他者の存在

 

はじめに次のように書かれている。

 

ここまで、我々は、否定的な諸行為と意識の構造から出発して、人間存在とは対自であることを発見した。だが、人間存在があるところのもののすべては、それだけであろうか?我々は、それ自身厳密に対自のままにとどまりながらしかも根本的に異なった方の存在論的構造を指し示すように思われる意識の別のあり方に、出会うことができる。この存在論的構造は、私の存在でありながら、対私的であらぬような一つの存在を、私にあらわにしてくれる

 

サルトルはこの後、羞恥や自負といった他者との関係を前提とする感情を根拠として、この存在論的構造が人間存在にア・プリオリなものであることを示そうとしているが、これはカントが『実践理性批判』のなかで様々な感情を快・不快の観点から分析した後に、尊敬の感情をそのどちらにも属さない理性的な感情として、普遍的理性法則の存在根拠としていたことを想起させる。先に意識の構造について書かれている箇所で、サルトルは動物の意識については言及していなかったが、その理由はおそらく、他者の存在を意識のア・プリオリな構造と関連づけて導き出そうとしたからだと思われる。そもそもサルトルのいう「他者」が他人のこと指すのか、人間以外の動物を含む他の自由な存在一般をも含むのかで解釈が大きく異なってくる。対自存在が自由な存在であることを重視すれば、他者は自由存在一般を指すと考えても差し支えないように思われる。我々は動物に対する時も(例えば捕獲しようとする時、逃げようとする時)、人間に対するのと同様に、相手を自由な存在として扱うからである。一方でサルトルは、羞恥や自負といった他者との関係を前提とする感情を、他者の概念がアプリオリであることの根拠として挙げている。一般に我々は動物を相手にそのような感情を働かせることはないから、他者とは他人のことを指すと考えられ、また本書の内容的にもこちらの解釈が自然である。しかし、まずはサルトルの他者論がどのようなものであるかを見ていくことにする。

 

端的に言えば、他者とは「私であらぬ私」である。そうは言っても、他者は自己意識が自己の内面において与えられるように、私に対して直接に与えられるのではない。まず、他者は身体を通じて経験的に、他の諸事物と同じように超越的なものとして与えられる。また、他者の内面性は私の内面性と通約不可能である。このことを前提としないために、実在論も観念論もともに他者の概念の確立に失敗し、もし他者を無条件に与えるような独断的な結論を拒否するならば独我論に陥らざるを得ないのだという。サルトルは他者の問題を扱うために、再び現象学的立場に立ち還る。フッサールによれば、他者は世界において相互共通的な精神的存在として与えられている。個々の精神はお互いに規定し合う精神としてのみ存在し、ただ一つの孤立した精神というものは存在しないとされる。この説は観念論を払拭しきれていない点では不十分であるが、重要な意義を含んでいる。つまり、従来の哲学では自己を出発点として他者を演繹していくのだが、この説では自己と他者が相補的関係に置かれている。サルトルはさらに、ヘーゲルが『精神現象学』において考察した自己意識の弁証法的関係を引用し、自己と他者の関係を転倒させる。すなわち、自己から他者や、それらの集団的構成としての社会が形成されるのではなく、他者の存在や社会のうちにあることが自己意識、または個人という概念が成り立つための条件であるのだという。自己の認識がすでに他者の存在を前提とするならば、独我論は決定的に戦闘力を失うことになるだろう。しかしサルトルはこの結論に納得しなかった。というのもヘーゲルは自己と他者の関係における、一つは認識論的な、もう一つは存在論的な過ちを犯しているからだという。

 

まず、ヘーゲルは私の自己意識と他者の自己意識を等価に取り扱うが、これは認識論的な過ちである。他者の意識は世界のうちにおいて対象として私に与えられるものであって、私の意識が私に与えられるのと同じように、主観的統一のもとで私に与えられるのではない。意識個体相互間には存在論的な分離があり、これはもちろん他者間にもあるが、私と他者の間においては絶対的な分離である。ヘーゲルの議論の出発点である公式《私は私である》にはすでにこの誤りの兆候が含まれている。というのは前者の〈私〉は絶対主観であり、決して認識対象にはなり得ない一方で、後者の〈私〉は自己意識によって対象化された〈私〉である。両者は通約不可能な二項であり、等号で結ぶことはできない。ヘーゲルは議論の初っ端から自己意識を自己認識と同一視したために、自己と他者との関係について適切に問題を立てることができなかった。

 

もう一つの存在論的な過ちというのは、ヘーゲルが自己と他者を区別しない「絶対者」の観点から問題を扱っていることである。この全体的な観点からすれば、もろもろの意識個体のうちいずれかが個々の特権によって他の意識個体から分離されているどころか、むしろそれらは全く等価である。ヘーゲルのいう「真理」は、例えそれが真理であるにしても全体的なものであって、自己と他者の問題にかかずらうものではない。むしろ自己意識と自己認識を同一視したということは結局、認識と存在を同一視したということであり、そうなるとヘーゲルにとっては初めからこのような問題は存在しなかったのである。

 

やはり他者の問題について考えるとき、私の認識から出発するのではなく、私の存在のうちに身を置き、私の存在から出発して他者の問題を立てるのでなければならない。「各人は自分自身の内面性から出発して、この内面性の存在そのものを条件づけている一つの超越として、他者の存在を再び見出すことができるはずである」フッサールは存在を認識によって測ろうとして失敗し、ヘーゲルは存在と認識を同一化しようとして失敗した。しかしヘーゲルは絶対的観念論の立場に目をくらまされていたにせよ、問題を真の水準に置くことができた。ハイデッガーはこれ土台として、『存在と時間』の中で次のように書いている。(一)《人間存在》相互の関係は一つの存在関係であるのでなければならない。(二)この関係は《人間存在》を、その本質的存在において、相互に依存させるのでなければならない。ハイデッガーの理論はやや乱暴なやり方であるにせよ、これら二つの要求に答えるものである。彼は人間存在の特徴たる《世界-内-存在》In-der-Welt-Sein のうちに、《世界》Welt、《内-存在》In-Sein 、《存在》Sein という三つの契機を発見した。彼は世界を《それを介して、人間存在が、自分の何であるかを、自分に告げ知らせるところのもの》として記述した。そして《内-存在》を、《心状性》Befindlichkeit (人間存在が世の中に投げ出されているという事実、被企性のこと。普通、stimmung(気分)のことを指す)、および《了解》Verstand (人間存在が世の中に自己を投げ出すこと、投企)として定義した。そして《存在》について、次のように定義した。それは《…と共にある》Mit-Seinというあり方であると。それゆえ、人間存在の存在特徴は、人間が他の人々と共に存在するということである。ここでは偶然性が問題なのではなく、私という個人の存在の本質的構造が問題である。つまり私という個人がまず最初にあって、その後に偶然が他者と出会わせるのではなく、他者の存在は私という個人が存在することと共にある。人間は、即自と同じあり方でただ存在するのではない。人間は《人間存在》として自分を「存在させる」。この「私が私を存在させる」というあり方において、他者の存在は、《世界》、《内-存在》とともに、《存在》という契機として、人間存在を構成する超越的な条件なのである。

 

今度こそ、「自分の存在のうちに他者の存在を含んでいる一つの存在」が与えられたように思われる。しかしハイデッガーの理論は、見出される解決の指示を提供しているだけで、解決そのものを提示しているわけではない。なるほど、我々の存在のある種の経験的な状態(ドイツ人がstimmung という、独特なニュアンスを持つ言葉で呼んでいる状態)に出会って、それが我々が他者に〈対して〉存在しているのではなく、我々が他者〈と共に〉存在していることを顕示しているように思われるにしても、この共存が我々の存在の独自の根拠となるのは、なにゆえであるか。ハイデッガーが「共にある存在」についてのかかる経験的存在的な確認から、共存を私の《世界-内-存在》の存在論的構造として立てることへ、移行する権限を持っていると自ら信じているのはなにゆえであろうか。というのも、経験的偶然的な関係は、ア・プリオリな存在論的関係の特殊化や個々の事例ではあり得ないだろうからである。ある法則の特殊化は次のような二つの場合にしか存しない。まず、その法則が個々の特殊な事例から帰納的に導かれているときであり、しかしこれは経験と抽象化された経験との関係であるから、ここでは通用しない。もう一つはカントが言う悟性概念(カテゴリー)のように、その法則がア・プリオリであって、しかも経験を統一する場合である。しかしこの場合はまさにその諸概念が経験に対して適用されるゆえに、経験の範囲内でしか妥当しない。ハイデッガーの言う《…と共にある》という人間存在のあり方は、《存在》という契機としてア・プリオリなものであり、それは人間存在のあり方という本質的な事象のみに関わるものであり、経験に関わるものではないから、こちらの場合も通用しない。『存在と時間』においてこの困難を一見免れているように見えるのは、ハイデッガーが脱自的という言葉に、あるときは〈自己の外に、自己自身へ向かって〉(ア・プリオリな存在論的観点)、またあるときには〈自己の外に、他者に向かって〉(経験的観点)という二重の意味をもたせることによって欺瞞的に解決しているからだ、とサルトルは考えている。

 

よって、ハイデッガーの理論もまた、自己の存在論的なあり方のうちで他者の抽象的存在を示すにとどまり、具体的個別的な他者を示すことはできなかった。他者の存在は、偶然的で還元不可能な一つの事実という本性を持っている。我々は他者に出会う begegnen のである。我々は他者を構成するのではない。仮にこの事実が、なお必然性の角度から現れなければならないとしても、以上の考察からそれは存在論的な必然性ではなく、事実的必然性に属するものでなければならないだろう。

 

ところで、独我論が拒否されなければならない唯一の理由は、独我論が不可能だからである。何人も自分の存在を疑うことができないように、何人も他者の存在を疑うことはできない。確かに言葉の上では「私は私の存在を疑う」などと言うことが可能であるが、これは本当にそう思っているのではなく、一種の反実仮想に過ぎない。他者の謎は、まず第一に、存在者としては世界の諸事物と同様に対象的存在として現れるにもかかわらず、しかし私の意識に対して直接的な明証性をもって現前するところにある。次に、その直接的な明証性のために意識のア・プリオリな構造を予期させるにもかかわらず、私が実際に他者を見出すのは偶然によって、出会う begegnen からである。他者をア・プリオリな抽象的存在として扱い、具体的個別的な他者を考慮しなかったハイデッガーの理論が挫折したのと同様に、他者を対象的存在としてのみ扱うような、すなわち他者の存在を蓋然性によって認めようとするいかなる理論も原理的に不可能である。他者は他者の存在に先立って見出されるのでもなく、また経験によって推測されるのでもなく、なんらかの科学的理論によって発見されるのでもない。私が私の意識に対するのと同様に、他者はただ〈存在する〉のであり、この他者に対する《存在論以前的な》了解が、サルトルが他者の問題を扱う上での出発点である。

 

 

他者の〈まなざし〉regard 論

 
 
「他者」の問題は、一般に、他者が現れる時の最初の関係が対象性であるかのごとくに、言い換えれば、他者が我々の感覚器官を通して与えられるかのように扱われてきた。しかし他者を対象として捉える場合の知覚はどこまでも蓋然的である。鳥の声を人の声と聞き間違えたのかもしれないし、目の前にいる人は人間そっくりなロボットであるということもありうるからである。しかし我々が他者を把握するとき、他者は直接的に、ちょうど我々が自分の存在を把握するのと同じくらいの、直接的な明証性をもって現れる。他者が現前するのは、このようないわば双生児的出現においてであるが、かかる双生児的出現の事実上の指し示しは他者の対象性と関わるところがないから、通常の意味での認識の外において与えられる。要するに、他者は主観として、私に直接に与えられる。このときの私と他者との関係こそが根本的な関係であり、私の「対他存在」の典型である。それではこの場合において、私の知覚には何が与えられているのだろうか。もし私が目の前の人に向かって、それを人形と考えるのならば、私は世界の他の諸事物と同じように、時間空間的な《事物》をまとめるのに役立つ諸々の範疇を、その人に対して適用することになるだろう。その場合、彼の存在は他の諸事物と同じように対象相互間の外面的関係に吸収され、私の世界においていかなる新たな関係も現れはしないだろう。一方で彼を人間として知覚することは、彼と彼の周囲の事物との間に非外面的な一つの関係を捉えることであり、特権をもったこの対象のまわりに、私の世界の諸事物から成り立っていて、〈距離を持たない〉一つの組織ができていることを認めることである。すなわち、その組織における極(人間)と諸々の対象との関係は非外面的であり、外面性の抽象的な形式は量であるから、その関係は非量的であるという意味で〈距離を持たず〉、またその組織は私に対して超越的なものとして与えられており、そのため私は私の主観や世界の諸々の範疇にによってどこまでそれに接近しても、根本的に私とその組織とは無限に隔てられているという意味で、〈距離を持たない〉。私の世界に現れたこの対象-人間がこの超越的な関係の基本的な項であるかぎりにおいて、それは私の与り知らぬもう一つの世界があることを認めることであり、それはまず、私が世界の諸事物相互間に捉える諸関係の、まったくの崩壊として現れる。他者はまず、私の世界に根源的な限界をもたらす「世界の不在」として定義される。
 
対象としての他者が世界に関わるあり方がこのようなものであるならば、主観としての他者が私に関わるのはどのようなあり方によってであるか。それは次のように答えられる。対象-他者が、世界との結びつきにおいて、「私の見ているものを〈見ている〉対象」として定義されるならば、主観-他者と私との根本的な結びつきは「他者によって〈見られる〉」という私の不断の可能性である。この他者によって見られるということ、私に向けられているまなざしは、いずれも、我々の知覚の野における感覚的形態の出現と結びついて現れる。けれども、往々にしてそう思われているのとは反対に、まなざしはいかなる形態にも結び付けられない。もちろん、最も多くの場合まなざしを表すものは、二つの眼球の、私に向かっての収斂である。あるいは木々の枝のすれあう音、足音に続く沈黙、半開きのよろい戸、カーテンの微かなゆらめきなどを機会としても、同様に与えられるだろう。しかしまなざしが何らかの対象に結び付けられているのならば、まなざしの実在はどこまでも蓋然的である。眼球は義眼かもしれないし、木々の枝が揺れたのは単に微風が吹いただけかもしれない。しかし、特に我々が他者の存在に対して気を配っているときにはそうであるが、まなざしは、このような対象的な兆候を機会として、私に対して他者を〈親しくじきじきの現前〉présence en personne として表す。それが思い違いであることもあるかもしれない。足音は自分の方に向かってくるのではなくて、ただ別の部屋を目指しているだけであったというふうに。しかしその場合に意味するのは対象-他者の不在であって、まなざしの不在ではない。先に言ったように、まなざしはいかなる対象的な形態にも結び付けられない。それは知覚することとはまなざしを向けることであるが、知覚される対象とまなざしを向ける意識とは超越的な関係であるのと同様である。つまり、まなざしを捉えるとは、世界の中における対象-まなざしを把握することではなく(もっとも、このまなざしが私の上に向けられていない場合は別であるが)、まなざしを向けられているのを意識することである。むしろ私にまなざしを向けている他者に対して、私がまなざしを向けるときには、私は他者を対象的なものとして捉えるのだから、私に向けられたまなざしは消失してしまう。私が〈まなざしを向けられている〉のを意識するのは他者の対象性を捉えない限りにおいてである。例えば他者に背後を向けているときなどは、それが最も顕著であろう。他者に背後を向けるということは、他者の対象性を捉えないことと同時に、私の対象性を無防備に暴露することだからである。(余談だが、「他人をかぼちゃと思え」というのは他者の対象性に着目せよという忠言である。)

 

さて、まなざしを向けられていることを意識することは「私は見られている」ことを意識することであり、それゆえ、まなざしは私から私自身へ差し向ける一つの仲介者である。私はまなざしを通して、私がそれでありながらそれを認識しない一つの「私」(対象-私)を捉える。このように捉えられた対象-私が、私が他者にとってあるところの対象的なあり方、個性 nature であり、私の「対他存在」である。この対象的なあり方を私が私のものとして引き受けることは、他人たちが私に一つの存在を付与し、この存在を私が承認するということであるが、ここにもまた、対自の脱自的構造が現れている。先に対自存在の脱自の構造について見てきたが、この対他存在は対自の脱自のうちでもいっそう徹底的なものである。先の脱自は意識するものと意識されるものが同一であり、意識されるものは暫定的に即自化された対自として現れているにすぎなかった。ところが対他存在としての脱自においては、意識されるものは対象-私であり、それは「私のあるところのもの」である即自である。第一の脱自は、「あらぬというあり方で対自がそれであるべきところの一つの存在」へ向かっての、対自の三次元的な企てであった。この第一の脱自が表しているものは、最初の裂け目であり、対自が自らそれであるべきところの無化であり、離脱が対自の存在の構成要素である限りにおいて、自分がそれであるところのすべてのものからの、対自の離脱である。第二の脱自、もしくは反省的な脱自は、かかる離脱そのものからの離脱である。反省的な意識は、「対自がそれであるべきである無化」について一つの観点をとり、それによって、単に与えられた現象としてのこの無化を、「存在する無化」たらしめようとする空しい努力に対応する。けれども、それと同時に、反省は自分が単なる所与として眺めようと試みるこの離脱を、再び取り戻そうと欲し、自分について「反省は、この存在する無化〈である〉」と主張する。これは自己欺瞞以外の何ものでもないが、しかしながら、反省的な無化は、単なる自己意識としての純粋な対自の行う無化よりもいっそう高度である。さて、対他存在を契機とする脱自も、「私」を「私であらぬ私」を介して取り戻すという点では内的な否定であり、無化の最終項、理想的な極である即自、すなわち空間的、外面的否定ではない。しかしここでは自己の分裂がいっそう徹底的になされ、否定そのものまでも冒す。というのも、ここでは「私」を取り戻す仲介者が「私であらぬ私」であって、「私」ではないからである。存在を裏表にして、「意識するもの」と「意識されるもの」たらしめ、さらに今度は「意識する(意識するもの-意識されるもの)」と「意識される(意識するもの-意識されるもの)」たらしめるのは、もはやただ単に否定ではない。むしろここでは、否定が裏表にされ、二つの相反する内的な否定となる。そのおのおのはいずれも内面的否定でありながら、それにもかかわらず、両者は一つの捉えがたい外面的な無によって相互に分離されている。それでも私の自己性と他者の自己性とは同一の存在全体の構造に属するのであるから、このことはヘーゲルのいう「世界精神」の存在を予期させる。あたかも、他者の面前における私の自己性は、一つの全体によって生み出され、支えられていて、この全体が自身の無化を極端まで推し進めるかの如き観があり、「対他存在」は単なる反省的分裂の延長であるように思われる。それは対自の自己分裂という点では内的な否定ではあるが、私の否定と他者の否定、それら二つの否定の一方は他方で〈あらぬ〉のであって、一方が他方であらぬべきであるのではないという、ただそれだけの事実からして、それは、単に〈である〉という肯定的な存在充実の即自のあり方ではないにせよ、他方であらぬもの〈である〉という即自のあり方である。私と他者との間のこの分裂、全体の全体分解的な無がいかにして生ずることが可能であるかについては、これ以上に研究を進めることができない。それは「他者が存在するためには、私が私について他者であることを否定するだけでは十分でなく、私自身の否定と同時的に、他者が彼自身について私であることを否定するのでなければならない」という事実として現れる、「対他存在」の還元不可能な事実性である。

 

 

他者論に対する批判、および考察(1)

 

カントは『実践理性批判』の中で、スピノザの方法を踏襲するかたちで、快・不快を原則とした二元論的な手法によって様々な感情を分析し、それに基づいた感情の分類図を素描した。カントの哲学は先験的な理性を基礎にする個人主義的性格の強いものであるため、感情や身体といった人間を構成する理性以外の要素はあまり考慮されていない。しかし我々が他者と出会うのはこの世界において、つまり身体を通してであり、また感性的な要素は他者との関わりにおいて理性的な要素以上に重要である。故にこれらの要素こそが他者論に進む上では欠かすことのできないものであるため、それらの研究を欠いているカント哲学は、他者論に関しては不十分なものに終わっていた。カントにおいては、他者は「汝の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という純粋理性の定言命法によって、その存在が要請されはするものの、その実在は蓋然的なものにとどまっているように思われる。その点において、一部の感情だけではあるにせよ、他者との関係において感情を分析しようとしたサルトルの方法は画期的である。サルトルはカントと同じように、根源的な意識、すなわちデカルト的なコギトから出発して世界を説明しようとするが、錯覚や誤謬、不確実性を除外して真理としての哲学を企てたカントとは違って、あらゆる勇み足的な判断は一旦中止して、差し当たり現れたものをそのまま受け取るという現象学的なアプローチをとる。そのため西洋哲学において軽視されがちであった感情や身体など、理性以外の諸要素が切り捨てられずに残存しており、これがサルトルが他者論を展開するにあたって十分な方便となっている。

 

しかしサルトルの他者論には不十分な点も多い。サルトルはまず、羞恥や自負といった自分が対象であることの意識から、他者によって〈見られている〉という意識、すなわちまなざし論を展開させ、この間の論理的整合性から対象-まなざしに対する主観的まなざしの超越性を要求している。確かに、見られているという意識が実際に見られているかどうかに関わらないという点では、まなざしの超越性を示唆するように思われるが、しかし私が私にまなざしを向けているところの対象性の一つである、他者の眼に着目したからといって、私に向けられたまなざしが消失するとは言えないのではないか。私に向けられたまなざしが消失するのは他者の眼に着目するからではなく、他者の対象性に着目するからである。むしろ他者の対象性に着目しようとしてその対象の一つである「眼」に着目することは、まなざしを消失させるどころか、それをますます強化するように思われる。「眼」に着目してまなざしを消失させるためには、その眼を意識的に分解して認識する必要がある。例えば、黒目の直径の大きさとか、右目の隅にほくろがある等をとらえるように。サルトルのいう対象性と主観的まなざしとの完全なトレード・オフの関係は間違いではないが、もう少し厳密に記述されても良かったと思われる。

 

また、サルトルが自分が対象であることの意識からまなざし論を展開した部分にも引っかかる点がある。というのも、「自分が対象であることの意識」は「見られていることを意識すること」の必要条件ではないように思われるからである。羞恥や自負のいった感情を持たない動物でも、天敵に見つからないように身を伏せたり、獲物に気づかれないように待ち伏せたりするが、このような動物のこのような振る舞いをサルトルはどのように説明しようとしたのだろうか。例えばサルトルは恐怖の感情を対象化された自己の把握として、恥の感情と関連づけて考察しているが、この感情は動物界にあってはより普遍的なものである。確かにサルトルは自己の対象性の認識を伴う感情を、対自の強化であるといい、対自の必要条件であるとは言わなかったが、そうなるとやはり、本書の記述は意識一般論ではなく、対自としての人間の存在論的なありかたについて書かれたものとみなされるだろう。

 

さらに、サルトルが羞恥の感情について、自分が対象であることの意識であること以上に明確に記述しなかった点も疑問が残る。サルトルの言うように、恐怖の感情が自分のその全体の存在において対象となっていることについての意識に由来する感情であることを認めるにしても、恥の感情はそうではない。例えば人前に立つときに仮面をつけることによって、羞恥を幾分か緩和することが可能である。このことは恥の感情の根拠となる対象化が身体全体を範疇とするものではなく、顔であることを示唆している。旅の恥はかき捨てと言う表現は、もし他人が見ているところのこの〈ひと〉が、この〈私〉であることを特定できないならば、たとえ私が他者によって対象化されていることを意識しようとも恥じらいは生じないことを表している。仮面以外にも、派手な化粧や着ぐるみによっても同様の効果が期待できる。眼は両義的である。それは他者にまなざしを向ける武器であると同時に、私の超越を象徴する部分であるがゆえに、まなざしを向けられる急所でもある。サングラスをかけることで大胆になれるのは、眼においてまなざしを向けられることが無くなるからである。ネット上の動画やコメントについても同様の効果が期待できるものの、その程度については、履歴が半永久的に残ることを「取り返しのつかない」対象化の契機として把握する度合いに応じて変わってくるだろう。要するに恥が生じるための対象化の意識は、単に私が〈ひと〉として見られているという意識ではなく、この〈私〉の対象化の意識でなければならないのだが、この点がサルトルの記述では曖昧であったように感じられる。サルトルは〈まなざし〉regard という言葉で「見られていること」を象徴化しているが、やはり一般的には、この「見られていること」の意識と「自己の対象化の意識」は完全な連関を持っているとはいえないだろう。完全な連関があるのは、人間存在にかぎり、「見られていること」と「〈私〉の対象化の意識」の場合だけである。

 

 

ところで、恥の意識は自己の対象化の意識であると言われていたが、そもそも対象化とは何であるかについて、いくつか事例をあげて補足しておきたい。身体性の暴露は対象化の顕著な例であるとはいえ、対象化の全てが身体性の暴露であるわけではない。対象化は、それの最も広範な意味においては概念化である。自己の対象化に限らず、世界の諸事物に対する対象化であれ、超越に対する対象化であれ、対象化するという行為にはそれ自身のうちに、〈超越された-対象〉という、何か支配的なニュアンスが含まれている。悪魔の名前当てで有名な童話(ルンペルシュティルツヒェン 独:Rumpelstilzchen)は、この恰好の例である。名前をつけるというのは一つの対象化である。分からないものや理解できないものにはさしあたり名前をつけるだけで、我々はこれらの無規定性を超越し、限りない不安を有限なものにすることができるだろうし、ついには名前をつけるだけで分かった気になってしまう場合もあるほどである。一方で、人間にとって名前をつけられるというのは、自己を対象として他有化されることにほかならない。犬や猫でも名前を呼ぶと反応するが、これは音声と報酬(撫でられる、餌をくれる等)との一種のオペラント条件付けであり、それを自分の名前として認識しているわけではないと言われている。他者から発せられた音声を自分の名前として認識することは、他者によって自己を対象として他有化されることの、すなわち「対他-存在」という、自己認識の構造を必要とするからである。

 

かつての中華圏における字(あざな)と諱(いみな)という二つの名の存在も、この名前という一つの「対他-存在」と関係するだろう。字は公けに対して用いる名であるのに対し、諱は近親者などのごく親しい間柄の関係においてしか使われない名前である。名前と魂との関係や、言霊思想などがこの命名方式の根拠とされているが、根源的には超越を対象化することへの罪悪感、あるいは畏怖によって説明されるものと思われる。我が国においても、例えば平安貴族の女性は名をほとんど公けにしなかったし、平民に姿を見せるのさえ忌むべきこととされていたが、これもまた超越の対象化が何を意味するのかを示す恰好の事例であろう。厚い化粧や派手な装束は、身体という対象化の契機を覆い隠すための仮面である。あるいはまた、官職を持つ人物はその名で呼ばれるよりも、官職名で呼ばれるのを常としたが、これもまた同様の理由である。名を呼ぶ場合であっても、その名が目立たないように地位や官職名で修飾される場合が多い。例えば「九郎判官義経」は「義経」という名が目立たないように「九郎」という長幼の地位、および「判官」という官職によってあらかじめ修飾されている。現代でも特に親しい間柄でもなければ、下の名前を呼び捨てにすることは無礼なこととされており、当人を呼ぶ場合は名字に敬称を付与するなどして、できるだけ個人を特定しつつも婉曲的に呼ばれる。また皇族の場合は、呼称に関する規定が特に顕著である。名前に関するこれらの忌避的態度は、すべて同じ根拠を持っている。要するに対象化とは、規定することであり、限界づけることであり、概念化であるからであり、超越の対象化というのが、無限なものに対する有限化の試みであり、ひとつの姦通的行為だからである。

 

 

他者論に対する批判、および考察(2)

 

 

さて、サルトルは恥や自負といった、他者との関わりにおいて生じる感情にのみ焦点を置いていたが、この考え方をもう少し発展させると、以下のような感情の分類ができる。

 

(1)私が「私であらぬもの(即自)」に対して抱く感情:喜び、怒り、悲しみ、安心など

(2)私が「私であらぬ私(他者)」に対して抱く感情:嫉妬、憎悪、尊敬、感謝など

(3)私が「私であらぬ私」に対して、客観的な私について抱く感情:恥、自負など

(4)私が「私であらぬ私」に対して、主観的な私について抱く感情:傲慢、卑屈など

 

このうちサルトルが主に論じていたのは(3)の感情である。(1)が人間以外の他の動物も持っているような原始的な感情で、(2)は他者の存在を条件とするものであり、(3)は他者の存在を介した自己認識(反省的な意識)に伴う感情、(4)は他者の存在を介した自意識(直接的な意識)に伴う感情であると言えるだろう。特に(3)の感情はサルトルの理論でいえば、対自の構造がもっとも強化されたものであり、本書の記述もこの感情に重点をおいてなされている。それにしても、サルトルは、他者によって自分が見られているという意識、自分が他者にとって対象になっているという意識を〈まなざし〉と呼んだが、これは「気配を感じる」こととどう違うのだろうか。考えてみると、我々は「気配」という言葉を人間にかぎらず動物の存在についても用いうるが、〈まなざし〉という言葉は人間の存在に対してしか使われないように思われる。もしサルトルのいうように、対自存在のありかたについて人間と他の動物とを峻別する何らかの基準があるとすれば、それは対自存在の普遍的なア・プリオリな構造ではなく、対自存在の脱自的本性を強化するという意味で対自の派生的な構造である〈まなざし〉と、単なる他者の察知である気配の差異に帰着するのではないだろうか。

 

また、全体を通して読めば理解できるものの、ここまでの記述では不十分だと思われる内容について補足しておきたい。サルトルは自己の対象化の意識を羞恥や自負の感情として、意識の対自的な構造に沿って説明しているものの、それらの感情の固有の意義についての説明は、ここまでの記述では十分になされていない。それは全体を通しても明確に記述されているわけではないものの、第二章-身体、および第三章-他者との具体的な諸関係の記述内容から推察される。簡潔にいえば、羞恥とは「自己の主観性を剥奪されることへの恐れ」の感情であり、「自己の存在を剥奪されることへの恐れ」である恐怖と対応関係にある。同様に自負とは、自己の対他-存在を自己のそれであるべきところの凝固として、それを誇示する感情である。しかし、それでもサルトルの自己の対象化の意識に関する記述は不十分である。例えば罪悪感については第三章後半部で軽く触れられているものの、それは主に「存在することが申し訳ない」という罪責の意識について焦点が当てられており、「存在することが恥ずかしい」という苦々しい羞恥の感情を伴って現れることの説明はなされていない。また、共感性羞恥という現象は他者の境遇を自分に当てはめることによって生じる羞恥であるが、これは直接的には他人によって見られているという意識に由来するのではなく、この場合は他者に対する共感や、想像という心的働きが重要であるように思われるが、このような派生的な現象についても全く触れられていない。第三部後半で〈対象-私〉を拡張するかたちで〈対象-われわれ〉についての考察がなされるものの、それは自己と他者とを同じ存在論的条件のもとに包摂する企てであり、少なくとも共感性羞恥の場合は〈私〉は恥ずべき対象ではないのだから、この考察も参考にはならない。

 

以上のような難点があることに重きを置けば、恥という感情を有用性の観点から説明するような進化生物学的アプローチや、その共同生活における実践的意義を重視する心理学的観点からの説明に軍配があがるだろう。前者では、例えばベルクソンが『笑い』で研究した「笑いの意義」を、そのまま「笑われる意義」に置き換えて解釈すればよい。そうすれば、恥の感情は集団に対する無関心や不注意を、「笑われる」ことによって嗜められたことに対する否定的な感情として捉えられ、集団への無関心を抑止する機能を持つものだと解釈されるだろう。後者の例で言えば、恥は集団への帰属欲求、あるいは集団からの疎外に対する恐れとして解釈する立場がある。罪悪感や共感性羞恥に関しても、集団への帰属欲求の一例として解釈される。前者はより理論的、目的論的な観点であり、後者はより実践的、実験主義的な立場である場合が多いが、根本的には両者は、進化生物学的な意味での適応という、同一の観点からの解釈である。

 

サルトルの他者論の全体的感想

 

いくつかの点で不十分であると思われる点はあるものの、それでもその認識過程において興味深い矛盾的本性を含むにもかかわらず、従来の哲学ではあまり考慮されてこなかった他者の存在の解明についてサルトルが残した業績は大きい。啓蒙主義に端を発するような合理主義精神は、個人から出発して社会を説明しようとしてきた。例えば社会契約説では、生まれながらに固有の権利を持つ個人が主役であり、個人がその権利を最大限に発揮するための道具として社会や国家の存在が説明される。社会や国家の存在しない自然状態において個人の権利が十分に保障されないのは、「万人の万人に対する闘争」が行われるためなのか、それとも非効率的な生産構造である「牧歌的な状態」のためなのか、それはどちらでもよい。どちらの場合でも個人の権利に基づいた法体系の正当化のために、まったく非現実的な世界を仮構しているにすぎないからである。どちらの場合も問題なのは、個人から社会への一義的な関係しか認めていないことである。しかし和辻哲郎が『人間の学としての倫理学』で言うように、人間は人として生まれるのと同時に、〈人の間に〉生まれる。人間としての人のありかたを考えた場合、個人と社会の間の一義的な関係はむしろ逆転する。要するに個人が社会を形成するのではなく、社会の中に生まれることが「個人」という概念が形成されるための条件なのであると和辻は言う。これは確かに考慮されなければならない意見である。啓蒙主義者の先人にならってあえて仮構的な例を出すなら、無人島に一人いるだけでも生まれながらに固有の権利を持つならば、それが保障されるべき根拠は何か、また自然災害や動物の襲撃によってその権利が毀損された場合、その責任はどこに帰するのか、個人から全てを演繹するような理論では説明できないだろう。一方で個人に先立って社会を前提とするならば、他人のいないところには個人もいない、よって個人に帰せられるべき権利も存在しないことになる。個人に固有の権利が保障されるべきなのは、その社会に生まれたからであり、その毀損に対しては社会が責任を負うことが、さまざまな保障制度の根拠である。この理屈からすると、世で言われているところの個人に固有の権利というものは、社会の義務のことである。実際、権利の拡張を主張する人々の言い分は「社会は私たちに対して〜すべきである」という構造をとっているが、このことはこの理論を補強する材料になるだろう。この理論では、社会が個人に先立って存在する。よって権利の保障に関しては、個人が社会に対して義務を負うかぎりで、社会は個人に対して権利を保障する義務を負うと考えるため、啓蒙主義的立場が内包するような、義務なき権利という法概念上の矛盾も生じない。例えば日本における死刑制度の是非について論争を考えてみると、廃止派は意思によらずに強制的に命を奪われることが固有の権利の侵害であると捉え、いかなる場合もあってはならないことだと考える一方で、存続派の意見は被害者の権利や道徳感情に依存しており、情緒的な説得力はあるものの論理的説得力には欠けている。だが、もし法体系において個人と社会の関係を転倒させた場合はどうなるか。個人の権利に焦点を置いていた論争は、犯罪は個人の社会に対する義務違反であるが、それに対して社会はどのような処遇をなすべきか、という内容に変わるだろう。この立場からは存続派は廃止派に対して法論理的にも互角の勝負を行うことが可能であるが、そもそもなぜ不利であったかと言えば、神と個人を第一義的なものと考える立場では、殺人や盗みなどの個人の行為は二次的なものであり、この第一義的な関係を毀損するものではないからである。このように考えると、近代理念というものは結局、キリスト教的な意味での神と個人の関係から出発したため、他者の存在やその共同体である家族、社会、さらには国家の意義を十分に導き出すことができなかったからである。確かに近代理性の神は合理的思索の果てにある形而上学的な神であり、宗教的な神の概念とは異なる。それでも、近代理念の成立をキリスト教倫理からの分離ととらえる人はいないだろう。もしヨーロッパ的な合理主義精神においてキリスト教的な地盤がなければ、スピノザは諸性質の全集合に「神」と名づける発想に至らなかっただろうし、カントも「神の存在」や「魂の不死」などの超越的理念に対してわざわざ特筆することもなかったように思われる。近代理念は「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対してすら明確に答えることができないし、個人が共同体に属することの意味も、皮相的な利害関係によってからしか説明できない。ヨーロッパ的な個人主義的な思想と親和性と高いサルトルが、それにもかかわらず、他者を人間存在に欠くべからざる一契機としてその理論に組み込むことができたのは、サルトルの類まれなる思索力の賜物だろう。とはいえ、それは近代理念の枠組みにおいてはあまりの大掛かりな作業であったため、その手順はやや稚拙な感があったのは否めない。サルトルは純粋な反省であるデカルト的なコギトから現象学的還元を出発したが、人が《人-間-存在》として生きているかぎり(例えばフランス国籍を持った仏語話者であることは、フランス人民という共同体の一員として生きることであり、仏語で書物を書くことは仏語という一つの言語が持つ制限と可能性のうちに書くことである)、現象学的還元の根源的な出発点は、人間的な意識のありかたであることになるだろう。先に述べたように、人を個人として共同体から独立させて考えることは不可能である。共同体は人を個人たらしめる条件なのだから、それは自分の足を掴んで空を飛ぼうとするようなものである。要するに、対自の純粋な対自性というのは、単に抽象的な概念であり、具体的な対自の状態としては実現可能でない。現実に存在する各々の対自は、各々の経歴の内に必ず、他者との関係を含んでいる。



なお、後に見るように、サルトルは「それ自身の無」であるかぎりの対自について、いかなる即自的なものの混入を認めず、純粋な透明性、《人間の絶対的自由》を打ち立てる。それと対照的に、世界の諸対象、および「超越される-超越」としての超越の凝固は、純粋な透明性のうちの沈殿物として把握される。世界の諸対象の秩序は《現れの法則》として、事物存在の本性に帰される。だが、仮に対自の純粋な透明性である、《人間の絶対的自由》を認めるにしても、沈殿物に含まれている「超越される-超越」は凝固しきっているのだろうか。確かに、〈世界がどのように現れるのか〉はひとり対自にのみかかっている。だが、〈世界に何が現れるのか〉は世界の根源的偶然性に属している。それでは、もしこの世界の根源的な偶然性が、完全に事物の本性に還元されない、何か〈対自的なもの〉を含んでいるとしたらどうなるだろうか。我々の感情や欲望は、我々の意志の思う通りに働いてくれるわけではない。また超越であるとともに対象でもある他者の存在は、対自の存在論的構造からも演繹されず、また対自の自由によっても証明されないまったく偶然的な事実である。自由にまつわるこれらの諸問題は後に詳しく検討されるものの、まだこの段階では詳述されていない。