(「厦門(アモイ)駐在」 からのつづき)


 厦門(アモイ)から広東省広州市に飛んだ私を待っていたのは、工場の運転手ただ一人(ちょっと寂しいんじゃない)。私の名前を書いたプラカードを持って出迎えてくれました。


 私がこれから赴任する工場は、広東省新会市(広州市の南約90㎞)にあり、海に面した漁村のはずれで、全く何もないところです。夜になると、鮮やかな「天の川」を見る事が出来ました。


 工場に着くと私は大先輩の御爺ちゃん(○○さん)のいる工場に直行。「○○さぁ~ん」「おお来たか」「今日から応援に来ましたのでよろしくお願いします」(これから一緒にいるんだから挨拶は大事だからね)


 「何言っとんだ、俺明日帰るからよ」「はぁ~何の話」「日本に帰らしてくれと言ったら、お前が来たら何時帰っても良いと言うからよ、明日帰る事にした」「そんなのリアルに聞いてねえ~よぉ」。


 いい加減なものです。本社の幹部どもは行き当たりばったりの二枚舌野郎ばかりなのです。こうして、工場の事は何も知らない状態で、翌日一人置き去りにされたのです。 


 しかし、流石御爺ちゃん。セコイ馬鹿幹部どもが用意した中古(30年選手)機械はまともに動かず、あの手この手で生産体制を整えた上に、現場通訳に工場イロハを叩きこんでくれていました。さぞかし苦労した事でしょう。


 私は、現場通訳に工場を任せ、溜まった製品の試験とデスクワークをこなしていたのですが、1ヶ月後の昼、食堂で通訳の解雇を通告されたのです。「何時辞めるのか」と聞くと「たった今、30分以内に出て行ってもらう」と。


 私は怒りに震え「これがお前らのやり方かぁ~」と心で叫ぶと、席を立ち、椅子を蹴り飛ばし「トォエブチ―(すみません)、用事を思い出したので外出します、工場はたった今稼働中止とします、私がいない間にもし勝手に生産したならば無条件に引取り拒否します、では・・・」と事務方の通訳に言うと、現場通訳を連れてトンズラしました。


 彼が珠海から船で深圳に行くと言うので、珠海に泊まり、船の時間まで工場イロハを叩きこんでもらいました。どうせ私を困らせようと言う意図である事は明白ですので、出来ませんとは口が裂けても言えません。


 翌日の午後、工場に戻ると総経理(中国側社長)が、待ちかまえており、「勝手に出て行ってもらっては困る」と言うので「ならば勝手に通訳を解雇して貰っても困る、私はちゃんと外出すると言いましたよ」。


 「明日から工場を動かせるか」(そら来た)、当然明日から私が工場を動かすが、試験やデスクワークが出来ないので、早急に替わりの通訳を雇い、私が指名する作業員を私の手元につける事を要請。


 また、①今回の件は中国側の非協力的行為として、日本に報告させてもらった事、しかし、日本側の前任者達(御爺ちゃんは彼らに信頼されていたので除く)にも問題があっただろうと、正式なクレームはしない様に要請した事を伝えました(馬鹿幹部どもがクレームする訳が無いのですが)。


 更に、②私は○○(御爺ちゃん)に代わり、日本側の全権を持って赴任しているのだから、今後、工場の生産に関わる事は私に事前に報告する様に要請。再度同じ事が起ったら、即刻帰国すると申し入れました。


 これら①②は全部嘘です。通訳との逃避行(女性でないのが残念)中に、四面楚歌の中で(1対200)如何立ち回るかを考えた末の大法螺です。更に私には腹案が有るのです(鳩ちゃんか)。それは老板(董事長いわゆる会長)への直談判。これは確実に効くでしょう(秘策があるのです)。


 すると、総経理は理解を示してくれましたが、老板の意向には逆らえないと正直に言ってくれたのです。また、明日、老板が来るが、貴方は今回の件について文句を言われると思うから我慢してくれと言うのです。


 ならば丁度都合が良いから、私からも言わせてもらいましょうと言うと「何を言うんだ」と言うので、「それは老板が来てからの話です」とお茶を濁しました。


 最後に、私を心配しての事だろうが、私の部屋を家探しするのもやめて下さいと忠告(手掛かりを探そうとしたのでしょう)したところ、昨日河で水死体が上がったから(暗に言う事聞かないとそうなるぞの意)、独りで出歩くのは危険だと言うのです。


 私は、今の険悪な状態ならば何処に居ても私は独りなのだから危険なのでは?と切り返し、ここが安全な場所に成る様にお互い努力しましょうとドキドキしながら言ってやりました。


 この総経理は、和やかな話し方なのですが、眼が爬虫類の眼なのです。こういう人は怒ると冷徹なところがあり、私はオシッコを漏らしそうだったのですよ。彼は、共産党の元幹部で、地元政府・地元警察・地元マフィアを牛耳る有力者なのです。


 でも、後で私と総経理は「ターカ(兄貴)」「ティティ(弟)」と呼び合う仲になるとは、解らないものです。


 正直言って、私も必死だったのです。「良くあんな事言えたなぁ」と怖くなります。人間窮地に追いやられると馬鹿力が出るのでしょう。また、営業部で虐めや嫌がらせに耐えていた事が糧になったのかも知れません(「私と楽雲気法 」参照)。


 こうして、地獄の様な生活が幕を開け、この日中戦争は中国側の圧倒的優位の内に開戦の口火を切ったのです。


(つづく)