(「中国出張 」からのつづき)


 私の中国駐在先は福建省の厦門(アモイ)と言う都市です。改革開放政策によって、1979年に設置された経済特区の1つです。他の都市と比べて開放的な雰囲気の町でした。


 私はホテル最上階のスウィートルームを貸し切り、オフィース兼宿舎として至福の時を過ごす事になりました(正直に言えよ)。実は・・・、ホテルと言っても三流ホテルです。壁紙は所々めくれており、皆さんが想像する様な大そうなものではありません。


 それでも、30そこそこで一国一城の主に収まったのですから(従業員はお前だけな)、私がどれだけ舞い上がっていたか。誰からも文句は言われませんし、自分のペースで仕事が出来るのです。



 写真は部屋の大きな窓から鼓浪嶼島(昔、共同疎開が置かれていました)を見た景色です。20年前の写真ですので、今はもっと洗練された街になっているでしょうね。写真中央(鼓浪嶼島の手前)に鄭成功(国姓爺)の像が見えます(小っちゃくて見えねーよ)。


 夕方になると写真の様に夕日に染まった幻想的な風景を堪能できました(朝日ではないのがちょっと不満ですが)。


 ここでの仕事は、厦門大学日本語学科の学生を通訳として雇い(アルバイト)、隔週で長距離出張(甘粛省蘭州が最遠)、翌週に近距離出張(厦門周辺)、土日は報告書を作成と言う段取りで結構ハードでしたが、本社での辛い経験からしたら充実した楽しいものでした。


 ここで私はあるきっかけで客家の長老と親しくなり、彼らが2000年以上に亘り守って来た「古代風水」に出会う事になります。そして、「楽雲気法 」の正体を知る事になったのです。


 「楽雲気法」は客家に伝わる「古代風水」の一部で、主に健康に関わる部分を抜粋したもので、客家ならば皆知っている事なのだそうです。「楽雲気法」の顛末を知った長老に気に入られ、一族の秀才(厦門大学日本語学科卒業)を紹介されたのも幸運と言えます。


 私は彼と彼の友人(厦門大学日本語学科卒業)の助けを得る事が出来、厦門での仕事の基盤を構築すると共に、遊び相手を得る事が出来、ほぼ毎週末カラオケや飲食を楽しんだのです(バブル真っ盛りでしたので、当然お互い接待費の出し合いです)。


 ホテルに訪ねて来た、右が客家の秀才の林さん、左はその友人の王さん。二人とも日本語が堪能で、商談(嘘つけ)した後に夜の酒場に繰り出すのです。


 しかし、この至福の時は長く続かず、1年余りで終了と成ります。広東省に合弁で建設した工場が上手く行かず、一時応援に行くように命じられたのです。


 その工場は、私が初めての中国出張で出遭った香港人のおっさんの会社と商社と私の居た会社の合弁で、原料の製造販売を目的にしたものです。


 ここに派遣された連中は、その風土に馴染めず、ギブアップする者が続出し、香港人や現地スタッフとの折り合いも悪く、険悪な状態になっていたのでした。超ベテランの御爺ちゃん(私は仲良しで好きな大先輩でした)が、孤軍奮闘していると聞き、その要請を断る事が出来なかったのです。


 ホテルをチェックアウトし、私物は通訳に預け、広東省へと向かったのですが、まさか7年もの長期に亘り駐在する事になるとは思ってもいなかったのです。


 またてしても、地獄に突き落とされる事になるのですが、同時に私の運命を決定づける事になるのでした。


(つづく)