さて、ここまでで意識の構造として(1)即時存在を無化する(2)対自存在(=自己自身)を無化する(=脱自作用)が挙げられた。続いて、即自存在、対自存在が無化されるということが、いかなる意味を持つのかについて書かれる。

 

価値、および諸可能について

 

すべての存在は、それ自体としては、それがあるがままにあるのであり、いかなる区別も意味も持たない。あるものはあるのであり、あらぬものはあらぬのである。ただそれだけであるから、あらぬものとあるかもしれないものとの区別も存在しない。また全存在は、それ自体としては、すべての存在者の塊であり、世界は全存在の塊の連続した無限列であり、存在者を相互に区別するいかなる内在的要因も、何が珍しくて何がありふれているのかとか、何が成功で何が失敗なのかといったように、無数の存在のあり方を区別し、それぞれのあり方に応じてそのありようを意義づけるような動機も、存在そのものからは導出できない。これらもまた、無化によってはじめて可能になるのである。

 

無化される即自存在は、その無化を為す対自存在にとって、ある意義を持つことになる。例えば目標とする自分の姿ということを考えると、この場合、対自存在は目指されるべき自己に対して、今、この瞬間における自己を投企する。これは無数の可能なあり方のうちで一つのあり方を選び取ることである。サルトルはここに、可能性、および価値という概念の本質的な意味があるという。これは対自存在のあり方であるとともに、同時に周囲を取り巻く即自存在のあり方も規定するから、意識は無数の可能な世界のあり方の中から、自己があるべき存在としての、一つの《世界-内-存在》を選択することになる。〈ある〉がままである即自存在の世界に、対自存在によって導入された〈べき〉というありかた、これが即自的であるにも関わらず、実在を欠いた概念、すなわち「価値」の根原である。このとき、今この瞬間における自己の存在は、ちょうど弦月がそれ自体として認識されるのではなく、欠けた満月として認識されるように、理想の自己の姿のある部分が欠けたものとして現前する。先に述べたように、即自はそれがあるところのものであるから、欠如というあり方もまた対自存在によって由来する。この欠如は対自によって、補われる〈べき〉ところのものとして、すなわち価値として認識されるところのものであるから、価値とは対自存在によって現れる不在の即自である。このようにして、我々はなぜ価値が存在すると同時に存在しないものでありうるかを、理解することができる。

 

サルトルは対自が自身の相関者として世界を開示する仕方について弦月の例を用いていたが、これは我々が弦月を欠けた月として認識するのはなぜかという問いに対する答えである。即自存在はそれがあるがままのものであり、それ自体としては完全でも不完全でもない。存在にそのような価値がもたらされるのは対自によってである。弦月が欠けた月-不完全な満月として見られるのは、それ自身が欠けた存在によって、すなわち対自存在によってである。対自は常に自己自身を欠いた欠如者であり、その存在の彼方において完全な自己自身との一致「対自=即自存在」を目指すが、この欠如概念は自身の相関者としての世界にも同様に適用され、それ自体としての世界は、多様な事物と価値に溢れた対自にとっての世界へと分解される。

 

ライプニッツ以来、可能的〈possible〉という言葉は、出来事を確実に規定しうるような厳然たる因果系列に決して拘束されない一つの出来事、しかも、それ自身に対しても当の体系に対しても何ら矛盾を含まない一つの出来事について、用いられるのが常であった。そのように可能を定義すると、可能は認識によって把握される諸事物のふるまい方の潜在性ということになる。例えばスピノザの説によれば、可能は我々の認識における無知に由来するのであり、完全な認識によって可能は消失するとされるが、これは可能性を即自存在に由来すると考えるわかりやすい例である。あるいはライプニッツ流に可能を神的悟性の試行対象たらしめる場合、それらの諸可能に絶対的な実在性が付与され、それらのうちから最善の体系を実現する能力が神的意志に対して保留される。しかし、何度も繰り返して述べられるように、即自存在はそれがあるところのものであるから、即自存在から可能的なありかた、すなわち、自己であって自己であらぬようなありかたを導くことはできない。事実、可能を認識に対してのみ可能的と考えるならば、因果律と自由意志のアポリアを解決することができない。可能という概念もまた、対自存在に由来するのである。対自は自己であり、かつ自己であらぬものとして脱自的に自己を構成するが、同時にその自己の相関者として可能的な世界を開示する。この開示される可能的な世界とは、第一義的には未来世界である。対自の過去は、対自がそれであるところのものであるありかたであって、いわば即自に凝結した対自存在の痕跡である。対自の未来とは対自がそれである〈べき〉ところのものであるあり方であって、対自はそれに対して自己を投企する。未来の対自は、対自の未来でありながら不在の即自として今の対自を、その欠如した存在として規定する。このようにして、先に否定性と規定された対自の構造が、時間と密接に関わっていることが示唆される。それでは対自の構造は時間とどのように関わっているか、またそれがいかなる意味を持つかを考えてみる。

 

意識の構造 - 三つの次元の現象学

 
対自存在には過去、未来という不在の即自がつきまとっている。この二つの即自について簡単に言えば、次のようになる。意識は自己自身を無化することによって自己自身の根拠となるのであるが、それは自己の無に関する根拠であって自己の存在そのものの根拠ではない。言いかえれば、なぜこのありかたであって、あのありかたではないのかという点については、無数の可能なあり方のうちの一つを自己の判断のもとに選んだ以上、意識は自己自身のありかたには責任を持つが、一方で意識の存在そのものについての責任はないということである。よって、意識が存在するという、この絶対的事実の現前は、意識にとっては必然的な偶然性としてとらえられる。これが一つ目の意識に内在する即自であり、必然的事実性と呼ばれる。もう一つの即自は、意識が無数な可能なあり方のうちの一つを選択した際、その目指されるべき自己を即自的に定立することにある。意識は、自分によって定立されたこの即自的な自己との一致をめざすが、これは原理的に不可能である。このことが意識の本性的な自己欺瞞として現れたのであった。
 
 

サルトルによれば、意識の存在構造においては過去、現在、未来という契機が含まれており、これらの契機の関係は互いに規定し合うものであるから、それらの契機のどれか一つを取り出して独立に考察することはできない。しかし常識的な理論はそれらを独立に考察しようとし、最終的に原理的な困難に出会う。例えば心理学の理論では脳髄痕跡説というものがある。これは過去を現在における脳細胞の変容の痕跡であるとする立場であるが、このような理論に代表されるような、過去を現在における生理学的平衡状態の破綻と見る立場では、我々が過去を想起する際の受動性を説明することができない。言い換えれば、思い出す一つの意識が、自分の志向で、ある一つの出来事をそのあったところにおいて目指すために、現在を超越するというこの事実を説明することができない。言い換えれば、むしろこの場合、まず初めに現在を超越するという試みがあった後に、ある一つの出来事を思い出すという試みがあることになるが、それでは現在の超越は何を、何に対して超越することになるのか、全く説明することができない。また、この立場からは想起と仮構心象の区別をつけることができない。再生的知覚の希薄さや曖昧さ、イメージされた内容の親和性も、両者の量的関係、相対的な強さを根拠にしているにすぎず、解決をもたらすことにはならないだろう。形式的に考えてみても、時間を時間性や、過去、現在、未来の対自的な意味を無視して、個別の契機をそれ自体として考えようとする営みは原理的に挫折せざるを得ない。過去はそれがあったという意味において、未来はそれがまだ来ていないという意味では存在しないが、一方で、瞬間的な〈現在〉は純肯定的な存在充実であり、純粋な肯定性から否定的なものを演繹することはできないからである。時間が内的統一のもとに諸契機として開示される場は意識であるから、時間は対自存在において考えられなければならない。 例えば、時間を〈今〉の無限系列として扱うならば、我々は次のような逆説に出会うだろう。「過去はもはや存在しない、未来はいまだ存在しない。瞬間的な現在は、次元を持たない点と同様、無限分割の極限であるから、これもまた存在しない、ゆえに時間は存在しない」これは時間の現象学的解明としては全く不十分である。あるいはまた、時間をある一定の大きさを持った分割不可能な要素の総合と考える人もいる。この場合、運動は各瞬間において離散的な、コマ送りの変化として解釈されるだろう。有名なエレア派の命題「飛んでいる矢は止まっている」はこの代表である。しかしこの場合、各瞬間はそれぞれ独立した存在であり、ある瞬間から前後の諸瞬間を導くような、よって各瞬間同士を連続的な現象として結びつけるようないかなる内的実在も存在しない。つまり、〈移行〉という現象の説明がつかなくなる。デカルトはこの問題を、神による無からの連続的創造と解釈したが、これは問題を丸投げしたも同然である。あるいはまた、ライプニッツのように、時間を連続体の総合的統一であるという観点から考える人もいるが、今度は逆に時間の移行に伴う諸瞬間の変化の説明がつかなくなる。「一系列a、b、cは、a=b、b=c、a≠cと表すことができる時、連続的である」というポアンカレの説明は、形式的には大変わかりやすい。数多性から全体を構成しようとすれば「a≠b 、b≠c 、a≠c」に陥り、全体から数多性を導こうとすれば「a=b、b=c、a=c」となってしまう。ただしこの説明は、「a=c かつa≠c」が導かれるという矛盾から、「あると同時にあらぬような一つの存在の型」を示してはいるものの、その内実については全く教えるところがない。

 

 

ところで、意識は「それのあらぬところのものであり、それのあるところのものであらぬ」存在であった。これを時間的な観点からとらえると、未来の対自は「それの未だあらぬところのもの」であり、過去の対自は「それのあったところのもの」である。過去は不断に世界に投企された対自存在の凝縮として、未来は対自がそれの欠如であるところの、それへ向かって自己が投企されるべきものとして、対自に対して与えられる。対自は過去に対しては自分自身から逃れ出るとともに、未来に対しては自分自身に向かっていく。これが対自における時間的構造である。これによって対自にまつわる形而上的な問いに対しての答えが与えられる。対自がどのように即自存在から生まれるのかについては、対自存在は対自の誕生によって与えられるのではない。誕生という過去自体が対自の存在によって与えられるのである。また、対自における時間的構造は、対自が自己自身を過去、現在、未来に分割される時間的な広がりの中に展開することを意味する。これは時間が対自の存在構造であることをも意味するから、時間は変化を抽象することによって形成された概念ではなく、対自にとって実在的な概念である。過去は「それのあるところであった」というあり方で対自のあらぬところであり、未来は「それのあるところであるべきである」というあり方で対自のあらぬところである。こうして意識の存在構造が時間的であるということ、及びこの時間的なありかたというのは、時間の連続性および不可逆性のことであり、意識の存在構造においてはこれがア・プリオリな形式として必然的でなければならないことが示されている。「時間性は存在するのではない、ただ或る種の存在構造を持つ或る存在だけが、自分の存在の統一において時間的であることができる」また、「時間性は、対自が脱自的に対自であるべきである限りにおいて、この対自の存在である。時間性が存在するのではなくて、対自が存在することによって、自己を時間化するのである」

 

自分自身を意識する意識、反省について

 

さて、意識はそれ自体としては自分自身についての非措定的な意識であるが、意識的には自分自身についての措定的な意識、すなわち反省する意識でもある。ヘーゲルが『精神現象学』で、即自的な次元における即自存在のありかた、および対自存在としての意識から、対自的な次元における即自存在のありかた、および対自存在としての意識の分析に移ったように、サルトルもまた対自的な次元における意識存在、すなわち反省する意識についての分析を行う。

 

反省は、即自存在に自分自身との一致の挫折を見た対自存在の、自分自身であろうとする不断の現在的な努力である。もし〈反省-反省されるもの〉という準-二元的な存在が、同じく〈反省-反省されるもの〉という存在によって全体的に把握されるのであれば、この存在は自己自身との一致を見出すであろう。しかしすでに見たように、この一致は達成されることがない。自分自身との一致というあり方は即自的であり、対自存在にとっては自己自身であらぬようなあり方であるからである。ところで、一般的に反省というのは自分自身についての一つの措定的な意識、すなわち認識である。これは意識は自分自身が認識の対象となる場合、意識は対象を全体性のうちにとらえながらも、それについて一つの特殊な観点をとっているということである。またそれゆえに、反省は今まで見てきた自己自身に対する直観以上に、自分と自分自身を無によっていっそう強く分かつ。例えば悲しい過去を振り返ることは、悲しみという極から自分自身を全体的にとらえることである。確かに悲しみを意識に内在する一つの限定的な状態としてとらえるのは不合理である。悲しみはそれが生じている間、意識全体に浸透して、意識のあらゆる活動の動機づけにおいて支配的な地位を占めるように思われるが、それは心的な状態というものが即自的な惰性を分有していながらも、あくまで対自的な実在であるからである。心的なものは対自的な実在であることからして、その存在は時間的な拡がりを持っている。例えば、人を一瞬だけ愛するということができるだろうか。将来が不確かな愛はもはや愛ではない。愛が将来に持続することは、愛する人にとってすでに与えられていることである。未来は「すでに与えられているが、まだ来ていない」だけなのである。

 

このように、心的なものは瞬間的な〈今〉の継起において、時間的な拡がりを持って存在している。ベルクソンが《持続》という概念で説明しようしたのはこのことであると、サルトルは書いている。諸々の感情の時間的な特性についてはさまざまに異なるが、それが時間的な拡がりを持っているという点では共通している。喜びや怒りのように永続させることができない感情は、それが生じた時からすでに、その将来が終極的な帰着点およびその発展の与えられた方向として存在している。愛や憎しみのような持続的な感情は、それが生じた時には、将来における持続が決定済みのものとして与えられている。

 

 

今まで考えてきた意識の働きは非措定的な意識、つまり直観であったのだが、ここでは自分自身を客観的に見ること、つまり認識が問題になっている。しかし対象について特定の観点をとるということは、当の対象を即自的にとらえることに他ならない。対自的な自己を即自的な諸々の状態の総合として構成的に反省すること、これが一般的な意味での反省である。一般的というのは、自分自身に対する純粋な直観もまた一つの反省であるためで、こちらと区別するためである。この反省というのは、対自存在の自分自身の存在把握であることは確かなのだが、現象の把握と同じように超越的なやりかたで、つまり諸事物を把握するのと同様のやりかたで自分自身を把握しようとするため、必然的に自己欺瞞となる。先に人間は自分自身のことでは必ず嘘をつくものだ、というハイネの言葉を引用したが、その時は自分自身についての直観的な意識のありかたを検討したのに対し、今回は自分自身についての措定的な意識の場合についてであるから、今度は自覚的な自己欺瞞である。自分自身を客観的にとらえるということは、世界の諸対象が自然法則や因果律に従うのと同様に、自分自身を事物存在のごとく把握することであるが、意識は自分が対自存在であることを直観しながらこれを行わざるを得ない。例えば「あの時の悔しさがなければ、今の自分はなかった」という発言は、過去の悔しさと今の境遇との間に因果関係を規定するものであるが、これが自己欺瞞的であることはすぐに分かることであろう。その因果関係は見かけの結果論であり、実際は今の境遇を経験したそのあとで過去の悔しさを意味付けしたのであるから、因果関係はむしろ逆である。自己評価というものはもともと自己欺瞞的であり、自分が規定された評価から逸脱せざるを得ないことを直観していながら、その規定に収まっていると自分に言い聞かせる、対自の空しい努力に由来する。

 

時間の現象学に対する感想

 
サルトルは時間を、対自の存在論的構造がとる必然的条件であると考えた。それはのちに見るように、世界が空間的な世界として現れるという事実的必然性、《現れの法則》とは根本的に異なるものである。ところで時間を認識に対して実在的な量と考えるならば、その解明は純粋に物理学的な説明によってなされるということにもなるだろう。古典物理学では時間は実数量として、無限に分割可能な量として表される。一方、量子論ではプランク時間という時間の最小単位なるものが存在し、時間を離散的な量として扱うが、これは最小単位以下の量が物理学的に意味を持たない量だからであり、このことが直ちに時間の離散性を示しているわけではない。しかし仮に時間が実在的な量であることが実証されるにせよ、そのことが時間の時間性を解明することになるかは別である。古典力学では時間性は理論から導き出されるのではなく、経験的に自明なものとして後付けされている。相対性理論では、時間は距離と同様の一つの次元として扱われているため、時間性という性質が排除されている。今までのところ、これらの理論が実際の現象と非常にうまく整合していることから、常識的な意味での時間というものは存在しないという極端な主張も出てくる。しかし、やはり時間は他の空間的な諸次元とは異なった性質を持っているように思われる。時間の不可逆性の問題は、《時間の矢》として物理学における未解決問題の一つであるが、現状においてはエントロピーなどの統計的な量によって暫定的な解決がなされている。暫定的というのは、これは確率的に見てほとんど起こり得ないという統計学的な解決の仕方であり、時間の不可逆性の証明(あるいはその反証)という原理的な解決ではないからである。つまり物理学においては、時間の不可逆性というものが蓋然的な現象とみなされ、エントロピー増大則から導かれる付随的な性質ということになっているのだが、これが時間の不可逆性という形而上学的な重みを持つ問題に対しての根本的な解決だろうか。時間性の解明を含む意味での時間にまつわる諸問題の全面的な解明は、もしそれがありうるとすれば、やはり意識の存在に関わる認識論的な課題に関連してなされるのではないだろうか。時間の不可逆性を実在的なものと仮定した多くの先行研究が、この性質を純粋に客観的-宇宙論的な現象として扱うよりも主観的-意識的な現象と関連づけて説明しようとしたことの理由もそこにあるように思われる。
 
サルトルの言うところの、時間的な拡がりという対自の存在論的なありかたを示すには、いくつかの適した例があるように思われる。例えば我々が話を聞くとき、本を読むとき、音楽を聴くとき、あるいは今まさに、このブログを読んでいるときなどがそうである。事実、その場合、我々は瞬間瞬間の内に、文章や音楽構成する音や文字をそれ自体として、それだけを捉えているわけではない。むしろ過ぎ去った音や文字、さらにまさに来るであろう音や文字との関わりのうちに、すなわち一つの全体的な構造のうちに一つの音や文字を捉える。一つの音符が意味を持つのは音楽の全体の構成の内においてであり、一方で、音楽の全体は一つ一つの音符のうちにその音楽の全体性を顕示するのであり、そのことが可能となるのは時間的な拡がりのうちにおいてである。むしろ我々が瞬間ごとの音符に着目するならば、音楽の全体性は消失してしまうであろう。同様に、文章を読む際に今読んでいる部分以外を覆ってしまうならば、かなり読みづらく思われるはずである。〈すでに〉読み終わった部分は今読んでいる部分を導いたものとして、〈まだ〉読んでいない部分は今読んでいる部分から導かれる素描として、〈今〉読んでいる部分に対して背景となっているが、〈今〉読んでいる部分が文章全体の一要素として現れるのは、この背景を通してである。読み慣れた構造の文章は速読でき、聞き慣れた構造を持つ話は倍速で聞くのも苦ではないのは、この事情のためである。さらに、個人個人の発話や声質が多様であるにも関わらず、それらを「言葉」として聞くことができるということもまた、「話」が時間的な拡がりの内にあることを示している。それはAIの通訳機能の開発が、どれほど困難であったかを考えてみてもわかるだろう。それゆえ、時間的な拡がりを持つ存在を諸瞬間という基本単位に還元しようとする試み、あるいは基本単位の積分によって時間的な拡がりを再構成しようとする試みは挫折せざるを得ない。それによって得られるものはあくまでも「再現」であり、模倣された生命である。