とっておきの日常 -7ページ目

【都庁で開催の都民フォーラムで「あそびと発達」について講演します】

久々の投稿です。

皆さま、お元気ですか。

今日は東京は大雪です。


年末年始、ゆっくり休んでいたら、脳の奥の奥の方までほどけたらしく、そうしたら急に曲が5-6曲いっぺんに書き上がり、久々にラコの人たちとスタジオに入って曲づくりなどしています。


「ライブやりたい」「レコーディングしたい」よりもまず「頭の中に鳴っているこの曲とこのサウンドをなんとかカタチにしたい」という、思春期のようなシンプルな衝動です。


年末には、シークレットライブもやりました。楽しかった!



さて、それはさておき。


表立った音楽活動はしばらくお休みしていましたが、あいかわらず、好きなことを好きなように追求することを生業としています。


そうしたら、ぐるりとまわって、また、人前に立つお仕事がやってきました。


講演のお仕事です。


日付 2/18(日)

場所  東京都庁 

定員  500名(無料)

テーマ 「あそびと発達」


特設託児所があるそうです。


とある、子どもの発達に関する学術集会に呼ばれて、プロゼン的講演したことがきっかけで、少し懇意にさせていただいている“東京都立小児総合医療センター”の副院長の田中哲先生。


大変な人格者なのですが、妻が「この本が素晴らしい!」と田中先生の著書を見つけて私に勧めてくるくらい、その世界では「間違いない」とされている人が。


知り合った学術集会での私のプレゼンが印象に残ってくださっていらしく、講演のご依頼をいただき、あまり自覚なく二つ返事でOKしてたら。


よく読むと、田中先生主催の、都庁での、都民の方向けフォーラムだったようで。


先日、知らないうちに公表されていた東京都のプレスリリースをみてびっくりしました。笑


私の名前載ってる。


定員500人の無料フォーラムで、講演後に登壇者のフリーディスカッションなどもあるらしい。他の登壇者の方、著名な方ばかり!


光栄です。


私の話は大した価値はないですが、他の方は素晴らしいです。無料らしいので、もしよろしければ、この機会にぜひ、お運びくださいませ。


詳しくはこちら↓


http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/01/09/01.html

ダニー井野という人。

「ダニー井野」という、変わった人がいます。


名前も変わってますが、「ダニー」の部分は、Donny Hathaway からとってるそう。ダニーをカタカナにして、それに「井野」という日本的な名字がくっついたときの不思議な化学反応。


あれはいつ頃でしょうか。私がTWELLVE というバンドを抜けて、racoustikを始めた頃でしょうか、確か。


幼馴染(中学の同級生)数人で久しぶりに会って、たまたま入った呑み屋で彼が歌っていました。


途中から僕は自然と立ち上がってしまって(呑み屋の席でひとり立っているという異様な風景)、見惚れてしまって、曲が終わるごとにモーレツな拍手をしていた。その日の友人との会話は覚えてません。笑


直感と衝動が走ると、奥手のわたしはウザいくらいの積極性を見せ、そのライブが終わると同時に、話しかけに行きました。とにかくすごかった!信じられない!と伝えたくて。


音楽は、経歴とか学歴とか人脈とか、本当は一切関係なくて、


「その瞬間に発揮できること」


でその人の尊敬すべき価値が決まる。そこが、誠に潔くて、清々しい世界だと感じます。


意気投合したわたし達は、その後、三軒茶屋で待ち合わせて飲むことになりました。


しかし、ダニーさんの知っているお店が開いてなかった。なんだよなあ、どうしようとブラブラ歩いていると、


迷路のような路地の奥から、かすかに“カホン”(ペルー発祥の打楽器)の音が。しかも、超絶にグルーヴがいい。


その微かな音を頼りに細い路地をさまようと、「羊々」という、ジンギスカン屋さんがそこにありました。


扉(引き戸)を開けてみる。


マスターのオサムさんが、開店前のお店でひとりでカホンを鳴らしていたのでした。


なんだなんだと開店すぐのお店に入り、ダニーさんと飲み始めました。


やがて、カウンターごしのオサムさんともその日のうちに親しくなり、盛り上がる。


お店にはそのとき古びたギターが置いてあって、やがて、ダニーさんとぼくの弾き語り合戦になりました。


ぼくもその頃は、自分に、


「いついかなるときに、どんなに弦の錆びたギターを渡されても、それなりに相手を納得させる音楽を発揮する」


ということを課して日々研ぎ澄まして過ごしていましたので、引き下がるわけにはいかない。


しかし、ダニーさんは、歌声も、声量も、歌唱力も、グルーヴも、ぼくの10倍増しでした。そして、曲がいい。


すげーすげーと、ぼくは素直に兄貴のように慕います。


ダニーさんはダニーさんで、ぼくの拙い音楽に、それなりに自分にないものを見出してくれたようで、讃えてくれました。


それから数年は、三軒茶屋の「羊々」に集まっては、歌いまくるうたげの日々。


オサムさんも様々なパーカッションで参加。圧倒的なものに出会うと、己の小ささを知り、そして、それなら自分には何ができるだろうか、と模索する。


その後、実はダニーさんは、有名なプロデューサー、S-kenさんに見出され、大々的に売り出されたことのある人だと知る。


永積タカシさん(現ハナレグミ)と同時期の大売り出し。


しかし、ダニーさんは、音楽業界のプレッシャーに耐えられず、何も言わずに姿をくらませてしまったのだという。ナイーブで優しい人でした。


しかし彼は、音楽に生きていた。本人がそんなつもりがあったかは別として、ひっそりと。しかし、有名プロデューサーをの心を捉えた圧倒的な存在感は健在でした。


ちなみに、羊々のマスターのオサムさんも、音楽大学の打楽器科で、本格的に打楽器を学んだ人でした。


羊々で飲み明かした日々。日々。


わたしはその後、音楽中心生活から離れ、今のような生活をするに至りました。


音楽の「強度」でつながっていた関係になんとなく後ろめたさを感じたのか、私は羊々に足を運ばなくなりました。


今の仕事は今の仕事で、当時の音楽と変わらないか、それ以上の情熱を持って取り組んでいるのですが、ダニーさんやオサムさんとの「共通言語」は無くなってしまった。


あの人は、今もきっと、どこかであの圧倒的な強度を持った音楽を繰り広げているのでしょう。


下ネタばっかり言って、酒ばっか飲んで、女好きで、世間的にはどーしよーもなさそうな人に見えかねない人でしたが、音楽の純度と強度はすごいのです。


ただただ、尊敬してました。


そんなことを、なぜかふと思い出して浸ってしまいました。あの人の生声は、YouTubeではちょっと再現しきれない。


この動画も「羊々」で歌われたもののようですが、そして改めて素晴らしいですが、やっぱり、目の前で、マイクなしで、全身を鳴らしているところを聴かないと。


そしてそれを全身で受け止めないと。





おはかまいりには、うってつけの日

石井くんが、ライブが終わってふるんさんが動画をアップしてくれたのを見てすぐに、興奮して、


「あの日の“君を知る”(曲名)がいいんだよ、すごく」


と連絡をくれました。


バンドとしては、まだまだ発展途上。


ただ、石井くんと僕の「動物的な反応の相互作用」という観点では、この時期がピークだったようにも思います。


この後、お互い迷うような別のフェーズの時期があり、そして新たな展開構築に入りそう(飲み屋でそう誓い合った)であったその直後、彼の病気が発覚しました。


今日は、お墓まいりにはうってつけの日。

雲の流れかたが、いかにもそれらしい。


でもまだまだ、彼が墓石の下にいる風景なんて、とても想像できない。






石井くん、もうすぐ一周忌です。

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夜中に書類の整理をしていたら、昔の書類と書類の隙間から、懐かしいポストカードが出てきました。


そうだ、当時はインターネットもまだ不便で、SNSどころかブログもまだ一般化する前で、おもな情報拡散手段は、ポストカードだったのでした。


ロッキング・オン・JAPANの当時の副編集長がコメントを寄せてくださってます。


“きっと、そろそろみんな気づくだろう”


確かに、当時はそのような機運があった。


全く無名からデビューして、急にトントン拍子にコトが進むのが、怖くもあった。


こないだまでただの買い物客で来ていた新宿のタワーレコードでインストアをやらせていただき、舞台に上がってみたら、フロアの後ろの方まで人がいた。そういえば握手会もやった!AKBみたいだ。


当時のほぼ全てのメジャーレーベルの方達がライブを見にきてくださり、そのまま会食に行った。飲み歩いた。


雑誌の取材もたくさん受けた。今はもうほとんど残っていない音楽雑誌たち。


契約は争奪戦のようになり、最後に3つのレーベルが残り、そして1つに絞られた。


自意識過剰で、尊大になったり自信喪失したりを繰り返していた僕たちは「俺たちならあたりまえだ!」と息巻いたり、「こんなにトントン拍子でいいのかな」と不安になったり、とにかくいつも一緒にいた。


スタジオにも週2で3時間ずつくらい入り、そのあと毎回2時間くらい話した。それ以外の日も会っていた。


ある日、唐突に、契約の話がなくなった。


どうも、大人の事情で、詳細はわからない。(想像はつくけれど)


僕らが何かしたわけでもなく、レーベルの担当者レベルでもどうにもならなかった様子。先方のディレクターが、僕らの所属事務所に土下座をしに来たらしい。


そのあと、色々あって、色々とあがいたけれど、様々な意味で、機運は去って行った。


2004年から2006年くらいは、熱に浮かされたようなヘンテコな日々でした。


石井くんとはやたら一緒にいました。


2人とも若かったから、あれを青春だと呼ぶのでしょうか。


石井くん、もうすぐ一周忌です。

最近は毎日彼を思い出します。

クリスマス音楽会

大盛況でした。

個人的には、私の下手くそなギターに夢中になってくれた3人の子(何故か全員男の子)が目をハートにして、イベント後にギターを触らせて欲しいと列を作ってくれたのが、今日のハイライトでした。



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