あるいは根原的な企てのうちにおいて、ある対象を非措定的なしかたで好き、あるいは嫌いとして定立するのでなければ、ある対象を好きになったり嫌いになったりすることなどあり得ないだろう。よって、好き嫌いは事物の因果系列に属するものではなく、全面的に《人間の絶対的自由》に属するものである。その点で感情といえども、その自己投企に対する責任を免れることはできない。サルトルは、私の恐怖は〈自由〉であると言ったが、同様に、私の好きは〈自由〉であり、私の嫌いは〈自由〉である。このことは、サルトルが精神分析学のいうところの「無意識」を、「根原的な企ての意識」として自由のもとに明るみに出したことからもわかるだろう。サルトルが「デカルト的なコギトは拡張されなければならない」と言ったのは、自由を単に理性だけのうちに閉じ込めてはならないと言う意味である。ゆえにあらゆる人間の行為は、その人の根源的な企てのうちにおいて行われるのであり、そのような諸行為の総体が、対自が〈それであったというありかたでそれであるべきもの〉である、その人の過去を構成する。先に(読後感想8)、他者に対するあらゆる態度が、他者の現前というまったく偶然的な事実を目の前にして、二つの原理(男性的原理と女性的原理)に従って派生していくさまを見たが、このようなピラミッド構造のモチーフは、個別的特殊的な行動が、より根源的な企てのうちに包摂されていくという、自由論のうちにも見いだされる。

 

 

それゆえサルトルは「私があの時、あのような行動をとったについて、別様に振る舞うことがありえたか?」という問いに、次のように答えるであろう。

 

「それは別様の振る舞いの内容による。確かに我々は絶対的に自由であるが、それは常にどこでも無差別的な自由であるという意味ではない。自由がそのようなものならば、それは絶対的な気まぐれ、まったく予測不可能な狂気の振る舞いでしかないだろう。むしろ我々は絶対的に自由であるがゆえに、自分自身の企てにおいて自己を拘束する。我々の個別的特殊的な行為は、より根原的な企てを指し示し、ついにはそれによって全体的な我々のありかた、世界の全体的な把握のしかたを我々が規定するところの根原的な企てにたどり着く。別様の振る舞いがあり得たかという問いは、例えるならば、一つの絵を構成する多数の線のうちの一本の線を消して、別の線を描き足すようなものである。加えられた線が絵画の全体的な構図に影響を及ぼさないならば、別様に振る舞うことができたと言えるだろうし、加えられた線が絵画の全体的な構図とまったく釣り合わず、調和させるために全体的な構図の根本的な変更を要求するものであるならば、それは私が別人格であったなら、別人であったならと仮定するのとほとんど変わらないことである。」

 

 

また、根源的な企ては個別的特殊的な企ての条件として、それらを規定するものである。このことからして、反省的な企てはそれが根源的な企てに反するようなものであっても、根源的な企てに対して何の影響も与えないことが分かる。例えば私が根源的な企てとして《劣等コンプレックス》inferiority complex を定立し、また自身の「吃り」をこの企てとして、この企てのうちにおいて超出するとしよう。このとき、私の世界は私の劣等コンプレックスのうちに展開され、あらゆる諸事物、あらゆる人の様々な振る舞いは私の劣等性を婉曲的に指し示すことになる。そして私は私の劣等性の慢性的な発露として、自身の「吃り」をとらえている。だがその場合でも、私は自身の「吃り」に対して反省的な態度をとり、この特徴を矯正しようと志すことができる。だが、たとえ私の「吃り」が矯正されたとしても、そしてそれが私の根源的な企ての主要な発露であったにもかかわらず、それだけでは私の劣等コンプレックスが些かも解消されることはない。むしろ私は、これまで意識してこなかった自身の「醜い容貌」であったり、「卑屈な性格」だったりに意識を向けるようになり、それを劣等コンプレックスのうちにおいて超出することになるだろう。このことは整形依存症を例にとるとより分かりやすいかもしれない。醜形コンプレックスは、例えばその根源的企てにおいて鼻の低さを超出するが、鼻の低さの解消は厚ぼったいまぶたや頬のたるみを、その根源的な企てのうちにとらえさせることになるだろう。サルトルはヒステリー患者の腕に生じる発作を対症療法的に治療したとしても、もう片方の腕や脚にヒステリー症状が現れる事例をひいているが、これと同様の卑近な例でいえば、爪を噛む癖のある人が親指の爪をよく噛むからといって、たとえば親指に絆創膏を巻くなどして爪を噛めないようにしても、別の指の爪を噛み始める例があてはまるだろう。これらの考察は、我々の癖や性格の矯正において、反省的な企て、すなわち一般にいうところの意志の力がいかに無力であるかを説明してくれる。というのも、それは《回心》的な企てを要求するからであり、自己の根源的な企てのうちに埋没している自由が、その企てを相対化ならしめざるを得ないようなある種の状況において実現するからである。

 

通常、我々の自由は根源的な企てのうちに埋没しているのであるから、我々がそれ以外の根源的な企てのうちに自己を投企することを考えることは、空虚な思考以外の何ものもでない。「永遠の愛」を誓い合った夫婦に、離婚率のデータを示したところで何になるだろうか。おそらく彼らは「我々の場合は違う」と答えるであろうが、それは恋の盲目でも、想像力の欠如でもなく、彼らの根源的な企てが「夫婦というありかた」であるからであり、なるほど、純粋に反省的な視点で「もしも」の場合に備えて画策することができたとしても、それはまったく実現性の伴わない作業であるように思われるか、さもなくば元々その誓いが偽りだったからである。

 

サルトルは「我々は自由だが、我々が自由であることについては自由でない」と言った。そこでは自由であることについての二者択一を前提としていたが、以上のことを踏まえると、「我々は自由のありかたについても、自由でない」と言うことができる。それは自由の事実性であるが、この事実性はただ単に事実性であるのではなく、むしろ自由であることそのものである。サルトルは自由であることが自由であること自体の選択ではあり得ないことについて、自由そのものから直ちに導く前に、予備的な考察を行なっている。すなわち、まず自由が本質を持たないことについて、論理的な無限遡行が生じることによって示した(つまり、その選択がさらにそれ以前の選択を指し示し、以下同様)。本質はその存在自身の根拠であるところのものであるのだから、自由が本質を持つと言うのは不条理である。それゆえ自由の問題については自由そのもののうちに考えなければならないわけである。我々は表現に言葉を用いざるを得ないから得てして擬物論的錯覚に陥るのであるが、実際に自由がサルトルの言うようなものであるならば、自由がそれ自身の選択であり得ないことは、自由そのものから直ちに導かれる事実である。なぜなら自由が本質を持たないのに対し、選択とは、選択されるものを〈それがあるべきところ〉の目的において、すなわち本質において選択することだからである。

 

 

なお、精神分析医の治療を患者が拒絶することについての記述でサルトルは、無意識的なものが精神分析学的訊問の進展を知っているということはあり得ないと書いているが、これは読後感想1の夢遊病患者の例で述べた通り、不可能なことではない。身近な例では寝言に返事をすると反応する事例が当てはまるだろう。この場合、当人は寝ているのでもちろん意識はないわけであるが、しかし他者の話し声を自分の寝言に対する返事と認識しているのでなければ、この話し声に反応することはできないはずである。この話し声に対する特異的な反応はもちろん、単なる反射や自律運動に還元することもできないはずのものである。他にサルトルの精神分析論を反駁しうるものとしては、解離性同一性障害の例が挙げられるだろう。この場合、同一人格に属する一つの意識が他の意識に対して、ほとんど完全に分離して現れることがあるが、サルトルの理論では一つの身体に宿る複数の意識をどのように説明するのか、またこれらが完全に分離した意識であるならば、なぜ治療によって統合することが可能なのかが説明できないように思われる。一方でオーソドックスな精神分析学においては無意識というある種のブラックボックスの存在を仮定するため、この深層意識がどのような意識の特異現象に関しても、もっともらしく説明する役割を果たしている。この場合でいえば、意識的に経験された強烈な諸体験は無意識下に抑圧されることがあるが、その種の経験が一つの独立した意識状態を生むまでに慢性的に継続すると、同じ無意識を共有する二つの別々の意識を生むことになる、と説明される。先の二分思考の話において(読後感想9)、未熟な幼児は一つの対象に宿る有用性と逆行性を認識できず、それぞれを別々の対象に属するものとしてあてがう事例を挙げたが、その場合は同一の対象を二つに分けることで精神的な負荷を緩和する防衛機制であった。解離性同一性障害の例においては、極端な逆境において自己を二つに分け、新しく生じた意識のうちに逆境的な経験を閉じ込めておくことで、逆境における強烈な精神的負荷から身を守る防衛機制だと解釈される。確かに20世紀前半においてはあらゆる人格障害の研究が進んでおらず、このような特異な精神現象に対して十分に関心を向けることは難しかったとしても、そのような現象自体はすでに知られていたのであるから(他の箇所でサルトル自身が夢遊病の例やジャネの研究をあげている)、サルトルが自分に都合の悪い事例を故意に取り上げなかったことは注意されるべきだろう。だが、サルトルの理論でも考慮に値しない点がないわけではなく、たとえば《回心》の箇所の記述は、解離性同一性障害の治療において、互いに独立した複数の意識を統合する際の患者の抵抗をうまく説明する。それは一つの意識に他の意識が吸収されていく過程であり、吸収される側の意識にとっては、治療の続行は自己の死を意味するからである。また、そもそもなぜ二分することが精神的な負荷を緩和するのかについては、それが経験的に容易に理解できることに反して、またそれは限られたエネルギーでより多くの情報を含むための進化生物学的な意味での適応的な規則ということが十分推測されるにしても、その心理的脳科学的メカニズムについては不明であるが、情報処理過程における一般的傾向についてはゲシュタルト心理学によって《プレグナンツ則》としてまとめられている一連の規則が参考になるだろう。そこでは分析(これの基本的なものが二分化)と統合という情報処理の二つの契機が情報処理過程において、どちらかが先に現れるのではなく同時的に現れているのが見てとれる。またそこから、人間のおおまかな知性的傾向として、ものごとを「閉ざされたもの」として把握しようとする傾向が備わっていることが言えるだろう。そのため、開かれた括弧〈つまり)(のこと〉は閉ざされた括弧〈つまり( )のこと〉よりも心地悪く思われ、概念的把握は直観的把握よりも安心感をもたらすのだと言える。経験的な例を挙げるならば、例えば、女性の髪が内側にカールしている場合と、外側にカールしている場合とでは印象はどう違って見えるか?日章旗と旭日旗とでは、それぞれどのような印象を受けるか?これらのことは後の実存的精神分析で詳しく述べられることだが、サルトルの理論によれば、「開かれたもの」は意識の対象化しようとする試みに対し、常にそれを拒否し超出するところのものであり、それは意識の象徴である。一方で「閉ざされたもの」は、意識の対象化しようとする試みに対し従順であり、容易に対象化され、概念たらしめられる。それゆえ、「開かれたもの」は、自分の方へ〈まなざしを向けるもの〉を象徴するから、意識に対しより不安な印象を与え、逆に「閉ざされたもの」は、対象存在である〈まなざしを向けられるもの〉の象徴であるから、より安心感を与える。ゆえに意識にとって、混沌は秩序よりも不安であり、偶然は必然よりも不安であり、自由は法則よりも不安である。このことは生き物の形態を例にとると、より分かりやすいだろう。ヒトデ、昆虫、蜘蛛、カニ、タコ、等々は、その放射的なフォルムのために不安な印象を与え、ある人にとってはそれが魅力的に映るのもまた、そのフォルムのゆえである。漫画の吹き出しや広告などでは、ある部分を強調するために放射状の枠が描かれることが多いが、もし放射状の形態が存在論的カテゴリーにおいて意識を象徴するものであるならば、この理由の説明は容易である。すなわち放射は、他者の〈まなざし〉であり、「超越する私」に対し、「私を超越する-超越」の出現を象徴する図形であるからである。ちなみに本書においては、サルトルの理論形成に大きな影響を与えた精神分析学を除けば、他の諸学派の研究と比較してゲシュタルト心理学の研究成果が多く引用されているが、それはゲシュタルト心理学が他の心理学派と比較して反要素還元主義的な傾向が強く、全体的および有機的な観点から精神現象を観察していく姿勢がサルトルの哲学と方向を一にしているからだと思われる。