「持つ」「ある」「為す」

 

「持つ」「ある」「為す」は、人間存在の基本的なカテゴリーである。人間のあらゆる営みは、この三つのカテゴリーのいずれかに包摂される。例えば、「知る」(認識する)は「持つ」の一様相である。また、それら三つのカテゴリーは、互いに結びつきなしに存在するのではない。

 

それにしても、反実体論的な傾向が現代哲学で勝利を占めて以来、多くの思想家たちは、前代の思想家が物理学において実体に代えるに単なる運動をもってしたのを、人間的な営みの領域においても模倣しようと試みた。道徳の目標は長い間、人間に対して「善く存在する」手段を授けることであった。それがストア学派の道徳の意義であり、スピノザが『エチカ』で述べたところの意義であった。けれども、もし人間の存在がそれ自体独立した意義を持たず、諸行為の継起のうちに吸収されるべきであるならば、道徳の目標は、もはや人間を優れた存在論的品位まで高めることではないであろう。この意味でカント的な道徳は、行動の最高価値として、「ある」に代えるに「為す」をもってした最初の偉大な倫理体系である。かたや「ある」を行動の最高原理とみなし、かたや「為す」をそれとみなす。どちらが正しいのであろうか。また、どちらの解決が取られるにしても、「持つ」はどうなるだろうか。対自が行動によって自己を規定する存在であるならば、このことは存在論の本質的なつとめの一つである。

 

 

「ある」と「為す」、行動の第一条件としての自由(1)

 

今日まで、人々は「行動」という概念のうちに含まれる諸構造をあらかじめ明らかにしようともせずに、決定論だの自由意志だのと際限もなく論じ合ってきた。行為という概念は数多くの従属的な概念を含んでいる。それは今まで述べてきたところの、対自にとって世界のうちにある諸々の対象はそれぞれ独立した存在ではなく、それぞれの存在がそれぞれを指し示す道具-複合として現れるということからして明らかであろう。しかし今はこのことは重要ではない。事実、まずはじめに、一つの行動は原則として〈志向的〉であることに注目できるだろう。不注意な喫煙者がうっかり火薬庫を爆発させたからといって、彼は行動したことにはならない。それに対し、採石場を爆破する任務をもった労働者が、与えられた命令に従って予定の爆発を引き起こしたとき、彼は行動したことになる。というのも事実、彼は自分が何を為しているかを知っていたからであり、言い換えれば、彼は一つの意識的な企てを志向的に実現したからである。もちろん、それだからといって、自分の行為の結果をことごとく予見しなければならないというわけではない。我々が行為について語ることができるためには、結果が意図に対応しているということだけで十分であり、その結果が意図を十分に実現したかとか、その結果がさらにどのような結果をもたらすかなどは関係のないことである。けれどもそういうわけだとすると、行動は、必然的にその条件として、一つの《無くてはならぬもの》desideratum(羅:「熱望されるもの」の意)の認知を含むことを、認めざるを得ない。言い換えれば、行動は、一つの対象的欠如の認知を含むものである。つまり行動はその条件として、まず、いま目の前にある世界のありかたを、あるべき世界のありかたの欠如として認識しなければならない。第一部のはじめで示したように、存在は存在それ自体でしかないものであるから、完全でも不完全でも、充実でも欠如でもない。たとえ幸福な状況であっても、悲惨な状況であっても、それを一つ理想的な無に照合することがないならば、それはただあるがままの状況を指し示すことしかできない。車も無い時代に人々が移動の不便を感じないのは、当人がその状況に《なじんでいる》からではない。それは車や鉄道といった、理想的な移動手段を〈あるべき世界のありかた〉のうちにとらえて、今この世界を超出することがないからである。不便は、それ自体としては何ものでもない。不便な世の中が不便な世の中であるのは、便利な世の中になってはじめてそうなるのである。同様にまた、我々が世界のより良い状態に思い及ぶための動機となるものは、ある一つの状況の持続や、その状況が課するもろもろの苦しみではない。むしろ反対に、我々が世界のより良い状態を思い及ぶことができたときから出発してはじめて、一つの新たな光が我々の苦痛や苦悩の上に差しこみ、それらを耐えがたいものとして経験させるのである。以上のことからして、次のことが認められなければならない。すなわち、あらゆる行動の欠くべからざる根本的な条件は、「行動する存在の、自由」である。

 

かくして、我々は出発点において、決定論者と無差別的な自由の支持者たちとの、あの退屈な論争の欠陥をとらえることができる。無差別的な自由の支持者たちがことさら見いだそうとするのは、決意に際して先行する動機がどちらも厳密に同じ重さであるような、二つの行為に対する思案の事例である。これに対して決定論者たちは、動機の無い行為など存在しないといい、どんなに無意味に見えるしぐさでもいくつかの動機を指し示すのであり、それらがそのしぐさに意味を与えるのだ、という。確かにあらゆる行為は、それが〈志向的〉であるかぎりにおいて、動機を指し示す。動機のない行為について云々するのは、あらゆる行為に含まれる志向的な構造がかけているような行為について語るのに等しいから、それは結局、自由を反射や自律運動たらしめることと同義である。一方で決定論者も動機を名指しするだけで、それらの探求を中止するのであるから、あまりに自分たちに都合の良い勝負をする。ところで、今まで見てきたように、動機のない行為が存在しないということは、決して、原因のない現象は存在しないということと同じ意味ではない。事実、動機が動機であるためには、それが動機として〈体験される〉のでなければならないだろう。それは思案の場合におけるように、動機が主題的に思考され表明されなければならないということではなく、対自が動機に対して、動機としての価値を与えなければならないかぎりにおいて、動機を自覚していなければならないということを意味する。だが、動機を動機として構成することは、先行する一つの動機を指し示すことができないだろう。さもなければ、志向的に非存在のうちに拘束されているものとしての行為の本性そのものが、消失してしまうであろう。結局、動機は目的によってでしか理解されない。動機に動機としての構造を付与するのは、私のもろもろの企ての総体である。即自が動機としての価値を担うことができるのは、ただ、私が私の諸可能性へ向かって、私を無化することによって、この即自から脱れ出るがゆえである。このことはもちろん、動機が行為の原因であるということを意味しない。一つの変化に向かっての決然たる企ては行為と異ならないゆえに、動機、行為、目的が構成されるのは、ただ一つの出現においてである。これら三つの構造の各々は、その意味として、他の二つの構造を要求する。即自に対する単なる時間的無化作用としてのこの全体の出現は、自由と一つのものでしかない。行為の目的と動機について決定するのは行為であり、行為は自由の表現である。

 

それにしても行為の根本的な条件が自由であるならば、自由がいったい何なのかを精密に記述しなければならない。しかし、そこにはいくつかの困難がある。まず、記述することは通常、ある独特な本質の諸構造を明らかにしようとする一つの説明的な仕事である。だが、自由は本質を持たない。例えばナイフの場合なら、製作者が素材を目の前にしてすでに、ナイフの構成に関する素描が与えられている。製作者は素描に従ってナイフを製作するのであるから、ナイフの場合、本質が存在に先立っていると言える。しかるに自由の場合、それは自己自身のありかたを決定する能力であるから、この意味において本質を持つものではない。一般に我々が自由の概念に至るのは、行為のうちに含まれる動機や目的をもって自由が組織するところの、行為を通してである。けれどもまさに、この行為は一つの本質を持っているがゆえに、構成的なものとして現れる。しかし、もし我々が行為を構成する力にまで遡及しようと欲するならば、かかる構成力のうちに本質を見いだす希望を捨て去らなければならない。なぜならその本質は、それを構成するものとして絶えず新たな一つの本質を要求するからであり、かくして無限遡行に陥るからである。

 

それでは絶えず一つの定義に収まることを拒否する自由を、どのように記述すればよいだろうか。本質を目指す記述ができないならば、先に「無」について記述した場合と同様に、現実存在者それ自身を、その独自性において目指す記述がありうるだろう。「無」は何ものでもないがゆえに、その本質においてはいかなる記述もできないが、それが即自と対自との存在論的関係の条件として現れる場合には、その様相によって記述することができる。同様に、自由の場合にも我々がよりどころを求めるのは、やはりコギトに対してである。私は自己を自由として時間化する、個別的な唯一の存在を持つ、一つの存在者である。かかるものとして私は、必然的に自由の意識でもある。私の自由は、私の存在において、絶えず問題にされている。私の自由は、確かに私の存在の条件として、私の存在のうちにある。しかし私の存在は、私の存在において問題にされているのであるから、私は必然的に自由についての一種の了解を持っているのでなければならない。それでは、この了解とはどのようなものであるか。

 

自由とは何であるか?自由はあらゆる定義から脱れ出るところにある。それゆえ、自由の形式的な定義は逆説めいたものを含まざるを得ない。「それがあるところのものであらぬと同時に、それがあらぬところのものである」、「実存が定義に先行し、定義を条件づける」、あるいはまた逆に、ヘーゲルの定義にならって「対自にとって《本質とはあったところのものである》」これらはみな「人間は自由である」というただ一つの同じことがらを言い表しているにすぎない。自由は一つの《与えられたもの》として、人間存在にやってくるのではない。むしろ人間存在は、自己の自由を承認することをたえず拒否しようと試みるがゆえに、自己の存在において、その自由が問題になるような一つの存在である。このことは心理学的にいえば、行為の動機を〈事物〉としてとらえようとする試みである。そしてまた、人間存在にとって行為するとは存在することと同義であるから、自分の存在を理由づけようとする試みである。しかしこの自己欺瞞的な試みは破綻せざるを得ない。人間存在が自由であるのは、人間存在が〈十分には存在していない〉からであり、絶えず自己自身から引き離されているからである。その意味で自由とは、人間の「存在の無」であり、この無が人間存在をして、〈存在する〉代わりに、〈自己を作る〉se faire ように強いるのである。

 

以上の考察によって、我々はまず、自由といわゆる《意志》との関係を明らかにすることができるだろう。事実、自由な行為と意志的な行為とを同一視し、情念の領域に決定論的な説明を当てはめようとするかなり一般的な傾向がある。これはつまり、デカルト的な見解である。デカルト的な意志は自由であるが、《霊魂の情念》なるものが残っており、デカルトもやはりそれらの情念については生理学的な解釈を試みるであろう。もっと後になると、人々は純粋に心理的な決定論を打ち立てようとした。それは心の世界には事物の世界とはまったく異なるものの、やはり心の動きを決定する厳密な法則があると考えるものだが、しかしそうなると、人間は自由であると同時に決定されているものとして考えなければならないだろう。そして本質的な問題は、かかる無条件的な自由と心的生活の決定された過程との間の、諸関係についての問題であるということになるであろう。さて、以上の考え方によって、完全に自由な行為、自由な意志が左右しうる決定された過程、原則として人間的な意志から脱れ出る過程という三つの区分が生じるであろう。

 

お分かりのことと思うが、我々は到底この区分を受け入れることができない。まず、心的な統一のふところに、そのような両断された二元性を考えることはできない。一方において諸事物の因果系列に属する一連の事実として自己を構成し、他方において自らのありかたを決定する一つの自発性として自己を構成し、しかもなお〈一者〉であるような一つの存在を、いかにして考えることができようか。しかも、ア・プリオリに見てこの自発性は、すでに構成されている一つの決定論に対していかなる作用も及ぼすことができないはずである。事物の因果系列から自発性へ至ることができないのと同様に、自発性から出発して事物へ到達することもできない。それではこの自発性は一体何の意味があるのか、説明することができないだろう。以上の考察から、ただ二つの解決のみが可能である。すなわち、人間存在ははじめから全面的に決定されているか、あるいは人間存在は全面的に自由であるか、のいずれかである。そして前者は到底容認されえないものである。なぜなら決定された意識、すなわち外から動機づけられた意識はそれ自身単なる外面性となり、内的-否定でない意識は、もはや意識であることをやめるからである。それゆえ、情念的な行為と意志的な行為との、本質的な区別は存在しない。それはどちらも目的に向かって自己を投企する対自のありかたであり、両者の差異はその目的へ至るための手段の選択に基づくのであって、つまり反省や解明の度合いに基づくのであって、目的に基づくのではない。情念は確かに意識を受動的なものとしてとらえるが、意識が情念に同意しないかぎり、情念が効力を持つことはない。この意識こそが私の自由であるから、意志によるにせよ、情念的な努力によるにせよ、私が到達しようと試みる諸目的の根拠である。

 

それにしても、世間一般の意見が、道徳生活を一つの事物-意志ともろもろの実体-情念との間の闘争と考えていることは確かである。しかしこのような二元論は決して支持され得ない。先に情念的な行為と意志的な行為が、どちらも同じ目的に向かう手段の相違でしかないことを述べた。実のところ、決意するだけでは十分でなく、決意することを決意しなければならない。我々がある一つの行為をなすことを決意できるのは、我々がある目的を定立することを決意することによってであり、またそのうちにおいてである。例えば、ある一つの状況が与えられているとしよう。私はその状況に対して、感情的に反応することができる。感情が生理的な嵐でないことを、我々は別の論文で示した(『情緒論素描』のこと)。感情は状況に向けられた一つの反応である。感情は一つの行動であり、この行動の意味と形式は、特殊な諸手段によって一つの特殊な目的に到達しようと目指す意識の志向の対象である。恐怖に際しての失神や気抜けは、危険についての意識を除き去ることによって、その危険を除き去ることを目指している。そこにあるのは、意識によって存在へと到来したにもかかわらず意識を拘束している恐るべき世界を消失させるために、意識を失おうとする志向である。そこで問題になっているのは、我々の欲求の象徴的な堪能を引き起こすと同時に、(世界を魔法にかけたような様相として現れさせる意味において)世界の魔術的な層をあらわにするような魔術的な行為である。それとは反対に、意志的理性的な行為は、状況を技術的に見るであろう。意志的理性的な行為は、問題の解決を可能ならしめる決定された諸系列やもろもろの道具的複合をとらえようと努めるであろう。けれども、世界の魔術的な様相を選ぶか、技術的な様相を選ぶかについて、私に決心させるのは誰か?それは世界そのものではありえないだろう。というのも、世界は現れるために、開示されるのを待つからである。してみると、対自はその企てにおいて、世界が魔術的なものとして開示されるか、理性的なものとして開示されるか、いずれかを決定する者であることを、自ら選ぶのでなければならない。対自はそのいずれにおいても、自らが〈責任者〉である。なぜなら、世界のいずれの様相も、選ばれることによってしか存在し得ないからである。それゆえ、対自は自己の意欲の自由な根拠として現れるとともに、自己の感情の自由な根拠として現れる。私の感情は自由である。私の感情はその発露において、私の自由をあらわにする。

 

以上のことは、動機および動因と呼ばれているものの記述を、いっそう明確にしてくれるであろう。事実、こういう言い方をする人もいる。「情念は行為の〈動因〉である」、あるいはさらに「情念的な行為とは、情念を動因として持つところの行為である」と。また、意志は動因や動機についての思案の末における決定として、現れるように思われる。それでは動機とは何か、動因とは何か?一般に、ある行為における理性的な理由が動機として、情緒的な理由が動因として呼ばれている。だがこの考え方では、動機の群と動因の群がそれぞれ独自の決定を促すとき、両者の間に生じる相剋を説明することは可能であっても、動機と動因が互いに協力しあって同一の決定を引き起こすような単純な事例において、動機および動因にそれぞれ固有の作用を割り当てることができない。それはこの考え方が、その出だしにおいて根本的に誤っているからである。先に述べたように、動機や動因は行為の因果系列の初めでもなく、行為の根源的な起源でもない。動機や動因は我々の根源的な企てのうちのにおいて、暫定的な目的へ至るための手段として、動機(動因)-行為-目的の同時的開示のうちに現れる。そこからして、後から行う意志的な思案は常にごまかしである、ということになる。事実、私は私自身で行う選択によってあらゆる思案より以前に、動機に対してそれらの意味を付与しているのであるから、今更いかにしてそれらの動機を評価することができようか。私が動機をあれこれ思案するのは、初めから動機を思案されるべきものとしてあらかじめ立てていたからでしかない。このような錯覚は、動機や動因をまったく超越的な〈事物〉とみなすことに由来するものである。意志的な行為と非意志的な自発性が異なるところは、非意志的な自発性が行為の単なる企てを通じて、動機についての全く非反省的な意識であるということである。意志的な行為は反省を通じて、動機を宙に浮かせ、動機を括弧の中に入れる。しかしながら、反省の結果は対自を自分自身から分離させる断層を拡大することになるにしても、そのことが反省の〈目標〉なのではない。反省的な分裂の目標は、先に見たように、《即自-対自》というこの実現不可能な全体を構成するように、反省されるものを〈取り戻す〉ことである。この全体は対自の出現そのものにおいて、対自によって立てられる根本的な価値である。したがって意志がもともと反省的なものであるならば、反省はその構造を強化することはあっても、構造それ自体を変化させることはないであろう。いずれにしても、賭けはすでになされているのであるから、意志の目標はいかなる目的に到達すべきかを決定することではない。意志の深い志向はむしろ、すでに立てられたこの目的に到達する〈しかた〉を目指すものである。この場合、擬似因果論的な心理記述は問題になり得ないだろう。というのも、ある行為の根拠としてある動機(動因)を挙げたところで、ある行為を行わない根拠としての動機(動因)を、いくらでもあげることができるからである。結局、そのような考え方は、なぜこれこれの行為を行なったかではなく、なぜこれこれの行為を行わなかったかを説明できるものでなければ本質的な意味を持ち得ないだろう。

 

ただ一つの身振りすらも、一つの《世界観》Weltanschauung を指し示す。けれども、一つの行為に含まれているもろもろの意味を組織的に取り出そうと試みた人は、これまで一人もいなかった。ただ一つの学派のみが、我々と同じ根原的な明証性から出発した。すなわち、フロイト学派がそれである。フロイトにとっては、我々にとってと同様、一つの行為はそれ自身だけにとどまることができないで、いっそう深い諸構造を直接的に指し示す。精神分析学は、それらの構造の解明を可能ならしめる方法である。精神分析学は、平面上に展開された世界の因果的な諸系列に対して、第三の次元である心的な次元を導入する。それによると、心的な現象も含めた現実世界のあらゆる現象は、平面上の物質的な因果系列だけでなく、心的な次元も含めた三次元的な因果系列の構造を分析することによって初めて解明されるのだという。だが、この考え方もまた、立体的な決定論を目指すものでしかない。フロイトにとって気分は心理-生理的諸傾向というかたちで行為の基礎になっているが、この気分なるものは、根源的には我々各人のうちにおいて白紙である。これこれの傾向がこれこれの対象に固執するかどうかを決定するのは外的な諸事情であり、個人個人の〈経歴〉histoire である。したがってフロイトの立体的な決定論は、経歴を媒介として、依然として平面的な決定論に影響されている。なるほど確かに、ある象徴的な行為は、水面下に横たわる同時的な一つの欲求を表現しており、また同時に、この欲求はいっそう深い一つのコンプレックスを表しており、しかもこのことは、一つの心的過程の統一において行われる。そうであるにしても、やはりこのコンプレックスは、それの象徴的な表れである行為に先んじて存在する。転移とか圧縮とか、その他もろもろの心的生活の決定論的再構成の理論が主張するところの結合に従って、現にあるとおりのコンプレックスを形成したのは、過去である。したがって、精神分析学にとっては、未来の次元は存在しない。人間存在はその三つの脱自の一つを失い、探究はもっぱら現在から過去へ向かって遡及していき、諸行為は根原的なコンプレックスから演繹されたものとして解釈されなければならない。それと同時に、被験者の根本的な諸構造は、被験者の諸行為の意味であるにもかかわらず、被験者自身にとっては意味を持っておらず、それらの意味を解明するために推理的方法を用いる一人の客観的な精神分析学者に対してのみ、意味を持ちうることになる。被験者の諸行為の意味に関する存在論以前的な了解は、被験者自身には許されない。そういう結果になるのも当然である。というのも、それらの行為は、遠く深い過去の一つの結果でしかなく、自己の目標を未来のうちに描こうとしないからである。

 

そういうわけで、我々は精神分析学的方法から単に示唆を受けるにとどまるだろう。もし我々が精神分析学の方法を受け入れるとすれば、それを逆の方向に適用しなければならない。我々はフロイトと同様に、あらゆる行為を〈理解可能な〉現象として考え、決定論的な《偶然》hasard を認めないが、我々は当の現象を過去から出発して理解する代わりに、その行為を、未来から現在への復帰として理解しうるものと考える。私が私の疲労を経験する時のしかたは、決して私がよじ登る坂道とか、私が明かした多少とも不眠の一夜というような偶然に依存するものではない。それらの要因は、私の疲労そのものを構成するのに寄与することはできるが、私の疲労を経験する時のしかたを構成するものではあり得ない。私の疲労は、私が目的として定立した根原的な企てのうちにおいてしか経験され得ない。私が根源的な企てにおいて自分を挫折するものとして投企するのであれば、目の前の道は《踏破するのに困難すぎる道》として、足腰の疲れは《耐え難い徒労》として現れるだろう。私が全体分解的な全体としての私自身から出発して、私の個別的な可能性の粗描に到来するのと同じく、私は世界全体から出発して、世界内の個別的な《このもの》に到来する。それゆえ、私のすべての個別的な諸可能の根原的積分としての、私の究極的全体的な可能性と、存在への私の出現によってもろもろの存在者となるにいたる全体性としての世界とは、厳密に相関的な観念である。

 

かくして、自由という根本的な働きが見いだされる。この働きは世界の中において私自身を選択することであると同時に、世界を選択することである。そのことによって我々は、精神分析学が出発点において遭遇した無意識という暗礁を避けることができる。けれども、我々に対して次のように異論を立てる人がいるかもしれない。「もし存在意識でないような何ものも意識の中には存在しないならば、この根本的な選択は〈意識的な〉選択であるのでなければならない。ところで、まさにあなたが疲労に屈する時、あなたはこの行為が予想するすべての連累について、自ら意識していると断言することができるか?」それに対して我々は答えるであろう。「我々は、それらの連累を完全に意識している」と。ただし、この意識そのものは、限界として意識一般の構造と、我々の行う選択の構造とを持っていなければならない。この後者、すなわち選択の構造については、思案された選択が問題なのではないということを強調しておかなければならない。しかもそれは、選択が思案に比べてそれほど意識的でないとか、それほど明瞭でないというような理由からではない。むしろ反対に、それは、選択があらゆる思案の根拠であるからであり、先に見たように、思案が根原的な選択から由来する一つの説明を要求するからである。それゆえ、根原的な自由とは、動機や動因を対象として定立することであり、次いでそれらの動機や動因から出発して決断することである、と考えるような錯覚は否認されなければならない。むしろ全く反対に、動機や動因が存在するや否や、言い換えれば事物についての評価や世界の諸構造についての評価が存在するや否や、そこにはすでに諸目的の定立があり、したがって選択がある。けれどもそういったからといって、この選択がそれだけ無意識的であるというわけではない。この選択は、我々が我々自身について持つ意識と一つのものでしかない。もちろん、この意識は非定立的でしかあり得ないだろう。この意識は我々が選択をする際の、選択についての意識状態である。選択をするためには意識的であらねばならないし、意識的であるためには選択しなければならない。このことは多くの心理学者たちが「意識とは《選択》である」と言ったときに、彼らの感じていたところである。もし意識が無化であるということが十分に確証されるならば、我々自身について意識することと、我々自身を選択することは一つのことでしかないということが分かるだろう。このことはジイドのようなモラリストたちが、感情の純粋性を規定しようとしたときにぶつかった困難を説明してくれる。「欲せられた感情と体験された感情の間には、いかなる差異があろうか」これがジイドの問いであった。だが、実を言うと、そこにはいかなる差異も存在しない。愛しようと欲することと、愛することは、一つのことでしかない。というのも、愛するとは、愛することについて意識することによって、愛するものとして自己を選ぶからである。それゆえ、デカルト的なコギトは拡張されなければならない。もしパトスが自由であるならば、パトスは選択なのである。

 

「行動の第一条件としての自由」の感想(1)

 
自由の定義については、まさに自由が定義から脱れ出るということのために、その記述は逆説的なものを含まざるを得ないものであった。「それがあるところのものであらぬと同時に、それがあらぬところのものである」、「実存が定義に先行し、定義を条件づける」等々。逆説的な記述は動的なものである。一方の項はもう一方の項を指し示し、かくして循環が生じる。だが自由がまさに動的なものであるのだから、それを記述という静的な図式に落とし込むには、一方の項において脱れ出たところのものをもう一方の項が含むような形式にしなければならない。それは確かに矛盾である。だが、もし人間の根源的なありかたが知性的な観点から見て矛盾であるならば、それが矛盾として記述されることは何も不思議はないことである。
 
 

自由に関して、またそれにまつわる諸問題について、ここまで概観してきた。それにしても、科学が世界の全てを解明してくれるなどという幻想は破棄されなければならない。それは以下の二つの理由による。まず第一に、科学が完成されるということはあり得ないからである。科学的な理論は数学とは違って、その根拠を常に自然の上に置く。それゆえ、その理論には常に有限性や偶然性がつきまとう。つまり、どのような理論もその理論の反証可能性をなくすことが、原理的にできないわけである。科学は数学とは違って、閉ざされた体系に新たな体系を付加する学問ではなく、可能性に対して完全に開かれた学問であり、その体系が完全に閉ざされることは原理的にあり得ない。

 

第二の理由は、科学が現実の世界を、それ自体として研究する学問ではないからである。科学が研究するのは対象そのものではなく、対象の概念である。対象の概念は、世界のうちに意識が現れることによって、意識に対して顕示される〈超越的な事物〉である。それゆえ、対象と対象の概念とは権利上の結びつきはあっても、実際上の結びつきは存在しない。言ってしまえば、対象の概念は、対象そのものの〈記号〉でしかない。科学はこの〈記号〉の性質、および技術的な有用性について研究する学問である。科学が自然の諸現象をこれこれの数式によって説明することができても、なぜその数式によって説明することができるのかを説明できないのは、科学が扱っているのが対象ではなく、対象の概念であるからである。科学は自然そのものについての学問ではなく、対象と対象の概念との間の魔術的な結びつきを前提とする、自然に対する一つの解釈学であり、また技術論である。対象と対象の概念との間には、まったく形式的で根源的な偶然性がある。それはなぜ私が〈この私〉であって、〈あの私〉でないのか、という問いが含むものと同じ偶然性である。空虚な仮定だが、私が〈あの私〉であったとしてみよう。だがその場合にも、同じように問うことができるだろう。そしてこの偶然性は、自由によってもたらされる。というよりも、この偶然性は自由そのものである。というのも、そこには対象と対象の概念を区別する、〈この私〉と〈あの私〉を区別する内的否定の働きがあり、この内的否定は自由そのものだからである。否定は分岐であり、分岐は選択であり、選択にはいつも根源的な偶然性がつきまとっている。

 

よって、科学に純粋数学の世界と現実の世界との架け橋的な役割を期待するようなあらゆる試みは、徒労に終わるだろう。というのも科学が対象の概念についての学問である以上、本質的には純粋数学とまったく異なるところがないからである。科学が応用数学であるのは、自然の対象と数学の混交であるからではなく、概念化された自然の対象を、超越的次元において数学という光によって透視するからである。だが、対象とその概念の間には、絶対的な無が隔たっている。この無は、「それがあるところのものであるような一つの存在」(対象)と「それがあらぬところのものであり、それがあるところのものであらぬような一つの存在に対し、それ自身の無であるような一つの存在」(対象の概念)を隔てる無であり、対自によって現れる対自の内的否定であり、対自の自由である。

 

それでは二元論を認めるのか、という話にもなるだろう。別に二元論を拒否しなければならない理由はどこにもないものの、世界に根本的に異なる二つの根源的な原理が存在するというのは、確かに居心地が悪い。しかしここに二元論を定立しようという試みが垣間見えるのは、我々が世界の一つの根源的原理として科学を打ち立てようとするからである。そして、我々の自由、主観、意識、クオリア等々、超越的な概念を科学のうちに還元して説明しようとするからである。だが、ここまでの記述を振り返れば、もし我々が二元論を拒否しようと思うならば、むしろ科学の方を超越のうちに取り込まなければならないことがわかるだろう。ハイデッガーが言ったように、全ての存在者の存在を根拠づける試みである「基礎的存在論」は、現存在の実存論的分析論の内に求められなければならない。そしてこの試みは、科学観の根本的なパラダイム・シフトを要求するものであるだろう。