昼過ぎまで弱い雨、一時本降り。その後はだんだん晴れて、夕方は雲間から青空も。

日ごとに蒸し暑さが増している印象で、明日は久々の真夏日復活とか。

16km となり町図書館

 

小雨のなか、となり町の図書館へ行って帰ってくる16km。

きのうの薄底28km のダメージは、ふくらはぎ下部にやや筋肉痛と重怠さあり。

今日はてきとーでいいやと楽な気持ちでスタートしたが、後半12km あたりからはキロ4分00秒台で巡行。

終わってみれば、平均ペースは前日を上回り、少々やり過ぎた感があった。

 

ラン:16km

シューズ:asics NovaBlast(219)

1km平均ラップ:4m14s

ベストラップ:3m56s(15-16k)

消費カロリー:884kcal

体重:63.4kg(前日-0.9kg

天気:くもり曇(気温26℃:13時)

BGM::Liquid Tension Experiment「LTE」(1998)-Dream Theater「Falling into Infinity」(1997)

「LTE」トラック7「State of Grace」、頭のメロディがよく聞くクラシックそのまんまだけれどタイトルを思い出せず。

こういう時、グーグルのハミング検索は役に立つ→「シューベルトの子守唄」。

 

 

[今日の脳トレswitch]

Nintendo Switch「東北大学加齢医学研究所川島隆太教授監修 脳を鍛える大人のNintendo Switchトレーニング」(2019年任天堂)

599日目。

 

今日の脳年齢チェックは、

最高数字テスト(抑制力)

高速数えテスト(処理速度)

連続減算テスト(短期記憶)

の3本です。

  

本日の成績:脳年齢20才(前日±0)

19日連続20才&トライアングルコンプリート。

「連続減算(70マイナス6)」、まーた最初の答を63と書いて時間をロスする。 

「『7』0」と、視覚的に引きずられているらしい。

 

[本]

「百年文庫(37):駅」(2010年ポプラ社149p)

ヨーゼフ・ロート/渡辺健訳「駅長ファルメライアー」(Stationschef Fallmerayer By Joseph Roth1933)

戸板康二「グリーン車の子供」(1975)

プーシキン/神西清訳「駅長」(The Stationmaster By Alexander Pushkin1830)

の3編を収める。

 

・「駅長ファルメライアー」

オーストリアの小さな駅長を務めていた男が、近くで発生した列車事故から救出したキエフの伯爵夫人が忘れがたく、後に招集され一兵士としてキエフの地を踏んだ折、彼同様に出征した夫に代わって屋敷を守っている夫人の家を訪ねると、夫の居ぬ間に彼女の心を我が物にして、やがてロシア革命によりこの地が危険とみるや夫人の別荘があるモンテ・カルロへ共に向かい、男は故郷に残してきた妻子のことも忘れる決心をしたのだったが、夫人が彼の子を身ごもって半年になろうとしていた頃、死んだものと思われた夫の伯爵が戦争を生き延びて帰宅、男は屋敷の管理人を装って伯爵と対面するも、車いすで食事もひとりではできない体になっていた伯爵と彼を甲斐甲斐しく世話する夫人の姿を目の当たりにし、いずこともなく去っていくのだった。

このアンソロジーで既に何度目だろうな、旦那の出征中に別の男と関係を持ってしまう妻。世界共通の物語と言っていいのかも。

・「グリーン車の子供」

とある老齢の歌舞伎役者が新幹線のグリーン車で大阪から東京へ向かうさなか、一人で上京するらしい幼い少女と隣席になり、折しも久々の舞台への出演依頼を子役が気に入らないと渋っていた男は、少女とのささやかな交流で子どももいいものだと思い直すが、業界では探偵趣味者として名を知られている男は、この間、車中で起こったあれこれを繋ぎ合わせて、ひとつの真実へたどりつく。

19世紀から戦前に書かれた古典がほとんどな本全集には珍しい、現代作品(といっても50年近く前だが)。新幹線やグリーン車という文字が、とても新鮮に感じられる。ミステリー小説というのも異端ながら、明らかになる真相はどうしてわざわざこんな回りくどい真似をするのか説得力に乏しい、いわゆるトリックのためのトリック感。

解説によれば、主人公の歌舞伎役者を探偵としたシリーズが多数あるらしいけれど、百年のエバーグリーンを目指すこの全集に相応しい作品だったかというと、何とも……。

・「駅長」

「私」はとある駅にて、客から罵倒されながら日々の暮らしを送る哀れな駅長とその美しい娘のことが忘れられず、数年後に再び駅を訪ねるが、駅長によれば娘は駅を訪れた一人の大尉にかどわかされてしまい、駅長は苦難の果てにようやく大尉の家を探し当て、娘を帰してほしいと願い出るも叶わなかったそうで、そして更に数年後、みたび駅を訪ねた「私」は駅長が失意のうちにこの世を去ったこと、彼の墓を子連れの美しい夫人が訪ねてきたことを知るのだった。

虐げられた者が更に虐げられる、ロシア悲劇の祖たる作品らしい。

 

[映画]

・AmazonPrimeVideo で、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」(庵野秀明総監督2007年102min.再)

・AmazonPrimeVideo で、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」(庵野秀明総監督2009年113min.再)

・AmazonPrimeVideo で、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」(庵野秀明総監督2012年96min.再)

「シン・エヴァ」の予習で、新劇場版三作を一気見する。

きのう「序」を頭の30分だけ見ていて、今週をかけて「Q」まで復習して「シン・エヴァ」を……のつもりでいたが、見進めるほどに「エヴァ」についてこれ以上思い煩いたくないという気持ちが強くなり、本日を以て決別の日にしようと全部見ることにする。

 

「序」はDVD を購入した2008年以来、「破」「Q」は映画館で見て以来。

旧作を概ねなぞる展開の「序」も、新しい展開へ踏み出していく「破」も、頭の中を過去のテレビシリーズや旧劇場版が影のように絶えずちらつく。この二本については、良い悪いをどうこう言えないところがある。

しかし「Q」、てめーはダメだ。シンジはただただ状況に流され続け、周りの連中は理解不能な用語をがなっているばかりで肝心なことをシンジにも観客にもだんまり。劇中、シンジがさんざっぱら連呼する「なんだよ、これ」そのもの。前二作と同じ人が作ったとはとても思えない。

唯一、シンジが支給されたワイシャツに「鈴原トウジ」の名札を見つける下りだけは、粟立つものがあった(※)。

その「Q」から8年あまりの時を経て、庵野秀明はどんな風呂敷の畳み方を思いついたのか。

 

・AmazonPrimeVideo で、「シン・エヴァンゲリオン劇場版 :||」(庵野秀明総監督2021年155min.★2)

カヲルを失い鬱状態になったシンジはアスカとレイのクローンに引きずられるまま、14年前に中学のクラスメートだったケンスケ・トウジ・ヒカリら生き残った人々が平和な暮らしを営む「第3村」にてゆっくりと心身を回復、レイのクローンの消滅を機に立ち直ったシンジはアスカと共にミサトらヴィレに合流すると、父ゲンドウの進める人類補完計画を阻止するため、戦艦ヴンダーで戦場へ向かい、やがて再びエヴァ初号機へ乗り込み最後の戦いに身を投じる。

 

1997年の春。劇場版「シト新生」で世間が盛り上がるなか、深夜の再放送をたまたま見て文字通り世界が変わったあの日以来。自分の精神的バックボーンの7~8割は「エヴァ」で築かれ、今日なお引きずっている。ここまで自分というものを揺さぶられる経験はないだろうと当時思ったし、実際そうなっている。

テレビシリーズと97年の二本の劇場版、どちらも最後に見てから20年以上が経過しているけれど、もう二度と見たいとも思わない。それほどに消えない痕を残した作品で、ああこんなものさえ見なければと、時には憎しみにも似たわだかまりを抱えてきた。

ただ一方で、こんなに「エヴァ」を愛している(いた)人間はいないと自負しているところもあったり。あの頃ハマったファンの多くがそう思っていただろうというのが、本作の厄介なところでもある。

それゆえ、「序」からの新劇場版はどうしてもノリきれないところがあり、このブログで検索しても三作を見た当時に書いているのはネガティヴなニュアンスのものばかり。(→「序」)(→「破」)(→「Q」

特に「Q」については、もうこんなものに付き合ってられるかと呆れ、きっぱり縁を切ると決意。今年の3月にとうとう公開された本作を、頑として映画館に見に行かなかったのも、「エヴァ」はもう卒業したんだからという戒めゆえだった(新型コロナは都合の良い言い訳にできた)。

ファン一人一人の中にそれぞれ理想の「エヴァ」があり、庵野秀明が今さら何を後出しで作ろうが受け入れられるものではない、かくも深い楔を見る者に打ち込んだ、本当に罪深い作品だと思う。

 

とはいえ、円盤に先行してアマプラで配信されるや、こうしていち早く見てしまったところに、いまだ抜け出せない愛憎を抱えていることがわかる。

恥を忍んで告白すると、きのう月曜の明け方、「シン・エヴァ」を映画館で見る夢を見る。しかもミサトさんと!

……というわけで上述の通り、どんな内容だろうが絶対気に入らないだろうなと思った通りの映画だった。

映画館に見に行かなくてほんとうに良かった!

 

テレビシリーズと旧劇場版において、他者との距離感に悩むシンジら登場人物と、「心の壁」を具現化したATフィールド、そして誰も傷つかない「他者との境界がない世界」としての人類補完計画と、キャラクタのパーソナルな問題と物語の設定は不可分の関係にあった。

対して、新劇場版のシンジの悩みは「序」「破」「Q」「シン」と一貫して「エヴァに乗るか乗らないか」の一点に集約され、先の件はほとんど問題にされない。

そのため、物語の最後の真実たる人類補完計画はシンジの内面ドラマとは関わりのない、ゲンドウひとりが執着する個人的野望になった。そしてシンジは第一幕の第3村(この辺りの世界観は絶対に「Q」の段階で示しておくべきだった。全く考えてもいなかったんだろうけれど)でのリハビリを終えると、これまでのグダグダが嘘のように健全な主人公と化し、すったもんだあった他キャラとの関係も次々清算する。

結果、「イカれた父親を妙に悟ったような14才の息子が止める」という要素が残った。「エヴァ」って、それだけの話だったの……?

庵野的には自らが年を経て、自分がもうシンジではなくゲンドウ側にいることに気づいたのかもしれないが、ゲンドウにテレビや旧劇のシンジのようなひとり語りをやらせればやらせるほど、妻を亡くして頭がおかしくなったおっさんひとりのために世界が大迷惑を被ったのか……と、力が抜けるよ。

 

旧劇場版を意識したような場面がかなり多く、違うもの作るって言ったじゃん庵野。

終盤に畳みかけられる、フィクションをわざわざ主張するメタ演出も、またか……と、いい加減に食傷した。

現実だの虚構だのいつもギャーギャー言ってるが、そんなの気にしてんのは作ってるあんただけだよと毒づきたくなる。

 

(※)「シン・エヴァ」で早々に台無しにされ、がっかりする。