結論

 
I - 即自と対自、形而上学的概観
 
今や我々は、結論を下すことができる。我々は本書の緒論以来、意識を「存在脱落としての存在」、すなわち対自として定義し、この意識は意識の対象たる即自存在を、直接に、指し示す。けれども即自と対自について記述したのち、両者の間にきずなをうち立てることが困難であるように思われた。すなわち、そこには根抵的に異なる二つの存在様相があるように思われたのである。我々の研究は、まず次のことを明かした。すなわち、対自と即自とは、対自それ自身に他ならない一つの綜合的な結びつきによって結合される。対自は即自の単なる無化より以外のものではない。対自は自己自身が「無」であるかぎりで、自己自身のうちに「有」をとらえる。このことは、まさに意識がプラトン的な「他」であるという意味でなくして何であろうか?『ソフィステス』に出てくるエレアの客人は、この「他」について美しい記述を与えている。「他」は《まるで夢でも見ているように》しか、とらえられない。「他」は、その「他-である」より以外に「有」を持たない。言い換えれば、「他」は借りものの存在をしか持たない。「他」は、それだけとして考察されるならば、消失する。要するに「他」は、それ自身に対してもさえ「他」であり、存在に対しての他であることに尽きる。プラトンは「他」がそれ自身に対して「他」であるというこの「他性」によって示される動的な性格を、つとに見てとっていたようにも思われる。というのもある一節で、彼は他性の内に運動の起原を見ているからである。運動は借りものの存在であり、《存在の病》である。けれどもプラトンは、さらにいっそう思索を遠くまで推し進めることができたはずである。そうすれば彼は、「他」、もしくは相対的な「非-存在」がある見せかけの存在を持ちうるのは、意識という資格においてでしかないことを、見てとったことであろう。「存在に対して他である」ということは、時間的な三つの脱自の統一において、自己の意識であるということである。しかも事実、この「他性」は、対自のふところにおける、反省するものと反省されるものの交錯ダンスでなくして何であろうか?なぜなら「他」が他として存在しうる唯一のしかたは、他であることの意識であるからである。「他性」についての別の考え方は、いずれも「他性」を一つの即自として定立することに帰着する。そうなると、「他性」という一つの即自と、いま一つの即自である対象との間の結びつきは必然的に外面的なものとなり、我々は「認識」という両者の統一がなぜ可能なのかを、神とか予定調和といった独断的な形而上学的前提を抜きにしては、永久に解明することができなくなるだろう。また一方で、「他」は存在から流出することなしには、他であり得ないだろう。その点で「他」は即自に対して相関的である。しかし「他」といえども自己を他ならしめることなしには、やはり他であり得ないだろう。そうでないならば、その「他性」が一つの所与となり、従って即時的に考察されうる一つの存在となるであろう。「他」が即自に対して相関的であるかぎりにおいて、「他」は事実性を帯びている。「他」が自ら自己を他ならしめるかぎりにおいて「他」は一つの絶対者である。それゆえ、対自は《非独立的な》絶対者である。対自の実在性は、単に問いかける実在性である。対自の存在は、与えられた存在ではなく、問いかけられる存在である。もし対自の不断の問いかけに最後の答えが与えられるならば、対自は自己自身と合致することになるだろう。そうなれば「他性」は消滅し、諸可能、認識、世界も消失するであろう。それゆえ、認識についての存在論的な問題は、対自に対する即自の存在論的優位を肯定することによって解決される。だが、このことは直ちに、一つの新たな形而上学的な問いを生ぜしめる結果になる。事実、即自から出発しての対自の出現は、決して、存在から出発してのプラトン的な「他」の弁証法的生成と比較されうるものではない。「存在」と「他」は、プラトンにとっては類概念である。けれども我々が見たように、存在は絶対的なものではなく、むしろ一つの個別的な冒険である。しかも同様に、対自の出現は、存在へやってくる絶対的な出来事である。したがってここには、「存在から出発して、対自が出現するのはなぜか?」という一つの形而上学的な問題がある。我々が先に見たように「存在が存在するのはなぜか?」と自問することは、不条理であろう。この問いは一つの対自の限界内においてしか意味を持たず、また我々が先に無に対する存在の優位を肯定したにもかかわらず、存在に対する無の存在論的優位を前提とするからである。この問いが立てられるのは、外面的には類似しているが実は非常に異なるいま一つの問い、「存在が〈そこに存する〉のはなぜか?」という問いとの混淆の結果でしかありえないだろう。けれども我々は、これらの問いが注意深く区別されなければならないこと知っている。第一の問いは、何ら意味を持たない。すべての《なぜ》は存在に対して「よりあと」であり、存在を前提とする。存在は理由なく、原因なく、必然性なしに存在する。存在の定義そのものが、存在の根原的な偶然性を我々に打ち明ける。第二の問いに対しては、我々はすでに答えた。この問いは形而上学的な問いではなく、存在論的な領域で立てられるからである。存在が《そこに存する》のは、対自が、存在をしてそこに存するようにさせるものだからである。〈現象〉という性格は、対自によって存在にやってくる。だが、存在の起原に関する問いが何ら意味を持たないにしても、対自の起原に関しては、それと同様ではない。事実、対自は自己自身の起原の方へ振り向く権利を持つものである。存在論は、形而上学にとって基礎として役立つことのできる二つの指示を提供してくれる。まず第一に、自己を根拠づけるあらゆる過程は、即自の「同一存在」の決壊であり、存在の存在自身からの後退、言い換えれば意識の出現である。第二の指示は、対自が、事実上、存在としてのかぎりにおいて自らを根拠づけようとする不断の企てであり、またこの企ての挫折であるということである。だが、存在論が言えるのはここまでである。これ以上のことについては、存在論は何も言うことができない。せいぜい、次のようなことが言えるにとどまるだけである。「すべては、〈あたかも〉、即自が自ら自己を根拠づけようとする企てにおいて、自己に対自の変様を与えるかの〈ごとく〉に経過する」この過程を絶対的な出来事として考えることを許してくれるであろうような諸々の仮説を形成することは、形而上学の仕事である。
 
さて、この結論の最初の方で述べた問題について考察しよう。すなわち、「もし即自と対自とが存在の二つの様相であるならば、この存在という観念は互いに交通不可能な二つの類によって構成されることになるのではないか?それにもかかわらず、両者の存在論的な一致が可能であるのはなぜか?」という問題である。まず言わなければならないのは、我々が今しがた示したように、即自と対自とは並置されるものではないということである。即自なき対自は、単なる抽象的な概念でしかない。形のない色、高さや大きさのない音が存在しないのと同様に、即自なき対自も現実には存在しない。対自は存在の無であり、それ自体としては何ものでもないが、けれども無化という資格において、対自は存在する。しかも対自はア・プリオリに、即自との統一において存在する。ところでここで、次のような問いが立てられるであろう。「それでは、我々はいずれを〈実在的〉と呼ぶのか?単なる即自に対してか、それとも我々が対自という名で示したような《無の覆い》によって覆われた即自に対してか?」この問題を解決しようと思うならば、我々はある存在者を一つの全体として考えるために、我々がこの存在者について何を要求しているかを十分に理解しなければならない。この存在者の構造の多様は、綜合的な統一の内に保たれているのでなければならない。それらの構造の各々は、それだけとして考えられるならば、一つの抽象でしかない。ところで、それだけとして考察された意識は一つの抽象でしかないが、即自そのものは、存在するために対自を必要としない。対自の《受難》は、ただ単に、即自をそこに存するようにさせるだけである。即自という〈現象〉は、意識なしには一つの抽象であるが、即自の〈存在〉は抽象ではない。我々が即自と対自との綜合的組織を考えるならば、これを「即自は、自己の現実存在を、即自について意識させる無化から受け取る」というふうに考えなければならないであろう。このことは結局、「即自と対自との分かちがたい全体は、《自己原因》的存在というかたちのものにおいてしか、考えられない」という意味に、帰着する。我々が即自と連結した対自の存在について問いを立てることができるのは、我々が自己原因的存在者について存在論以前的なある了解によって、ア・プリオリに我々自身を規定することができるからである。だが、この概念は不可能であり、一つの矛盾を含んでいる。それでも、存在一般についての問いを立てるのはこの概念にもとづく観点からであるから、我々はこの問題を解決するために、この観点に身を置かなければならない。この概念は常に目指されるべきものとして対自の企ての内にありながら、常に不可能な概念である。現実に生じるのは、対自の存在取り戻しの、不断の挫折の歴史である。結局、客観から主観への移行も、主観から客観への移行も、両者を同一の存在論的次元へ置くことも不可能であるのは、一方から他方への〈事実上の移行〉や両者の統合が不可能だからである。主観はまさに客観に一致しようとするときに、その主観としてのありかたによって客観から脱出する。統合の実現は常に〈あと一歩〉のところで終わる。「もうすぐ世界が終わり、人々は神のもとで永久に幸せに暮らせるだろう」「もうすぐ精神の弁証法的発展の歴史が終わり、精神は世界の内に自己自身を見いだす〈絶対精神〉となるだろう」「原始社会、封建主義、資本主義、社会主義を経て、もうすぐ絶え間ない闘争の歴史が終わり、全人類の歴史の終着点である〈共産主義〉の時代が訪れるだろう」これらの思想はすべて、それがどれほど意義のあるものに見えても、対自の不断の挫折を記す1ページに過ぎない。我々はこの次元において、再び全体分解的な全体という概念を見いだす。これは対自そのものに対して、また他者なる意識個体に関して、すでにであったところのものである。けれども、この場合のそれは、第三の種類の全体分解である。第一の種類の全体分解は、「反射するもの-反射されるもの」の不断の移行運動であり、この二重の否定は完全に内的なものであった。第二の対他-存在の場合には、反射する《反射する-反射されるもの》と反射される《反射-反射されるもの》とは、一方が他方であらぬというありかたで区別されるのであった。第三の場合である対自と即自との全体に関していうならば、それはこういう特徴を持っている。すなわち対自は即自に対して自己を「他」ならしめるけれども、即自は決して、その存在の点では、対自と異なるものではない。即自はただ単に存在する。この関係は対他-存在の場合のように双方向的ではなく、対自から即自への一方的な関係である。双方向的な場合ならば、先に「対他」を研究したときに我々が確認したように、そこに「精神」というもろもろの意識個体の統一を形成することを断念しなければならなかった。その理由は原理的に他者が私について自己を否定し、私が他者について私を否定するものであったからである。だが「即自-対自」という内的否定の場合には、関係は相互的ではない。それゆえ、私はある意味で、全体についての問いを立てることができる。要するに、私はある対象についての意識であると同時に、ある対象についての意識である私についての意識でもある。だが、全体についてのこの問いは存在論の領域に属するものではない。存在論にとって明らかにされている存在領域は、即自の領域、対自の領域、および《自己原因》という理想的な領域である。存在現象を即自と対自の領域の交差の次元において考察するか、あるいは現象的次元において考察するかは、どちらでも良いことである。ときには一元的に考えた方が良い場合もあるだろうし、あるいは昔ながらの二元性を保つ方が好ましい場合もあるかもしれない。それを決めるのは形而上学の仕事である。形而上学が最も重要な種々の問題、特に行動の問題に着手することができるのは、対自の起原についての問い、世界という現象の本性についての問いに決着つけた後においてである。事実、行動は対自の次元においてと〈同時に〉、即自の次元においても考察されなければならない。なぜならその場合、問題なのは、内在的な起原を持つ一つの企てであり、この企てが超越的なものの存在において一つの変様を決定するからである。それゆえ、行動の問題は意識の超越的な効力の解明を前提とするものであり、存在に対する意識の真の存在関係の道に、我々を導く。さらに行動の問題は、世界の中における行為の影響の結果によって、存在に対する存在の関係をも、我々に顕示してくれる。この関係は物理学者の側からは外面性としてとらえられるにしても、決して単なる外面性でも内在でもなく、むしろゲシュタルト心理学の〈形態〉という観念を我々に指し示す。それゆえ、我々が自然の形而上学を試みることができるのは、そこから出発してである。
 
 
II - 道徳的展望
 
存在論によってだけでは、道徳的律法を立てることができないだろう。要するに、〈ある〉から〈べき〉を引き出すことはできないであろう。それにもかかわらず、存在論は「状況の中の人間存在」に対して自ら責任を取る一つの倫理が如何なるものであるだろうかを予見させてくれる。事実、存在論は価値の起原と本性を我々に顕示してくれた。価値は、対自がそれに対して、自己の存在において自己を欠如として規定するときの「欠如」である。対自が実存するという事実からして、価値は対自存在に常につきまとう。したがって、対自の種々さまざまな営みは、実存的精神分析の対象となりうる。それらの営みはすべて、価値もしくは自己原因というしるしのもとに、意識と存在との欠如的綜合を生み出すことを目指しているからである。したがって実存的精神分析は、一つの〈道徳的記述〉である。なぜなら実存的精神分析は、種々さまざまな人間的企ての倫理的な意味を、我々に示してくれるからである。実存的精神分析は、関心の心理学をも、人間的行為についてのあらゆる功利的解釈をも断念しなければならないことを我々に示し、人間のすべての態度の〈理想的な〉意味作用を我々に顕示してくれる。それらの意味作用はエゴイズムや利他主義のかなたにあり、同様に無私無欲な態度のかなたにある。同様に、実存的精神分析は、我々をして「大まじめな精神」に見切りをつけなければならないことを指示する。この精神が持つ二重の特徴は、諸価値を人間的主観性から独立した超越的な所与と見なすこと、そして〈望ましい〉という性格を、事物の存在論的構造から、事物の単なる物質的構成へ移すことである。この精神にとって、例えばパンが〈望ましい〉ものとして現れるのは、生き〈なければならない〉(叡智的な天にしるされた価値)からであり、パンが栄養物〈である〉からである。ご承知のように、世界を支配する「大まじめな精神」の結果は、事物の経験的な特性によって、事物の象徴的な価値を、あたかも吸収紙を以てするように吸い取らせることである。それは、望ましい対象の不透明性を正面に持ち出し、この対象をそれ自身において、還元不可能な望ましいものとして立てる。それゆえ、我々はすでに道徳的次元に立っていると同時に、自己欺瞞の次元に立っている。この道徳は自己を不安から解放するために、自己のすべての目標を曖昧ならしめ、また常に自己自身の本当のありかたから目を背け続け、〈意識的に〉考えないようにしているからである。実を言うと、多くの人々が自己自身に関して実存的精神分析を実行したのであるが、彼らはそれを解放と救いの一手段として役立てるためにこの精神分析の諸原理を認識するまで待っていられなかった。というのも、この精神分析が「大まじめな精神」の名残をとどめているかぎりにおいて、また彼らが、未だなお、「即自-対自」を存在させようとする彼らの使命は事物の内に刻み込まれていると思い込んでいるかぎりにおいて、彼らは絶望に至るべく運命づけられている。なぜなら彼らは人間的な活動がすべて等価であることを発見すると同時に、人間的な活動がすべて原理的に挫折に至るべく運命づけられていることを発見するからである。それゆえ、一人孤独に酔いしれるのも、民衆を指導するのも、帰するところは同じである。それらの活動のうち一方が他方に勝るとすれば、その現実的な目標のゆえにではなく、一方が自己の理想的な目標について持つ意識の度合いのゆえにであろう。
 
存在論と実存的精神分析は、人々に対して、自身が諸価値を現実に存在させるところの存在であることを、開示するのでなければならない。そのときにこそ、人々は自身の自由を意識し、価値の唯一の源泉として不安の内に自己を発見し、世界を現実に存在させるところの無を発見するであろう。そのとき人々は、今まで埋没していたところの自己の自由の内から脱出し、自己自身の真の有様をとらえる。今では、今まで埋没していたところの自己の根原的な企てが相対化され、自由に対して自由があらわれる。このとき、自由はどうなるであろうか?やはり自由はその背後に、自分が今まで引きずってきたところの価値を携えていくだろうか。それとも自由は価値の支配に終止符を打つのだろうか?とりわけ自由は、プラトンがいう《善のイデア》のように、あらゆる価値の源泉としてのかぎりにおいて、自ら自己を価値とみなすことができるだろうか?それとも自由は自己につきまとう一つの超越的な価値との関係において、必然的に自己を規定しなければならず、瞬間的な価値からの解放は《回心》にとどまるだろうか?また自由がみずから自己を、自己自身の可能として、自己の決定的な価値として欲することができるとしたならば、そのことは何を意味するだろうか?自己自身を欲する自由とは、要するに自己を取り戻すことを選ぶのではなくて、自己を逃れることを選ぶのであり、自己と合致することを選ぶのではなくて、常に自己から距離をおいて存在することを選ぶのである。この存在は我々は何と解すべきだろうか?この態度は結局、否定の否定は肯定であるから、単なる自己欺瞞であろうか、それとも別の根本的な態度であろうか?すべてこれらの問いは、共犯的でない純粋な反省に我々を向かわせるものであって、道徳的な領域でしかその答えを見いだすことができないであろう。
 
 

まとめの感想

 

プラトンの理論は、認識の不条理をわかりやすく説明してくれる。なぜ客観と主観は何ら共通項を持たないにもかかわらず、認識という、ある意味で客観と主観の一致が可能になるのか。本書は現象学的試みによって、従来まで存在の二項とされてきた客観と主観を、即自と対自として新たに定義し直し、存在論的研究に新たな道筋を与えた。また、プラトンの「他」に関する議論の他にも、当時代の人々がそれと自覚していたかは別として、古代ギリシャ哲学が存在論の真髄にまで至っていたことを示す証拠は多い。古代ギリシャ哲学では、完全なものは永遠なものであり、生成消滅といった変化を被らない理念的存在であった。それゆえ、それは現実的なものとしては存在しない。プラトンのイデア、アリストテレスの形相などといった概念は、その代表である。一方で現実的な存在、すなわち時間のうちで生成消滅し、常に変化を被る存在は不完全な存在であり、人生哲学においてはその現実性の超克が問題とされた。だが、時間のうちに世界をとらえ、自己を展開するのはいかなる存在か?その存在は時間の内に存在するがゆえに、《存在の病》であり、完全な存在になりきれないような、存在欠如的な存在であるだろう。サルトルの言うように、古代ギリシャ哲学はさらにいっそう思索を遠くまで推し進めることができたはずである。そうすれば時間のうちに存在する存在は、意識という構造をとった存在に他ならないことを、彼らは見てとったことであろう。

 

だが、サルトルの議論は存在論的範疇に収まるものではない。本書はそれだけでなく、人間存在のありかた、特に他者との関係や、対自の存在論的構造から導かれる〈自由〉としての存在、およびその詳細な研究としての実存的精神分析など、人間一般にかかわる多くのテーマを網羅的に含んでいる。そのため、なかには興味のない内容のために退屈に感じたりする部分もあるだろうとは思うが、それぞれの部分がお互いに論理的な関係性を持って記述されているため、飛ばして読み進められるタイプの本ではない。実は、本書(文庫版)は全部で約1800ページほどの内容が概ね3分割されて、それぞれI巻、II巻、III巻と付されているのだが、この読後感想文のうち、1と2がI巻に当てられ、3〜9がII巻に当てられ、10〜19がIII巻に当てられている。I巻は対自の存在論的構造の記述に論点が置かれており、もちろんII巻、III巻の記述の基盤となるために重要な内容ではあるのだが、幾分内容が抽象的であり、あまり興味を惹くものではなかったため、感想文の量は相対的に少なくなっている。II巻、III巻は、記述がより具体的な事例に踏み込んでおり、その分感想のアイデアもたくさん浮かんだために、さらに感想の理解を手助けする要約文もより丁寧に書く必要があったために、本書のページ数と比較してかなり分量が多くなったわけである。

 

科学革命に始まる、驚くべき速度での知の集積も、直接的には意識の問題の解明に貢献してくれるわけではない。我々はあらゆる対象的な現象のメカニズムを説明できるようになったわけだが、生物のあらゆる営み、特に人間の言葉、文化、風習、等々については未だに漠然としているように思われる。例えば科学者が、とある民族の風習について「それは迷信だ」と主張したとして、なるほどそれが迷信であることは確かであるにしても、それではなぜその迷信が生じたのか、その迷信にいかなる意義があるのか、当の科学者は説明できるのだろうか。こう問われてしまえば、いかに博識で知の巨人ともてはやされている人物であっても、たちまち無知を露呈する。せいぜい歴史的な出来事の偶然性とか、心理機能の一般的傾向などによって蓋然的に説明することができるにすぎない。だが結局、そのような説明はなんとでも言えるのである。仮にある時点において、AとBという歴史的な分岐点があったとして、もしAを選んだ場合には、Bを選んだ場合に動機として説明されるような諸々の要因は排除され、歴史は前にも後にもAという事実を因果系列の内に含んだものとして、もっともらしく記述されるだろうし、Bを選んだ場合にも、同等の説得力を持ってもっともらしく記述されるだろう。要するに因果的な説明は一つの後知恵であって、単なるごまかしである。根本的な説明は、なぜ〈どちらを選んでも良かった〉のに、Aを選んだのか、あるいはBを選んだのかということを解明しなければならない。科学者はまた、なぜそれ自体としては全く共通点を持たない諸対象が同一の存在論的カテゴリーに含まれるのか、全く説明できないであろう。なるほど、粘着力は多数の枝分かれを持つ高分子の分子間力によって説明できるが、それが我々が粘着質と呼ぶところの性格と何の関係があるのだろうか。確かに対象的な世界は、それ自体として完全である。そこには心理的なものが埋め合わせなければならないようないかなる空隙もない。だがそのために、対象的な世界が世界のすべてであるなどと思うのは、とんでもない間違いである。

 

 

ところで、本書は、「自己啓発書」というまったく違った観点で読むことができるようにも思われる。すでに見たように、サルトルの実存的精神分析は、従来の精神分析でいうところの無意識の存在を認めない。それゆえ、個人のあらゆる行為は自己の根源的な企ての内に、自己の全責任のもとにおいて行われる。これを自己責任論であり、成功者に優しい理論であるとする一方で、実存主義退潮の一因をなした構造主義を、個人の行動を規定する社会的構造に着目する点で失敗者に優しい理論であると言った人がいるが、全く皮相的な理解である。むしろここで引き合いに出されている構造主義は、失敗者に対して「君が失敗したのは必然だった」と断定する運命論であり、これが慰めに思えるのは、失敗した直後のほんの一瞬だけである。失敗者にとって必然が現れるのはこの失敗においてだけであり、この必然が現れたということ自体は依然として偶然的である。それゆえ、失敗者はその後ですぐ、なぜ自分はこの時代に生まれてしまったのか、なぜこの環境に生まれてしまったのか…等々、自分が失敗した原因探しに躍起になり、自己の不幸な境遇を呪うことになるだろうが、そうしたからといってその原因が見つかるわけでも、この境遇が改善するわけでもない。なぜならその原因は、そもそも存在しないからである。この原因は見せかけであり、自己の自由から逃亡するため、「失敗した」という結果の後に発明されたものである。事実、初めから失敗することが分かっていたのならば、やるべきではなかっただろうし、失敗でそれほどショックを受けるならば、初めに失敗につながる〈必然的〉原因はないかを調査するべきであっただろう。それをしなかったということは、成功の望みを抱いていた、すなわち、失敗は必然ではなかったということである。資金、学歴、才能…、あらゆるものが言い訳に使えるだろうが、結局忘れてはならないのは、「心理的な説明はなんとでも言える」ということである。実際、仮に成功していたならば、過去の出来事や自分の境遇をこの成功に因果づけることによって、この成功を必然的なものたらしめ、同様に自己の自由から逃亡することができただろうからである。実際、このことは極めて容易い。例えば、「学歴がなかったから、成功しなかった」というのは「学歴がなかった分、たくさん努力したので成功した」というふうに簡単に置き換えられる。後者の台詞は大衆的な受けが良さそうだが、もしそこに努力と成功との事物的な因果関係を想定するならば、両者は等しく、自己の自由から逃亡である。つまり、成功したのは「あなたの努力のおかげ」なのではなく、「あなたのおかげ」なのである。周囲の人々の助けや金銭的な余裕も、確かに客観的に見れば成功を構成する要因ではあるだろう。だが、それらの状況を成功という一つの目的へ向かって超出し、成功の要因たらしめたのは、対自である。逆境が不利に働くか、あるいは却って有利に働くかといった問題は、もはやそれ自体としては何の意味も持たない。なぜならその意味が与えられるのはただ、対自によってであるからである。確かに対自は過去や周囲の環境から影響を受けるが、対自は与えられた過去や環境から必然的に定まる一つの存在ではない。むしろ過去や環境がそのようなものとして現れるのは対自によってであり、対自が影響を受けるのは自己自身が作り出した過去や環境によってである。そしてそれを作り出し、かつ作り出し続けているのは、今この瞬間ごとに、自己のあるべきありかたへ向かって世界を、自己を、超出するところの対自である。それゆえ、もはや我々は、失敗に対して言い訳をする必要も、成功に対して謙遜する必要もないのである。

 

それにしても、世界が自分の思うがままにならないという、この絶対的な事実は、対自にとって幸運である。なぜなら、もし世界が対自の意のままになるのであれば、対自にとって自己の根源的な企てを放棄する《回心》という可能性が消滅するからである。それは一つの夢のような世界であり、対自は自己自身の自由に完全に埋没しており、この埋没から脱出する手がかりを永久に失うことになる。そうなると対自の自由は、最初に選択した根源的な企てによって永久に決定され、その自由は対自自身にとってしか存在しないものとなるだろう。対自のいかなる企ても根源的な企ての内にあるのであるから、対自は自分によってだけでは自分を変えることができないが、それでも自分を変えることができるのは、世界の絶対的な不確実性、根源的な偶然性によってである。それゆえ、サルトルの提唱する《人間の絶対的自由》は、運命論を徹底的に破壊するものであり、「何があっても奪われることのない、この私の自由で、私は私の未来を自由に企てることができる」ということを主張する、実存の救済論である。