他者に対する第二の態度 - 無関心、欲望、憎悪、サディズム

 

他人に対する第一の態度の挫折は、第二の態度を取る機会ともなりうる。他人にとっての私の対象存在を介して、他人の意識を私に同化させようとする試みが不可能であることがわかると、私は決然として他人の方へ向き直り、他人に〈まなざしを向ける〉ようになる。私が何度も自分の主観性を投企し続けても、結局この主観性は裸のまま私の元に戻ってくるだけであった。私は開き直ってこの主観性を私の存在の根本原理としてたてるわけである。その場合、他者のまなざしに対してまなざしを向けることは、自己自身の自由を土台として他者の自由に直面することであり、互いに自由としてのかぎりで直面しあっている二つの自由の闘争を明るみにもたらそうとする試みであるが、この意図は直ちに挫折することになる。なぜなら、私が自分の自由のうちに立てこもるということだけからして、私は他人を一つの対象(「超越される-超越」)たらしめるからである。これから物語ろうとするのは、この挫折の歴史である。私は自由としてのかぎりでの他者を私に取り込もうとする。しかし他者の自由は私の手の届かないところにあり、私は、私の事実性や他者の事実性を利用して他者の自由に〈働きかける〉ほかはない。だがこの〈働きかけ〉は蓋然的なものでしかありえず、そのことからして、原理的に一つの自由はもう一つの自由のうちに包摂されることができない。この対自の存在論上の矛盾が、対自の挫折の歴史を形作ることになる。

 

 

他者に対する第二の態度 - 無関心

 

《まなざしに対してまなざしを向けること》は、私が世界への私の出現において、常にまなざしを向ける者として私を選び、他者の主観性の崩壊の上に私の主観性を打ち立てることである。〈他者に対する無関心〉indefférence envers autrui というのはこの態度のことであるが、それは他者たちに対する一種の盲目 cécité である。この盲目は私が自発的にそうあろうとするところの盲目であり、まなざしとしての他者の超越について、それを見ないように覆っておこうとする暗黙の了解である。その場合、私は一種の事実的独我論を実行する。他人たちは街路を通行していくこれらの形態であり、距離をおいて働きかけられ、また働きかけることのできるこれらの魔術的な対象である。他者はその働きかけにおいて魔術的な性質をこそ持っているものの、私に世界として呈示される道具複合体系のうちの、一つの要素でしかなくなる。切符切りは切符に穴を開ける機能であり、カフェのボーイはお客にサービスをする機能より以外の何ものでもない。しかしこの状態においては、我々は絶えず、自己に対するある種の欠如感と居心地の悪さを体験せずにはいられない。この欠如感は、私が私のあるところである「対他-存在」を全く欠いていることに由来する。なぜなら他者に対する盲目は、私の対象性についてのあらゆる体験的な把握をことごとく消失させるからである。まなざしとしての他者の消失は、理由づけられえない私の主観性のうちに私を投げ返し、かくして私は、私の運命ともいうべき、自由であるというこの恐るべき必然性を、完全に、裸のまま、とらえることになる。言い換えれば、私は存在することを自分で選んだのではなく、〈生まれた〉born のであるにもかかわらず、私を存在させる心遣いを私一人にしか任せることができないというこの事実と、厳然と直面することになる。また、他人に対する盲目は、一見すると他人の自由のうちにおいて危険に晒されているという恐れから私を解放してくれるように思われるかもしれないが、それにもかかわらず、この盲目のうちには他人の自由についての一つの暗黙の了解が含まれている。それゆえこの盲目は、私が自分を唯一絶対の主観性であると思い込むその瞬間に、私を対象性の最後におく。というのも、私は見られていながら、自分の見られていることを体験することができず、《見られていること》に対してこの体験の力で身を守ることができないからである。かくして、私の盲目は不安である。なぜなら私の盲目は、私の知らぬまま私を他有化する恐れのある、あるとらえられえない《さまよえるまなざし》についての意識によって、常に付きまとわれているからである。この居心地の悪さは、他者の自由を再びこちらに取り込もうとする試みの動機となるはずである。それはつまり、対象-他人のうえに私が向き直ることであり、他者の自由を取り込むためにその対象性を手段として利用しようとすることであろう。しかし私が他者の対象化の次元に身を置くかぎり、私が欲している「他者の自由」は超越として与えられないため、他者にその超越の弁明を求めることができないばかりでなく、また私の方でも、私がいったい何を欲しているかを考えてみることさえできない。かくして私は、私の見つめているこの対象に対して、腹立たしい矛盾した態度のうちにとどまっている。

 

 

他者に対する第二の態度 - 欲望

 

こうして現れた他人の対象性を通して、他人の自由な主観性を私のうちに取り込もうとする新たな私の試みは、〈性的欲望〉désir sexuelである。おそらく、なぜ「対他-存在」を実現する時の根原的なしかたをあらわす基本的な諸態度の水準において、通常《心理-生理的反応》に分類される一つの現象である性的欲望を取り上げるのか、意外に思われるかもしれない。事実、大部分の心理学者にとっては、意識事実としてのこの欲望は我々の性的器官の本性との密接な相関関係においてあり、性的器官のいっそう深い研究を待ってはじめて、この欲望の全容が解明されるとされている。身体の分化した構造や、したがってまた、性的器官の個々の構造は絶対的な偶然性の領域に属するものであり、決して意識の存在論の管轄に属するものではないから、性的欲望の場合も同様、存在論の扱うべき問題ではないように思われる。こういうわけで、いずれの実存哲学も、性欲の問題と本気で取り組むべきだとは考えなかった。ことにハイデッガーは、その実存的分析において、この問題にいささかも触れていない。したがって彼のいう《現存在》は、我々から見ると性別のないものであるように思われる。なるほど、確かに《男性》もしくは《女性》に分類されることは、《人間存在》にとって一つの偶然性であるとも考えられる。性的差異の問題は〈実存〉Existence の問題と何のかかわりもないということができる。なぜなら男も女も、ともに《実存する》exister のであって、それ以上でも以下でもないからである。

 

それにしても以上の理由は、絶対的に説得力のある理由だとはいえない。性的差異は事実性の領域に属するということを一応、無条件で認めるにしても、《対自》が性的であるのは、単なる付け足しであり、一つのこれこれの身体を持つという単なる偶然性によってであると言えるだろうか。性的生活というこの計り知れぬ大問題が、人間的条件におまけとして付け加わってくるということを、容認することができるだろうか。人間は偶然に一つの性を有して生まれるがゆえに性的な存在である、と言う人もあろう。だが、もしその逆だとしたら、どうなるだろうか。もし人間が一つの性を有しているのは、人間が世界のうちで他者たちと結びついて存在する存在であるかぎりにおいて、根原的に人間が性的存在であるためであるとしたら、どうなるだろうか。心拍数の増大やペニスの膨張など、生理的諸現象のメカニズムによる説明は性的欲望を説明しえないだろう。それは血管の収縮や瞳孔の散大が、恐怖の機能的な側面を説明するにとどまり、恐怖を説明することも恐怖を生じさせることもできないのと同様である。

 

他者の性についての原初的な把握は、性的欲望でしかありえないだろう。われわれは、その人の持っている性器の特徴や、声の高さ、毛の生えぐあい等の冷静な観察から、他者の性別について把握するのではない。我々が他人の「性別を持った-存在」を発見するのはこの他人を欲望することによって(もしくは欲望することができない自分をとらえることによって)、あるいは他者に欲望されることによってである。性的欲望は、私の「性別を持った-存在」を私にあらわにすると同時に、他人の「性別を持った-存在」を私にあらわにしてくれる。それゆえ性の本性とその存在論的位置を決定するためには、欲望の研究に向かわなければならない。それでは、欲望とは何であるか。

 

まず第一に、欲望は何について存在するか。欲望とは快楽についての欲望であり、苦痛をなくさせることについての欲望である、などといった考えは、初めから捨て去らなければならない。というのも、主観がそのような内在的状態から出ていって、その欲望を外界のある対象に〈結びつける〉のはいかにしてであるかが、明らかにされていないからである。この考えでは我々は具体的な他者を欲望するのであって、われわれの欲望の堪能を欲望するのではないということを説明することができないだろう。それゆえ、性的欲望を定義するには、欲望の超越的な対象をもってするのが適当である。しかしだからといって、性的欲望とは望ましい対象の《身体的所有》についての欲望である、などというのは全く的外れであろう。少なくとも、「所有する」ということを「性交する」という意味に解するかぎり、そのようにいうことは全く的外れである。もちろん、性的行為はさしあたり、我々をこの欲望から解放してくれる。またある場合には、性的行為がこの要望の願わしい結末としてあからさまに立てられることもありうる。けれどもその場合には、この欲望がそれ自身、片付けられるべき対象として立てられているのでなければならない。しかもそのことは、一つの反省的な意識によってしかなされないだろう。しかるにこの欲望はそれ自身、非反省的なものである。それゆえ、この欲望が自身を片付けられるべき対象として立てることはあり得ない。この誤謬は、性的行為がこの欲望を片づけるというふうに、我々が教えられていることから由来する。そこで人々はこの欲望そのものに一つの認識を結びつける。そしてこの欲望の本質にとっては外的なもろもろの理由(生殖、射精時の快楽、性的行為の象徴的な価値など)によって、この欲望にその正常な堪能としての快楽を、外から結びつける。こうしてこの欲望の起原も目的も、厳密に生理的なものであると思い込むようになったのである。しかしこの欲望は、決してそれ自身としては性的行為を含むものではない。それは例えば、幼い子どもの欲望、愛の《技巧》を知らない成人の欲望の場合に見られる通りである。同様にこの欲望は、何ら特殊な愛の営みについての欲望ではない。そのことは、社会的な集団を異にするにつれて変化する愛の営みの多様さを見ても明らかである。一般的にいえばこの欲望は、〈行うこと〉についての欲望ではない。〈行うこと〉は後から介入するものであり、この欲望に外から加わるものである。それゆえ、性的欲望は、その処理を最高目的として立てることもできないし、ある特殊な行為を究極の目標として立てることもできないのであって、全くただ単に、一つの超越的な対象についての欲望である。それではこの超越的な対象とは何であるか。この欲望は一つの〈身体〉についての欲望である、と言えるだろうか。ある意味で、このことは否定されえない。しかしたとえ、腕、胸、足といった身体の一部に対する欲望であっても、それは有機的全体としての全身体の現前を背景としてであり、状況のうちにある身体の一部としてである。すなわち、我々は単なる物質的対象としての身体を欲望するのではなく、それが同時に適応した意識を顕示するかぎりにおける身体を欲望する。のちに見るであろうが、この欲望によって開示される他者の「状況-内-存在」は、まったく独特な型に属する存在である。

 

地平線上の意識を持った、状況のうちにおける有機的全体としての、生ける身体。かくのごときものが、この欲望が向かう対象である。それではこの欲望は、このような対象について、何を欲するのか。この問題を解決するためには、あらかじめ「欲望するものは誰であるか」という問題に答えなければならない。

 

言うまでもないが、欲望する者は、〈私である〉。欲望はそれ自身、非反省的な意識である。しかし欲望が認識的意識と異なるのは、ただその対象の本性によるなどと思ってはならない。あらゆる意識は自己自身の事実性に対するある関係を支えているが、この関係は、意識様相の推移として変遷するものである。例えば苦痛意識の事実性は、苦痛の非反省的な意識のたえざる逃亡の内に発見された事実性である。しかし欲望の場合は事情は同じではない。欲望する人間はある特殊なしかたで、自分の身体を存在させる。この欲望は、意識と身体との、言わばねばねばした混濁 trouble である。生理的欲求の場合ならば私は自分の身体を、意識から距離を置いて存在させることができる。例えば「飢え」の場合ならば、私は何か別のことに集中することによって、この飢えを紛らわすことができる。だが性的欲望の場合は、私はこの欲望を一旦脇に置いといて、何か別のことに集中するというわけにはいかない。もしそうなれば、この欲望は消失してしまうだろう。その意味で、欲望することは欲望することへの受動的な同意であり、意識は欲望の共犯者である。この同意は意識の、ある独特な次元における身体への同意である。そこにおいて意識は、独特な次元において、自己が事実性として存在することを選ぶ。意識は、自分が別の身体を欲望の対象としてとらえるかぎりにおいて、自分自身の偶然性に自分を従属させようとする。その意味で性的欲望は、ただ単に他者の身体の開示であるばかりでなく、同時にまた私自身の身体の顕示である。しかもこのことは、例えばペンを握ったり、何かを観察したりする場合のように、私の身体が〈道具〉あるいは〈観点〉であるうちにおいてでなく、むしろ私のこの身体が純然たる事実性であるかぎりにおいて、すなわち純然たる肉体であるうちにおいてである。性的欲望はただ単に他者の身体についての欲望であるのではない。この欲望は他者の身体を通して、自ら自己の肉体のうちに埋没しようとする企てであり、この企ての直接的な体験である。それゆえ、性的欲望の最後の段階は、身体への同意の最後の段階としての失神であるだろう。

 

しかし性的欲望が地平線の彼方に意識をもった、状況のうちにおける有機的全体としての他者の身体を通して、自己をして自己の肉体たらしめる意識の働きであるとするならば、それは何のためであるか。これについては、もし我々が「性的欲望の場合には、私は他者の〈身体〉の現前を通して、他者の〈肉体〉を手にいれるために、私をして〈肉体〉たらしめる」ということを反省するならば、容易に答えることができるだろう。性的欲望は、状況のうちに存在する他者の身体から状況を奪い去って、この身体を単なる肉体として存在させようとする一つの試みである。他者を愛撫するとき、私は私の愛撫によって、他者の身体を肉体として生まれさせようとする。愛撫は身体を取り巻いているあらゆる状況、行動、意味を取り去ることによって、身体を取り巻いている諸可能性から身体を切り離すことによって、この身体を身体として支えている惰性的な存在、すなわち単に《そこに-ある》être-là もの(肉体)をあらわにするための行為であり、他人を〈受肉〉させる儀式の総体である。それゆえ、愛撫は性的欲望と異なるものではなく、それは実際に接触を伴おうとも眼で愛撫しようとも同じことである。あたかも思想が言語によって表現されるように、性的欲望は愛撫によって表現される。私は他者に他者自身の肉体を通して私自身の肉体を味わせ、かくして私は、他者が自己自身を肉体として感じるように仕向ける。そういうわけで最終的には、他者と私との間の二重の相互的受肉としての所有があらわれる。それゆえ、性的欲望とは、他者の受肉を実現するための意識の受肉(これが先に言ったように、ねばねばした混濁 trouble である)の試みである。

 

残されているのは性的欲望の動機、つまりそれが根本的に目的とするところのものを規定することである。欲望的な態度で世界に対するとき、私は世界の中の諸対象に対して、私を受動的ならしめる。すなわちそこでは、知覚は対象を利用することでもなく、ある目的を目指して現在を超出することでもなくなる。知覚は対象の形態や道具性よりも、むしろ対象の素材に関していっそう敏感になる(ぶつぶつがある、すべすべしている、生ぬるい等々)。空気の熱さ、風のそよぎ、太陽の光…世界のすべてのものが私の上に距離なしに置かれているものとして私に対して現前的であり、それらそのものの肉体によって、私の肉体を顕示する。この観点からすれば、欲望はただ単に事実性が意識をとらえることではない。それと相関的に、欲望は世界が意識をとらえることである。世界は〈鳥黐のはたらき〉をするものとなる。意識は一つの身体のうちに埋没し、さらにこの身体は世界のうちに埋没する。けれども性的欲望は、まず世界への一つの関係であるのではない。世界は他人とのあからさまな諸関係の背景としてしかあらわれない。通常、世界が性的欲望の世界としてあらわになるのは、他人の現前を通してである。私が私を肉体として顕示したいと欲望するのは、別の肉体によってであり、別の肉体に対してである。

 

ここに至って、性的欲望の深い意味を明らかにすることができる。他者のまなざしに対する原初的な反応において、私は私をまなざしとして構成する。しかし私が他者にまなざしを向けるやいなや、他者のまなざしは消失する。そうなると他者の自由も消失し、他者の自由は私の手の届かないところに行ってしまう。私は他人の自由に働きかけ、他人の自由を自分のものにするか、あるいは少なくとも、他人の自由によって私を自由として認めてもらいたいと思う。けれども他人のこの自由は死んでいる。というのも、私が「対象-他人」に出会うような世界のうちには、超越的なものは存在しないからである。私はすでに、他者への無関心の試みにおいて「まなざしを向けられている-存在」についての正確な了解を見失っていた。この了解こそが他人の自由を体験しうる唯一のしかたであるにもかかわらず、私はそれを見失う。かくして私は、私がその意味をまでも忘れてしまった一つの企てのうちに拘束される。私は、私が見ており私が触れているこの他人の面前において途方に暮れ、この他人をどうしたらよいのかわからなくなる。私が私をして性的欲望たらしめるのは、そのときである。性的欲望は、超越的なものを対象的なものに融合させようとする試みであり、一つの呪文的な行為である。私は他人をその対象的な事実性においてしかとらえることができないのだから、その場合に問題なのは、他人の自由をこの事実性において鳥黐にかからせることであり、他人の自由が事実性において《凝固する》ようにさせなければならない。その結果、他人の対自がその身体の表面に隣接するようになり、さらにその身体にくまなく広がるようにならなければならない。また、私が他人のこの身体に触れることによって、他人の自由な主観性に触れるようにならなければならない。そこに〈所有〉possession という言葉の真の意味がある。私は他人の身体を所有したいと思うが、それは他人のこの身体がそれ自身ひとつの〈憑かれたもの〉un possédé であるかぎりにおいて、言い換えれば他人の意識がこの身体と同化したものであるかぎりにおいてである。つまり純粋な超越であると同時に、身体としての他者の超越を所有すること、これこそが性的欲望の理想である。しかし他人の事実性の呈示は、私自身の存在の深い変化なしには私の直観に与えられない。私が世界のうちに出現するやいなや、私は諸事物を道具的存在として現れさせ、世界は道具複合の総体として現れる。そういうわけで通常、もろもろの存在はその存在の意味や機能によって覆われている。性的欲望がこのような〈状況-内-存在〉から〈存在〉へ向かうのは、存在を取り巻く状況を分解するためであり、それによって世界の中における他者の諸関係を腐蝕させるためである。つまり〈周囲〉から欲望の相手へと向かうこの運動は、一つの孤立させる運動であり、周囲を破壊し、当の相手だけをくまどり、かくして相手の事実性を際立たせる。しかしこのことは、世界の諸対象が私に対して当の相手を指示すると同時に、私に当の相手を指示する世界の諸対象がその単なる事実性のうちに凝固するかぎりにおいてしか可能ではない。したがって、他者の単なる存在への復帰運動は、私の単なる存在への復帰運動でもある。私は私自身で、私を裸にすることによってしか、他人を裸にしない。しかも、対自はもともと選択であるから、このことは私が一つの新たな可能性へ向かって、私を投企するかぎりでしか可能でない。この新たな可能性とは、《インクが紙によって吸収されるように、私が私の身体によって吸収される》可能性であり、私を単なる存在に集約する可能性である。けれども、私の受肉はただ単に〈私の眼に対して〉他人が肉体として出現するための予備的条件であるのではない。私の目標は、他人を〈他人自身の眼に対して〉肉体として受肉させることである。そうすれば、私はたえずいたるところで私を超越することのできる一つの超越の不断の可能性について、安心していられるだろう。この超越は一つの対象のうちに含まれたままでいるだろうし、私はこの超越に触ってみることも所有することもできる。それゆえ、私の受肉の第二の意味は、それが一つの呪文的な言語であるということであり、私は私の裸によって他者を魅惑するために、また他者のうちに私の肉体に対する欲望を起こさせるために、私をして肉体たらしめる。おのおのの意識個体は、自己を受肉させることによって、相手の受肉を実現しようとする。愛撫するごとに、私は私自身の肉体を感じ、私自身の肉体を通じて相手の肉体を感じる。私が私の肉体によって感じており、また所有しているところのこの相手の肉体が、同時に相手によって感じられている肉体であることを意識している。また、性的欲望が全体としての身体を目指すものでありながら、その中でも特にあまり分化していないで、神経の分布が比較的粗雑な、自発的運動があまりできないような肉体の塊(例えば胸、腹、尻、太ももなど)を目指すのも偶然ではない。それらの部分は他の部位よりも、より純然たる事実性の反映である。それゆえ真の愛撫は身体の最も肉体的な部分同士による接触、すなわち抱擁であるだろう。手は愛撫するが、それはあまりに繊細であり、完成された道具に近い。肉体相互に対しての、肉体相互による肉体の開花こそは、性的欲望の真の目標である。

 

しかしながら性的欲望もやはりそれ自身、挫折する運命を持っている。意識が身体のうちに埋没する経験は、その結末として一種独特な恍惚状態を持つ。この恍惚状態においては意識は身体の意識でしかないが、それは後に、身体性について反省的な意識の出現を動機づける。事実、快楽は(あまりに激しい苦痛と同様)《快楽に心せよ》という反省的な意識の出現を動機づける。しかしまさに快楽こそは、性的欲望の死であり、挫折である。快楽は享楽を目的とするような、快楽についての一つの反省的意識の出現を動機づけるが、それは反省される対自の受肉に対する注意であると同時に、相手の受肉の忘却である。性的欲望を挫折させる不断の危険は、相手の受肉を見失うことであり、ついにはこちらの意識の受肉だけが、意識の受肉の究極目標になってしまうことである。そうなると愛撫する快楽は愛撫される快楽に変化する。対自が求めるところのものは、自己の身体が対自のうちに開花するのを感じることであり、ついには嘔き気にまでいたることである。たちまちそこには接触の断絶が生じ、性的欲望はその目標を失う。しばしば起こることであるが、性的欲望のこの挫折は、マゾヒズムへの一つの移行を動機づける。自己の事実性のうちに自己をとらえるこの意識は、他人の意識によって対他-身体としてとらえられ超越されることを要求するようになる。そうなると対象-他人は消失し、まなざし-他人が再び出現する。この意識は他人のまなざしのもとで、自分の肉体のうちにおいて恍惚状態にあるような意識である。

 

あるいは逆に、性的欲望はそれが〈とらえようとする〉欲望であり、所有への欲望であるかぎりにおいて、この欲望そのものの挫折を引き起こすものである。私が他者の肉体を所有しようとするというそれだけの事実からして、私の肉体は肉体であることをやめる。私の〈肉体〉は再び、それがあるところのものである〈身体〉となる。それと同時に他人も受肉であることをやめ、再び世界のただなかにおける対象-身体として現れる。私が私の肉体で味わおうとしていたところのこの超越(他人の意識)は、私のまなざしのもとに消失する。こうしてまたしても私は、私が追求しているものについての明白な了解を失う。私の混濁とともに、私の欲望についての了解が私から脱れ出る。それにもかかわらず、私はこの追求のうちに拘束されている。サディズムの根原にあるのは、そのような状況である。

 

 

他者に対する第二の態度 - サディズム

 

サディズムは情欲であり、涸渇であり、執念である。というのもサディズムは、意識が何に自己拘束しているかを分からずに、自己を拘束されたものとしてとらえるときの状態であり、対自が自ら立てた目標をはっきり意識せずに、またこの拘束にみずから結びつけた価値を定かに記憶せずに、自己の拘束に固執するときの状態であるからである。サディズムが涸渇であるのは、性的欲望がその混濁から免れて空になったときに現れるからである。サディストは再び自己の身体を総合的全体として行動の中心にとらえ、自己を純然たる超越として経験する。サディストは混濁を一つの屈辱的な状態と考えており、自分では混濁を嫌悪する。サディストは執念であると同時に涸渇であるかぎりにおいて、情欲のとりこである。サディストの目標は、性的欲望の場合と同様に他者をとらえることであるが、ただし対象-他者としてのかぎりでの他者をとらえるのではなく、むしろ、受肉した純粋な超越としてのかぎりでの他者をとらえることである。けれども、サディズムにおいては、受肉した他者をその目的のために利用することに重点が置かれる。性欲におけるサディズムのこの契機は、受肉した対自が、他人の受肉を自分のものとするために、自己の受肉を超出するときの契機である。そのゆえサディストは自己を受肉させることを拒否するが、これによって他者の受肉を自己自身の受肉によって実感することができないし、また実感しようともしないのであるから、この目的のためには他者を〈まなざし〉を向けられる存在として扱う以外に、すなわち一つの対象として扱うより以外に何ら策を持たない。サディズムは受肉した存在を他人に実感させるために、他人の身体を一つの道具として利用することを求める。サディズムは暴力によって他者を受肉させるための一つの努力であるが、《力による》この受肉は、すでに他人を自分のものとすること、他人を利用することであるはずである。サディストは性的欲望の場合と同様に、他人の単なる存在を覆い隠しているその諸行為や状況を剥ぎとって、他人を裸にしようとする。しかし性的欲望の場合には他者が肉体であることを他者自身に顕示するために、自分自身の肉体のうちに自己を失うのであるが、サディズムの場合は、自己自身の肉体を拒否すると同時に、他者にその肉体を力ずくで顕示するためにさまざまな道具を用いる。サディズムが実現することを欲しているような型の受肉に関して言えば、それは我々が猥褻 Obscéne と名付けるところのものである。猥褻なものは、状況のただなかに突如出現する肉体の無気力な開花である。裸体や背中を見ることが猥褻なのではない。むしろ、歩いている人が尻を無意識に左右に振ることの方が猥褻である。この尻は歩いているという状況によっては理由づけられえない存在であり、まるで両脚によって運ばれていく一つの孤立したクッションである。それは歩いているという状況のうちに突如現れた肉体の惰性の顕示である。サディストは自己自身の受肉を通じて他者の受肉をとらえることができないのであるから、単なる事実性の顕示だけではサディストにとっては不十分である。この受肉は、意識があからさまにその肉体の惰性を顕示するような姿勢を、身体のうちに取り入れたものでなければならない。

 

しかしながら、サディズムもまた、盲目的な無関心や性的欲望と同様、それ自身の挫折を含んでいる。まず第一に、身体を肉体としてとらえることと、身体を道具として利用することの間には、到底両立しえない点がある。もし私が肉体を一つの道具たらしめたのであれば、その肉体は対象-肉体として、私に他のもろもろの道具や潜在性を指し示す。要するにその肉体は、一つの状況のうちにある。そうなると肉体というその性質、すなわち無用な事実性というその性質は、道具-事物という性質に席を譲ることになる。サディストがつくり出そうと試みた《道具-肉体》という複合は分解する。この深刻な分解は、肉体が肉体を顕示するための道具であるかぎりにおいては覆い隠されることもあるが、けれども受肉が完了して、私がまさしく目の前に、息も絶え絶えになった一つの身体を見るとき、私はもはやいかにしてこの肉体を利用すべきかを知らない。まさに私はこの肉体の絶対的な偶然性を現れさせたのであるから、いかなる目的もこの肉体にあてがわれることができない。私はこの肉体を前にして、呆気に取られたまま茫然としているか、さもなくば今度は私の方が私自身を受肉させ、混濁にとらわれるままになり、肉体がそのまったき肉感性において肉体に対してあらわになるような領域に、再び私を置くかである。それゆえサディズムはその目標が達せられようとする刹那に、性的欲望に席を譲ることになる。

 

それと同時に、もう一つの別の次元において、サディズムは一つの新たな挫折の動機を含んでいる。事実、サディストが手に入れようと試みるのは他者の超越的な自由であるが、この自由はサディストにとって原理的に手の届かないところにとどまっている。サディストが執拗に他者を道具として取り扱おうとすればするほど、この自由の超越性はいよいよ際立ってくる。サディストが他者からまなざしを向けられるとき、言い換えればサディストが他者の自由のうちにおける自分の存在の絶対的な他有化を経験するとき、サディストは自分の誤謬を発見する。サディストは結局、自分が取り戻そうと踠いていたところの、何らかの《外部-存在》を取り戻せなかったことを実感するだけでなく、さらにまた、自分の外部-存在を取り戻そうと試みる活動までもが他者によって超越されており、これこれの素質および特性として《サディズム》のうちに凝固させられていることを実感する。それはサディストが屈従を強いている他者の屈服の言葉によってでもある。というのも、サディストがいかに他人を強制して屈服させ赦しを乞わせても、他人の自由に働きかけることはできないからであり、そもそも幾多の責め道具、屈服するため、自己を裏切るための数多くの口実がそこに存在するような状況自体が、他人の絶対的な自由の存在を指し示すからである。こうしてサディズムは、自分の屈服させようとしていたのがそのような自由であったのを発見すると同時に、自分のあらゆる努力が空しいものであったことを悟る。またしても我々は「まなざしを向ける-存在」から、「まなざしを向けられる-存在」に指し向けられる。我々はこの循環から外に出ることがない。

 

以上のすべての考察は、性的な問題を汲み尽くすものではないし、ことに他者に対する様々な態度の問題を論じ尽くすものではない。しかしここで示そうと試みたものは、性的態度は他者に対する一つの原初的な態度である、ということである。この態度はそれ自身のうちに、「対他-存在」の偶然性とわれわれ自身の事実性の偶然性を、必然的かつ根原的に含むものではあるが、けれども「この態度ははじめから一つの生理的経験的な構成に従属している」などというような考えは到底受け入れられないだろう。身体がそこに存在するやいなや、他者がそこに存在するやいなや、我々は性的欲望によって、愛によって、またここまで言及してきたような種々の派生的態度によって、それに働きかける。われわれの生理的な構造は、われわれがそれらの態度の一方もしくは他方を取りうるという不断の可能性を、象徴的に、絶対的偶然性の領域において表現することしかしない。それゆえこう言っても良いだろう、「対自は、他者の面前への出現そのものにおいて、性的であり、性欲は対自によって世界にやってくる」。

 

他者に対する様々な態度が、以上記述してきたような性的態度に還元されるというわけではもちろんない。しかしここまで性的態度について長々と述べてきたのは、次の二つの理由によるものである。まず第一に、性的態度は基本的な態度であるからである。第二に、人間の相互的なすべての複雑な諸態度は、これらの根原的態度の多岐に分かれた形態でしかないからである(第三の態度である憎悪については、すぐ後で記述する)。もちろん、もろもろの具体的な態度(協力、闘争、競争、約束、服従、親切等々)は記述するに無限に微妙である。けれどもそれらの諸態度はすべてそれ自身のうちに、その骨格として性的関係を含んでいる。それは、いたるところに忍び込んでくる何らかの《リビドー》のごときものが存在するからではなく、むしろただ単に、ここまで記述したところの二つの態度が、対自が自己の「対他-存在」を実現し、この事実的状況を超越しようと試みるときの基本的な企てであるからである。憐れみ、感嘆、嫌悪、羨望、感謝の念などが、どの程度まで愛や性的欲望を含みうるかということを示すのは、今は適当ではない。またこう言ったからとて、これらの種々の態度は、性欲が仮の姿をとって現れた単なる偽装であるというわけでもない。むしろ性欲はこれらの態度の根拠として、これらの態度のうちに内在されている。あたかもそれは、円の観念のうちには、固定した一端の周囲を回転する線分の観念が含まれているのと同様である。

 

こうして我々は、主観-他人から対象-他人への、あるいはその逆の、終わらない循環のうちにある。我々は、他者の自由と他者の対象性を同時にとらえようとする不可能な理想を追求する。我々は決して平衡の次元に、すなわち他者の自由の承認が、他者による我々の自由の承認を必然的に伴うような次元に、具体的なしかたで身を置くことができない。他者は私が追い求めるときに私から逃れ去り、私が逃れようとするとき私をとらえる。いかに私がカント的な道徳律に従って他人の自由を無条件的な目的とみなして行動しようと思っても、他人のこの自由は、私がそれを私の目標たらしめるということからして「超越される-超越」となり、対象性のうちに凝固するだろう。また他方、私は「対象-他人」を、他人のこの自由を実現するための手段として利用することによってしか、他人の利益のために行動することができないであろう。かくして私は、自由な政策の暗礁ともいうべき次のようなパラドックスに導かれる。ルソーはそれをただ一言で表現した。すなわち「私は、他人を、自由であるべく《強制》しなければならない」。この強制は必ずしも常に、また最も頻繁に、暴力という形で行われるわけではないにしても、やはり人間相互の関係を律している。私が慰めや励ましを与えるのは、他者の自由を曇らせている様々な恐れや苦しみから、この他者の自由を解放するためである。けれども慰めや励ましの言葉は、他人に対して働きかけるための、目的に対する諸手段の一体系を構成するものであり、したがって今度は、他者を道具-事物としてその体系のうちに内在化させる。そればかりでなく、慰めを与える者は、一方では自らが理性の使用や善の追求と同一視している自由と、他方では自らにとって一つの心的決定論に属するものに見える苦悩との間に、恣意的な区別を立てる。そこではあたかも化学的な化合物の二つの構成要素を分離させるように、他者のうちの自由と苦悩が分離するように働きかける。しかし、このように自由を選り分けられると思っているということ自体がすでに、自由に対する暴力である。このような考えに固執しているかぎり、「自己をして苦悩たらしめているのは、自由そのものであり、したがって自由を苦悩から解放するために働きかけることは、自由に反した働きかけることである」という真理をとらえることができないだろう。結局のところ、我々の出現は、他人の自由に対する自由な制限である。何ものも、たとえ自殺でさえも、この根原的な状況を変えることはできない。事実、我々がいかなる行為にせよ、行為を成し遂げるのは、すでに他人が存在している一つの世界のうちにおいてであり、私が他人に対して〈余計なもの〉であるような一つの世界のうちにおいてであるからである。

 

罪責とか罪という観念が由来してくるように思われるのは、この特異な状況からである。私が罪責あるものであるのは、他人の面前においてである。まず、他人のまなざしのもとに私が、私の他有化と私の裸とを、私の引き受けなければならない一つの失墜として体験するときに、私は罪責あるものである。「彼らは自分たちが裸であることを知った」という聖書の有名な一節の意味はここにある。さらに今度は、私が他人にまなざしを向けるときに、私は罪責あるものである。というのも、私は私の自己主張という事実そのものによって、他者を対象として、道具として、構成するからであり、また私は、他者が引き受けなければならないところの他者の「対他-存在」を、他者の身に到来させるからである。それゆえ、原罪とは、他人の存在している一つの世界の中への私の出現である。けれどもこの罪責は根本的に無力なものである。この無力さゆえに、私は私の罪責を洗い清めることができないし、また私が他人の自由〈のために〉どんなことをしようとも、私のあらゆる努力は、結局、他人を道具として取り扱い、他人の自由を「超越される-超越」として立てることになる。けれどもその反面、私の用いる強制力がいかなるものであるにせよ、私は他者を、その「対象-存在」においてしか襲うことができない。私は決して他者の自由を増やすことも減らすこともできないし、指導することも奪い取ることもできない。私の存在の出現は、他者の意に反して、他者に対して一つの存在次元を与えるものであり、その意味で私は他者に対して、私の存在そのものにおいて罪責ある者である。

 

 

他者に対する第二の態度 - 憎悪

 

 

自己を歴史化することによって、これらの種々な有為転変を経験してきた対自は、ついに他者の死を求める決心をすることもある。この自由な決心は憎悪と名付けられる。憎悪は一つの根本的な諦めを含んでいる。つまり、この対自は他人との何らかの合一を実現しようとする意図を放棄する。この対自は、自分の即自存在を取り戻すために他人を道具として利用したりすることなどは断念する。この対自は、ただひたすら、事実的限界を持たない一つの自由を再び見出そうとする。言い換えれば、この対自は、とらえられえない自分の「対他-対象-存在」を除去し、自分の他有化の次元を廃止しようとするものであり、それはつまり、他人の存在しない一つの世界を実現しようと企てることである。憎悪の対象はこれこれの容貌、これこれの欠点、個々のこれこれの行動などではなくて、「超越される-超越」としての他者の存在一般である。そういうわけで、憎悪は他人の自由についての承認を含んでいるのであるが、ただしこの承認は抽象的であり否定的である。憎悪が執着するのは、あくまでも対象-他人である。憎悪はこの対象を破壊することによって、同時にそれにつきまとう超越を抹殺しようとする。憎悪のうちには、私の「他有化された-存在-次元」は、もろもろの他人たちによって私にもたらされる一つの現実的な屈従である、ということについてのある了解が与えられているのであるが、企てられるのは、かかる屈従の抹殺である。

 

けれども、憎悪はそれ自身やはり一つの挫折である。事実、仮に憎悪の企てが完全に成し遂げられたとしても、憎悪は他人を存在しなかったものとさせることはできないだろう。言い換えれば、他人の廃止は、それが憎悪の勝利として経験されるためには、他者が現実に存在していたというあからさまな承認を含んでいる。そのときからたちまち、私の「対他-存在」は過去に滑り落ち、私自身取り返しのつかない一つの次元となる。私の「対他-存在」は私がそれであったものとして、私がそれであるべきであるところのものである。したがってもはや私は、私の「対他-存在」から私を解放することができないだろう。というのもこの他有化に働きかけるための鍵を、破滅した他人が墓の中へ持ち去ったからである。こうして憎悪の勝利は、その出現そのものにおいて、挫折に変じる。憎悪をもってしても、我々はこの循環から脱出することができない。憎悪はただ単に、究極的な絶望の試みを表しているに過ぎない。対自は果てしなくこの循環のうちに追いやられていくほかはない。