他者との関係論の感想および考察

 

ここまでサルトルの言うところの、対自の他者との関係の基本的な内容を見てきた。そこにはサルトルの構想する、実存論的精神分析ともいうべき理論の素描が現れているように思われる。対自としての人間存在は二重の存在脱落である。第一の脱落は、対自が対自であるゆえんであるところの、即自からの転落である。対自は自己の失われた即自を取り戻そうとする不断の企みである。しかし自己自身であろうとする対自の企みの実現は原理的に不可能であり、即自-対自の一致は超越のかなたにおいて指針となりうるにすぎない。第二の脱落は、対自の絶対者からの脱落である。一である対自の存在論的な分散は、対自に対して自己であらぬ対自、すなわち他者を出現させる。これは構造としては第一の脱落がより強化されたものであるが、この次元では対自は、自己の奪われた対他-存在を取り戻そうとする不断の企みである。しかしこの企みは、他者の超越性と対象性の平衡を目指す矛盾した企みであり、原理的に挫折せざるを得ない。これを踏まえて、ここまでの記述を以下のようにまとめることができるだろう。

 

 

・対自による即自存在の取り戻しという、形而上学的な超越的原理

自己自身の超出(脱自)および世界の超出

超出の存在論的な必然的条件である時間性(過去、現在、未来)

 

・対自による対他存在(対自の自己であらぬ対自にとっての即自)の取り戻しという、偶然的な超越的原理(1)〜(5)

(1)愛:自己の対他-存在を根拠づける他者の自由を、自己の対他-存在によって根拠づける試み

(2)マゾヒズム:自己の超越性を根絶し、単なる対象性となった自己を他者の超越性のうちに吸収してもらおうとする試み

(3)無関心:自己を絶対者として定立しようとする試み

(4)欲望:他者の「超越-対象-身体」(これは矛盾である)を自己の超越-対象-身体のうちに取り込もうとする試み

(5)憎悪:他者の超越性を認めた上で、他者の抹殺によって自己を絶対者として定立しようとする試み

 

いくつか気になった点があるので、それを考えていく。まず、他者に対する無関心の態度が挫折するのは、他の四つの場合と違って、対他存在の取り戻しができなかったというだけが理由なのではない。他者の絶対的自由を目の前にして丸裸でいるということの不安感もまた、挫折の契機となっているが、これは自己保存の本能ともいうべき、二つの超越的原理からは導けない功利的な原理である。先に、恥の感情は、他者のまなざしによって晒されているという自己の対象化の意識であると述べられていたが、そもそもなぜ自己が対象化されていると意識することが恥の感情を引き起こすかといえば、それは他者の面前に対して無防備であることの自覚であるからであり、ある意味で功利的な動機によるものであるが、このことは本書で明示されているわけではない。もっともここで功利的というのは、それが普遍的であるがゆえに根源的なものであり、超越は利のあるもののうちでも根源的なものであるという意味である。プラトンは善のイデアを太陽の比喩によって説明した。太陽が地上のすべてのものを照らすように、善のイデアはそれ自身イデアでありながら、他のすべてのイデアを照らすイデアの根源であり、イデアのイデアである。それと同じように、超越はそれ自身価値でありながら、すべての価値を生み出す根源であり、価値のうちの最高価値である。サルトルは他者との諸関係を論じる最後の箇所で、罪の意識について少し触れていたが、そもそもなぜ他者の超越に対して影響を与えることが罪であるのかについては明言されていなかった。しかしここまでの内容から、それがなぜ罪であるのかを推察するのは容易である。要するに、超越に対して影響を与えることは、超越という最高価値の毀損であるからである。恥の意識が、たとい微かであるにせよ苦々しい罪悪感を伴うのは、自己の超越をわずかでも毀損されたことの意識だからである。性的欲望が何か罪悪感を伴うのは、その独特のしかたで他者の超越、そしてまた自己の超越に変様を蒙らせようとするからである。マゾヒズムや自己否定がある種の罪悪感を伴うのも、それぞれのしかたで自己の超越を否定しようとするからである。愛に関して言えば、それは他者の超越に手を加えずに、自己の根拠としてそのまま利用しようとする試みであるから、罪悪感を伴わないであろう。これについては罪についての記述に続く次の箇所が参考になるだろう。この部分は本筋からやや外れた内容のため、要約においては省略したのだが、サルトルの自由に対する考え方、および晩年のサルトルが評されていたような、共産主義への〈狂信的な〉信頼を紐解く手掛かりとなるかもしれない。

 

それにしても、放任の道徳や、寛容の道徳が、他者の自由をいっそうよく尊重する道である、などと思い込んではならないであろう。私が存在する瞬間から、私は他者の自由に対して、一つの事実的限界を打ち立てる。私の企て一つ一つは、他者のまわりにこの限界を劃する。愛、放任、寛容…そのほかあらゆる控えめな態度は、私自身の一つの企てであり、この企ては私を拘束するとともに、他者をその同意のうちに拘束する。他者のまわりに寛容を実現することは、他者を強いて一つの寛容な世界のなかに投げ込まれるようにさせることである。それは勇敢な抵抗、辛抱強さ、自己主張など、寛容でない世界のうちにおいて他者が発展させえたかもしれないそれらの自由な諸可能性を、原理的に他者から奪い去ることである。そのことは、我々が教育の問題を考察するならば、よりいっそう明らかになるだろう。厳格な教育は子供を道具として取り扱う。というのも厳格な教育は、子供が受け入れなかった諸価値に、子供を無理やり従わせるからである。しかしリベラルな教育も、それとは別のしかたで、同様にいくつかの原理や価値をあらかじめ選択し、この原理や価値の名において子供を取り扱うことになるだろう。子供を説得的に優しく取り扱うことは、それにもかかわらずやはり、子供を強制することである。それゆえ他者の自由の尊重とは、一つの虚しい言葉である。

 

この様な考え方は、特に独創的でもなければ画期的なものでもない。確かに放任は何もしないことではない。放任は自己のあらゆる可能性に面した対自が、自発的に「行動を為さない」という選択を行なったという事実であり、そのかぎりで、たとえ放任といえども自己の行為責任から免れることはできないだろう。もし放任や寛容がその控えめな態度によって、厳格な教育者が引き受けるような重責を免れていると考えているのならば、それは確かに誤りであろう。そして、(これが最も重要なことであるのだが)そのような控えめな態度が他者の自由をいっそうよく尊重し、他者の可能性を最大限に発揮すると考えることもまた、誤りであるかもしれない。しかし今の時代にこういう告発ができる人がどれだけいるだろうか。こういう文章を読むと、いかに現代の保守思想が凡庸であり、自由の概念のほんの上澄みしか捉えられていないかを、いかに現代のリベラル思想が偏狭であり、自由の概念を歪曲して都合よく振りかざしているかを実感せずにはいられない。サルトルのいうアンガージュマン engagement はふつう、文学者の政治参加を意味するが、これでは「自由という牢獄」とか、「対自という、生まれつき不幸な意識」といったサルトル独自の表現との繋がりが見えにくい。この語は普通名詞としては契約、婚約などの意味を持つが、元々の語義は「拘束すること」である。この語義を生かして解釈する場合、アンガージュマンは自己のあるべき存在へと自己を超出し、また世界のあるべき存在へと世界を超出することであり、自己のあらゆる諸可能性のうちから一つを選択し、自己のあるべき《世界-内-存在》への可能性のうちに自己拘束 engagement することである。サルトルの盲目的とまで評された共産主義への傾倒は、結局は狂信によるものなのか、それとも自由の深い洞察の果てに至った結論なのか定かではないが、古典を読むことの意義は、我々が取り去ろうとしても、却ってそれを意識することでいよいよ取り去れないような時代的な価値観のしがらみを免れたところから、素朴な真理を投げかけられるところにあるだろうし、古典を改変することの罪も、同じくそこに根拠を置くものであろう。

 

また、この箇所の記述は実存主義退潮の一因をなした、サルトルのレヴィ=ストロースらとの対立を紐解く手掛かりにもなる。晩年のサルトルは、自身の実存哲学とマルキシズムを統合しようと苦心していたが、レヴィ=ストロースに代表される構造主義者たちは、そこにヨーロッパ的な自文化中心主義を読み取り、それを厳しく批判した。なるほど、ヨーロッパ的な知的文化の優越性を主張するサルトルに対し、文化相対主義的な観点から批判した構造主義者らの方が、より客観的な主張をしているように見えたのだろう。だがこれも、世俗的に解釈されてしまえば同じことである。自文化中心主義と文化相対主義という対立構図は、まったく空虚である。一体この二つ考え方のどこが対立しているというのだろうか。文化相対主義というのは、他国の文化を尊重するという自国の文化でしかない以上、自文化中心主義に含まれるものである。自文化という絶対的な観点から離れて、真に客観的に物事を見ることができるという発想自体が虚しいものである。えてしてそうなのであるが、歴史や文化の審判者たろうとする者は、自分が歴史や文化の一要素として含まれていることを忘れている。自文化の価値基準をそのまま受け入れるにせよ、これを間違ったものとして否定するにせよ、あるいは是々非々に考慮するにせよ、すべては血肉化された自文化の価値基準のうちにおいて行われる。それだからといって、たとえ自文化の価値基準から逃れ得ないにしても、それから絶えず距離を置こうとする理性的思考の努力が無駄であるというのではない。実際、文化相対主義的な考え方は政治的にも非常に重要なものであろう(政治は世俗的な営みであるがゆえに、最も表面的な精神である)。それは両国の対立を避け、友好的な関係を築く礎となるだろう。現代においては文化相対主義が退潮し、特に政治的、あるいは人権の観点からヨーロッパ中心主義 eurocentrism 的な価値観が再び台頭してきている。このような時代においては、原理的に無理であっても自文化の基準を絶えず括弧に入れようとする努力が重要なのは確かである。だが、このことはあくまで政治的な次元の上での話である。このような努力をしたからといって、自文化中心主義者たちに対し一歩でも先に進んでいると考えるならば、サルトルが教育の問題で論じたのと同様に、まったくの誤りであろう。無論、以上の話は、過去の植民地主義的な発想を「反省した」などとうそぶくeurocentrist は考慮にも値しないことを前提としたものである。

 

 

次に、サルトルは性的欲望を単なる生理的欲求から区別しているが、この区別は合理的だと言えるだろうか。俗に食欲、睡眠欲、性欲が人間の三大欲求と言われるが、このうちで性欲だけが異色を放っている。他の二つは自己保存に関わる生理的欲求であるが、性欲は自己保存にもかかわらず、また単に生理的なものと言えるか微妙だからである。要するに性欲は「無くても生きていける」欲求である。なるほど、「自己」という概念を種全体にまで拡大すれば、この欲求は自己保存に関わる生殖欲求であるということもできる。それでもやはり、性欲を生殖行為にすべて還元することは難しそうである。それはサルトルのあげている幼いこどもの欲望や、愛の技巧を知らない成人の場合以外にも、同性愛などの生殖に関わらない性的指向、あるいはマゾヒズム、サディズムの他にも小児性愛、ズーフィリアなどの生殖に関わらない多様な性的嗜好の問題があるからである。この点でまず、サルトルが性欲を生理的欲求から区別したことは一定の合理性があると言える。しかし性欲を対自のうちの観点からではなく、単に科学的な考察対象として考えた場合、その起源が問題となる。まず、性欲はそれが持つ機能からして、もともとは生殖活動に含まれる一つの反射行動であったことを認めないわけにはいかないだろう。問題はここからどうやって精神活動を導出するかだが、これと同様の問題が生物学にはいくつもある。無機物の有機体の生成の問題(生命の誕生)、アリの社会性などの高度な組織性を持つ現象を物理化学的なレベルまで還元できるか(創発)、遺伝子の変異の蓄積が、爬虫類から哺乳類への進化のように、類レベルの進化を可能とするか(小進化の蓄積が大進化を生むか)。これらは概して、量的変化の蓄積は質的変化を生むか、という形で一般化できるだろう。一見解決は難しいように思えるが、個々の場合に限って言えば、実際に量が質を生むというような事例は少なくない。例えば知覚の「閾値」がそうである。知覚の変化はその知覚対象の量的変化に対応しておらず、ある一定の量の変化があった場合にのみ知覚の変化として認識される(この一定の量は与えられた知覚対象の量に依存したり、あるいは量の変化率であったりする場合もある)。精神活動の起源の問題は、これらの問題の解決と時を同じくするだろう。もっとも現代においては、生物学というのはその名称に反して、生物を研究する学問ではない。これを生物学と名づけるのは、医学や心理学を人間学と名づけるのと同じくらい滑稽なことである。理論生物学は生物を研究するのではなく、生物的な特徴を備えた数学的変数を扱う学問であり、それは数学的ゲーム理論の一亜種でしかない。また分子生物学は純粋に化学的、工学的、解剖学的な学問であり、生物を自然が作り出した一つの精密機械として扱う学問である。その他の生物学のヴァリエーションはいずれも目的論的なものか、さもなければ分類学的なものであり、それは言ってしまえば、頭の体操や趣味の範疇に含まれてしまうものである。この点ではむしろ、虫採りをしている子供の方が生物学をやっていると言えるのではないか。抽象的という言葉が、本来は分離不可能なものを独立させて、各々考察するということであれば、抽象的な生物学というものは存在しない。有機的なものを抽象的に考えることはできないからである。本来の生物学を担っているのは、一般にその具体的な肢と認識されているような学問(鳥類学、魚類学等々)であろう。

 

それにしても、合目的的な機能を備えているものとして生物を眺めること自体がすでに、「対自は自己の脱自に即して、自己であらぬところの即自を超出する」ことの最たる例だろう。対自は自己のあるべきありかたを目的として、自己を超出する。一方で事物はそれがあるところのものであり、対象の世界には事物存在しか存在しない。「目的」という事物が世界に存在するわけではない。それでは「目的」はどこからやってくるのか?それは対自によってでしかあり得ないだろう。また「目的」とは何であるか?それは、それ自体としては何ものでもないものである。対自は世界の事物存在に目的をもたらし、それを〈…のための〉道具として構成し、その道具をさらに上位の道具複合の一部として構成する。《テセウスの船》という有名な問題がある。ある目的地に船を使っていくとする。船は風雨に曝されてたびたび破損するが、その都度新しい素材を使って修理していく。そうやって目的地に着くまでに船の破損箇所を次々に修理していき、到着の頃には元の素材が一つもない場合、これは元の船と同じと言えるかどうか、と言う問題である。同様の構造を持つ問題としては、体の細胞が入れ替わるはずの人間を、常に同一人物としてみなすのはなぜか?というものもある。この問題は要するに一つのアポリアであり、素材に着目するなら同一であるとみなすのは不合理であるし、かといって同一でないとみなすのも直観に反するというものである。これは有機体とは何かにまつわる、古典的な問題の一つである。有機体についての本格的な研究は、カントやヘーゲル、シェリングらの時代においても行われており、また有機化学や生物学の発展もこの研究に大いに貢献したものの、いずれも有機体の対象的な性質に着目したものであり、根本的な定義にまで至ることはなかった。サルトルに至って、ようやく有機体とは何かを、明確に定義することができるだろう。要するに有機体とは、「自己自身の無であるような一つの存在に対し、それ自身の無であるような一つの存在である」。有機体とは、それ自身何ものでもないような一つの存在(対自)が、それがあるところものである存在(即自)を、自己の存在論的なありかたに即して把握するという、一つの存在論的関係にほかならない。それゆえ、《テセウスの船》の問題について答えは次のようになる。それは同一の船である。なぜなら船を修理するということは、その船の維持という〈目的〉へ向かって船を超出することだからである。一方で、はじめから修理に使われた素材で以って別の新しい船を作るのであれば、それは別の新しい船を作るという〈目的〉のうちに素材を超出することであるから、同一の船とはいえない。何ならば、同一の船として認識することや、そもそも「船」として認識すること自体が、すでに対自の世界の諸事物に対する一つの超出である。

 

 

またサルトルが性的欲望の記述に重点を置いた理由として(1)性的態度は基本的な態度であること(2)人間の相互的なすべての複雑な諸態度は、これらの根原的態度の多岐に分かれた形態でしかないこと、という二つの理由を述べている。しかし円と線分の比喩で述べられたように、人間のあらゆる諸態度が性的態度に還元できるというわけではないので、これが何を意味しているのかはこれだけでは分かりにくい。サルトルが《正常》な性欲を《サディコ-マゾシスト》sadico-masochiste と呼ぶときの、この言葉の意味が二つの性的態度の均衡志向を指すのであれば、それは確かに日常における様々な人間の態度を説明してくれるように思われなくもない。確かに被虐性の意識は加虐的行為を動機づけ(いじめられた経験による攻撃的傾向の強化、SNS上での暴言や誹謗中傷など)、慢性的な統制的行為は被虐的行為を動機づける(禁欲者の変態的嗜好の発露、政治家のSMバー通いなど)ように思われる。社会的な視点でとらえれば、例えば我が国での江戸時代における、春画や洒落本に代表されるような享楽文化の発展は、幕府による厳しい倫理道徳の押し付けによる欲求の抑圧がなければ有り得なかっただろう。この文化は反骨的とまでは言わないまでも、何か筋の通った強靭な精神ともいうべきものを感じさせ、例えばそれ以前の主流な精神である平安貴族的な精神、繊細で深みのある精神のありようとは一線を画している。しかしこのことは、資本主義の発展によって大衆が読みたいものを書くようになったという大衆迎合的な側面もあるし、また俳諧などは大衆文化に染まらない伝統的な精神の継承であり、以上の記述が江戸時代の文化の一面を書き記しているに過ぎないことには留意が必要である。もっとも記述があまりに抽象的なため、これだけではサルトルのいう(1)、(2)の説明がどれほど正しいかどうかは、判断できる状況にはない。

 

 

他者に対する性的態度の変遷は一つの循環を成しており、我々はそこから逃れ出ることがない。サルトルはそのような状況に、罪悪感という特殊な感情の起源を求める。つまり罪悪感というのは、一通りの循環を経験した対自が、自らの企ての必然性と不可能性を直観することを契機として現れる感情である。それでもたいていの場合は、超越の侵犯への企てを反省的にとらえることによって生じる一時的なものである。この感情はもちろん、他者の超越の侵犯への企てに際しても現れるが、同様に、自己の超越の侵犯への企てに際しても現れる。例えば自慰行為は、自己の超越の自分の肉体への混合を企むかぎりにおいて、罪悪感を伴う行為である。自傷行為も基本構造としては自己のみを対象とする性的欲望に含まれ、そのかぎりで自慰行為と同様である。だがその中でも、自己自身の存在についての罪悪感は最も深刻なものであり、私が「超越の侵犯者たらざるを得ない存在」であることを認識することによって生じる。この罪悪感を持つ意識は、実存の深遠な意味の直観を得ており、すでに実存の深い探究への入り口に立っている。この意識は自覚的な制御によって装わないかぎり、もはや《正常》な性欲によって他者に接することができないだろう。それゆえ、この意識はえてして、次にあげる最も極端な二つの態度をとりがちである。一つ目は極端なマゾヒズムであり、自己の超越を徹底的に否定し、自己を徹底的に事物化することで、自分が「超越の侵犯者たらざるを得ない存在」であることを忘却しようとする。他者への罪悪感に耐えきれなくなった意識は、他者の自由のうちの単なる事物と化すことによって、他者の奴隷になることによって、自己が他者を超越する存在であることを否定しようとする。もちろんこの態度は極端であるとはいえ結局はマゾヒズムの特殊な例であるから、原理的に挫折せざるを得ない。実際、この意識がもし他人から奴隷になることを拒否されたり、自分を卑下する試みを嗜められたとしたら、この意識は他人に対して強情に反発するであろう。「いいから、お前の奴隷にならせてくれ!私をお前の手駒として利用してくれ!」というふうに。遂には自分の請願を拒絶する他者に対して、攻撃的に振る舞うことすらあるだろう。だがまさに、この強情さによって、結局は自己が他者を超越する存在であることを認めざるを得なくなるだろう。二つ目は極端な憎悪である。他者への罪悪感に耐えきれなくなった意識は、いっそ開き直り、今度は逆に他者に対して牙を向く。他者の超越を徹底的に否定することによって、存在しないものとすることによって、自分が「超越を侵犯せざるを得ない存在」であることを忘却しようとする。この意識は叫ぶだろう。「お前たちのせいだ!これ以上私を苦しめるな!」と。この憎悪は極端なものであり、特定の個人や集団を対象とするものではなく、すべての他人に対して向けられるだろう。サルトルは憎悪に関して、次のように書いている。「誰かが他者の超越の抹殺を企てるかぎりにおいて、他者は自己の超越の危機を痛感する。それゆえ他者は、自分を憎悪する者を憎悪するだろうが、むしろ憎悪は、憎悪を憎悪することが憎悪する者の自由についての心配な承認を含むかぎりにおいて、憎悪されることを要求する」。憎悪の実現のためには、何よりもまず、抹殺されるべき他者の超越が明確にされなければならないからである。これが俗にいうところの《憎しみの連鎖》である。しかしこの試みも同様に、他者の超越を否定する試み自体が、他者の超越の存在を前提としなければならないため、原理的に挫折するものである。かりにすべての他者を廃滅させたとしても、廃滅させたという事実のかなたにおいて、他者の超越が存在する。この事実が取り返しのつかないものとして現れるがために、この意識も結局、他者が超越的存在であることを認めざるを得なくなるだろう。これはキルケゴールが『死に至る病』で描いた、二つの絶望の型の再発見である。もっとも、キルケゴールはこれらの絶望を直線的な深化を辿るものだと解釈し、ここから神による救済へと論を展開していく一方で、サルトルの場合はこれを循環として捉え、この輪廻を人間であるかぎり耐え忍ばなければならない宿命的なものとして描いている。

 

 

サルトルは他者に対する態度の変遷を、一つの循環を構成しておりどれから始めてもよいものとしながらも、その記述は対自がさまざまな態度の有り様を変遷していく歴史という形式をとっている。この形式はそれだけでヘーゲルが『精神現象学』で用いた記述形式を彷彿とさせるが、さらに詳しく見てみると、『精神現象学』のものと同様の、いわゆる「入れ子構造」の記述形式の素描を見出すことができる。つまり本書の場合は、まずはじめに超越的原理を立てる。続いてこの原理から二種の派生的な原理が導かれる。さらにこの二種の派生的原理から、それぞれ二種の派生的原理が導かれる。これを繰り返して行けば、ピラミッド構造の最下段には二種の派生的原理が交互に並ぶことになるだろう。この二種の派生的原理についてだが、それは他者に対する性的態度の両極にあるものであり、つまり一つはサディズム的、もう一つはマゾヒズム的ものである。本書p470で、「セックスの膨張は受肉をあらわす。《…のなかに入る》もしくは《突き込まれる》というこの事実は、サディズム的及びマゾヒズム的な我有化の試みを、象徴的に実現する」と書かれていることから、それぞれ象徴的に男性的原理、女性的原理と言い換えてもよいだろう。入れ子構造についてだが、例えば性的欲望に関する記述で、「性的欲望を挫折させる不断の危険は、相手の受肉を見失うことであり、ついにはこちらの意識の受肉だけが、意識の受肉の究極目標になってしまうことである」と書かれているが、これは自慰行為を象徴した表現であって、男性的原理である。一方で、「私は私の裸によって他者を魅惑するために、また他者のうちに私の肉体に対する欲望を起こさせるために、私をして肉体たらしめる」と書かれているが、これは性的誘惑を象徴した表現であって、女性的原理である。さらに性的欲望自体が一つの男性的原理の派生であり、もう一方の女性的原理の派生である愛と対をなしている。全体の構造から見れば、超越的原理から二種の原理が派生し、男性的原理からはさらに派生的な男性的原理(サディズム)と女性的原理(性的欲望)が派生し、女性的原理からもさらに派生的な男性的原理(愛)と女性的原理(マゾヒズム)が派生している。無関心と憎悪は、このどちらの原理にも属さない姑息な中立的原理である。このような図式をサルトルは思い描いていたのではないだろうか。

 

共同存在と〈われわれ〉

 
もちろん、他者との関係に関するここまでの記述は、我々が他者との相剋のうちにではなく、他者との共同のうちに我々を見出すときの具体的な経験にその場所を与えていないがゆえに、不十分である。我々はしきりに〈われわれ〉という語を口にするが、この語の文法的な形態、および使用は、必然的に〈共同存在〉Mit-sein についての一つの現実的な形態を指し示す。この形態のもとでは、〈われわれ〉nous は、〈私〉je の複数と同一視される。なるほど、文法と思想との間のパラレリスムは多くの場合、甚だ疑わしく、おそらく改めて問題を根本的に検討し、まったく新たな形で言語と思想との関係を研究しなければならないだろう。しかし、それにもかかわらず、〈主観〉subject としての〈われわれ〉は、少なくともそれが相互に同時的に主観性として、すなわち「超越される-超越」ではなく「超越する-超越」として、認め合う様な多数の主観という思想に帰着するのではないかぎり、理解されるものであるとは思われない。もし〈われわれ〉という語が、現実的な内容を持たない空虚な語ではないとするならば、この語は、複数の主観性の無限に多様な可能的諸経験を包摂する新たな概念である。しかもこの概念は、他者にとっての私の対象-存在とも、私にとっての他者の対象-存在とも矛盾するように思われるものである。というのも〈まなざし〉論においては、他者の主観と私の主観性はトレード・オフの関係にあったのであるが、この概念は自己も他者もともに主観性として認め合う様な多数の主観性を包含しているからである。それゆえ、〈われわれ〉としての他者の承認は、〈まなざし〉論で記述されたような、反省的な次元では行われえないであろう。それは自己認識以前の意識である、世界のなかのこれこれの光景を措定的な対象として持っているような非措定的な意識によって、側面的に行われるはずである。例えば劇の鑑賞における、観客としての〈われわれ〉という意識は、この光景の「共同-観客」であることの意識として、非措定的に構成される。それは、例えばほとんどがら空きの劇場の中で我々を締め付けているいうに言われぬこと息苦しさ、あるいは逆に、満員の熱狂的な劇場の中で解き放たれていよいよ高まる興奮などによって感取されるだろう。
 
そうは言っても、「われわれ」の素材を供給のは他者たちの意識であるにもかかわらず、〈われわれ〉を感取するのは一つの意識である。このことからして明らかに、〈われわれ〉という意識は、人間存在の一つの存在論的構造を構成することができないであろう。〈われわれ〉は一つの相互主観的な意識でもなければ、社会学者たちのいう集団的意識のようなしかたで一つの総合的全体として、その諸部分を超出し包含する一つの新たな存在でもない。〈われわれ〉は一つの個別的な意識によって体験される。事実、この意識状態は必ずしも、それに含まれるもろもろの意識が「われわれ」であることを意識している必要はない。「われわれは、このように思っている」に対し、「とんでもない。そんなことを思っているのはあなただけだ」というのは日常の会話ではよくある。それにもかかわらず、この意識はそれ自体として、まったく正常な意識である。事情がこのようなものであるならば、ある一つの意識が一つの「われわれ」のうちにあることを意識するためには、この意識と共同関係に入る他のもろもろの意識が、何らかの別のしかたで、まずはじめにこの意識に対して与えられているのでなければならない。要するに、「われわれ」は「対他-存在」一般を根拠として、特殊な場合に生み出される、ある特殊な経験である。「対他-存在」は「共他-存在」に先立つとともに、これを根拠づける。
 
さらに、〈われわれ〉を研究する際に気をつけなければならない点がある。事実、ただ単に一つの「主観-われわれ」が存在するだけではない。文法が教えてくれるように、一つの「対象-われわれ」も存在する。そしてこれまで述べてきたことからして、容易にわかることであるが、《われわれは彼らにまなざしを向ける》というときの「われわれ」と、《彼らはわれわれにまなざしを向ける》というときの「われわれ」は、同じ存在論的次元に存在することができない。ここではもはや、純粋な主観性は問題になりえない。《彼らは私にまなざしを向ける》という表現が意味しているのは、私が私を、「他者にとっての対象」として、「他有化された私」として、「超越される-超越」として体験することである。もし、《彼らはわれわれにまなざしを向ける》という表現が、一つの現実的な経験に即するものであるならば、私は他の人々と共に他有化されたもろもろの《私》たちという「超越される-超越」の共同体のうちに拘束されていることを体験するのでなければならない。それゆえ、「われわれ」についての経験には、根本的に異なる二つの形態があり、それらは「まなざしを向ける-存在」と「まなざしに向けられる-存在」にそれぞれ対応する。まず、「まなざしを向けられる-存在」に対応する形態、すなわち「対象-われわれ」について見ていこう。
 
 
対象 -〈われわれ〉
 
ここで問題になっているのは、〈われわれ〉が対象化されていることについての〈私〉の意識である。これは一つの共同の羞恥、一つの共同の他有化として私に現れるが、それでは他人たちと共同で、自己を対象として体験することが可能であるのはいかにしてであろうか。それを知るためには、これまでの「対他-存在」の基本的特徴に立ち戻らなければならない。
 
今まで考察してきたのは、私がただ一人で、ただ一人の他者の面前にいるときの単純な場合である。その場合には私は他者にまなざしを向けるか、他者からまなざしを向けられるかのいずれかである。この状況においては、私にとって一方が「超越する-超越」ならば、もう一方が「超越される-超越」であるから、いずれか一方しか対象的存在をもつことができない。しかしこの状況において第三者が現れた場合、この関係はどうなるか。もし私が他者からまなざしを向けられているときに、第三者が現れて、さらに私にまなざしを向けるならば、私はこの二人のまなざしをによる私の他有化を通して、この二人を共同に《彼ら》として体験する。また逆に第三者が第二者に対してまなざしを向けるならば、私はこの第三者のまなざしを直接にではなく、この第三者によって「まなざしを向けられている-他人」である第二者の上にとらえることができる。それゆえ、第三者の超越は、私を超越する超越(第二者)を超越する。そしてそのことによって、第三者の超越は「私を超越する超越」の武装を解除することに貢献する。こうしてここに一つの中間状態が構成されるが、この中間状態はやがて分解するだろう。私がまなざしを向けられているのを止めて、第三者に協力して第二者にまなざしを向けるとき、第二者は《われわれ》の対象に変じる。あるいはまた、私が第三者にまなざしを向けるとき、第二者を超越する第三者を、私が超越することになる。そこには超越と超越されるものとの三すくみの関係が生じる。一方で第三者が、私と第二者の関係を「まなざしを向けている超越」-「まなざしを向けられている超越」という一つの対象としてとらえるとき、私と第二者との、いずれか一方の存在論的優位構造は存在しなくなる。私と第二者との関係は第三者の世界において、ともに等価で連帯的な構造として現れる。私は第二者と連帯的にこの全体を構成する存在であるとともに、この「外部-存在」が私の「対他-存在」を含むかぎりにおいて、私は私の「対他-存在」とともに、第二者の「対他-存在」をも引き受けなければならない。こうして私は第二者とともに、《対象-われわれ》を経験する。
 
ある種の状況は、他の状況に比して「われわれ」についての体験を引き起こすのに、いっそう適しているように思われる。特に共同の労働がそれである。多数の人間が連帯して同一の物品の製作に携わっている間に、彼らが第三者によって見られている者として自分を体験するならば、その製造品の意味そのものは一つの「われわれ」としての製作する集団を指し示す。労働者としての私の動作、実現されるべき組み立てによって要求されている動作は、私の隣にいる労働者のこれこれの動作によって先行されているかぎりによってしか、また次のこれこれの労働者のこれこれの動作によって後続されている限りにおいてでしか、意味をもたない。そこに、いっそう容易に近づきうる《われわれ》の一形態が生じてくる。この場合、労働者の「われわれ」を指し示すのは物品そのものの要求とその潜在性であり、また素材を物品を加工する際の素材の抵抗であるからである。それゆえ、労働者は《創造されるべき》一つの物質的対象を通して、「われわれ」という資格でとらえられたものとしての自分を経験する。しかしこういう種類の状況が「われわれ」の出現の例証として、かくも経験的に好都合に見えるとしても、我々は決して見失ってはならないことであるが、あらゆる人間的状況は、他人たちのただなかにおける拘束であるがゆえに、第三者があらわれるやいなや、人間的状況は「われわれ」として体験される。しかもそれは、必ずしも第三者の実際の現前を必要とするものではない。ある多数の個人たちが、人間全体もしくは自余の人間たちに対して、自己を「われわれ」と体験するためには、《人類》という全体分解的な全体が存在してさえいれば十分である。その場合、自余の人間たちが実際に現前していようと、現実的ではあるが抽象的な存在として現前していようとどちらでもよいことである。このことからして我々は、ある特殊な形態の「われわれ」、特に《階級意識》と呼ばれている「われわれ」に導かれる。明らかに階級意識は、普通の場合よりもいっそう明瞭に構造づけられた一つの集団的状況を機会として、一つの特殊な「われわれ」を引き受けることであるが、ここではその具体的な状況一つ一つを吟味することは重要ではない。今の場合に興味があるのは、引き受けられたこの「われわれ」の本性である。一つの社会がその経済的、政治的構造から見て圧迫される階級と圧迫する階級に分かれているとき、圧迫する階級の状況は圧迫される階級に対して、これを注視し自己の自由によってこれを超越する不断の第三者という姿を呈する。圧迫された集団を階級として構成するものは、決して作業の辛さ、生活水準の低さ、耐え忍ばれた労苦等々ではない。また圧迫される集団の成員たちが、自分たちの条件の過酷さと圧迫する階級の快楽の享受している特権との間に成しうる比較も、決して一つの階級意識を構成するに十分ではありえないであろう。たかだかそのような比較は、個人的な妬みや個々の絶望を引き起こすくらいのものである。また、このような総体は、圧迫する階級から〈課せられたもの〉として、圧迫される階級によってもともと把握されているなどというのも、やはり同様に誤りであろう。そのような理論はたとえそれが真実であったとしても、一つの説明的な価値しかもたないであろう。とにかく、原初的な事実はこうである。すなわち圧迫される集団の成員は、単なる個人としてのかぎりでは、この集団の他の成員たちのと基本的な相剋のうちに拘束されている(例えば愛、憎悪、利害的対立等々)にもかかわらず、自分の条件およびこの集団の他の成員たちの条件を、自分たちのうちから脱出する意識個体(第三者)によって、〈まなざしを向けられているもの〉としてとらえる。主人、封建領主、ブルジョア、資本家などは、ただ単に命令を下す権力者として現れるばかりでなく、さらに、何よりもまず、〈第三者〉として現れる。言い換えれば、圧迫される共同体の外に存在する者、〈その者にとって〉この共同体が存在するような者としてあらわれる。それゆえ、被圧迫階級という実在が存在しようとしているのは、この〈第三者〉によってであり、この第三者の自由のうちにおいてである。この第三者はそのまなざしによって、被圧迫階級という実在を生ぜしめるのであり、私の条件と他の被圧迫者たちとの条件の同一性があらわになるのは、この第三者に対してであり、この第三者によってである。この観点からするならば、第三者の特権や、《われわれ》の重荷、《われわれ》の悲惨などは、我々の他有化をいっそう明瞭にする客観的特徴であるにせよ、それは一つの意味指示的価値しか持たない。《われわれ》の境遇がどれほど悲惨なものであるにせよ、もし第三者がいなかったならば、私は勝ち誇る超越として、私を把握するであろう。第三者の出現とともに、私は私の条件の事実性から出発して、世界によって打ち負かされたものとして、「われわれ」を体験する。それゆえ圧迫される階級は自己の階級的統一を、圧迫する階級が圧迫される階級についてもっている認識のうちに見いだす。被圧迫者のうちにおける階級意識の出現は、「対象-われわれ」を羞恥において引き受けることに対応する。次の節において、我々は圧迫する階級の一人の成員において《階級意識》がいかなるものであるかを見るが、重要なことはここまでの記述で十分に示されているように、「対象-われわれ」についての体験は「対他-存在」の体験を前提としており、前者は後者のより複雑な一様相でしかないということである。それゆえ「対象-われわれ」についてのあらゆる経験は、特殊な場合という資格で、今までの記述の範囲内に入るものである。さらにここから導けることであるが、「対象-われわれ」の体験は、それ自身のうちに一つの分解力を含んでいる。というのもそれは羞恥によって体験されるからであり、対自が第三者の面前で自分の自己性の復権を要求し、今度は第三者にまなざしを向けるやいなや、「われわれ」は崩壊するからである。それにしても、自己性のこの個別的な復権要求は、「対象-われわれ」を廃止するための可能なしかたの一つでしかないが、しかし階級意識のような強固な構造を持つある種の場合に「われわれ」を引き受けるということは、もはや自己性の個別的な取り戻しによって「われわれ」から自己を解放するのではなく、むしろこの「われわれ」を「主観-われわれ」に変化させることによって、「われわれ」全体を対象存在から解放しようとする企てを含んでいる。要するにここで問題なのは、先に述べたような「まなざしを向ける者」を「まなざしを向けられる者」に変化させる企ての一つのヴァリエーションである。圧迫される階級は、圧迫する階級に対してしか、また圧迫する階級を犠牲にすることによってでしか、自己を「主観-われわれ」として肯定することができない。言い換えれば圧迫する階級は、圧迫する階級を《対象-彼ら》に変ぜしめることによってでしか、自己を「主観-われわれ」として肯定することができない。ただしその際に、階級のうちに対象的に拘束されている個人は、自己の解放の企てのうちに、自己の企てによって階級全体を引きずっていくことを目指す。その意味で「対象-われわれ」についての経験は「主観-われわれ」についての体験を指し示す。同様に、われわれは《群集心理》と呼ばれているもののうちに、愛の特殊な一形態たる集団的熱狂(たとえばブーランジェ党
など)を見いだす。《われわれ》という語を口にする人はそのとき、群集のふところにおいて、愛の根源的な企てを取り戻す。しかし、それはもはや自分自身の責任においてではない。この人が第三者に要求することは、第三者が集団のために自己の自由を犠牲にすることによって、集団全体をその対象存在そのものにおいて救ってくれることである。先の場合と同様、この場合にも、失望した愛はマゾヒズムに至る。このことは、集団が自ら奴隷状態にとびこみ、対象として取り扱われることを要求する場合に見られるところである。集団の各人はこの対象存在のうちに自己を見失うことを企てるが、それはもはや個人的な「対他」ではなく、「群集-対象的全体」である。各人にとっての群集の巨大な物質性とその深い実在性は、各人おのおのにとって魅惑的である。各人は指導者のまなざしによる「対象-群集」のうちに自己を見失うことを要求する。
 
これら種々の場合において、我々は常に、「対象-われわれ」が一つの具体的な状況から出発して、すなわち《人類》という全体分解的な全体の一部分が他の部分を排除してそこに沈められている状況から出発して、構成されているのを見た。つまり、我々は他者たちの眼に対してしか「われわれ」であることはない。しかしこれらのことは、対自が自己自身と他の〈すべて〉の対自との絶対的な全体化へ向かって試みる、抽象的で実現不可能な一つの企てが、存在しうることを意味している。人類全体を取り戻そうとするこの努力は、原理的に人類とは別のある第三者の存在、すなわちその者の眼には人類全体が対象であるような第三者の存在をたてることなしには生じえない。この実現不可能な第三者は、ただ単に〈他性〉alterité の極限概念である。この概念は決してまなざしを向けられることのありえない「まなざしを向ける-存在」の概念、すなわち神の概念である。けれども神は徹底的な不在として特徴付けられるから、人類を〈われわれ〉のものとして実現しようとする努力は、たえず更新され、挫折に終わる。それにもかかわらず、各人は自己の所属する共同体の円環を次第に拡大していくことによって、人類的な《われわれ》に到達することができるという錯覚を持ち続けている。人類的な《われわれ》は単に指示されるにとどまる空虚な概念である。我々が《われわれ》という語をこの意味(対象としての「人類-われわれ」のこと)で用いるときには常に、絶対的な第三者の現前において感受させられるべきある種の体験を指示する。それゆえ「対象-われわれ」全体としての人類という極限概念と、神という極限概念は、相互に他を含み合うものであり、相関的なものである。