身体論

 
ここまで見てきたところでは、他者の存在は、私の対象性という事実のうちに、またこの事実によって明証的に体験される。また、他者にとっての私自身の他有化に対する私の反応は、他者を対象として捉えることによって表される。要するに、私が〈まなざしを向けられている〉という状態、他者を明証的に体験しているときには、私は他者を認識することができず、逆に私が他者を認識しているならば、私は他者の「対象-存在」にしか、すなわち世界のただなかにおける蓋然的な存在にしか到達しない。この二つの契機は、総合することのできない還元不可能な事実性である。ところで、他者が私にとってそれであるところの対象と、私が他者にとってそれであるところの対象は、いずれも身体として現れる。それならば、私の身体とは何であるか。他者の身体とは何であるか。
 
身体の問題、および身体と意識の関係の問題が、往々にして曖昧にされている理由は、身体をはじめから一種の事物と決めてかかり、これにはそれ自身の法則があり、外部から規定されうるものであるとみなす一方で、意識には意識自身の法則があり、意識の解明はそれに固有な型の内的直観によって到達される、と考えることからきている。しかしこの困難は、私が私の意識を、私に対してではなく、他人たちの意識に結びつけようとするところから由来する。すなわち、私の身体が私にとって現れるありかたである「対私存在」としての私の身体と、私の身体が他者にとって現れるありかたであり、また他者の身体が私にとって現れるありかたである「対他存在」としての身体のありかたを同一視することから由来する。この言いかたはわかりやすいが、しかし誤解を招きやすい。正確に言えば、この困難は、私の意識に対して直接的かつ明証的に現れる身体と、認識を通して現れる身体とを同一視することからきている。例えば私が私の身体を観察するとき、自らの手で体のあちこちを触ったりするとき、私は私の身体を認識を通して、すなわち対象-身体として捉える。この場合、私は私の身体を、私の未来への投企としての諸可能性を指示するかぎりにおける身体ではなく、そのような超越的な諸可能性が即自として凝固した、対象-存在として捉える。端的に言えば、私は私の身体を、他者の身体として捉えるのであり、これはもはや私の身体が意識に対して直接的に現れるありかたと同じではない。「対私存在」と「対他存在」という身体のこれら二つの相は、互いに交通不可能な二つの異なる存在次元に基づくのであるから、一方を他方に還元することができないということを、まず心に留めておかなければならない。
 
〈客観的な観点〉というのは、我々がある観点に対して、さらに観点をとることができる観点であると考えるならば、「対私存在」に対して客観的な観点なるものは存在しない。私の眼は世界に対するある観点であるが、私はこの見ている眼に対して、さらに観点をとることができない。なるほど、鏡やカメラを使ったりすれば自分の眼に対してさらに観点をとれるという人もいるかもしれないが、それが先に言ったように、「対私存在」と「対他存在」という二つの存在のありかたの混同である。その場合、私が見ているのは対象としての眼であり、私がそれを使って今まさに見ている〈この眼〉を見ているわけではない。そのように自分の器官を対象として捉えるならば、他者の身体を観察するのと本質的な違いはない。この眼は私の身体であるかぎり私自身なのであるから、いわば私の影のようなものであり、私がさらに観点をとろうと後退りしても、私が世界に対して観点をとるための条件として、常に私の背後にある。
 
ところで私が世界に対して観点をとる、という、私と世界との関係、世界は私にこの一義的な関係を指し示すが、この関係は、世界がただあるのではなく、このようなありかたであるのは私によってであるという意味において、私の存在であり、この関係によって私は世界を顕示されるようにさせる。それは一つの存在論的必然性であるが、この必然性は二つの偶然性の間に現れる。事実、私が「そこに-ある」というかたちで存在することは必然的であるにしても、私が存在するということは偶然的である。なぜなら、私は私の存在の根拠ではあらぬからである。また他方、私がこれこれの観点のうちに拘束されていることは必然的であるにしても、他のすべての観点を排除してまさにこの観点のうちに拘束されているということは、偶然的である。一つの必然性を挟み付けているこの二重の偶然性は、先に事実的必然性に際して記述されたところのものである。意識の構造-否定性の箇所で述べたように、対自は自分自身の無の根拠ではあっても、その存在の根拠ではない。この偶然性のゆえにこそ、私は私の存在をその存在の全面的な責任者としてとらえると同時に、全面的に理由づけられえないものとしてとらえる。世界は、私に対する世界の一義的な諸関係の総合的統一というかたちで、この理由づけ不可能の影像を私に指し示す。世界が、あのようにではなく、このように秩序立って私に現れるという意味で、この秩序は〈私である〉。それゆえ、この秩序は諸存在全体の必然的で理由づけられ得ない配置として現れる。世界の諸事物の絶対に必然的で、全面的理由づけられえないこの秩序、私の出現がそれを必然的に存在させるかぎりにおいて、私自身であるところのこの秩序、しかも、私が、私の存在の根拠であるのでもなく、一つのこれこれの存在の根拠であるのでもないかぎりにおいて、私から脱れ出るところのこの秩序、それこそが、対自の次元において存在するがままの身体、対私的な身体である。その意味において身体を、「私の偶然性の必然性がとる偶然的な形態」として定義することができる。要するに身体は、対自が自己自身の根拠であらぬという事実である。しかも、このことは、この事実が偶然的な諸存在の間に拘束された偶然的存在として存在するのでなければならないという対自の必然性によって、表現されるかぎりにおいてである。このかぎりおいて、身体は対自の状況 situation と異なるものではない。というのも、対自にとって「存在する」exister のと「状況づけられている」se situer のは一つのことでしかないからである。一方で、身体は、世界が対自の全状況であり対自の存在の尺度であるかぎりにおいて、世界全体に同化しているのであるが、しかし対自に対して顕示されるこの世界は一つの偶然的所与ではなく、対自が自己自身に向かってそれを超出するかぎりにおいてしか顕示されない。身体は、(対自が無化であるかぎりにおいては)私が私自身の動機づけであって、私が私自身の根拠ではないという事実であり、(世界が対自によって超越されるべきものとして与えられるかぎりにおいては)「私が、私のあるところのものであるべきことなしには、何ものでもあらぬ」という事実であり、そして(事実的必然性としては)「私が私のあるところのものであるべきであるかぎりにおいて、私は、あるべきであることなしに、存在する」という事実である。身体は物質と霊魂との偶然的な和合ではなく、むしろ反対に、「存在からの対自の無化的脱出は、世界の中における自己拘束というかたちで行われる」という対自の本性から必然的に由来する。
 
心理学および生理学の発展によって、我々は「対象-他人」の内面と、それらの対象的な確認の総体との間に、一つの関係を考えることができるようになった。この関係が前提とする一連の項は、ある物理的対象(刺激者)ーある生理的現象(感官)ーある心的対象(他人)ー対象的な意味表出(言語)である。しかしこれらの項のいずれによっても、我々は諸対象の世界から外に出ることができない。この一連の項は内面の世界と現実世界との架け橋たらんとして立てられたものだが、さまざまな実験によって得られた結果といえば、二つの系列の諸〈対象〉を関係づけることでしかありえなかった。刺激者と感覚器官との対象的な関係から、対象的なもの(刺激者-感覚器官)と主観的なもの(純粋な感覚)との関係を導き出そうとしたのももっともなことである。というのも、この主観的なものは感覚器官を介して刺激者が我々の上に及ぼす働きによって、規定されるからである。ではなぜこれらの研究が望んでいた結果を出すことができないのかといえば、そもそも前提が間違っているからである。これらの研究は「対象-他者」を主観と客観の媒介者として考えるものだが、先に述べたように、これは「対私存在」と他者の「対他存在」の混同である。「対私存在」は純粋に主観であるが、他者の「対他存在」は既に客観のうちにある。私が他人の感官が働いているのを知覚するのと、私がじきじきに知覚することは同じではない。そこには、それらの研究が克服しようとした自然の跳躍と同じ分だけの世界の無限の厚みがある。
 
サルトルが従来の感覚の諸問題についての研究に対して、以上のように批判する。この後、サルトルは諸事物と区別された身体の存在論的構造(対自-対他)をもとにして、独自の感覚論や身体論へ移っていくが、その前に、対自かつ対他という身体の二つの存在論的構造を、単に対他存在と混同することがどういうことであるかを、詳しく考えてみる。サルトルは《倒立視》の問題(我々の網膜の上に逆さに映じる諸対象を、我々がもと通りに立て直すことができるのは、いかにしてであるか?という問題)を、この混同によって生じた疑似問題であるとして度々引用しているが、サルトルはこの問題が生じた起原に着目しており、これがなぜ疑似問題であるかについては触れていない。しかしこれがなぜ疑似問題であるかを解き明かすことは、のちの身体論の記述の理解の手助けにもなるだろうから、検証しておかなければならない。サルトルはこの問いに対して、一つの哲学者の答えを引用しているが、この答えに賛同するかどうかは明らかにしていない。それは次のように書かれている。
 
そこには何ら問題はない。ある対象が真っ直ぐであるか逆さであるかは、宇宙の爾余のものとの関係においてである。全宇宙を逆さに知覚するなどということは、何ら意味をなさない。なぜなら、逆さであるためには、宇宙は、何ものかとの関係において、逆さであるのでなければならないからである
 
 
この答えはあまりに思弁的であるから、もう少し具体的に考えてみよう。例えば、私が左右の反転する眼鏡をかけたとする。このとき、網膜に映る対象の認識の方向がア・プリオリに規定されているならば、私はいつまで経ってもこのメガネによる反転映像に慣れることはないであろう。通常の知覚では、私が首を時計回りにひねれば、私に対して世界は反時計回りに回転する。一方で反転した映像では、私が時計回りに首をひねれば、世界は同じく時計回りに回転する。初めのうちは混乱するかもしれないが、私がもしこの反転映像に慣れることができるならば、それは体性感覚と現実の空間的認識との間にア・プリオリな結びつきがないことの一つの例となるだろう。このことが認められるならば、あとはそれを上下方向にも適用すれば、《倒立視》の問題が疑似問題であることが示せたように思われる。問題はこの仮説がどの程度まで広く適用できるかだが、生まれつき盲目の人が後天的に視力を手に入れた場合に視覚情報を三次元的に把握するのに困難を要することや、対象把握の障害を伴う失認の研究の事例を鑑みるに、この仮説はあらゆる知覚に幅広く適用することが可能だと思われる。これをサルトルの言葉で表すなら、対自-身体が対他-身体から区別されなければならないことの証明である。
 
それではサルトルは感覚の諸問題についてどのように考えたのだろうか。サルトルは先の対自-身体の考察の終わりに際して、「これを感覚的認識の問題に適用しようと試みるならば、我々は、その意義をいっそうよくとらえることができるだろう」と書いているが、サルトルは感覚の諸問題について、次のように考察している。
 
解剖学的なやりかたによって(知覚と主観のまがいものの如く現れる)感覚という概念は、世界に対する人間の関係の単なる停止として、人間のうちに現れるが、この概念は不条理なものであった。そこでもう一度純粋な《主観性》を基礎にして、感覚の出現によって消失させられた、対自による世界の超越に関する諸関係を再建しなければならない。まず、「〈感官〉はいたるところに存在するが、どこにおいてもとらえられえないものである」ということが認められるべきである。感官はそれに対してさらに観点をとることが不可能であるような存在論的な観点である。我々はこれこれのものを「見る」ことができるが、「見る」を見ることはできない。けれどもその反面、もし私が、私に現れるところの〈見られた〉諸対象の体系を考察するならば、私はそれらの対象が、何でも構わない何か一つの秩序において、私に呈示されるのではなく、それらの対象が〈方位づけられて〉いることを確認する。それゆえ、感官は、あるとらえられうる行為によっても規定されえないし(心理学)、体験された諸状態のある継続によっても規定されえないのであるから(生理学)、我々に残された道は、感官をその諸対象によって規定しようと試みることである。まず、方位は、事物の構成的な構造の一つである。対象は世界の背景の上に現れる。言い換えれば、対象は今しがた現れた他の《このもの》たちとの外面的な関係のうちに現れる。それゆえ、その対象の開示のうちには、「全体的な知覚の場」もしくは「世界」という一つの無差別的な背景の、相互補足的な構成が含まれている。形態と背景とのこの関係の形式的な構造は必然的である。例えば静寂は、無差別的な物音の音響的な場であって、この場の上に、我々の注意を向けている特定の音が埋もれていくのである。けれどもある特定の「このもの」と背景との実質的な結びつきは、与えられた結びつきであると同時に、選ばれた結びつきでもある。それが選ばれた結びつきであるのは、対自の出現が、世界を背景とするある特定の「このもの」についての明白な内部否定であるかぎりにおいてである。我々が〈感官〉と呼んでいるのは、知覚の存在論的必然性と、対自による選択の自由との間の、かかる偶然性である。しかしこの〈形態-背景〉のあらわれは、一つの観点を通して現れる。この観点が、世界という背景、及び他の「このもの」たちに対するこの対象の関係を、表現している。この《現れの法則》は主観的心理的な法則として考えられてはならない。これは厳密に対象的な法則であり、事物の本性に由来するものである。かくして、それらの対象的な法則によって、厳密に対象的な一つの帰趨中心が規定される。例えば、透視図の上で、眼が全ての対象的な線分の集中する点であるかぎりにおいて、この帰趨中心は眼である。それゆえ、知覚の場は、かかる帰趨によって対象的に規定される一つの中心に帰着するのであるが、この中心は、そのまわりに方位づけられているこの場〈そのものの内に〉位置している。当の知覚の場の構造としてのこの中心を、我々は見るのではない。〈我々はこの中心である〉。それゆえ、世界の諸対象の秩序は、たえず我々に一つの対象の像を指し示すが、この一つの対象は、原理的に〈我々にとって〉対象ではありえない。というのも、この一つの対象は、我々がそれであるところのものであるからである。それゆえ、世界の構造が示しているように、我々は〈見ゆるもの〉visible であることなしには、〈見る〉ことができない。世界内部的なもろもろの帰趨は、世界の諸対象に対してしか生じえない。見られている世界は、たえず、一つの見ゆる対象を規定するのであり、この世界の観点やこの世界の配置が、一つの見ゆる対象を指し示している。この一つの対象は世界と同時に、世界のただなかにおいて、常に諸対象の何らかの集まりとともに与えられる。というのも、この一つの対象は、それらの諸対象の方位によって規定されるからである。この一つの対象は、世界を方位づける無限な可能性の中での一つの方位づけの偶然的な出現であり、絶対的なものにまで高められた〈この〉方位づけである。この一つの対象こそが私の身体であり、それは世界と広がりを共にしており、もろもろの事物を通してあらゆる方向にばら撒かれていると同時に、それらの事物がこぞって指示しているこの唯一の点、私がそれでありながらそれを認識しえないこの唯一の点に集約されている。
 
従来、外界に対する能動的な反応である行動と対比されるかたちで、知覚は受動的な反応とみなされてきた。しかしサルトルによれば、知覚は対自に対して、その身体を極にして方位づけられた世界を展開する潜在的な超越である点で、行動と差異がない。私が感じる「苦み」の知覚は、口に入れたものが私にとって有害であることを意味するかぎりで、その口にいれたものを超越することであり、さらに吐き気を覚え、それを口から吐き出すという一連の行動の動機となる点で潜在的な超越である。対自にとって世界はただ存在として〈ある〉のではなく、超越されるべき存在として必然的に〈意味〉をともなって現れる。身体はこの対自の構造の欠くべからざる条件としての存在論的必然性を持ち、そのようなものとして対自であると同時に、対他でもあるのである。
 
世界の諸事物は、《世界-内-存在》である人間存在に対して、対自が世界を超越し、また自己自身を超越するかぎりにおいて、〈道具-存在〉として呈示される。各々の道具はまた別の道具を指し示す。金槌は釘を指し示し、釘は木材を指し示し、木材は家を指し示す…。このような道具の指し示しの系列の終極点として人間存在がある。人間存在はもはや〈…のための存在〉としての指し示しをしない、世界における道具複合を方位づける極である。ラテン語の動形容詞は諸事物のこれらの固有性を見事に言い表している。カルタゴが《滅ぼされるべき》delenda であるのは、ローマ人にとってである。カルタゴ人にとっては、カルタゴはむしろ《守られるべき》servanda である。それらの帰趨中心との関係なしにはカルタゴはもはや何ものでもないし、これら二つの動形容詞の意味は相殺されるのであるから、無差別的な即自のうちに陥るだけだろう。しかし一方で、人間存在は、その対他存在としては〈対象-身体〉として現れる。釘は金槌を指し示し、金槌はそれを用いる腕や手を指し示すが、今度はその腕や手が用具となり、私がそれを用い、私がそれをその潜在性へ向かって超出するのは、私が他者をして釘を打ちこませるかぎりにおいてである。その場合、他者の手は、この手を利用することを私に可能ならしめるであろう用具(威嚇、契約、報酬等々)を、私に指し示す。最初の項は、いたるところに現前しているが、それはただ〈指示されている〉だけである。私は書く行為において私の手をとらえるのではなく、ただ単に、書いているペン軸をとらえるだけである。言い換えれば、私は文字を書くためにペンを用いるのであるが、ペン軸を握るために私の手を用いるのではない。私はペン軸に対するのと同じ利用的な態度で私の手に対しているのではない。もしそうであるならば、私の手はさらに別の道具への指し示しを行うだろうが、この場合そうではない。私の手は、それらの指し示しの停止であり、帰結である。手は、《書かれるべき本-原稿用紙の上に書かれるべき文字-ペン軸》というこの系列の最後の用具が指示する認識不可能でかつ利用不可能な項であると同時に、この系列全体の方位づけである。私の手は、この道具性の複合体系を方位づける背景として、この体系のうちに失われてしまっている。ここでは認識される対象としての道具-身体と、道具複合を方位づける極としての対自-身体という、身体の二重の存在論的構造が表現されている。対象としての私の身体は用具として、世界の道具的な秩序によって、またもろもろの機械の一義的もしくは相互的な諸関係を表現する極として私に呈示されるが、しかしこの用具は私の行動に対して与えられるのではない。この用具はもろもろの道具に対する私の適応そのものであり、私がそれであるところの適応である。世界の諸事物はすべて、私が不断になし続け、かつなそうとする超越との関係において現れる。ボルトが太すぎることがわかるのはナットの中で締めるのにであり、支柱の脆すぎることがわかるのは、私が載せようとするおもりを支えるのである。また、他のある対象は、既に設定されている道具複合にとって脅威的なものとして現れるだろう。例えば嵐や雹は収穫にとって、火事は家屋にとって脅威的なものとして現れる。そしてそれらの脅威は、既に設定されているもろもろの道具複合をとおして、それら全ての道具が指示している帰趨中心にまで及んでくる。そして今度は、それらの脅威が全ての道具を通して、この帰趨中心を指示するだろう。あらゆる手段は好都合なものであると同時に不都合(逆行的)なものであるが、それは世界の中への対自の出現によって実現される根本的な企ての範囲内においてのことである。究極的には全ての諸事物の指示する帰趨中心である身体はただ、もろもろの道具-事物に対する我々の根原的な関係の個別性と偶然性を表しているだけである。その意味において、感官および感覚器官一般は、「世界の-ただなかに-おける-存在」というかたちでそれであるべきであるかぎりでの、我々の「世界-内-存在」であるが、同様に行動は、我々が「世界の-ただなか-における-用具-存在」というかたちでそれであるべきであるかぎりでの、我々の「世界-内-存在」であると定義することができる(特に感覚器官の説明において、それである〈べき〉と書かれているのは、知覚することが既に世界に対する潜在的な超越を含意するからである)。
 
ここまで見てきたように、感覚的な帰趨中心としての身体の対私的な本性は、不断に〈超出される〉ということである。このようなものとして身体は、私の偶然性の必然性であるが、それは次の二重の意味においてである。まず第一に、それは即時による対自のたえざる再把握であり、対自が自己自身の根拠ではあらぬ存在としてしか存在しえないという存在論的事実であるからである。一つの身体を持つとは、自己自身の無の根拠であることであり、自己の存在の根拠であらぬことである。私が私の身体〈である〉のは、私が存在するかぎりにおいてである。私が私の身体であらぬのは、私が私のあるところのものであらぬかぎりにおいてである。私が私の身体から脱れ出るのは、私の無化によってである。だからといって、私が自分の身体を対象たらしめるということではない。私が脱れ出るのは、たえず私がそれであるところのものであるがゆえである。また第二に、身体は、世界の中に存在するために超出されるべき障碍として、すなわち私が私自身それであるところ障碍として必然的である。世界を一つの「来る-べき-存在」に向かって超出することによって、一つの世界のありかたを存在にまでいたらせるのである。「対自的に-存在する」とは世界を超出することであり、世界を超出することによって一つの世界をそこに存するようにさせることである。対自存在にとってこの身体のありかたは、存在論的な必然的条件である。事実、もしかりに、私の追及する目的が全く気ままな願いによって到達されえたならば、もしかりに、獲得するためには希望するだけで十分であったならば、また、もしかりに、一定の規則がもろもろの道具の用法を規定しているのでなかったならば、私は決して欲求と意志とを、夢と行為とを、可能と現実とを、私のうちにおいて区別することができなくなるだろう。実現するためには心に思うだけで十分であるから、私自身のいかなる投企も可能でなくなり、したがって私の対自存在は現在と未来との無差別のうちに消滅するであろう。身体はこの意味で、私の有限性であり、この有限性、すなわち「一つのありかたがそこに存する」ということ、言い換えれば、「私は一度にすべてのありかたであるのではない」ということは、私の自由の条件である。なぜなら、選択の無いところに自由は存在しないからである。身体は、世界のうちに現れる対自存在の構造を条件づけているとともに、それを自由のうちにおいても条件づけている。
 
以上のように、身体は対象-身体であるとともに対自-身体でもあり、本来の身体はこの二重の存在論的構造においてとらえられるべきものである。もし心理学者や生理学者が行うように、我々が身体を対象-身体として、すなわち肉体としてのみとらえるのであれば、それは認識論的に不適切な仕方での把握となるから、そのことは我々に異様な感覚を引き起こすことになるだろう。もし私が私の身体を肉体としてとらえるならば、この身体による全身感覚的な気分、私がどんなに身をふりほどこうとしてもどこまでも私に付きまとって離れない一つのあじきなき味わいを感じることになるだろう。これは私が別のところで「〈嘔き気〉 Nausée」という名のもとに記述したところのものである(サルトルの哲学的小説『嘔吐』のこと)。一方でもし私が他者の身体を肉体としてとらえるならば、《身体に属するものとも見えぬ》折れた腕を見たときに感じる不気味さ、あるいはまた、手が(腕の部分は隠されていて)入り口の扉に沿って蜘蛛のように絡まっているのを見たときの知覚と同様の感覚を引き起こすだろう。
 
 

身体論について補足、および感想(1)

 
全体的な記述の展開を振り返ると、サルトルはまず、対私的な身体のありかた(対自-身体)から出発し、そこから対象として私の身体や他者の身体(対他-身体)のありかたに至る。これは身体をまず対象として実在的なものととらえ、そこから心的なものを導き出そうとする一般的な考え方と大きく異なるものであるが、現象学では明証的に与えられているもの(デカルト的なコギト)のみから出発して意識存在のありかたを解明しようとするため、サルトルの理論はこの方法論に忠実なものとなっている。世界は形態-背景という二重構造のうちに、各々の対象が道具複合の有機体の一要素として、意味をもった存在として呈示される。これはフッサールの《生活世界》や、ハイデッガーの《世界-内-存在》を引き継ぐものであるが、サルトルは補助的な説明として、レヴィン一派らの位相心理学の用語である〈ホドロジー空間〉という用語をたびたび引用している(この用語について、訳注では次のように書かれている。「位相心理学によれば、他者による観察が可能な心理的事象すなわち行動Bは、個人Pとその環境Eとを含む心理学的状況すなわち生活空間Sの函数である。B=f(S)=f(P、E)かかる生活空間という概念をいっそう現実化して、距離や差異の方向をも含みうるような新たな概念として立てられたものが『ホドロジー空間』である」)。なお、サルトルは他の箇所でも、補助的な説明としての数学的、科学的な概念の引用が見られるが、これらの引用がどれほど適切であるかは疑問である。原書p346〜p347での量子力学の成果を引用した記述は、次のように書かれている。
 
今日、ブロイなどが《経験》と呼んでいるのは、観察者を除け者にしない一義的な諸関係の一つの体系である。また、原子物理学が科学的体系のふところに観察者を復帰させなければならないのは、単なる主観性という資格においてではなく、むしろ、世界に対する一つの根原的な関係としてである。そういうわけで、たとえばハイゼンベルクの不確定性原理は、決定論的要請の破棄とも確認とも見なされえない。ただ、不確定性原理は、諸事物の間の単なる結びつきであるのではなく、それ自身のうちに、諸事物に対する人間の根源的な関係と、世界のうちにおける人間の位置とを、含んでいる。そのことは、たとえば、運動している物体の大きさをそのままの比例で増大させることができるためには、その速度関係を変化させなければならない、という事実によっても、十分に明らかである。一つの物体が他の一つの物体の方へ向かって動いていくのを、私がはじめは肉眼で観察し、ついで顕微鏡で観察するならば、その物体は、のちの場合には、百倍もの速さで私に現れるであろう。なぜなら、運動しているこの物体は、それが向かっていく目標の物体に、いっそう多く近づいたわけではないにしても、同じ時間に、百倍もの大きい空間を通過したことになるからである。それゆえ、速度の観念は、もしそれが、運動している物体の与えられた大きさとの関係における速度でないならば、もはや何の意味も持たない。
 
 
この記述では、サルトルが量子スケールでのみ生じる物質の量子力学的な振る舞いを、相対的に同じスケールに置き換えても起こると考えているように思われる(例えば原子-人間の体系と地球-銀河系の体系)。それに、《現れの法則》として事物の本性に帰したはずの自然法則を、超越的な境位に持ち込もうとしているともとれるが、現在、量子力学という学問が置かれている状況に照らし合わせて好意的に考えれば、この点は問題がないともいえる。他の例を挙げれば、例えば本書第II巻p229〜p230では、はっきりと次のように書かれている。
 
限定される側から言えば、限界と、自己性のあらゆる現象との関係は、あたかも、数学的な極限と、決してそこに到達することなしにその方へ向かっていく級数との、関係のごときものである。私がそれであるべきであるところの存在全体と、それの限界との関係は、あたかも、一つの漸近曲線と、一つの直線との関係のごときものである。…恰好な比喩としては、ポアンカレが語っているような、中心から表面へ向かうに従って温度が減少する球体を例にとるのがよかろう。生物たちはこの球体の中心から出発してその表面にまで到達しようとするけれども、温度の低下が、彼らの内に、絶えず増大する収縮を引き起こす。そのために、彼らは無限の距離によって目標から隔てられている。
 
なるほど、球の中心からその表面への幾何学的には有限な距離は、生物がとらえる空間のありようから見れば無限の距離となる、ということが言いたいのであろうが、あくまで比喩であるという注釈がついているとはいえ、これでは超越的な現象と客観的な現象との致命的な混同を招くおそれがある。これについては、比喩であるとの注釈がなされていない箇所でも、超越の境位を客観的な世界と別の存在論的次元であると記述したかと思えば、超越を世界の存在次元における理想上の限界(極限値)として表現するなど、二つの世界が連続的であると解釈されうるような記述があったりと、記述が混乱しているように見える箇所がある。世界の諸事物が意味をもって呈示されるのは超越的次元における現象であり、客観的世界からの連続的な段階のかなたにあるものでは無いのだから、この二つの世界が連続的であることはありえない。客観的な世界はそれ自体として完全な全体性であり、そこに超越的な世界によって埋められるべき「穴」があるのではない、という趣旨のことは本書でも何度も述べられている。これについては次のような解釈ができないだろうか。例えば、私は世界および自己自身の超出のかなたにおいて〈対自-即自〉であるが、これは、対私的には現在と同じ存在次元のうちにある。実際、私は未来における自分の理想の姿を、この世界のうちに実現するものとして思い描く。一方で対自的には、対自の《無化》すなわち即自に対する超越は、超越的次元のうちにある、と。しかし〈対私〉という用語は「他者」の存在が導入された第三部以降に出てくるものであり、それまでの部分では対自存在と対自の現実存在が区別されていないため、やや不親切な記述であるように思われる。
 
また明言こそされていないが、サルトルが世界の現れかたを《現れの法則》として事物の本性に帰したことは、自然法則をその事実的必然性によってそのまま受け入れることである。第一部のほうで、意識の本性は「何ものでもないもの」という否定性であると述べられた。否定は世界に多様な存在者をもたらし、存在者同士の関係をもたらす。しかしなぜ世界の客観的秩序が、私にとって現れるのと同様のしかたで他者にとっても現れるのかは説明されていなかった。第一部の記述によって説明できる超越は価値や諸可能であって、自然法則についてはまだ述べられていなかった。その段階ではまだ、「他者」というものの分析が行われていなかったからである。それで第三部で「他者」というものの分析を終えた今となって、「身体」という事実性のもとに自然法則一般が、《現れの法則》として記述されたわけである。確かに現象学的還元から導けないことについては何ごとも判断しないという点では潔いのだが、第一部において世界に関係をもたらす、否定性としての対自の役割を期待していた分だけに、拍子抜けの感がある。サルトルは、世界が秩序立って現れるのは必然的であると書いた。それは、「自然の秩序の不在は意志の秩序の現れであり、意志の秩序の不在は自然の秩序の現れである。秩序の不在は別の秩序を示すだけであり、絶対的な無秩序を意味しない」というベルクソンの言う通り、「〈この〉秩序の不在は〈あの〉秩序の現れである」と言う意味である。しかし自然法則という世界のこの秩序がなぜ私だけではなく、万人に対しても同じように現れるのかと言う問題は、依然として残されたままである。このことは単なる事実的必然性に帰されており、この問題の解決も、あるいはこれが疑似問題であることの証明もなされていない。本書の結論の部分で、自然の形而上学は即自存在と対自存在の存在論的な解明を待って初めて可能になると述べられているから、この問題についてはノータッチということであろう。
 
サルトルは身体を、世界の諸事物の指し示す帰趨中心としての知覚の統合としてとらえることによって、身体の実在性を説明したことについて補足しておきたい。これは端的に次の一文で説明される。「我々は〈見ゆるもの〉visible であることなしには、〈見る〉ことができない」しかしこれを知覚と物質性の一対一対応ととらえるならば、同様に「我々は〈聞ゆるもの〉であることなしには、〈聞く〉ことができない」ということが言えてしまい、意味不明である。視覚は、知覚の帰趨中心と、諸事物と身体の相互対象性をもっともうまく説明できる。一方で触覚は、諸事物と身体の相互対象性を説明できるが(「我々は〈触れられるもの〉であることなしには、〈触れる〉ことができない」)、知覚の帰趨中心であることの説明には適さない。また、聴覚はそのどちらにも適さない。この点で、サルトルが身体の実在性の説明に何の注釈もなく視覚の例をあげたのは我田引水の感があるが、物質性の直接の知覚を視覚、触覚に限り、他の知覚を間接的な物質性の把握(例えば聴覚は、「空気の分子の振動の非触覚的な把握」として)とみなすならば、この記述には問題はないと言える。なお、物質性の知覚が直接的なものか、間接的なものかの区別についてだが、これは知覚対象の認識が量的なものか質的なものかで区別されるだろう。つまり質的な知覚は、知覚対象の認識がア・プリオリに与えられないものである。例えば、一般にそう表現されているのは違って、痛覚、味覚、聴覚などは量的知覚の把握ではない。一般的には、「痛みのレベルは1から10のうちでどれですか」とか「辛さレベル星1〜10」など、まるでこれらの知覚が量的なものであるかのような表現があるが、我々がこれらに量的な関係を与えるのは、実際に複数の知覚を体験したあとでの類推によるものである。われわれが灰色を白と黒の中間色であると認識するのは、実際にこれらの三色を経験したあとのことであり、いずれか二色のみの経験から残りの一色を推論によって導くことはできない。同様に、三つの音の高さの違いも、実際に三つの音を聞いたあとに判断できるものであり、いずれか二つの音の経験から残りの一音の知覚をア・プリオリに認識することはできない。一方で量的な知覚は、その知覚の形式が与えられることによって、実際の経験が伴わずともア・プリオリな認識が可能である。例えば図形の形状の把握は、三次元的な知覚の形式が与えられれば実際に視点を変えなくても可能である(もちろん実際の経験が把握の手助けにはなる)。同様に触覚も、物体の抵抗性の把握としてはア・プリオリな認識が可能だが、実際にどうやって、またどれくらい抵抗するかという知覚である触感や、痛覚、冷覚などは質的な把握である。
 
 
また、各々の諸事物は固有な道具的意味をもって対自に呈示されることについて、これをラテン語の動形容詞が「見事に」言い表していると述べているが、これはラテン語の動形容詞がサルトルの言わんとする二つの意味を兼ね備えているからである。ラテン語には動詞の語尾を変化させて、「〜されるべき」という意味の形容詞を作る用法がある。普通、形容詞は修飾する名詞の状態や性質を表現するが、動形容詞はある立場から見て修飾される名詞がどのようになされるべきかを表現する。これは「〜している」という意味を付加する現在分詞や「〜された」という意味を付加する完了分詞のように事実性の表現ではなく、元々その対象自体には付属しない権利上の意味を付加することであるから、これがサルトルのいう対自による即自の超出とリンクする。またラテン語には、形容詞は修飾される名詞と性・格・数が一致するように活用させるという規則があるため、これが諸事物がその固有な道具的意味と同時的に呈示されるのであり、まず諸事物があって次に対自が意味を後付けするのではない、という部分に対応する。例えば「読まれるべき手紙(単数)がある」は Littera legenda est. であり、「(私は)読まれるべき手紙(複数)を読む」は Lego litteras legendas. と訳される。また、ラテン語は活用によって文中での各々の語の役割を表現するため、語順が比較的自由である。それゆえ、例えば後者はLego legendas litteras.でも構わないが、この場合、動形容詞legendas(女性・対格・複数)はすでに、それによって修飾される名詞を、女性・対格・複数形で表現されるものとして暗示している。語順の制限の無さと被修飾語の暗示というこれら二つもまた、「同時的に呈示される」ということの意味に含まれるだろう。
 
 
そして、これは今までも幾度となく言われてきたことだが、サルトルが身体を対自にとって存在論的に必然的なものとしてとらえながらも、それを即自存在としては、対自的な観点から否定的にとらえた点も興味深い。身体の対私的な即自性は、あじきなき味わいを持った全身感覚的な気分として与えられる。それは『嘔吐』で述べられていたように、私の存在の裏側にぴったりと張り付く粘着質であり、怠惰な甘ったるさである。それはどんなに嘔き出そうとしても嘔き出せない存在である。なぜなら嘔き出そうとするものは〈私自身〉であるからである。これがサルトルがとらえた対私-即自身体の趣旨であった。しかし、対自-身体と対象-身体という身体の二重構造の発見は、すでに二千年以上も前にインドでなされていたことである。それは現象学的還元という純粋な思索過程によるものではなく、ヨガや瞑想による精神-肉体的な鍛錬によって到達された直観であるが、それによって得られた身体観は、サルトルのそれとは大幅に異なる。そのことは数々の仏典や仏教説話の記述によって窺い知ることができる。軽妙な肉体、変幻自在に変化する肉体、千手観音像に表現されるような意志と肉体の合一は、サルトルが対自の無差別的な時間性のうちへの消滅と呼んだところのものですらあるだろう。解脱は輪廻からの脱出であるから、確かに紛れもなく時間性の消滅であり、その意味で対自の消滅ではあるが、インド哲学ではこのことを肯定的に理想の境地としてとらえている点がサルトルの理論と大きく異なる点である。もしかするとサルトルはその思索の過程で、解脱へと至る道を垣間見たのかもしれないが、それでも対自存在として現世に残り続けること、自由の牢獄のうちに居続けることを、その自由な意志によって選択したのかもしれない。次章 - 他者との具体的な諸関係では、対自が自身の存在根拠である即自を取り戻すための営み(愛、マゾヒズム、無関心、欲望、サディズム、憎悪)について書かれるが、結論から言えば、そのどれも原理的に挫折せざるをえないものであり、またそれぞれの営みは他の営みをそれ自身のうちに契機として含んでいる。そこには対自が対自であるかぎりでの存在論的な矛盾があり、対自は対自としてのかぎりにおいて永遠にこの循環のうちにある。この循環からの離脱については、サルトルはその可能性を排除こそしていないが、注釈で「そのような可能性は、われわれがここで語ることのできない一つの根本的な回心の果てに、はじめて到達されるはずである」との述べるのみにとどまっている。これが何を意味するかは想像に任せるしかないが、おそらく何らかの神秘的な、あるいは宗教的な体験を意図して書かれたものだろうと思われる。