主観 -〈われわれ〉

 

我々が一つの「主観-共同体」に所属していることを告げ知らせるのは世界である。ことに、世界の中におけるもろもろの製造品の存在である。物品は、まなざし一般として個別化されない不特定多数の超越のうちの一つの超越のために、人々によって製作されたものである。なぜなら労働者は、無差別的で不在な一つの超越の現前において労働するからである。その際、労働者自身としてはこの超越の自由な諸可能性を、加工された物品の上にただうつろに粗描するだけにとどまる。その意味で労働者は労働のうちに、自分が他者にとっての「道具-存在」であることを体験する。労働は、それが労働者自身の目的のためになされるのでないかぎり、他有化の一つのありかたである。この場合、「他有化する超越」は不特定多数の消費者一般であって、労働者は消費者の企てを予測するにとどまる。それゆえ、私がある製造品を使用するとき、私はこの製造品の上で私自身の超越の粗描に出会う。この製品は、なされるべき動作を私に指示する。この場合には一つの仮言的命題が問題であり、この製造品は「もし私が腰掛けようと思うならば」、「もし私が箱を開けようと思うならば」、等々というような、一つの目的を指し示す。しかもこの目的はそれ自身、任意の一つの超越によって立てられる目的として、この物品の構成のうちにすでに予測されていたのである。こうして製造品は私の超越を、誰でもいい任意の超越のうちの一つとして、私に指し示す。私は私の超越を、他の誰かの超越と交換可能なものとして体験する。確かにこの製品は〈私のために〉ここにあるのであるが、この私は「私の代わりはいくらでもいる」者としての私である(読後感想3おいて、羞恥が自己についての対象性の意識ではなく、〈私〉についての対象性の意識であることを指摘した。ここではまさに、〈私〉ではなく、自己が問題になっている)。けれども、私のこの無差別的な超越が他者たちとの超越と結びついて、何らか任意の企てを意図するならば、しかもこの他人たちの超越が、私の企てと同一の何らかの企てのうちに同じように没頭している現実的な現前として体験されるならば、そのとき私は私の企てを、同じ一つの無差別的な超越によって企てられた無数の同一の企てのなかの一つの企てとして実感するだろう。それは他人たちと共同して行う、一つの共同的な超越である。

 

だが、このような「主観-われわれ」の経験は、「まなざしを向けられる-存在」の拡張であった「対象-われわれ」の場合とは違って、単に心理的な問題であって、対自の諸構造に関わるような存在論的な問題ではない。言い換えればこのような経験は、当のもろもろの対自の現実的な一つの統一に決して対応するものではない。むしろこのような経験は、共同的に超越される対象と、私の身体をとりまくもろもろの身体とについての、二重の対象化的把握によって動機づけられている。要するに「対象-われわれ」の場合、関心は「まなざしを向けられる-存在」としての《われわれ》にあったのだが、「主観-われわれ」の場合、関心は「超越する-存在」にあるのではなく、あくまでもこの経験を動機づける二つの対象の方にある。それは兵士たちの歩調をとった行進の意味であり、またボートのクルーのリズミカルな作業の意味である。私は私の超越によって実現する一つの企てにおいて、他者たちの企てを非措定的なありかたで〈側面的に〉とらえる。私はこの集団的なリズムを道具として利用するのでもなく、また集団的なリズムを眺めているのでもない。集団的なリズムは私を取り巻き、私にとっての対象となることなしに私を巻き込む。私は私自身の諸可能性へ向かってこのリズムを超越するのではない。むしろ私は私の超越を、このリズムのうちに注ぎ込むのである。共同作業を通して経験される「主観-われわれ」は、以上のようなものである。それは他人たちとの具体的な一つの存在論的関係を根拠として現れるのではなく、一つの単独の意識のうちにおける単なる心理的主観的な出来事であり、いかなる《共同存在》をも実現しはしない。

 

「主観-われわれ」という経験は原初的な経験では有り得ないだろう。この経験は、他人たちに対する一つの根源的な態度を構成することができない。というのもこの経験は、それが実現されるためには、あらかじめ二重の意味で他者の存在を承認しているのでなければならないからである。事実、まず第一に、製造品が製造品であるのは、この製造品がこれを作った生産者を指し示し、他人たちによって決められた使用法を指し示すかぎりにおいてでしかない。加工されていない自然の素材についてなら、私は自分でその使い方を決め、それに対して新たな用法をあてがうのであるが、製造物の面前においては、その製造物の背景を構成する無差別的な他者の痕跡を通して、私は私の人格を非措定的に意識する。私が私自身、無差別的な超越として私を実現しうるのは、他者が私を無差別的な超越として取り扱うからである。その恰好の例は、街中の至る所に見いされる看板である。それゆえ、「主観-われわれ」という経験は、他者についての根源的な体験に基づいて構築されるのであり、派生的な経験でしかないだろう。けれどもさらに、自己を無差別的な超越としてとらえること、言い換えれば、要するに自己を《人類》の単なる一例としてとらえることは、一つの「主観-われわれ」の部分的構造として自己を把握することではない。事実、そのためには何らかの人間的な環境のふところにおいて、自己を「誰でもいい誰か」として発見するのでなければならない。それゆえ、他人たちによって取り巻かれているのでなければならない。そして先ほど見たように、この場合においては、他人たちは主観として体験されるのでもなく、対象としてとらえられるのでもない。いくら《われわれ》と言ったところで、私の関心はあくまでの私の行為、私の思想に向けられており、そのうちにおいて他者は、それらの営みの背景の一部として側面的にとらえられるだけである。しかし、その背景の一部でしかない他者がなぜ「他者」として意識されうるのかといえば、あらかじめ他者についての何らかの直観があるからである。よって他者が何であるかについてのあらかじめの承認なしには、共同存在は、それだけでは不可能であるだろう。

 

以上のように、「主観-われわれ」についての経験は、何ら超越性の顕示としての価値を持つものではない。「超越する-超越」と「超越される-超越」の対立の構図に当てはめて考えてみた場合、この経験は相剋の決定的な解決としてではなく、この相剋そのもののさなかに構成される暫定的な緩和として現れる。それゆえ、相互主観的な全体が、一体になった主観性として自己自身を意識するであろうような、一つの「人類的なわれわれ」を望んだところで無駄であろう。そのような理想は、断片的でまったく心理的な諸経験から出発して、思索を極限にまで至らせることによって生み出された一つの夢想でしか有り得ないだろう。しかもさらに、この理想そのもののうちに、「対他-存在」の根原的な状態としての、超越個体相互間の相剋(「超越する-超越」と「超越される-超越」の対立に対称性があること)の承認が含まれている。例えば、圧迫される階級の統一は、この階級が第三者すなわち圧迫する階級の面前において、自己を「対象-われわれ」として体験するという事実に由来するのであるから、それと対称的に、圧迫する階級は、圧迫される階級の面前において、自己を「主観-われわれ」としてとらえる、という風に、我々はえてして思いこみがちである。ところで圧迫する階級の弱点は、強制のための確実にして苛酷な装備を自由に駆使できるにもかかわらず、この階級が、それ自体としてはまったく統一を欠いているということである。《ブルジョア》は、ただ単にある種の型の社会のうちにおいて、明確な特権と権力を自由に行使することのできるある種の〈経済的人間〉としては定義されない。《ブルジョア》は、内部的には、自己が一つの階級に所属していることを承認しない意識として記述される。要するに、圧迫する階級の成員は、《主観-彼ら》という一つの対象的な総体としての自分の前に圧迫される階級の全体を見ているにもかかわらず、それと相関的に、自分は圧迫する階級の他の成員たちとともに存在しているのだという、自分の側の共同性を実感することができない。圧迫する階級が自己を「われわれ」として体験するのは、例えば圧迫される階級が反抗あるいはその勢力の急激な増大によって、圧迫する階級の成員たちの面前に、自己を《まなざし》として定立することによってはじめて、またそのときにのみ可能となる。しかしそれは「主観-われわれ」ではなく、恐怖と羞恥のうちにおいての「対象-われわれ」としての経験である。それゆえ、「対象-われわれ」と「主観-われわれ」のいう二つの経験の間には、いかなる対称性も存在しない。「主観-われわれ」という経験は、特殊な何ものをも顕示しない。それはまったく主観的な一つの体験である。それゆえ、人間存在は、「他人を超越するか、もしくは、他人によって超越されるか」というジレンマから脱出しようと試みたところで、無駄である。意識個体相互間の関係の本質は、共同存在 Mitsein ではなくて、相剋 conflit である。

 

 

共同存在 -〈われわれ〉についての感想

 
サルトルはまず、「われわれ」というありかたを「主観-われわれ」と「対象-われわれ」に区別し、さらにその表現上の対称性にとらわれず、「対象-われわれ」は対他-存在としての「超越される-超越」の拡張であるとしたのに対し、「主観-われわれ」は他者に関するア・プリオリな直観を前提にした対象把握であり、単なる主観的な経験にすぎないとした。この理屈から行けば、「対象-われわれ」の意識は、「主観-われわれ」の意識よりはるかに強力である。これは確かにその通りだろう。人は自分が為したことは忘れても、自分が為されたことは覚えているものである。そのなかでも自己の超越の存亡に関わる意識、すなわち被害者意識は特に強力なものであり、世界のうちにある超越個体を、「超越する-超越」に属するものと、「超越される-超越」に属するものとに、はっきりと二分する。要するに他者は敵か、さもなくば味方か、そのどちらかである。〈沈黙は暴力である〉silence is violence という標語は、このような二分思考を端的に表現する。このことは、自己を「超越される-超越」として定立する個人あるいは集団が、その極端な二分思考を「超越する-超越」に投影する心理的メカニズムの説明にもなるだろう。彼らが「われわれは迫害されている」というのは、彼ら自身に他者を極端な二元論によって分類するような思考パターンが備わっているからであり、そのような思考パターンを、むしろ他者の方にはじめから備わっていたものとして他者に投影しているからである。投影についてサルトルは何か明言しているわけではないが、第一部で述べられたところの「対自は自己の脱自に即して自己であらぬところの即自を超出する」という趣旨の記述や、第四部第一章のより具体的な記述「世界はまさにその文節そのものによって、我々がそれであるところのものの像を、我々に指し示す。我々が世界をそれのあるがままに現れさせるのは、事実、我々が世界を我々自身に向かって超出することによってである。我々は我々自身を選ぶことによって、世界を選ぶ。」などが参考になるだろう。これは日常のあらゆる経験的事象に当てはまる。近年における恰好の事例としては、ロシアによるウクライナ侵攻の弁明がこれに当てはまるように思われるが、そもそも現代の国際的な政治活動は他国への侵攻にしても、権利の主張にしても、テロ行為にしても、すべて自分たちを被迫害者として定立することから始まるのであるから、むしろこれに当てはまらない例を探す方が難しいかもしれない。二分思考は極端な圧迫的状況において、あるいは精神疾患における退行過程や幼児期の認識過程によく現れるという。精神分析学において、それは精神的逆境における防衛規制の一つとして解釈される。例えば未熟な幼児は、母親の自分に対する態度の変遷を、「優しい母親」と「怖い母親」という二人の母親が存在する認識し、どちらも同じ母親であることを認識できない。同様に、例えばいじめや疎外などによって極端な精神的圧迫を受けている場合、当人は世界に復讐して人生を破綻させるか、さもなくば自殺するかという二分思考のもとに支配されている。よく誤解されるのだが、それは決して学校や社会的身分といった社会的な足枷によるのでもなければ、穏便な解決策の知識不足によるものでもない。人間関係においては他者は自分の味方でも敵でもないということ、あるいは、そもそも自分にあまり関心を持っていないということを認識しようとしない。それは頑固な人間不信であるが、いったん味方と認めるならばその裏返しとしての無分別な好意であり、味方が好意に応えてくれない場合には、さらなる裏返しとしての憎悪である。
 
このように考えると、心理学用語としての投影は、存在論的なより深い意味を持っているように思われる。私が私を《悲しい人》として投企するならば、世界は悲しいものとして現れる。暗い音楽は悲しみの慰めとして、明るい音楽は悲しみの救済として、刃物は自殺の手段として、仕事は耐え難い重荷として、〈他人〉は私と同じ悲しみを抱く者として、あるいは私のような悲しみを知らない幸せ者として現れるだろう。世界のあらゆるものはこのように、悲しみという軸を中心にして展開される。同じくまた、私が私を《憎む人》として投企するならば、世界は私に敵対するものとして現れる。私は世界のあらゆるものに対して傲慢に振る舞うだろう。ボタンが閉まらないとか、瓶の蓋がなかなか開かないといった些細なことですら、私に対する世界の敵意として、私を苛立たせるだろう。〈他人〉は私に敵意を抱く者として、あるいは私に対して抵抗しない従順な味方として現れるだろう。投影というのは、サルトルが第一部で述べたような、対自の自己欺瞞的なありかたの一つである(読後感想1 - 意識の構造 - 自己欺瞞についてを参照)。「私が他者を憎むのは、他者が私を憎むからだ」というのは、対自を事物的な因果関係の系列に埋没させることによって、対自を自己本来のありかたから解放する試みである。それは心理的な安全地帯に身を置くことを目的としており、自己自身の本来的なありかたである《自由》からの逃亡である。人々は「動機」という言葉を使って擬物論的な説明を好むが、いったい対自について事物的な因果関係が適用できるだろうか。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の中でミーチャの弁護人は、検察側が心理学を駆使して被告が殺人犯であることを立証しようとしたのに対して、同じく心理学を用いることによって、劣らぬ説得力をもって被告が無罪であることを立証しようとしている。要するに「動機」を事物的な因果関係の系列に組み入れようとするような試みは、何とでも言えるのである。「勉強しろと言われたので、勉強した」というのはもっともである。しかし、「勉強しろと言われたので、勉強しなかった」というのもまた、もっともである。
 
以上、これらの記述は個人の心理を集団心理に拡張する一例であるが、この《私》から《われわれ》への拡張については、次の事例も参考になるだろう。
 
 
「対象-われわれ」の特殊な一例として、サルトルは《群集心理》と呼ばれているもののうちに見られる、愛の特殊な一形態たる集団的熱狂を見いだす。ブーランジェ党が例に挙げられているが(訳註:十九世紀末にブーランジェ将軍を党首と仰いで起こった一種の独裁制を目指す政治運動で、一時は民衆の熱狂的な支持を受けた)、現代ではナチスを例に挙げるのがわかりやすいだろう。ところでこの記述は、サルトルが《対象-私》を《対象-われわれ》に拡張するにあたって、それがどこまで具体的な諸関係の拡張を伴うのかについての示唆を与える。というのも、すでに何度も述べられたように、《主観-私》を《主観-われわれ》に拡張することはできないのであるから、《対象-私》がどこまで同一の諸構造を維持したまま拡張できるのかも自明のことではないからである。しかしこの記述を見るかぎり、《対象-私》の拡張に関してはそれほど慎重にならなくてもよさそうであるが、《主観-われわれ》を欠いた意識の発露である分だけ、それがどのようなものかは未知数である。この記述は個人のマゾヒズムと集団的マゾヒズムを対応づけたものだが、個人の心理と集団的心理が簡単に対応づけのできるものではないことは経験が教えるところである。それはまた、個人心理の諸状態が何か量的なものとして扱えるという仮説のもとで、集団においては種々の量が平均化されるなどというものでもない。ニーチェが「狂気は個人にあっては稀有であるが、集団においては通例である」といったように、また社会学者たちが熱心に、群集心理なるものの研究に勤しんでいるように、かりに「対象-私」としての個人の心理と集団的心理を完全に対応づけることが可能であるにしても、その発露までもが相似的であるとは言えないだろう。だが以上の考察は、直感に反してなぜ民主主義の維持が簡単なものではないのかの理由を、説明してくれるように思われる。というのも、民主主義は民衆が《主観-われわれ》であることを前提とするからである。事実、我々は有権者として国家の将来や政治家の人生を左右する権力を持っているにもかかわらず、我々自身を権力者として、すなわち《主観-われわれ》として定立することができない。むしろ我々は、政治家という権力者の手中にある群集のうちに埋没する《対象-われわれ》を構成する無差別的な一要素として、我々を実感するのみである。これはまた、政治家にとっても同じことである。世を騒がして止まない政治家の金銭や地位に関する姑息な振る舞いは、通俗的な解釈に反して、庶民感覚のない権力者が好き勝手やっているのではない。いったい高い志を持つ野心的な政治家が、目先の利益のために小賢しく振る舞うだろうか。我々が最も自分勝手に振る舞うのは、自己を〈超越する-私〉としてとらえるときではなく、〈対象-私〉としてとらえるときである。我々が自分勝手な振る舞いを他人のせい、社会のせいなどと言ってのけることができるためには、我々自身を最も周囲の影響を受けやすい〈対象-私〉としてとらえるのでなければありえないだろう。そういうわけで、むしろ彼らには、権力者としての自覚が欠けているのである。庶民感覚とはなんだろうか。庶民感覚というのが、もし自己の利益のために奔走し、そのためには一銭も惜しんで憚らないことを言うのであれば、政治家は十分過ぎるほど庶民感覚を持っているように思われる。政治家も庶民と同じように、明日の我が身のために懸命に自己の利益に奔走しているにすぎない。メディアもまたそうである。国民の代弁者などと、さも自分自身は何の影響力を持たないかのごとく振る舞っているが、彼らもまた自身が権力を持つ存在であることを、国民に対して、また何より自分自身に対して隠蔽している。かくして、民主主義の維持が自明でないことの理由が説明される。国民、政治家、メディア。民主主義の構成要素として無くてはならないこれらの各々が、自身の権力を自覚しようともせず、《対象-われわれ》の地位に甘んじようとする。そこには三者三様それぞれの《自由からの逃亡》がある。各々は、自己の責任を全面的に引き受けてくれる超越者の存在を待望している。この責任のなすり付け合いが三すくみな状態であるならまだしも、この状況の慢性的な継続は、一つの〈大いなる超越〉の出現の足掛かりともなるだろう。民主主義は「万人は平等である」という。だが、これは一体、どういう意味だろうか。太宰治『斜陽』には、直治の遺書として次のような一文があるが、これは民主主義的精神の実態を区別しうる格好の材料であるように思われる。
 
「人間は、みな、同じものだ。これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆い、世界を気まずいものにしました。
 
〜(中略)〜
 
人間は、みな、同じものだ。なんという卑屈な言葉であろう。人を卑しめると同時に、みずからをも卑しめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働くものの優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主々義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ牛太郎だけがそれを言う。『へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか。』なぜ、〈同じ〉だと言うのか、優れていると言えないのか。奴隷根性の復讐。けれども、この言葉は、実に猥せつで、不気味で、ひとは互いにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定せられ、美貌はけがされ、光栄はひきずりおろされ、所謂『世紀の不安』は、この不思議な一語からはっしていると、僕は思っているんです。」
 
言うまでもなく、この「世紀の不安」の世紀とは、20世紀のことであるが、これが21世紀のことだとして、何の不思議なことがあるだろうか。選ばれた弱者の救済のもとに行われる、選ばれなかったものへの抑圧、迫害。かくして被害者意識は次々と伝染していき、各々が自身の卑屈で腫れぼったい傷心のうちに、自分自身ですら見込みのない「世直し」の救済の希望を抱いて、他者への自分の振る舞いを正当化する。1930年代のナチスの台頭〜現代のイスラエル-パレスチナ問題はそれの最も顕著な例であるが、しかしそれはポリティカル・コレクトネス、韓国のナショナリズム等々の無数にある同様の諸現象のうちの一つに過ぎない。現代にも続く、この底辺への平等志向は、「ひとは互いにおびえ、〜光栄はひきずりおろされ」の部分に、ちょうど対応しているようにしか思われなくなってくる。「人間は、みな、同じものだ」という言葉は、「対象-私」であるのはもうまっぴらだというが、それでいて「超越-私」であることの責任を引き受ける覚悟のない者が発する言葉である。この言葉が猥褻なのは、この言葉を向けられた者の超越を剥ぎ取り、この言葉を発した者の対象性に即して対象性を暴露するからであり、この言葉が不気味なのは、それが大衆的な説得力をもって、どす黒い権威を帯びて発せられるからである。この言葉ほど、大衆の《自由からの逃亡》を表現しているものは他にないであろう。
 
 
少し気になった点について触れておこう。対象 -〈われわれ〉についての最後の箇所で、《人類》全体としての「対象-われわれ」を定立することのできない理由として、それは《人類》全体にまなざしを向ける者の存在(神)を前提とするが、かかる存在は徹底的な不在として特徴づけられるからと述べられていた。この理屈は疑問である。というのも実際、神が存在するかしないかにかかわらず、地球上の様々な民族は他の民族に対してではなく、神のもとに自己を定立していたのであるから、それが《人類》全体に適用されても何らおかしくはないように思われるからである。むしろ一つの「人類的なわれわれ」が夢想でしかないのは、《人類》を「対象-われわれ」として定立できないからではなく、「主観-われわれ」として定立できないからである。ムッソリーニが「大衆は女性に似ている」と言ったのは、このことの深い洞察に基づいている。それは抽象的に言うならば、「見る」ことよりも「見られる」ことの欲望であり、「愛する」ことよりも「愛される」ことの欲望である。どの民族も繁栄と安寧とを望むが、それは民族が自力で掴みとるものではなく、儀式や祈りによって、繁栄「させらせる」ことを、安寧が「もたらされる」ことを望むのである。「人類的なわれわれ」という思想を基盤とする政治運動がもたらす諸問題については、「施しを受ける権利」という倒錯した概念によって、象徴されるだろう。能動的な義務が存在しないように、受動的な権利もまた存在しない。「施しを受ける権利」というのは「〈われわれが〉施しを受けるように、あるいは配慮されるように、〈他者に〉強いることができる権利」以外のなにものでもない。不都合な本質を姑息な表現によって隠すこと自体が、まず一つ目の欺瞞である。そうはいっても関心は〈対象-われわれ〉にあるのだから、実際には他者の超越に手を加えているなどとは思っても見ないことである。しかしそれは〈主観-私〉についての責任逃避であり、自己の被害者性に関心を向けることで、自己の加害者性を隠蔽することである。そこでは「施すように強制された側」は関心の対象である〈対象-われわれ〉の背景として、〈主観-私〉とともに側面的に把握されるだけである。結局、もし私が「対象-われわれ」として《人類》を定立したとしても、私が「人類的なわれわれ」の一員として行動を起こすやいなや、その瞬間に私は「主観-われわれ」となり、それは結局、私個人の勝手な行動でしかないことになるだろう。その場合、私は私の行動に対して、私一人だけで責任を負わなければならないだろう。なぜなら「主観-われわれ」は結局、〈主観-私〉でしかないからである。サルトルは「人類的なわれわれ」を、主観的にも対象的にも定立できないと考えているようだが、少なくとも「対象-われわれ」にかぎっていえば、それは可能であるように思われる。
 
読後感想3で提起した疑問については、ここで答えが与えられている。第二巻p525以降で、次のように書かれている。「〈主観-われわれ〉としての共同存在の経験が、かりに存在論的に第一次的なものであるにしても、我々はこの経験の根本的な一つの変様のうちにおいて、まったく無差別的な一つの超越から、個々の個人についての体験へ、いかにして移行しうるかを理解することができない。もし他人が何らか別のしかたで与えられているのでないならば、「われわれ」についての経験は自ら崩れ去り、私の超越によって取り囲まれた世界のうちにおける単なる諸「道具-対象」の把握をしか、生むことがないであろう。」この記述からは定かではないが、他者のア・プリオリな直観なしには〈主観-われわれ〉についての経験は成り立たないことは認めるにしても、対他-存在の超越的原理と両立するかたちでの、何らかの〈主観-われわれ〉の超越的原理の存在を否定しているようには思われない。もしそのような原理が存在するとすれば、倫理的社会的な問題を考える上で、それは無視できないものであろう。サルトルは自己の対象化の意識として羞恥の感情を挙げていた。こちらはそれに対抗して、〈主観-われわれ〉の超越的原理の根拠として、孤独感を上げることができるだろう。孤独感は他者の欠如に対する感情である。サルトルも〈いるべき〉人がいない場合の感情について考察してはいたものの、それは具体的な他者の不在の観点からであって、誰でもいい誰かの欠如の観点からではなかった。サルトルは我々の生活における重大な関心ごとである性的生活が、対自に後から付随するような性質とみなされることについて疑問を抱いていたが、それならば孤独の問題もそれに比するものであるだろう。現代ではようやく、独身者のQOLの低下や依存症の実態などを通して、孤独というものが人間生活において重大な問題であることが認識され始めてきた。かつて小児を対象にして行われたいくつかの非人道的な実験は、孤独が発育や精神的発達に対して深刻な影響を与えうることを示唆している。これには基本的な他者関係だけを構築し、スキンシップや愛情を与えないものも含まれているから、すべてを「対他-存在」の問題として還元することはできないように思われる。家族というものはもっとも原初的な〈主観-われわれ〉の経験である。サルトルは〈主観-われわれ〉は経験は、共同で超越される諸対象と、私の身体の周囲にあるもろもろの身体との二重の対象化的把握に基づくとしたが、〈家族〉というものの経験が、成員との習慣的な共同生活と、成員の身体の対象化的把握に基づいた単なる主観的な心理体験であるとみなしてよいだろうか。もし〈家族〉の不在が、後天的な不在の観点からではなく、先天的な欠如の観点からとらえられるべきならば、〈主観-われわれ〉の超越的原理の可能性を排除できなくなるだろう。