なァ、ラグ……。
あたしは、お前の『友達』ってもんになれたのか?
なれたなら、嬉しい―――
お前とスカーは、あたしにとって……初めて、『絆』って呼べるもんが見つけられた二人だから―――
†第二十四話『いつまでもお前を愛してる』
「……一体、何が起きてんだよ……なんで、ラグナが……」
ただそう呟いた青年の声だけが暗く、深く、重く、哀しく……。
『敵』と指し示された者が消え、ようやく皆等しく胸に抱いていた想いが、彼の唇を通してこの場に姿を現した。
その言葉に開放されたかのように、ある者は力なくその場に座り込み、ある者はぶつける場所の無い憤りを大地に叩き込み……。
そしてある者は、祈るように天を見上げた―――
本当はこの場にいる者全てが理解しているわけではない……。
……否、理解できないだけ。
正しいとわかっていることを拒絶する……。
正しいとわかっているのに、『それは正しくない』と主張するその矛盾が……。
この場所に居るのは彼よりずっと大人の人間ばかりだったから―――
正しい選択のために『些細で、つまらない事』には目を瞑ることを当たり前に出来るようになった大人達ばかりだったから……。
もう、永遠にその事を理解する事は出来ないだろう―――
正しすぎる理屈が、時としてどれほど痛いかという事を……。
「ニジ、テメェ本当に何も知らねェのか?! 何も聞いてないのかよッ!?」
地面を殴り続けていた大柄な男が、修復ままならない血まみれの右腕でニジの胸倉をつかんだ。
だが、自分より一回り大きなその相手を、ニジは苛立ちをあらわに突き飛ばした。
「あぁ、何も聞いてねェよ! ついさっきまで一緒にいたのになッ!!!」
いつも飄々としている男が……いつになく、叫んだ。
「……知ってたら、とめたに決まってるッ!! アイツは、俺の親友だ! とめたに決まってんだろ!」
ギリッと奥歯をかみ締め俯いた彼を……それ以上、誰も咎める事はできなかった。
「やめておけ……ラグナの性格上、回りに迷惑をかけないように根回しをしているはずだ。ニジ・スピアにも話しているとは思えない」
場を納めるように、様子を見守っていたエンディアはそう言った。
そして……。
「『希望』か……」
そう、ぽつんと漏らした。
彼……魔王は珍しく感傷に浸るかのように彼が出て行った割れた窓を静かに見つめていた。
「ねぇ……ラグナ様はどこへ行ったんですか? すぐに帰ってきますかぁ?」
この場で最も圧さなく、物事を理解するまでに至らない者が、エンディアの腕を引っ張って寂しそうに聞いた。
「いや……。お前はもう休め、リリー」
優しくその短く柔らかい髪の毛を撫でると、エンディアは呼んだメイドの悪魔に押し付けるように託した。
すると……のけ者にされたように感じたのだろう、幼い少女は不服そうな顔をした。
「……じゃあ、ラグナ様が帰ってきたら教えてくださいますかぁ? 約束ですよぉ?」
見る影も無いかつての彼の部屋から消えた少女の一言に、ニジはハッとしたように顔を上げた。
『約束』―――
それは、一ヶ月前、修行をしていたときのことだった。
『もし俺に何かあったその時は……助けてくれるか?』
『その時は他の悪魔の事を考えたりせず……家族を……じいちゃんを守るためにだけ戦う、って……』
星空を見上げながら、珍しく感傷に浸るように呟くラグナ。
その双眸は、どこか哀しげな目をしていた。
『その時』って、今のことを言ってるんじゃねェのか……?
だが、『家族と魔王様を守るためにだけ戦う』って……。
家族と敵対する道を選んだアイツが無理に自分に誓わせたのは―――何故だ?
アレは何の約束だったんだ……?
確かにアイツの性格上、迷惑をかけて消える事はしない。
……だが、何か手がかりはどこかに残しているはずだ。
思い出せ、アイツの言葉を。
初めて出来た、最高の友達の言葉を。
『―――俺さ、雪景色が好きなんだ』
「雪……景色……」
ニジはぼそりと呟いた。
そしてエンディアの方へと振り返った。
「なァ、魔王様……アイツが、ラグナがよく行ってた場所……知ってるか?」
「……ラグナが? 確か……彼がよく行ってた場所は……」
エンディアがその事を伝えると、ニジは能面のように無表情になった。
『その時が来たら……俺を……』
「―――そういう……事か、あのバカ野郎……」
小さく口の中だけで呟くと、長い前髪を結っていたゴムを一度はずし、再び髪を綺麗にセットし直した。
乱れた襟元もきちんとただし、シルクハットを綺麗に被り、身だしなみを整えるニジ。
そんな彼を、周りの人間はいぶかしんで見ていた―――
エンディア以外は―――
「魔王様……もう一つ、聞いていい?」
ニジは一度呼吸してから、エンディアに自嘲気味な笑みを浮かべながら尋ねた。
「……ラグナを苦しめずに殺す方法って……あるのか?」
「―――ラグナ……このまま真っ直ぐで……大丈夫、なのか?」
「……もう少し、右。そう……そのまま真っ直ぐに」
ラグナは震えそうになる声を押さえつけながら、自分達を乗せて走る彼に教えた。
既に彼のグリーンの瞳には光が灯っていない。
いつも……自分とアリスを映してきたその瞳には今、何も映っていない。
それでも……どんなに言っても、コイツはその足を止めようとしないから―――
最期まで自分たちの為に走ると言って聞かないから……ラグナはそのまま、走らせていた―――
彼の命が燃え尽きる、その時まで……。
流れる星と競うように夜空を駆け抜けるスカー。
上に乗っている二人に吹き付ける冷たい風はあまりに強いから、アリスは背後からラグナを抱きしめるように支えていた。
だがなにやら焦げ臭いにおいがしてきたので、アリスはその視線を匂いの元へと落とした。
「……スカー?!」
目に飛び込んできた景色にアリスは思わず目を大きくした。
―――スカーの足が燃えていたのだ。
スカー自身は痛覚を破壊されているのでその事には気がつかず、一心に走り続けていた。
アリスはラグナにその事を指で指し示した。
「……!?」
ラグナはその事に気がつくと、強く唇をかみ締め、前方をにらむように見た。
目を凝らすと、薄っすらと目的地である町の明かりが見えた―――
因みに、ここは人間界。
悪魔達の追跡から逃れるため、ラグナがゲートを開いたのだ。
アリスを、人間達の下へ帰すために―――
此処まで来たら……もう、十分だ……。
ラグナは前かがみになり、スカーの耳に顔を寄せ、できる限り優しい声でささやいた。
「スカー、着いたぞ……ありがとな。ゆっくり下に……そう、このまま下りろ」
ラグナの声に促されるまま、スカーは大地に降り立った。
そこには何も無い……暗い夜の草原。
冬なので生命の気配すらほとんど無い、寂しい森の中―――
そこでスカーの尽きかけた命が、彼を灰にしようと燃え上がった。
「アリス……下りろ」
ラグナはアリスにすぐに降りるように促した。
火の勢いは予想したより弱く、だがじわじわとスカーを焼き始める。
「ラグナ……アリス、どこに居るんだ?」
「ここに居るよ、スカー……お前の目の前に。あたしもラグナも……三人一緒だ」
もう半分ほど炎に包まれたスカーの体に、顔に二人は優しく触った……。
その小さな手に触れられて安心したのか、スカーは光の灯らない目を薄っすらと閉じた。
「そうか……よかった……俺、ちゃんと二人の事、守れた……盾になれたんだな……」
ほっと息を吐くスカーに……二人はとうとう、感情を抑え切ることができなくなった。
「バカ野郎ッ! ……お前が、お前なんかが盾になるとか……調子乗ってんじゃ……ねェよ……ッ!!!」
「何で……何で、あたし達を庇って……! こんな大怪我するぐらいなら、庇ってもらわなくてよかった!」
その一言に……スカーは寂しそうに耳を下げ、口元だけで苦笑した……。
「お前は盾になんかならなくて良かったんだよ……お前は……俺の……俺達の……友達だから………ッ!!!」
そう言って、ラグナはぎゅぅっと強く彼を抱きしめた。
アリスも、ラグナと同じように、スカーを抱きしめた。
炎が自分の体を伝おうが、そんな事構わずに……。
「ありがとよ……二人共……」
思いもよらなかった彼らの言葉に、スカーの目からも涙が零れた。
ボロボロと互いの目から涙が零れる。
そんな僅かな雫では、スカーを焼く火を消すことなので着ないけれど……。
「ラグナ、アリス……ちょっとだけ、寝てもいいか?」
ぼんやりと、まどろみの中に居るような声で囁くスカーに、ラグナは見えて居ないとわかっていても頷くことでしか答えることができなかった……。
「ちょっとの間だから……俺が目を覚ましたら……ラグナ、傍に居てくれよ? 眼が見えなくて捜すの大変だから……」
「あぁ……ゆっくり……眠れ……俺もすぐに……アリスを人間に引き渡したら、すぐに俺もお前のとこに行くから……」
涙が止まらない。
目の前で消える友達に、何もしてやれないのか、何もできないのか、と自分を責める自分が居る。
そんな彼の手を、アリスが優しく握り締めた。
「……アリス………」
「なァ、二人共……。ここ、寒い……な……それに……真っ暗だ………」
炎に包まれたスカーが消えそうな声でそう言った。
その言葉に、ラグナは血が出るほど唇を噛んだ。
少し離れていたアリスも、たまらずスカーに抱きついた。
「駄目だって……俺の血は、人間のアリスには毒だから……」
そう言ってやんわりと笑うが、押しのける為に腕を上げることも出来ない。
アリスは……仕方なく手を離すと、ラグナの方を向いた。
「……ラグナ、お前……スカーを苦しめることなく送ってあげられるだろ?」
「……『浄化』か。わかった……」
相手を消すこと以外に使ったことは無いが……自分の能力が、悪魔の中で唯一『殺した相手を癒せる能力』と知っていた。
死の苦しみを味わうことなく、眠りに着くような気持ちで、冥界へ逝ける……。
痛覚は無いにしろ、スカーが苦しんでいるのは目に見えている。
だったら、送ってやるしかない。
痛み、苦しみを伴うことなく、眠りに着くように……。
「……大丈夫だ、安心しろ。今、温かい場所に連れてってやるから……」
ラグナは両掌をスカーの上に置き、アリスもその手の上に重ねるように自分の手を置いた。
一緒に送り出そう……。
そういうかのように細められた瞳に、ラグナも静かに微笑み返した。
「スカー……あっちに行っても、幸せにな……」
「ありがとう、スカー……」
二人の言葉の直後、ラグナの手が真っ白な輝きを放つ―――
光はスカーの身体からあがっていた炎を打ち消し、代わりに優しく包み込んだ。
「温かい……『楽園』に居るみたいだ……」
安らかなスカーの顔が……白い光の中、白紙に戻っていく……。
「一緒に……また、『楽園』で……あの木の下で、三人で一緒に昼寝しような……? 二人共……」
そう言って微笑むと、スカーの体は粒子となって消えた―――
「スカー……」
彼が消えると、気丈にその場に立っていたラグナはがくりと膝を折った……。
アリスもまた、涙を流しながらその場にうずくまった。
そして、スカーのつけていた鈴が音を立てて地面に落ちた……。
『ありがとう……』
その音は、彼の声でそう言われたように聞こえた―――
幻聴だろうけど……。
後は本当に静かな広い草原だけが残された―――
ラグナは無言で鈴を拾い上げると、それをアリスに手渡した。
「……それを手土産に……お前は、人間達の所に帰れ」
「嫌だ……ラグと一緒に居させてよ………。あたし……ラグが居ないと、もう駄目なんだよ……?」
泣きながら必死に嫌がる彼女の声が聞こえていないフリをし、勢いよく立ち上がった。
もう、立ち止まっている猶予は残されていない……。
ラグナは乱暴に涙をぬぐい、振り返ると、アリスに言った。
「お前は絶対に死なせねェ……!」
そう誓うように告げた―――
夜明けが近い……。
明るくなり始めた祖r内は、冷たい風に運ばれた分厚い雲がかかり始めていた。
田舎だが少し大きな街。
あの時は本当に楽しかったとラグナは街の中心部にそびえる大木を見上げた。
ここは、初めて祖父に連れてきてもらった、思い出の場所。
小さい頃、ここでよく遊んでもらった。
祖父が遊んでくれなくなってからも、一人で何度も来て、スカーやニジと来て、アリスとも来た。
感傷に浸っているラグナに、隣に居たアリスが何かを指差した。
ラグナが視線を送ると、まだ宵の淵だというのに木の根元に張られた柵に誰かが座っていた―――
まるで誰かを待っているかのように、タバコをふかして……。
足元には大量の吸殻。
その数からして、この寒空の中よほど長い間待っていたのだろう―――
シルクハットに仕立ての良いタキシードを纏った美しい青年。
彼はラグナとアリスを見ると片手を軽く上げて合図してきた。
「よぉ……ラグナ! 遅かったな?」
軽い挨拶をして、彼は吸殻を再びその場に捨てた―――
それを見てラグナは眉をしかめた。
「灰皿ぐらい携帯しとけ……ったく、格好だけじゃなくマナーもきちんとしたらどうだ? ニジ・スピア公爵」
厳しい口調で注意しながら、白い指でスッとその吸殻を指した。
だが、彼がそう言っている間にも吸殻は粒子となって散り、跡形も残らずに綺麗になくなったが。
あまり反省していないような笑みを浮かべ、軽く肩をすくめるニジの前にラグナは立った。
その顔は、先ほどの吸殻のことで目くじらを立てていたものとは違う、とても柔らかな表情だった―――
「思ったより早く気づいてくれたんだな……助かった」
「早いに越したことねェだろ? ……どうせ、結果は同じだけど」
フッと笑う悪魔に、ラグナは笑いながら「そうだな」と頷いた。
いつもと変わらないやり取り……。
アリスはラグナがとても楽しそうに見えたから、この青年がスカーから聞いたニジという人物だとわかった。
「その女の子がお前の人間の友達か? ……アリスだっけ?」
「お、おう」
アリスを値踏みするように綺麗な足の先から金髪頭の先まで無遠慮に見るが……アリスは深いな顔はせず、ただ穏やかな笑みを浮かべた。
それを見てニジはきょとんとし、ラグナはクスっと小さく笑った。
「―――どうだ? ニジも嫌いなタイプの奴じゃねェだろ?」
「……そうだな、面白くて素直な奴は嫌いじゃないからな」
ニジとラグナは傑作だと言わんばかりに、くっくっくと喉の奥で笑った。
アリスは何故二人が笑っているのかわからないという顔をしたが……。
「コイツ、まともに人と話したがらねェんだ……人間に『実験』された所為だと思う」
「は、実験!? そりゃまたお前も面倒な奴だな……? で、何? それを気まぐれで助けたら情が移ったっていう……スカーと似たケース?」
「……ニジのクセに鋭いじゃん」
ラグナが面白くなさそうに亜k玉湯を跳ね上げると、ニジは微笑みながら立ち上がった。
「これでも俺は、お前の警備をずっとしてきたんでね……」
ウンザリとしたような顔でため息を吐くニジに、ラグナはただ小さく微笑んだ。
そして……
「……場所を変えるぞ」
ラグナが短く告げると、その場に立つ三人は光に包まれた―――
ニジが眼を開けると、そこには何も無い砂漠の様な荒涼とした大地が広がっていた。
「ずいぶんと……寂しい場所を選んだな―――」
ニジとラグナは空を仰いだ。
そこは分厚い雪雲に覆われていて、今にも雪でも降り出しそうだった。
「なぁ……俺も一緒に魔王様に頼んでやるからさ……考え直さねェか?」
ニジの言葉に、空から彼に視線を移す。
まだ何も無い空を見上げているからその顔が見えない……。
「アリスを殺したことにして、逃がせばいいじゃねェか? ……魔王様だって、好きでお前を殺したいわけじゃねェと思うしよ……」
「ニジは優しいな……でも、そんな山門芝居が爺ちゃんにバレねェとでも?」
ふっと笑うラグナに、ニジは黙って首を振った。
「―――なら……俺が代わりにアリスを殺す……お前っていう友達を手にかけるくらいならそっちの方がいい。お前だって、そいつが居なければこの世界にこだわる必要は無くなんだろ?」
そう言い、アリスに向かって一歩踏み出すが……それはラグナに制された。
「俺のダチを殺す気なら、ニジも敵だ……、俺が相手になる」
深い殺意を込めた目……。
ゾクリと背筋が凍るような視線に、ニジは上げかけた手を下ろした。
「何で……人間なんかにそんな肩入れするんだよ?」
ぽつりともれたニジの言葉に、ラグナは哀しげに笑った。
「『人間』じゃねェからだ」
その答えにニジは眼を大きく見開いた―――
「俺の中でコイツは『人間』じゃなくて、『アリス』だから……。お前にもわかるだろ?」
「―――分かる」
そう、分かる―――
名前を覚えたら……それが一つの命として感じられるって―――
だけど……
「……だけど、俺は殺せる」
そう、きっと迷わずに、躊躇う事など無く―――
例えほんの数秒前まで一緒に笑いあって、馬鹿やって、ジョッキを打ち鳴らしあった相手でも、自分はほんの数秒で殺せてしまう。
失いたくないと願っても、どんな顔でそいつ等が死ぬのか想像するとワクワクする自分が居る。
それが時々たまらなく怖いが、とめられない―――
何故ならそれが悪魔の性だから……。
「―――どのみちスカーが死んだ……もう、俺はあそこに戻れない」
「俺が居ても……駄目か?」
その言葉に……今度はラグナが沈黙した。
どんなに強く振舞おうとも、彼はたった一人の……まだ十歳の幼き少年―――
何者にも揺るがないものなど、人間でも悪魔でも獣人でも、存在している限り揺るがないはずがない……。
「普通の人間のガキなら……好きな奴と一緒に居れるだけで満足すんのかな……?」
ぽつりと寂しげに呟いたその声は、先ほどまで殺意をほとばしらせていた人物のものと同じとは、とても思えなかった。
「でも、俺は……それだけは選べねェ……。選んだら……ただのガキになっちまう……そんな自分で生きてくのは、嫌だから……」
わかってる……。
どんなにたいそうな御託を並べても、これは所詮自分を正当化する言い訳……ただのわがまま……。
本当は何が正しいかなんて、多くを知りすぎた今は……。
守りたかったものの一つを守れなかった今は、わからなくなってしまったから―――
「―――悪ィ、ニジ……でも、他に方法が思いつかなかったんだ……どんなに考えても……策を巡らしても……爺ちゃんの、魔王の手から逃れる事が出来なかったから……」
ぽろぽろと涙を流し、震える声で必死に言葉を紡ぐ彼は見ているだけで苦しくなる。
「―――そうだな……魔王様から逃げるなんて、出来ないだろうな……」
ニジはシルクハットをもう一度深く被りなおした。
やっぱり、道は無かった―――
「ニジ……アリスを頼む。こいつを魔法使いに渡してくれ……魔法が使えるとうわさを流せば、きっと奴等は来るから……」
「魔法使いに? ……まったく、相変わらず注文がデカイ奴だな……お前は。ま、約束するよ……」
すまない。
そう小さく口の中で呟いたラグナに、ニジは思いついたように「あ」と漏らした。
「そうだ、一つ聞いていいか?」
「ん……?」
「その女の子の事、好きなのか?」
その質問にラグナはきょとんとして……そして、笑った。
「……あぁ」
「そっか……悪ィな、アリス。俺……ラグナを……友達を……お前の大事な奴を……消すから」
そう言って申し訳なさそうにしながら……ニジの手は、ラグナの胸を貫いた―――
「……ッ!」
「ラグ!!!」
アリスの悲痛な叫びが聞こえた。
痛みはまだ無い……。
だが体のうちで、ニジの手が中央に位置するモノに触れる感触がした。
視界の端で涙を流しているアリスが見えた―――
ラグナは口を動かして「来るな」と言った。
「アリス……、さよならだ」
胸にニジの手を突き刺したままニッと口端を吊り上げて彼女に告げると、その壮絶な姿にアリスは凍りついたように動けなかった。
「やっぱ……あんまし気分のいいもんじゃねェな……」
他人事のように呟くラグナの魔嫌疑の強さにニジは苦笑した。
―――最期の会話を楽しむ余裕など自分は与えていない。
自分に余裕が無いから―――
それでも、ラグナは途切れ途切れでも言葉を続けた。
「俺等……って………いつまでも………友達だよ……な………?」
「オイオイ、こんな時まで何言ってんだよ?」
「いいだろ……迷惑かけたんだから……俺……」
たとえそれが苦痛にゆがんでいても……ラグナはずっと笑っていた。
「何笑ってんだよ……?」
「ずっと友達で……居てくれる……んだろ……? だか……ら……」
血のついたてでニジの顔に触れる。
その指先は冷たくて……血は熱い。
ふいに彼が触れる頬に何かが流れた……。
それもやっぱり、熱いものだった。
目の前で笑ってたラグナの顔が……少し悲しげに変化した。
「ニジ……泣くな………後悔なんてしてねェから」
「誰も泣いてねェだろが……」
自分のものと思えない、低く押し殺したような声が唇からもれた―――
「―――そうだな……」
お互い他人事のようにこの時間がすぎていく……。
結局似たもの同士だったのだろうか、俺達は……。
ずっと握っていると、小さな心臓が段々と弱まっていく。
「ありが……と……ニ……ジ―――ごめん……な……」
ラグナがゆるゆると目蓋を落とすのを見計らい、ニジはその小さな心臓を引き抜いた―――
勢いよく上げられた飛沫が自分と彼の腕を、顔を、体を、大地を……全てを紅く染める。
血の紅さ……白い彼の肌に咲いた大きな華はバラのようだった。
「ラグナ……テメェが悪ィんだぞ………」
ニジは呟き、小さな彼の亡骸を前にただ呆然と立ち尽くした。
顔をぬらした紅い血が、自分の双眸から流れるものの存在を書くした。
だが感傷に浸る場合ではなかった。
自分の手の中の彼の小さな心臓が、その体の外にあるというのに再びドクっと唸った。
同時に、穴の開いた彼の死体がゴホっと血を吐いた。
血が溢れた口から隙間風のような音が漏れる……。
脅威の回復力―――
まだ完全に彼は死んだわけではなかった。
ニジはすばやくポケットから、エンディアから預かった銀の花の種のようなものを取り出した。
それは彼女の血を感じると、割れ、そこから発芽したようにつたの様なチェーンが伸びた。
チェーンは見る見る打ちに彼の心臓に拘束するように絡みついた。
『心臓の封印』……。
エンディアの言葉を信じるなら、これが彼が一番苦しまない殺し方らしい……。
これで全てが終わった……。
あとは……。
ニジは血まみれの顔を拭こうとはせず、そのままの顔を立ち尽くしているアリスに向けた。
アリスは生気の無い瞳で彼の大穴が開いた身体を見つめていた。
「おい、アリス……ラグナとの約束だ……連れて行ってやるからおとなしくついて来い」
怒りのこもったような声で声をかける。
反応の無いアリスに、ニジは苛立った。
「俺の機嫌がいいうちにしろ……! お前の所為でラグナが死んだんだからな……ッ!!!}
彼女の腕を強引に引っ張るが……アリスは逃れるようにその腕を振り解き、ラグナの前で庇うように手を広げた。
「……ッ!」
「……今更、盾になろうってのか? 遅いよ、もうラグナは死んだんだ」
苦しげに言うニジを見て……アリスはまたいつもの様に静かな笑みを浮かべた。
そして……彼は両手を合わせた。
ニジが不思議そうに見ていると、彼女の手が白光しはじめた。
「何……を……?」
「ラグはあたしの所為で死んだ……。だから……あたしがお前を殺す!!!」
稲妻のような閃光が彼女の体からほとばしった―――
激痛にわめき、眼から血の涙がすぅっと流れる、そして彼女の体から凄まじい電流が溢れた。
「馬鹿野郎、すぐに魔法を解除しろ! 死にたいのかっ!? ラグナの死を無駄にする気か!?」
ニジが慌てて彼女を止めようとするが―――遅かった。
天を貫くような光の柱がアリスを……そして、彼女の足元に横たわるラグナの死体を包み込んだ。
次の瞬間、禍々しい雷の化身がこの荒涼とした大地に降臨した―――
「くそ……何考えてやがるっ!?」
ニジははき捨てながらラグナの亡骸に手を伸ばすが、その前に雷の化身と化したアリスがそれをさらった。
ラグナを連れ、アリスは凄い速さでこの地から飛び立った……。
「……ラグナ!」
ニジはすぐに追おうと駆け出した……が―――
『―――ニジ・スピア公爵』
脳に直接語りかける魔王の声がした。
『人間は他の悪魔に追わせる……お前はラグナの心臓を持って帰ってこい』
「でもラグナが……」
『<死体>の回収ぐらい他の悪魔でも出来る。……違うか?』
有無を言わせぬその圧力にニジはうな垂れ……そして―――
「了解しました―――」
俯き、そう呟いた。
あの後……。
雷の化身と化したアリスに持っていかれたアイツの死体は……結局戻ってこなかった。
回収に行った悪魔達がどうやらアリスに返り討ちに合ったようだ。
―――あの少女のように全てを捨てることが出来たら……。
きっと、今もこの胸にくすぶる思いに悩まされる事もなかっただろう。
でも、到底俺にはできない芸当だった。
子供だからって馬鹿にしていたつもりは無かったのに……やっぱり、どこかで見くびっていたんだ。
アイツ等の底力―――
―――……
―――ラグ……
……ラグ―――
自分の名を呼ぶ声に、少年はゆっくりと重たい目蓋を開いた。
―――その眼はまるで濁った死人の眼だった。
光を失った瞳に映ったものは、廃墟と化した世界―――
空には大きな月があった……。
それは恐ろしいほど大きく……黒い色の月……。
そこに彼は打ち捨てられた人形の様に横たわっていた―――
―――ラグ……
荒廃した世界、だが自分を優しく呼ぶ声は降り注ぐ透明な雨のようにいつまでも止む事はない。
―――誰……?
彼は動かない唇でそう問いかけた―――
どこで聞いたかは忘れたが……この声は聞き覚えがあった―――
とても優しい、同年代の女の子の声……。
そう……まるでアリスの笑顔のように、人の心に安らぎを与える声……。
―――そうだ、この声は……
ラグナは霞が買ったままの頭でその声の主に瞳を向けた……。
ラグ……
その人物は……やはり少女だった。
おまえ……何を……?
ラグナは口を意識して話そうとしたが……やはり、死体のように唇は動かなかった。
だが、彼女にはちゃんと通じたらしい―――
いつもと違い、生気が感じられない瞳を優しく細める笑顔を見せた。
―――目の前で笑う少女に……ラグナはとてつもなく嫌な予感を覚えた。
アリス……おまえ……?
問うように虚空のまなざしを向けられると、少女は自分の手から白く光り輝く物体を生み出した……。
これ……ラグの新しい心臓……。
魔法で造ったものだけど……ちゃんと動くから―――
そう言うと少女は彼の横にしゃがみこみ、胸に大きく開いた穴にそっと、その新しい心臓……魔法で生み出した心臓を埋め込んだ……。
とくん……
そこに……その命を失った身体の中心に、小鳥のように小さな命の躍動を感じた―――
ぴくんと、指先がはねるように動いた―――
それをきっかけに肺が酸素を求めるように活動を再開した。
熱き血潮が全身を駆け巡るのが分かる―――
光のように……命が満ちる―――
そして……その小さな背に……炎が宿った……。
それはとても温かく柔らかな炎……。
真っ赤で大きな炎の翼が天に向かって現れた―――
それと同時に、あの深い闇のような黒髪が白銀に染まっていった―――
光を取り戻した瞳は、吸い込まれてしまいそうな深い色から、燃えるように光る赤い左目と、光の角度で変化する美しく透き通る銀色の瞳へと変わった……。
それは正に炎を纏った天使だった……。
高配した世界に降り立つ天使―――
まるで生まれ変わったかのように、そこに居る彼はそれまでの少年とは異なる姿へと変貌した―――
だがその瞳は、未だに深遠なる闇を孕んでいた―――
とめようも無い大粒の涙が、次から次へとあふれ出てくる……。
「馬鹿野郎……」
そう呟いた薄紅色の唇は、深い悲しみに再び蒼ざめた。
「聞いたことねェぞ……心臓を造りだせる魔法なんて……」
ラグナは傍らの少女を力ない瞳で見つめた。
「そんな魔法使ったら……わかってんだろ……もう、自分が助からねェって……」
アリスはそんな彼の言葉を聞いてもただ笑っていた。
静かに、そして穏やかに……この世の全ての不条理も受け入れるかのように、ただ……優しく微笑み続ける―――
……分かってる。
その身体は……向こう側が透けて見えるほど希薄なものとなっていた。
それだけではない……、まるで細胞の様な六角形のヒビが全身に広がっていた。
「分かってるんなら何で!? ……そんな姿になって……お前の魂は……もう……」
いいっつの……だって、ラグに出会わなかったらあたしはとっくの昔にこうなってたんだから……。
表情を変えるたびに少しずつヒビが剥がれ落ち、その笑顔に穴が開いていく―――
……それに、ラグだってあたしの為に死のうとしただろ?
「でも……お前まで死んだら……俺は……何も救えなかったじゃんか……」
肩を震わせて涙を零すラグナを、アリスはそっと包んだ。
ぴきぴきと音がして、またヒビがはがれる……。
綺麗な足が光となって消えた。
そんな事は無ェよ……。
それにまだお前は終わってない―――そうだろ?
―――その言葉に、ラグナは頭を力なく左右に振った。
「……一人で……生きろと? お前もスカーも居ないこの世界でたった一人で?」
あたしもスカーも、ラグといつまでも一緒だよ……。
「思い出の中に居るとか言うんじゃねェだろな!? ……そんなのまやかしだ!」
苦しかった……。
奪われるよりも、与えられた命の方が苦しい―――
泣きじゃくることでしか感情を訴えられない赤子のように泣き続けるラグナを、アリスはずっと撫でていた。
まるで姉の様に……。
だが、そうしている間にも彼女の身体は風に飛ばされる砂粒のように失われていった―――
風化する思い出の中じゃない……あたし達は、ラグの命と一緒に居る。
「命……?」
顔を上げたラグナにアリスは力強く頷いた。
人は一人で長く続く道の上を歩くわけじゃない―――
現にあたしはお前とスカー……二人が居てくれたから、この道を進むことができた―――
一緒に居なくても……大切な人はいつもあたしの命を支えてくれた―――
だから、今度はあたしがラグの命を支えるよ……。
そう言うと、アリスの額に唇を近づけ、彼女はそっとその額に口付けた。
よく、ラグナの母親が彼にそうしたように……。
彼女の唇が離れると、額の眼は綺麗に消えていた……。
突然、激しい虚脱感が襲ってきた……。
がくっと膝が折れ、ラグナは再びその場に崩れ落ちた。
「何だよ……コレは……? ……アリス……お前、俺に何……を……?」
ラグナは閉じそうになる目蓋を必死にこじ開けようとした。
だが、思うように力が入らない……。
きっと今のお前は……道に立つこともツライと思うから……。
だから、あたしがその気持ちをしまっておくよ―――
その言葉にラグナはハッとなった。
「―――俺の記憶を消すつもりか!?」
その問に、少女はやはり優しい笑みで応えた……。
戦って、ラグ……。
あたしは戦うお前を必ず守る……お前が守りたいものの為に戦う限り……。
ラグは、この世界の……『希望』だから……。
少女の声が……とても近く……そしてとても遠くに聞こえる―――
頭が重い……。
多くのものが、ブラックホールに吸い込まれるように消えていく……。
魔王の一族としてすごした歳月―――
エンディアやリリー……家族の顔が消えていく……。
スカーの壮絶な最期も、ニジの涙も……そして、アリスの優しい笑みも……。
何もかもが闇に閉ざされる……。
「嫌だ……俺は……お前達を……忘れたくなんか……」
心配しなくていい……少しの間だけ、あたしが預かっておくだけだから……。
いつか、ラグが大切なものを守るために戦えるようになるまで―――
優しい声が遠くなっていく。
あぁ……お別れだね……ラグ……。
なァ……一つだけ、お願いしてもいいか?
もし、サディークって奴に会えたら……さ、『ありがとう』って伝えてくれるかな―――
そう言って微笑んだのは、右半分だけの顔……。
ラグナの双眸から涙が零れた……。
本当はもう、何が哀しいのかさえ分からないのに……それでも、胸が苦しくて涙が止まらない―――
ありがとう……ラグ。
大好きだよ……。
もうほとんど意識の無いラグナに向かって、少女は囁くような声で語りかけた―――
―――ラグ……。
あたしの……一番……大切な………
その言葉が彼に届く前に、意識も彼女の姿も……。
全てが跡形も無く消えてなくなった―――
消えていく……全てが消えていく……。
透明に……『無』に還っていく……。
……怖い。
誰か……。
―――誰か……って……?
そして、眼が覚めた。
いや、実際はずっと起きていたのかもしれない……。
ただ、ここはあまりにも白い世界だから……夢と現実の境界が酷くあいまいに感じた。
あまりに冷たく、白く、哀しいほどにもろい……美しい世界―――
大地には、自分の身が壊れてまで少女が彼を守るために戦った爪跡が残されていた……。
無数の悪魔達の亡骸……。
だがそれも、今の彼にはその意味すらも分からない。
だが、分からないことが……知らないことが凄く哀しい……。
何故だかは分からないけれど、何だか誰かの……。
それもたくさんの人の想いを踏みにじってしまった気がする―――
どうしようもなく寒くて、痛くて、冷たくて、哀しくて、苦しい……。
こんな世界で一人でいたら押しつぶされてしまいそうだ。
だが、呼びたいはずの名も分からない。
すぐさっきまで誰かが側にいた様なきがするのに、その人物の名も、顔も、姿も出てこない―――
すごく愛していた人がいた気がするのに、その人物の名も、顔も、その声も分からない―――
……誰か。
誰だかわからない……。
その相手に向かって、彼はただ助けを求めた―――
「―――?」
「? どうしました?」
ガタゴトと揺れる馬車の中で、乗客の若い男が外を眺めた。
馬車の外は吹雪というほどではないが、止む事のない雪がしんしんと降り続けている。
「いや……なんでもない、それよりここで馬車を停めてくれ」
「え……?! 止めておいた方がいいですよ!? 昨日此処で、大量の悪魔が暴れていたんですよ!? すぐ消えちまったけど、まだ生きてるかも……! 嘘じゃないですぜ?!」
「―――知っている……それを調べに来たんだ」
鋭い視線で馬を引いていた男を制すると、若い男は馬車を降りた。
全身を黒一色に塗り固めたようなそんな姿。
その中でその茶色い髪が結構目立つ。
張り詰めるような白に支配された世界を、男は真っ直ぐに歩いていく―――
誰かに呼ばれた気がしたから……。
しばらく行くと……この雪でも隠せない壮絶な戦闘の跡が見えてきた。
まるで巨大隕石でも落ちたかのような大きなクレータの中に……。
一つの小さな影が落ちている事に男は気がついた。
「子供……?」
ざくり……
深い雪に踏み込んだ音に、独り眠りに着こうとしていた少年は意識を引き戻した……。
倒れこんだまま少年が瞳を開ければ、見えたのは黒い靴、黒いローブ……。
いつの間にか、右胸に炎の神、イフリートの紋章を着けている怪しげな男が立っていた。
そんな風貌の中で吹雪の中揺れた茶色い髪が眼を引いた。
男は少年を優しく抱き起こした。
誰……?
凍えた唇は音を発することなく、わずかに震えるのみ……。
男は少年の胸元を見た。
ちょうど心臓の真上の位置。
そこには男のローブの右胸についているものと同じ、イフリートの紋章が埋め込まれていた……。
その紋章はやがて少年の身体の内部へと沈み、その背の炎の翼も消滅した。
「心臓自体が魔法で構成されている人間か……」
男の言っている意味が少年にはわからなかった。
だがその声に、心にぬくもりが宿る……。
男は少年のその瞳を見た。
哀しみに暮れた深いその瞳を……。
「―――魔法学校、来るか?」
男が少年を魔法学校に連れて行った……。
此処から、全てが始まった―――
つづく