他者に対する第一の態度 - 愛とマゾヒズム

 
他者に対する第一の態度- 愛
 
〈まなざし〉としての他者の存在の顕示は、私の対自存在としてのありかたを根底からおののかせるものである。私の対象-存在、すなわち「対他存在」としての私のありかたは、他者においてその根拠をもっている。私は私の対他-存在の責任者ではあるものの、私の対他-存在の根拠であるのではない。よってこの対他-存在は、偶然的な所与でありながら私がそれの責任者であるような一つの所与として、私に現れる。一方で他者は、その自由な超越によって私の存在を〈そこに存する〉というかたちで存在させるかぎりにおいて、この私の存在の根拠であるが、私の存在の責任者であるのではない。それゆえ、私が、私を、私自身に対して、私の存在の責任者として開示するかぎりにおいて、私は、私がそれであるところのこの存在を〈要求する〉。言い換えれば、私は私がそれであるところのこの存在を、取り戻そうとする。いっそう厳密にいえば、私はこの存在を取り戻そうとする企てである。この、私による私の存在の取り戻しは、私が他者の自由を私のものにすることによって成し遂げられる一方で、他者の自由な超越が私の存在の根拠となっているのだから、他者の自由の本性を犯すようなものであってはならない。そのため、この企ては、「他者の自由」に対して〈働きかける〉という構図をとることになるだろう。この企ての目指す実際の状況は、他者が自分自身の自由のうちにおいて、自己拘束を行うことである。愛の場合に我々が他者のうちに求めるのは、情念的な決定論でもないし、手の届かないところにある一つの自由でもない。むしろ我々が求めるのは、情念的な決定論を演じる一つの自由であり、自己自身の遊びに囚われる一つの自由である。恋する人は相手にとって《世界のすべて》であることを欲する。確かに彼は対象である。彼は対象であることに同意するけれども、彼が対象であることを欲するのは、この対象のうちに、他者の自由が、自己を失うことに同意するかぎりにおいてであり、他者が、この対象を世界の超越されえない極として世界の他のすべての諸対象を配置するかぎりにおいてであり、またこの対象のうちに、他人が、自己の存在および自己の存在理由を第二の事実性として見いだすことに同意するかぎりにおいてである。対象を超越する対自と、超越されない対象というこの矛盾は、恋する人に特徴的な態度によって表現される。つまり恋する人は、他者の自由の循環を求める。言い換えれば、他者の自由がその超越に対するかかる限界に同意するするときには、この同意が、〈すでに〉、当の同意の動因として現前していることを、彼は欲する。彼が目的として選ばれることを欲するのは、「すでに選ばれた目的」という資格においてである。恋する人は、〈行為としては〉他者の自由に働きかけるが、他者の自由に働きかけることを欲しているのではなく、むしろ他人のこの自由の対象的な限界としてア・プリオリに存在することを欲している。それは自由が事実を根拠づけることを欲すると同時に、この同じ事実が自由のうえに優位をもつことを欲することである。目的とは「未来にある原因である」という点でそれ自体が超越的な概念であるが、愛においてはこの目的が、〈因果律に従う現実の世界において〉実現されることを目指す。愛とは自分の存在を取り戻そうとする対自の不断の投企であると同時に、自己欺瞞的あるいは相互欺瞞的な遊びであるが、この愛のうちにいるかぎり、私の事実性は《救われる》。愛される以前は、私は自分の存在という、理由づけられずまた理由づけられることもありえないこの結節について、不安であったのに引き換えて、つまり私は自分自身を《余計なもの》と感じていたのに引き換えて、今では私のこの存在が、一つの絶対的な自由によって取り戻され、欲求されているのを感じる。しかも同時に、私の存在は他者のこの絶対的な自由を条件づけており、また私は私自身の自由を以ってこの絶対的な自由を欲している。愛の喜び、すなわち「私が理由づけられて存在しているのを感じる」という喜びがあるとすれば、そこにこそ、その根拠があるだろう。そして、もしかりに、私がこの全体系を内面化し得たならば、私は私自身の存在根拠になるだろう。それゆえ、以上のごときが、恋する人の真の目標である。しかしこのことは実現し得ない。愛とは自分と他者それぞれにおける内的な否定を保持しながら、それら二つの内的否定の間に広がる事実的な否定を乗り越えようとする矛盾した努力である。私は他者が私を愛してくれることを要求し、私の企てを実現するためにあらゆる手段を講じるが、けれども、ひとたび他人が私を愛するならば、彼は、彼の愛そのものによって、根本的に私を失望させる。というのも、私が彼に要求していたのは、彼が私の面前において純然たる主観性として自己を維持しながら、私の存在を特権的な対象として根拠づけてくれることであったのだが、今や彼は主観としての私を体験し、私の主観性の面前において、彼自身の対象性のうちに呑み込まれる。それゆえ、私の「対他-存在」の問題は、依然として未解決のままである。恋する人がたえず感じる不満足は、しばしばそう思い誤られているのとは違って、相手に取り柄がないところから来るのではなく、愛の直観が、根本-直観として到達不可能な一つの理想であることについての、暗黙の了解から生じるのである。私が人から愛されれば愛されるほど、私は私の存在を失い、私自身の責任に、私自身の存在可能に引き渡される。また、他人の目覚めは常に可能である。私が世界のうちの対象であるかぎり、他者が私を対象として超越することは常に可能である。他者が私を、他者の世界の超越されない超越限界の極として扱ってくれるかどうかは、ひとえに他者の自由意志にかかっている。恋する人が感じる不安定はここからくる。さらにまた、愛はたえず第三者によって相対的ならしめられる一つの絶対である。愛が絶対的な帰趨軸という性格を保つことができるためには、相手とただ二人きりで世界に存在しなければならないだろう。相対化された愛は、第三者によって他有化される、凝固した一つの「対象-恋愛」である。それは恋する人に自分が対象化されたという意識(恥や自負)を引き起こす。このことは恋する人が自身の恋愛をひた隠したり、あるいは吹聴したりする動機となるだろう。また逆に言えば、恋人同士では互いに相手によって対象化される心配がないから、お互いに相手に対して恥や自負といった感情を抱かないということの理由にもなる。
 
なお、私の存在を取り戻すという企図は、他者の自由への〈働きかけ〉によって行われると言われた。しかし具体的にどのように行われるかは、本筋の趣旨から外れるために省略したので、ここで概要を示しておくことにする。私の存在を取り戻すための他者の自由に対する〈働きかけ〉は、誘惑というかたちをとる。私が愛において欲しているのは他者の主観性であるが、この他者の主観性は私が〈まなざし〉を向けることによって、すなわち私が自分の主観性を見せることによって容易に消失する。そのため誘惑する際には、私は決して自分の主観性を見せようとしないだろう。誘惑するとは、私の対象存在を他者のまなざしのもとに置くことであり、私の上に他者のまなざしが向けられるようにすることである。誘惑するとは、〈見られる〉危険を冒すことであり、私の対象存在によって、また私の対象存在のうちに他者を呑み込むことである。誘惑という行為において、私は私を有意味的なものとして構成するが、それは二つの方向において、私の超越的存在を指示する。一方では対象的な隠された存在の深さによって、私の対象的存在を構成するものとして私が与えるところのその他の現実的および可能的な諸行為の、無限の無差別的な一系列を指示する。私は一つの対象-行為、例えば微笑み、仕草、気遣いによって、他者に対象としての私をとらえさせるとともに、私の存在の深さを意識させることになるだろう。こうして私は、私を超越する他者の超越を導いて、この超越に私の対象-全体(死せる諸可能性)を指し示そうとするのであるが、それはまさに、私自身が超越されえないものであらんがためである。他方では私の諸行為の各々は、可能-世界の最大の厚みを指示しようとする場合もある。例えば私が他者の生活の隅々まで介入しようとしたり、あるいはただ単に金銭、権力、血筋などを用いて他者を誘惑する場合がそうである。第一の場合において、私は私を無限の深さとして構成しようとし、第二の場合において、私は私を世界に同化させようとする。このような表現上の試みは、言語を前提とすると思われるかもしれない。それは確かにそうである。むしろこう言っても良いであろう。それらの試みが言語〈である〉と。もちろんここで言っているのは、単に話されたり書かれたりする言語だけでなく、あらゆる身体の機能を使った意味表現一般のことである。個々の言語の存在や習得や使用などに関しては心理的歴史的な諸問題があるにもかかわらず、言語の存在については何ら問題は存在しない。言語は「対他-存在」に後から付加される一つの現象ではない。言語は根原的に、他の一つの主観との関係を前提とするが、そのかぎりにおいて、言語はそれ自体が一つの「対他-存在」であり、一つの主観性が他人にとって対象として体験されるという事実である。しかし、他者の自由への〈働きかけ〉は、私が私自身に対して働きかけるのとは違って、対象という媒介を挟んだ二つの超越のあいだの出来事である。それゆえ、表現はある意味、必然的に魔術的なものとなる。私は私の言葉、態度や仕草に意味を託すのであるが、この《意味》は常に、私から脱れ出る。私は、私の意味しようとしていることを果たして私は意味しているかどうか、正確に知ることができないし、はたして私が有意味的であるかどうかさえも正確に知ることができない。まさにこの瞬間に、私は他人のうちに何ごとかを読み取らなければならないのであるが、それは私の手の届かないところにある。結局、私が自分を表現するやいなや、私は自分が表現しているところのものの意味を推測することしかできない。他者と私が同じ言葉を使っているということは、他者と私が同じ身体の形態をもっているということと異なるところがない。それゆえ、言語の問題は身体の問題と並行しており、身体の場合に妥当した記述は言語にも当てはまる。
 

他者に対する態度についての補足、感想(1)

 
ところでサルトルは、個々の言語についての存在や習得や使用などに関しては、心理的歴史的な諸問題があると書いていた。しかしサルトルの記述からは、個々の言語に限らず言語の存在そのものに関してパラドックスがあるように思われる。すなわち、もし対自に対して他者が存在するならば、対自は他者および自己を対他-存在としてとらえるかぎりにおいて、言語はすでに与えられている。一方でもし対自に対して他者が存在しないならば、対自はそもそも言語を発明する必要がないし、発明することができないだろう。それでは言語はどうやって生まれたのか、という問題である。しかし奇妙なのは本書第II巻p389〜p390において、サルトル自身がこのパラドックスを暗示している点である。つまりサルトルはこの矛盾に気づいていたにもかかわらず、これについて何ら弁明をしなかったと解釈できる。ここの記述をどう解釈すべきであるかは難解であるが、次のように解釈できないだろうか。
 
まず、「言語が根原的に他の一つの主観を前提とする、言語はそれ自体が一つの『対他-存在』である」という記述だが、これはそれ自体としては誤りである。いくつか例をあげてみよう。例えば警戒色は天敵に対して自分が有害な存在であることを、敢えて目立たせることによって伝えるという意味で、一つの言語である。しかし警戒色を持つすべての生物が、自分の体色は警戒色であるということを認識しているわけでもないし(本来ここで「自分」、「認識」という語を用いるのは不適切なのだが、表現の都合上である)、群れをなして生活するわけでもないから、「他者」という自己と同一の個体の存在を認識するというわけでもない。しかし、警戒色は形態であって表現ではないのだから、厳密には言語ではないということもできるだろう。それでは「蟷螂の斧」のエピソードにあるような、カマキリの威嚇はどうであるか。カマキリにとって動くものは天敵か獲物か自然現象であり、「他者」という自己と同一の個体を認識する能力がないと考えられる。それは確実なことではないものの、カマキリが群れをなして生活しないこと、「自己」を識別する能力がないこと、「他者」を認識する能力を持つメリットがないこと等から、間接的に推論される(なお、共食いについては、人間的な倫理規範の押し付けであるため理由になりえない)。例外として繁殖期の雄だけは交尾を行うために、一時的にこの能力を獲得している可能性があるが、そうでない可能性も十分にある。さて、カマキリの威嚇も警戒色と同様に、自分をその大きさによって敢えて目立たせることによって、自分が有害な存在であることを相手に伝える。威嚇は形態ではなく表現であり、また相手に意味を伝えるものであるから、一つの言語である。しかしカマキリにとって「他者」は存在しないのであるから、これはサルトルの記述と矛盾する。この矛盾を回避するためには、「他者」をア・プリオリに自己と同一の存在として認識される存在という意味に限らず、天敵や獲物を含めて広く適用する必要があるが、そうすると本書の記述を大幅に書き換えなければならなくなるだろう。
 
このように、この記述を事実的な観点から解釈するかぎり、この記述は誤りである。しかしこの記述を現象学的還元から演繹された結論であると解釈するならば、事情が異なってくる。つまり、他者に関する二つの仮定を立てたのが事実性の観点であるが、現象学的還元の立場からは、この二つの仮定を立てるのは対自であるが、しかしこの問いを立てる対自に対しては、すでに他者がア・プリオリに与えられている。それゆえ、この矛盾は事実性の矛盾ではなく、対自にとっての矛盾である。これは対自の誕生についての構図と同じである。まず事実として、身体を持つものとしての対自には誕生が存在する。しかし対自の観点からは、自己が生まれた瞬間やそれ以前のことなどは考えてみることさえもできないのである。事実性の観点からは対自の誕生は過去のある一瞬間であるが、対自の観点からは、対自の誕生はどこまでも遡れる深淵の極限にある。こう解釈するならば、サルトルの記述は誤解を招きやすく不十分であると言わざるをえないが、しかし断定して誤りだということはできなくなる。
 
 
他者に対する第一の態度 - マゾヒズム
 
それゆえ、私が対象的なもののうちに自己を失おうと試みたところで、それは無駄であった。私の情念も、恋人も、他の第三者たちも、結局最後には、私に対して理由づけられえない私の主観性を指し示すのであった。この確認は一つの全面的な絶望を引き起こすこともできるし、また他者と私自身との同化を実現するための別の新たな試みを引き起こすこともできる。この試みの理想は、ここまで記述してきた理想の逆であるだろう。私は、他人の他性を保たせたままでこの他人を吸収しようとする代わりに、他者に吸収してもらおうと企てるであろう。この企図は、具体的な面ではマゾヒスト的な態度によって表される。他者は私の「対他-存在」の根拠であるから、私は他者の主観性のうちに、対象-存在として全面的に吸収されるのを欲する。もしこれが完全に実現されれば、私は他者の自由のうちにおいて、自己の存在のうちに根拠づけられた一つの「即自-存在」となるだろう。この場合、他者が私の存在のうちに私を根拠づけるときの原初的な行為にとって障碍となるものは、私の主観性である。何よりもまず、私自身の自由によって否定されなければならないものは、この私自身の主観性である。そこで、私は、私の「対象-存在」のうちにまったく自己を拘束しようと試みる。ところで私が対象-存在であることの意識は、羞恥によって経験されるのであるから、私は、私の羞恥を、私の対象性の深いしるしとして欲することになる。また、他者は〈現実的な欲望〉によって、私を対象としてとらえるのであるから、私は欲望されることを欲する。もし私が、他人の超越の限界-対象として他人にとって存在することを求めずに、むしろ反対に、他の諸対象の間の一つの対象として、また利用されるべき一つの道具として、他人から取り扱われることを求めるとしたならば、以上の態度は、その結論において愛の態度に類似したものになるだろう。
 
しかしこの試みもまた挫折する運命にある。事実、私が「対象-私」によってそのうちに囚われるためには、私は〈他人にとって〉のこの対象-私についての直接的な把握を実現することができるのでなければならないが、これは不可能である。マゾヒストの姿が猥褻であったり滑稽であったりするのは〈他人にとって〉である。マゾヒスト自身としては、それらの姿勢を自己に与えるように運命づけられており、自己の対象性を味わおうとすればするほど、いよいよ自己の主観性の意識に満たされるだろう。またマゾヒストは、自己の対象性を味わうという目的のために、他人を対象-他者として利用しなければならない。マゾヒストは自己の対象性をとらえようとして、かえって他人の対象性を見出すことになる。マゾヒズムは、他人に自己の主観性を同化してもらうことによって、自己の主観性を絶滅させるための矛盾した努力である。