はじめに

 

緒論には本書の書かれた目的について次のように書かれている。

 

存在のこの二つの型の深い意味は何であろうか?二つがどちらも存在一般に属するのはいかなる理由によるのか?根本的に切り離されたこの二つの存在領域を存在が自己のうちに包括する限り、そのような存在の意味は、何であるか?権利上では交通不可能なこの二つの領域を事実において結びつけている諸関係を説明するのに、観念論も実在論もともに失敗であるとすれば、他のいかなる解決をこの問題に与えることができるか?そして現象の存在はいかにして超現象的でありうるか?この書物が書かれたのは、これらの問いに答えようがためである

 

 

要するに、認識がいかにして可能なのか、またそれを可能にする意識はどのような構造を持つのかを解明するというのが本書の趣旨である。認識がなぜ可能なのかという問題は、つまりこういうことである。認識は事物存在と意識とを媒介して意識に事物存在を把握せしめる。しかし事物存在と意識は通約不可能な二契機であるにもかかわらず、認識はこれをいかにして媒介するのか。〈色〉と〈大きさ〉のように、互いに共通した要素を含まない〈存在〉と〈意識〉の関係において、片方がもう一方に超出することができるのはなぜか、またそれはどのように行われるのか。この問題に際して、本書はまず認識における事物存在のあり方、つまり現象の意識に対する現れかたを分析し、「水槽の脳」仮説のような極端な観念論を否定する。それは一言で言えば、現象は意識にとって超越的な現れとして現れる、というふうに要約できる。一つ例を出して考えてみよう。我々が子供の時に学生向けの参考書を開いたとする。そこには見たこともない記号や数式の羅列があるが、もちろん当時の我々にはその意味は全くわからない。その後学生になって再びこの参考書を開いて、その記号や数式の意味を理解したとする。この場合、もし「水槽の脳」仮説をとるならば、我々は子供の頃から全く未知の数学の内容について先天的な理解があり、学生になってそれを学ぶ時にはその内容を思い出しているに過ぎないことになる。というのもその記号や数式の羅列に有機的な統一を与えるのは、その数学の内容以外にはないからである。ましてでたらめに書き綴った記号や数式の羅列が、後々一貫した数学的意味づけをなされると考えることは不合理である。これは特殊な例であるが、このことは世界のあらゆる事物に対して適用できる。つまり事物存在は我々の観念のうちには含まれない。事物は我々の意識があらかじめ認知的了解を持たないという意味で不透明であり、また観念と共通した実在的性質を持たないという点で、我々の意識に対して超越的なものとして現れる。

 

ところで、サルトルは思想的立場とその実践との関連において、不連続があると主張する人もいる。例えば『嘔吐』英訳版の前書きには、次のように書かれている。「著名な自由主義者で偉大な無神論者でもあった哲学者が、自由を根底から破壊するイデオロギーにほとんど宗教的な信頼を寄せていたことに皮肉を感じざるを得ない」(原文:One cannot help reflecting on the irony that the celebrated philosopher of freedom, the great atheist, maintained an almost religious faith in an ideology that vandalized the very face of freedom. )皮肉を感じるというのは、確かに事実であろう。晩年のサルトルにおける共産主義へのほとんど盲信的と言ってもいいくらいの傾倒を、思索の後退とみなす人もいる。だがこれを後退であると即断してしまっては、この偉大な思想家に対する無理解であろう。一般的には矛盾は欠陥であると思われている。確かに数学や科学においては、矛盾は欠陥であり、それは理論の誤りを示すものである。だが、われわれの心のうちである超越の世界においてはどうだろうか。もし超越の世界の本性が矛盾に満ちているものであるとしたらどうなるだろうか。そうなるとわれわれの感情生活、倫理、法律などを価値づけている認識体系は根底から覆されることになるだろう。少なくとも、超越の世界も感性世界と同じように、論理的な一貫性を保った秩序を持っているという保証はどこにもない。もしサルトルが、思索の果てに人間存在の絶対的矛盾を目の当たりにしたならば、そして世俗的な現実と妥協したり、あるいは『嘔吐』の主人公ロカンタンのように、芸術への逃避によって差しあたりの秩序を構成して気晴らしするようなことをせず、その矛盾をそのまま引き受けることを選んだのだとしたら、どうなるだろうか。事情は変わってくるはずである。文庫本(ちくま学芸文庫、松浪信三郎訳、全三巻)にしておよそ1700ページにもわたる大著である『存在と無』は、思索の過程が余すところなく記述されており、サルトルの思想形成を理解する上で極めて重要なものとなっている。

 

意識の構造 - 否定

 

本書はまず、意識の構造の問題に取りかかる。第一部第一章「否定の起原」では「無」の持つ実在的な意味を分析し、それが意識の構造と密接な関係を持っているという主張を展開する。否定はある対象の非存在をいうのだから、それは存在論的な無を根拠とする。ところで論理的には否定的命題は肯定的命題と等価である。PはQであるという構文は、論理学の形式ではP→Qと表される。例えばA→B、A→¬B、¬A→Cという、これらの命題はすべて、形式的にはP→Qと表すことができるため、任意の論理学的演算について等しい資格を持っている。しかし現実の世界においては、否定は肯定と等価の実在的内容を持っておらず、独自の存在論的意義を持っている。否定は肯定の無であるが、肯定は無の無ではなく、それ自体純粋な肯定である。事物存在はそれ自身でまったく充実した肯定的存在であり、そこから何らかの存在の否定を導くことはできない。また純粋な肯定である以上、そこからは他在との関係すらも演繹され得ない。事物はそれ自体としてある存在 - 即自存在であるから、ここから演繹されるのはかろうじて同一律〈A=A〉くらいであろうが、同一律ですら、仮設的に自己自身との不一致の可能性を要求する。他在との関係は自己存在の自己自身からの脱離によって可能になるが、それをもたらすのは外部からの否定作用である。言い換えると、他在との関係を持つためには当の他在を中間項として自己自身を媒介する作用がなければならないが、これは即自存在に内在するものではないということである。つまり否定は即自存在にとっての超越的作用であり、即自存在の内には否定を演繹できるいかなる内容もない以上、否定の源泉は自己を自己自身の前に現前させる存在である対自存在 、つまり意識に求められることになる。自己を自己自身の前に現前させるということは、自己を中間項として自己自身を規定することであるから、これは原理的な否定である。否定について、例えば財布に紙幣が一枚しかなかったとか、約束の時間に彼はカフェにいなかったというように、ある対象の不在を表現することがある。これはある状況における対象の欠如を内容として持つが、しかし実際に存在するものは財布の中の一枚の紙幣であり、特定の時間におけるカフェの風景であり、これはまったく肯定的存在で満たされた一場面である。だが、この表現で主役となるのは存在しないお金であり、約束した時間にカフェにいない人であったりである。肯定的存在の充実は不在の対象に向けられた意識の関心によって、いわば背景と化す。このようにして存在に規定を与える意識の作用を、サルトルは《無化》néantisation と呼ぶ。これは従来、現象学で言われているところの、意識の《志向性》に対応する語であるが、〈…についての意識〉という意味でしかとらえられなかった志向性とは対照的に、無化は、〈…についての意識〉としてあらわれる形態と、そこから対象が浮かび上がるところの背景との、存在の二重構造を指し示す(従来の語では、フッサールの言う《空虚な志向》のように、不在の対象を実在する対象と同様に扱う擬物論的錯覚に陥る恐れがあるため、サルトルはこの用語を案出したということである。また、〈形態〉と〈背景〉はゲシュタルト心理学の用語であるが、対象をこのような存在の二重構造によって把握するというモデルは、サルトル独自の理論である対自による対-世界の存在論的関係論のモチーフになっている)。無化がその否定性を以て存在に規定を与えるとはどういうことか。例えば〈破壊〉という現象について考えてみる。何々が破壊されたという時、破壊の前後で失われたものは何か。破壊の前後で質量は保存されているのだから、失われたのは存在ではない。変化したのは存在のありかたである。この変化に対して〈破壊〉という表現を使う時、我々はある存在における可能な無数のあり方のうち、ごく一部の特定のありかたについて特殊な意義を与えているのである。この特定のありかたを除いては、他のすべての可能的なありかたは背景と化している。また既に少し触れたように、無化は同一律、因果律、矛盾律といった、存在同士を関係づける概念を生み出すための根源的能力でもあるのだが、これは次章以降で解説される。ここまで述べられた意識の実践的機能を中心として、この章は次のように要約される。「意識とは区別する作用である。あらゆる事物、対象といったものの存在は、それが他の事物、対象であらぬものとして区別される限りにおいて、意識によってはじめて可能である。というのも、即自存在はそれがあるところのものであり、自己を他の存在と区別することがないからである」

 

意識とは何か

 

さて、そもそも意識とは何か。これは緒論において次のように定義されている。意識とは、「その存在がそれとは別の一つの存在を巻き添えにする限りにおいて、それにとってはその存在においてその存在が問題であるような一つの存在」である。これは極めて形式的な定義であるが、それではこの意識という存在がいかなる実在であるのか、ということがまず展開される。上の定義を反省に先立つ原認識と事物との関係に適用すると、次のことが言える。「ある認識する意識が自己の対象についての認識でもあるということと、この意識がこの認識であるとともに自己自身についての意識であることとは同値である」。要するにある対象を認識しているならば、その認識している意識についての意識も持っていなければならない。先に意識の無化作用についての説明を見てきたが、これは同様に意識自身にも適用される。というよりも、むしろ事物に対しての無化が意識自身に適用された無化の応用であるとも考えられる。事物に対する無化については、「存在するものを孤立させ限定するために、すなわちそれらを思考するために私が絶えず否性を用いる限りにおいて、私の〈意識状態〉の継起は、結果を原因から絶えず切り離すことである」と言われる。自己自身に対する無化については、「無化の過程は、すべて、その源泉を意識自身からしか引き出し得ないことを要求する。私の現在の状態が先立つ私の状態の延長である限り、否定が忍び込むことのできるような裂け目はまったく塞がれているであろう。それゆえ、無化の心的過程は、すべて、直前の心的過去と、現在との間に裂け目があることを示している」と言われる。こうして、《無化》と自由という概念が密接に関わっていることが示される。

 

さて、以上をまとめてサルトルの考えた意識の実在的な構造を簡潔に表現すれば、意識の本性は否定である、ということが結論づけられる。注意しておきたいのは、《無化》を何か実在的な意識が外的作用として、外部の対象にあてがうものと考えてはならないということである。無化はそれ自身何ものでもない否定性という意味では、意識の存在そのものである。ところで自己自身の無化については、意識は自己自身を規定した途端に、まさにその規定を他ならぬ意識自身がしたことによって、その規定からはみ出ている。言い換えるなら、意識は「それのあらぬところのものであり、それのあるところのものであらぬ」存在である。前者であると規定すれば後者となり、後者であると規定すれば前者となる。この矛盾した両契機を行き交う不断の運動、これが意識の基本構造である。ヘーゲルはこの意識の自己自身による媒介運動を否定的な推移として捉えたが、それは無限に遡行する連続的な弁証法的発展である。一方でサルトルは意識の運動を連続的な無限遡行とみなす捉え方を対自的な意識の即自化であると批判した上で、この意識の運動を自己自身からの超出と見なし、過ぎ去った意識と今ここにある意識との間に質的な断絶を設ける。意識であったとはいっても過ぎ去った意識は結局、事物と同じように即自的なあり方をしているのであるから、問題になるのは今ここにある対自存在としての意識のありかたである。

 

意識の構造 - 自己欺瞞について

 

さて、「それのあらぬところのものであり、それのあるところのものであらぬ」というあり方をする意識に特有な状態がある。「ここに机がある」というのと同様の意味で「ここに意識がある」ということはできない。即自存在である机は机と机自身との完全な同一であり、机と机自身とはぴったりと密着していて、その間に否定の入り込むいかなる空白もない。即自存在は無限の密度を持った存在充実である。一方、意識は自己自身を自己の前に現前させる対自存在である。これは存在論的な分離であり、意識と意識自身との原理的な不一致である。対自存在は即自存在を存在減圧したものである、ということもできる。このことを端的にとらえれば、意識に関するあらゆる自己規定は矛盾である、ということになる。一つ例をとると、例えば「私は信じる」というとき、私は私自身について言及しているが、今この瞬間の〈私〉は信じる〈私〉を即自としてとらえるため、信じる〈私〉から逃れ出ている。これが一方の状態、「それのあらぬところのものである」に対応する。また、逃れ出ている今この瞬間の〈私〉が信じる状態にあるためには、私が自分自身を信じる状態にさせなければならない。というのも今この瞬間の〈私〉は自由意志のもとにあり、次の瞬間には信じることも信じないことも可能だからである。ところで、信じている〈私〉が次の瞬間の〈私〉を信じる状態にさせるためには、次の瞬間における〈私〉は信じることも信じないこともできるのでなければならない。これがもう一方の状態、すなわち「それのあるところのものであらぬ」に対応する。もっともこの対応付けはどちらでもよいものである。というのも意識と意識されるものの両項は同じものであるから、この関係をもう一回反射させれば上記の対応関係は逆転するからである。しかし、意識が自己自身であろうとするこの自己欺瞞的営みは、本性的なものである。なぜなら意識は現前する可能なあり方の中から、他のすべてのあり方を無化することによって唯一つのあり方を選択するが、だが当にそのあり方であるところにおいて、意識はそのあり方から逃れ出ている。そのあるところにおいて、そのあるところである存在は即自的であるから、自己矛盾の解消は意識が意識でなくなること〈死〉を意味するからである。

 

人間は自分自身のことでは必ず嘘をつくものだ、とハイネはいう。この言葉の本当の意味は、自分自身のことについては嘘をつくことしかできない、というところにある。例えば、自己分析というのはまさに自己欺瞞の代表である。自分自身について言われた言葉は、その瞬間にもう広大な自由意志の空間に投げ捨てられて消失してしまう。自分は真面目な人間だと言ったところで、これからは不真面目な人間になることもできるし、あるいはこの先も真面目な人間であること自体が、真面目な人間で居続けようという不断の努力によるものである。自賛したところで、それは自己評価というよりどこか自惚れを感じざるを得ず、自己中傷をしたところで、やけに卑屈っぽくて虚栄すら感じられてしまう。要するに、自分自身について何か規定的なことを言ってもわざとらしく感じられてしまうのは、対自存在は、「ここに机がある」とか「ここに椅子がある」というような即自的な意味では、何ものでもないからである。

 

このように対自存在は、自己自身との完全な一致である即自的なありかたをめざすが、そこにおいて対自存在は自己自身ではない。人間存在は、対自としての自己を失うことなしには即自に到達することができないので、自分がそれでありながらそれであることができない一つの全体にたえず付きまとわれているものとして、存在に出現する。人間存在はもともと不幸な意識であり、この不幸な状態を超出する可能性をもたない。この不都合から目を逸らすために、対自存在は自分自身について、しばしばその存在が即自的であるかのように表現する。これは単に言語的な制約が問題なのではない。われわれはよく、将来は〜になりたいとか、自分は〜であるというような言い方をする。しかし実際のところ、われわれは何者でもなく、何者にもなることができない存在である。せいぜい、何者かになったようなふり、演技ができるにすぎない。そういう意味では、例えば仕事をすること、役割を与えられることが一つの気休めとなる。カフェのボーイをしている間は、自分がカフェのボーイであることを演じていればよいのであり、その間は自分の対自的なあり方によって気を揉まれることがないからである。我々は、自己を自己にとっての対象たらしめようとする行為そのものによって、自己を自己から解放する。自己欺瞞とは安全地帯に身を置くことを目的としており、それは自己自身からの逃亡である。

 

 

存在の問題についての補足

 
存在は何であるか?という問題について考えるときに、我々は一つの大きな困難にぶつかるように思われる。つまり、それは論理学が直面する困難である。パスカルはそれを『パンセ』の中で次のように述べている。
 
存在を定義しようとすれば、次の背理に陥らざるをえない。すなわち、ある言葉を定義するには、『これは…である』という言葉からーこれを明言するにせよ、暗黙のうちに理解しているにせよー始めなくてはならない。それゆえ、存在を定義するには『これは…である』と述べ、このようにして、定義される言葉をそれの定義の中で用いなければならなくなるからである。
 

 

ゆえに論理学が存在を定義しようとすれば、必然的に循環論法に陥ることになる。「定義は最近類と種差とによってなされる:definitio fit per genus proximum et differentiam specifiam 」すなわち、「ある物事を定義することは、その物事に含まれない概念を使って、その物事をできるかぎり近似的に再構成することである」という規則は、ここにおいて厳然とした威力を持っている。それはちょうど、言葉の辞書式な説明が大きな循環論法に陥らざるを得ないのと同様である。AはBのCである。ではBの定義は何か。Cの定義は何か。これを繰り返していけば、辞書は必ず循環論法に陥るか、それ以上定義づけられない一つの言葉に達するだろう。例えば上、下とか東、西とかいう単語を、辞書がどのように定義しているかを見てみればよい。よって、存在の問題を考えるとき、論理学の力を借りることはできない。存在者は、何よりもまず、現実に存在する。意識はあらゆる論理的操作に先立って、まず存在する。むしろ論理学が成立するのは、この意識の根源的事実から出発してであって、論理学はあらゆる学問を基礎づける根拠ではなく、存在論によって基礎付けられなければならない一つの応用的な学問でしかないのである。存在の探究にあって、まずはじめに与えられているのは、現にあるところの、この意識だけである。この意識が存在するというただ一つの明証的な事実、それは、これ以上〈なぜ〉と問うことができない、根源的な〈事実〉である。それは厳然とある一つの事実であるから、それを根拠づけることもできず、否定することもできない、唯一の絶対的な〈所与〉である。サルトルの存在論的探究は、このデカルト的なコギトから出発し、思索の行き詰まりを感じた際に戻ってくるところもまた、このデカルト的なコギトである。

 

 

意識の構造論についての疑問、および考察

 

意識は、現在的な意識としては純粋な対自存在であると言われた。しかしこのように定義された対自存在は不徹底なものではないのだろうか。確かに意識は反省に先立つ原認識において自由な存在として直観されるが、我々の意識のあり方を形成する環境や生まれつきの気質という偶然性に左右された即自的なあり方をしているのではないのか。要するにまだ、意識に即自的なあり方を内在させる可能性が残っている。例えば精神分析学は意識の構造として《エス》と《自我》という二層に分け、自我のもとに現れた意識的兆候を手掛かりとして無意識下に抑圧された欲望の解消を目指すが、このうち《エス》がサルトルのいう意識の即自的なあり方に対応する。なおサルトルは精神分析については、人間の諸行為を過去に向かっての因果の鎖によって解釈するやり方から、意識のいっそう深い諸構造の分析によって解釈しようという方法論的転換に対しては一定の評価をしているものの、精神分析対象者が治療に対する自覚的な拒否反応を示す事例の研究によって、精神分析の理論的前提に関しては誤りだと考えている。本書の表現を借りれば、精神分析学は意識のうちに完全な不透明性を持ち込んだ上で、意識の半透明性を透明性と不透明性との混合によって濁らされたものと捉える。一方でサルトルは意識にそのような半透明性を認めず、「自己自身の無」であるかぎりにおける自由な対自を、純粋な透明性であると考えている。他の心理的諸現象を説明する理論としては、例えば心理-生理均衡論は心理的反応を生理的反応に対応づけるが、この反応が完全に可逆的であるならば、すなわち心理的反応によって呼び起こされる生理的反応が、逆に心理的反応を呼び起こすことができるならば、これも意識の即自的側面であると言えるだろう。しかし仮に生理-心理的反応の相互的因果関係の相関が現れたように見えるとしても、どのような即自的な契機も自由意志の協力が無ければ実現できないのであるから、この議論は対自存在の研究においては非本質的である。のちに明らかになることだが、確かに意識にはある種の即自性が内在している。しかし意識はそれを内的否定によって、自己を、否定された自己自身の面前において定立するため、「自己自身の無」であるかぎりでの意識は純粋な対自性である。要するに対自の即自性は純粋な透明性の底に溜まる沈殿物であって、対自の純粋性をいささかも毀損するものではない。これは一つには対自存在の必然的事実性(対自の過去)として、もう一つには対自の脱自的なありかたの目指す極(対自の未来)として詳しく検討されるだろう。

 

 

また、サルトルは無意識的な意識が不合理であることから、認識する意識が自己の対象についての認識でもあるということと、この意識がこの認識であるとともに自己自身についての意識であることとは同じことであることを導いていたが、これは必ずしも正しくないように思われる。例えば霊感的な認識は、その認識過程が意識に対して全く閉ざされていることから無意識的であると同時に、それが客観的に対象の構造に適合した認識である以上は単なる根拠のない主観から区別される。あるいは極度の泥酔状態での振る舞いも、無意識的な認識の一例である。特殊な例としては睡眠状態のまま周囲の認識を行う夢遊病患者もこの例に含まれるだろう。特に夢遊病患者は、無意識のまま受け答えをしたり、時には運転や料理といった認識がなければ不可能な行為まで行うことがあるが、これらのことについてはどのように考えていたのだろうか。後の実存的精神分析の構想で述べられることだが、サルトルは精神分析学が言うところの《無意識》の存在を認めていない。その理由の一つとして、先に書いたように、精神分析の患者が自己の無意識の構造を明るみに出されそうになると、自覚的に治療を拒否しようとする事例を挙げている。つまり、無意識はいかなる認識もできないはずであるから、自分自身が治療によって脅かされているということも認識できないはずであり、したがって拒否反応が生じるのはおかしいというわけである。また、この拒否反応が自覚的に為される点からも、すべては患者によって意識されているはずであり、自己の存在意識でない意識は存在しない、という実存的精神分析の出発点となる原理を立てている。だが、先の認識の疑問が明確に解明されないのであれば、実存的精神分析はその原理において重大な課題を含んでいることになるであろう。

 

 

また、自己の内面を透徹する洞察は、ドストエフスキー『地下室の手記』のある一文を連想させる。「賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない、何かになれるのは馬鹿だけだ」。何者かになることを目指さざるを得ないにも関わらず、元から何者にもなり得ない存在であること、この厳然とした事実の認識がまた、次の表現を生み出すことになる。「もし当人が本当に自分を卑劣漢だと感じているのなら、卑劣漢たることもまた正しい、それが卑劣漢にとってはせめてもの気休めになる」、「あいつは何者だ?と問われて、怠け者だ、と答える。自分についてこんな表現を聞けたら、さぞかし楽しいことにちがいない。何しろ、積極的な評価が定まり、僕について言われるべき言葉ができたのだから」(引用同)また、現実と観念との差分の度合いが意識であると考えたベルクソンの表現を借りれば、自己に自己自身がぴったりと貼り付いている即自存在に対して、対自存在には自己と自己自身の間に原理上、無限の存在空白がある、というふうにも言える。

 

 

ところで本書の記述は、サルトルによる現象学的還元によって得られた知見に基づいているため、言われるところの意識、対自存在等々は人間の意識、対自存在としての人間存在のことである。サルトルは動物の意識について明言してはいないが、たとえ人間の意識の不透明度を増した状態ではあるにせよ、ここまでの内容からは動物の意識は自然に認められるように思われる。もっとも我々が規定できるのは意識状態の形式的な側面だけであり、その内容は全く未知である。例えば人間の感情の内容は、人間が群れをなして生活する動物であることに由来すると考えられる。感情の発露もその表現も、自分の心的状態に共感してくれる他者の存在が前提となっている。イヌのように群れをなして生活する動物であれば、人間感情の型をそのまま当てはめてその動物の感情の型を類推することが可能かもしれないが、クマのように群れをなさない動物の場合、感情は他者とのコミュニケーションという役割を担わないため、人間のそれとは全く異なったものであると考えられるだろう。しかし、それも通常の期間と発情期や子グマの子育て中とでは異なっているであろうし、また感情の内容によっても類推が可能であるかが異なってくる。それでもある感情表現が異なる動物間において普遍的な性質を持つほど、その適用は妥当となるだろう。例えば大きい体や大きい音が警戒心を生じさせるのは多くの動物に当てはまる普遍的な性質であるから、威嚇行動に関連づけられた感情、すなわち怒りは、自分と共同で生活し、自分に共感してくれる存在を求める感情である孤独感よりも、適用の妥当性は広いといえる。いずれにせよここまでの段階では、動物の意識はその形式的側面においてのみ自然に認められるという仮説とサルトルの記述は対立するものではない。

 

 

対自は本性的に何者でもない。対自が何者かであるためには演技をしなければならないから、その日常的なあり方は自己欺瞞である、というサルトルの主張は、別の観点から捉えることもできる。倫理的な観点からは、この自己欺瞞的な振る舞いを完全に行うものは模範的な常識的人間である。この人間は自分が無限の諸行為の可能性を秘めた存在であることを自覚せず、定められた常識的な行為をすることしかできないように自動人形のごとく振る舞うからである。あるいは、これを対自の自己自身に対する戯れととらえれば、自己欺瞞という表現による否定的なニュアンスを一変させて、ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で述べたところの〈遊びの精神〉にもつながるだろう。