ハインツ・ハラルド・フレンツェン
ドイツ出身の元F1ドライバー
出身国であるドイツでF3、シューマッハと共に
将来、有望なドイツ人ドライバーとして
メルセデスのサポートを受ける
幾度となく、シューマッハよりも速い、期待されていたと
言われているが、当時の彼女で
後にミハエルと結婚するコリーナをねとられるのはじめ
いつでも、ミハエルに先を許されてしまう
ミハエルより先に行った事は引退ぐらい??
そんなフレンツェンですが、92年(終盤の数戦のみ)、93年と
全日本F3000に参戦しています。
しかし、速さはあるものの、チャンピオンには
程遠く、何故、翌年にF1へとステップアップできたのかは
当時の僕にはわからなかった。
94年、ザウバーからデビュー、開幕戦でいきなり予選5番手と
やはり速さは持っていた!!
この年、セナがサンマリノGPでの事故により帰らぬ人となり
後釜としてウィリアムズからオファーがくるが
人が良い事で有名はフレンツェンはザウバーに義理を通し
オファーを断る。翌95年、96年もザウバーから参戦し
97年、前年に鳴り物入りで加入した、ジャック・ビルヌーブの
チームメイトとして、ウィリアムズへと移籍する
この年はビルヌーブがチャンピオンをとった年で
彼に次ぐシーズン2位で終える。
この年のヨーロッパGPの予選ではミハエルとビルヌーブと
同タイムという近年の精巧なタイム計測のF1では
とても珍しい事もあった。
翌年は、当時、最強であったワークスのルノーエンジンを
失い、チームには競争力はなく、表彰台にたつのも
ままならないシーズンとなる。
翌99年は、前年に初優勝を飾り勢いを付けたジョーダンへと
移籍する。開幕戦で2位表彰台にたつとコンスタントに
5位以内でのフィニッシュを続けフランス・イタリアでは
優勝を果たす。結果シーズン成績は3位となり
もう一度トップチームへ、ミハエルと同じ舞台へ
立つための布石はできていた。
しかし、翌00年は前年とうって変って、マシンの
信頼性は低く、走りきればポイント獲得と速さはあったものの
17戦中9戦をリタイアとふがいない結果となってしまう。
翌年もジョーダンからの参戦であったが
2年連続でマシンの不作に業を煮やしたのか
オーナーのエディー・ジョーダンと揉め、シーズン中にも
関わらず解雇の憂き目あってしまう。
ここで、フレンツェンにとって、F1でのトップ返り咲きの
可能性はほぼ0になってしまい。
プロストGP、アロウズと渡り歩くがどちらも
チームの予算が低く、マシンに競争力は無かった・・・。
F1引退後にはアレジやハッキネン同様DTMに参戦し
06年まで参戦する。その後もスピードカーシリーズなどにも
参戦するが、10年にレーシングドライバーからの引退を
発表する。 彼女をとられたり、両親が離婚していたりと
何かと、人間関係に辛い思いをしてきたのか・・・。
フレンツェンは家族思いだといわれ、チームも
1つの家族だと思っていたのか、メカニック達からの
評判も良かったと言われている。その半面
ライバル心むき出しのチームメイトとはそりがあわず
それがシーズン成績にも表れているのも伺える。
そう考えると、F1シートを失った後に。
エンターテーメント色の強い
アメリカで、インディやナスカーなどでも
走っていれば、また違ったレース人生を
送っていたかもしれない。
ミカ・ハッキネン
フィンランド出身の元F1ドライバー
他の多くのF1ドライバー同様、幼少の頃にカートをはじめる
カートは子供の習い事ではなく、この後の人生でレーサーとして
食っていけるか?のふるいにかけられるカテゴリーである
よって、お金もかかる・・・。
両親共働きで、尚且つ2人ともかけもちで、ハッキネンの
カート生活を後押しした。
81年には国内カテゴリーのチャンピオンを獲得し
数年後にはヨーロッパの舞台へと活躍の場を移していく
84年には後にF3そしてF1でライバルとなる
ミハエル・シューマッハとカート世界選手権で初対決する事となる
ここでまずミハエルに1回目の敗北を喫する
87年にはカートを卒業しフィンランド、スウェーデンの
フォーミュラーフォードへと参戦しそれぞれでチャンピオンを
獲得する。翌年はイギリスへと活動の場を移し
当時の、ミドルフォーミュラーカテゴリーでチャンピオンを
獲得する。89年はイギリスF3へとステップアップを果たすが
チームに競争力は無く、チャンピオン争いに加わること無く
シーズンを終える。しかし、シーズン終盤には2人のドライバーの
ステップアップの関係により、棚ぼたで有力チームへと移籍を果たす
エンジンもシャシーも違う、初めて乗るマシンでハッキネンは
優勝を果たし。この結果により翌年はこのチームから参戦する。
90年は同じフィンランド人のミカ・サロとシーズン序盤は白熱した
争い繰り広げ、中盤以降は圧倒的に勝利を重ね
イギリスF3チャンピオンとなる。そしてF3の世界一決定戦である
マカオGPにて2度目であるドイツF3チャンピオンとなった
ミハエルとの大一番(ハッキネンはドイツF3にもスポット参戦
しており厳密にいうと2度目ではないが・・・)
このマカオGPは2レースの合計結果で総合優勝が決まるが
第1レースはハッキネンが征し2位にミハエルが入る
そして、第2レースはミハエルが先行するがハッキネンが追いつき
最終ラップでハッキネンが抜きにかかる!!しかしミハエルの
ブロックにハッキネンは車を壊しリタイヤにおわる。
ミハエルもマシンにダメージを負っていたがそのままの順位で
走りきり。結果的にミハエルの総合優勝となる。
ここでミハエルに2度目の敗北。
リタイヤ後、コースサイドでくやし涙を流すハッキネン・・・。
後に、F1でレース後の記者会見にて
この、勝利に対する執念の塊のような男、
勝利の為には手段を選らばない男
ミハエルの泣く姿を
横で見る事になるとは・・・。想像できなかっただろうに。
翌91年、F1へとステップアップを果たすが、
加入したロータスは名門ではあるが、資金に苦しんでおり、
中団グループを走る事が精一杯であった。
翌年も同様の理由で中団を走る事が多いが、時折見せる、
爆発的な速さにF1関係者からの評価は揺るぎないものとなる
この実力にウィリアムズが目をつけ93年の契約をするが、
オーナーのフランク・ウィリアムズがエントリー忘れという
ポカを起こし、紆余曲折の末、マクラーレンと契約する
しかし、アイルトン・セナと
アメリカ人のマイケル・アンドレッティが
レギュラードライバーとなり、ハッキネンはテストドライバー
としてシーズン開幕を迎える。なかなか結果がだせず
ホームシックになっていたアンドレッティはシーズン中盤に
アメリカへと帰国する。テストドライバーから昇格した。
ハッキネンは実践復帰2戦目の日本GPで3位表彰台を獲得
セナの相方として申し分ないことが証明される。
94年にはセナがウィリアムズへと移籍、ハッキネンは
エースドライバーとしてチームを引っ張っていくが
搭載していたプジョーエンジンはルノーやフォードに比べて
信頼性に乏しく、なかなか思うような結果に結びつかない
結果的には、シーズンを4位で終え、来シーズンへと
期待を膨らませる事となる。
95年は後に長い付き合いとなる、メルセデス・ベンツ
との初年度であり、レース人生で最大のクラッシュに会う年である
最終戦のオーストラリアGPにてタイヤがパンクし
クラッシュ、舌を噛み切るほどの衝撃を受け重症を負う
この時、献身的に看病していたのが後の妻となるイリヤだと
言われている。(2児をもうけるが後に離婚したとの報道)
96年にはメルセデスエンジンとの2年目でもあり
マシンも安定した結果、シーズン5位で終える
そして97年、マールボロがフェラーリへと移り
ウエストがメインスポンサーになり
現在マクラーレンのカラーリングの
原型である、黒と銀のマシンとなる
(通称シルバーアロー)
この年は、ウィリアムズとジャックヴィルヌーブが
圧倒的に早かったが、最終戦にて初優勝を果たす!!
98年、前年途中より加入した鬼才
エイドリアン・ニューウェイが移籍後一から手がけたマシンで
念願のチャンピオンを獲得する。
ここで初めてミハエルを完全に打ち負かし彼より上にたった
翌99年はイギリスGPにてミハエルがクラッシュし
シーズン終盤のマレーシアまで欠場する事となり
2年連続をチャンピオンがより手に入りやすくなる。
しかし、ピット作業ミスやマシントラブルと
ドライビングとは別の要素がハッキネンの足を
ひっぱり、最終戦の鈴鹿を前に、フェラーリの
エディー・アーバインに4ポイント先行を許してしまう。
しかし、最終戦の鈴鹿にて優勝を果たし逆転で
2年連続のチャンピオンとなる。
00年は序盤2戦でリタイヤを喫するも
中盤までには表彰台、優勝と復調するものの
ライバルであるミハエルは開幕より順調にポイントを
重ねており、シーズン終盤までタイトル争いは続くが
3年連続チャンピオン獲得とはいかなかった・・・。
01年になると、前年より時折見せていた
疲れやモチベーションの低下が顕著に表れ
ついに翌シーズンは休養と発表される。
02年は家族と自身の休暇にあて
03年もヨーロッパラリー選手権に1戦出場するのみだった
04年はF1復帰がささやかれ、当時、敵なしの
ミハエルを倒せる唯一のドライバーでは??との
報道から、復帰を望む声が多く上がった。
しかし、本人はF1の殺人的なスケジュールは
望んでおらずメルセデスベンツとの付き合いから
05年よりDTMへと参戦を始める。
この年には1勝をあげ、06は未勝利に終わるが
07年にも2勝、DTMでは通産3勝をあげる
07年の11月にイベントにて
レーシングドライバー引退を発表し
このイベントにてチャンピオン獲得時の
マクラーレンをドライブする。
これはハッキネンには知らされておらず
メルセデスの粋な計らいだった。
ハッキネンはF1ドライバーの中でも
珍しい、おとなしく素朴な人柄で
有名であるが、時折、ジョークを
とばし、廻りの人間を笑わせることもあった
F1だけではなくスポーツの世界では
エゴ丸出しであったり、闘争心がないと
強さが目立たなかったりと言われがちだが
ある意味、内に秘めた闘争心が真の強さだったり
するのかもしれない。
フィンランド出身の元F1ドライバー
他の多くのF1ドライバー同様、幼少の頃にカートをはじめる
カートは子供の習い事ではなく、この後の人生でレーサーとして
食っていけるか?のふるいにかけられるカテゴリーである
よって、お金もかかる・・・。
両親共働きで、尚且つ2人ともかけもちで、ハッキネンの
カート生活を後押しした。
81年には国内カテゴリーのチャンピオンを獲得し
数年後にはヨーロッパの舞台へと活躍の場を移していく
84年には後にF3そしてF1でライバルとなる
ミハエル・シューマッハとカート世界選手権で初対決する事となる
ここでまずミハエルに1回目の敗北を喫する
87年にはカートを卒業しフィンランド、スウェーデンの
フォーミュラーフォードへと参戦しそれぞれでチャンピオンを
獲得する。翌年はイギリスへと活動の場を移し
当時の、ミドルフォーミュラーカテゴリーでチャンピオンを
獲得する。89年はイギリスF3へとステップアップを果たすが
チームに競争力は無く、チャンピオン争いに加わること無く
シーズンを終える。しかし、シーズン終盤には2人のドライバーの
ステップアップの関係により、棚ぼたで有力チームへと移籍を果たす
エンジンもシャシーも違う、初めて乗るマシンでハッキネンは
優勝を果たし。この結果により翌年はこのチームから参戦する。
90年は同じフィンランド人のミカ・サロとシーズン序盤は白熱した
争い繰り広げ、中盤以降は圧倒的に勝利を重ね
イギリスF3チャンピオンとなる。そしてF3の世界一決定戦である
マカオGPにて2度目であるドイツF3チャンピオンとなった
ミハエルとの大一番(ハッキネンはドイツF3にもスポット参戦
しており厳密にいうと2度目ではないが・・・)
このマカオGPは2レースの合計結果で総合優勝が決まるが
第1レースはハッキネンが征し2位にミハエルが入る
そして、第2レースはミハエルが先行するがハッキネンが追いつき
最終ラップでハッキネンが抜きにかかる!!しかしミハエルの
ブロックにハッキネンは車を壊しリタイヤにおわる。
ミハエルもマシンにダメージを負っていたがそのままの順位で
走りきり。結果的にミハエルの総合優勝となる。
ここでミハエルに2度目の敗北。
リタイヤ後、コースサイドでくやし涙を流すハッキネン・・・。
後に、F1でレース後の記者会見にて
この、勝利に対する執念の塊のような男、
勝利の為には手段を選らばない男
ミハエルの泣く姿を
横で見る事になるとは・・・。想像できなかっただろうに。
翌91年、F1へとステップアップを果たすが、
加入したロータスは名門ではあるが、資金に苦しんでおり、
中団グループを走る事が精一杯であった。
翌年も同様の理由で中団を走る事が多いが、時折見せる、
爆発的な速さにF1関係者からの評価は揺るぎないものとなる
この実力にウィリアムズが目をつけ93年の契約をするが、
オーナーのフランク・ウィリアムズがエントリー忘れという
ポカを起こし、紆余曲折の末、マクラーレンと契約する
しかし、アイルトン・セナと
アメリカ人のマイケル・アンドレッティが
レギュラードライバーとなり、ハッキネンはテストドライバー
としてシーズン開幕を迎える。なかなか結果がだせず
ホームシックになっていたアンドレッティはシーズン中盤に
アメリカへと帰国する。テストドライバーから昇格した。
ハッキネンは実践復帰2戦目の日本GPで3位表彰台を獲得
セナの相方として申し分ないことが証明される。
94年にはセナがウィリアムズへと移籍、ハッキネンは
エースドライバーとしてチームを引っ張っていくが
搭載していたプジョーエンジンはルノーやフォードに比べて
信頼性に乏しく、なかなか思うような結果に結びつかない
結果的には、シーズンを4位で終え、来シーズンへと
期待を膨らませる事となる。
95年は後に長い付き合いとなる、メルセデス・ベンツ
との初年度であり、レース人生で最大のクラッシュに会う年である
最終戦のオーストラリアGPにてタイヤがパンクし
クラッシュ、舌を噛み切るほどの衝撃を受け重症を負う
この時、献身的に看病していたのが後の妻となるイリヤだと
言われている。(2児をもうけるが後に離婚したとの報道)
96年にはメルセデスエンジンとの2年目でもあり
マシンも安定した結果、シーズン5位で終える
そして97年、マールボロがフェラーリへと移り
ウエストがメインスポンサーになり
現在マクラーレンのカラーリングの
原型である、黒と銀のマシンとなる
(通称シルバーアロー)
この年は、ウィリアムズとジャックヴィルヌーブが
圧倒的に早かったが、最終戦にて初優勝を果たす!!
98年、前年途中より加入した鬼才
エイドリアン・ニューウェイが移籍後一から手がけたマシンで
念願のチャンピオンを獲得する。
ここで初めてミハエルを完全に打ち負かし彼より上にたった
翌99年はイギリスGPにてミハエルがクラッシュし
シーズン終盤のマレーシアまで欠場する事となり
2年連続をチャンピオンがより手に入りやすくなる。
しかし、ピット作業ミスやマシントラブルと
ドライビングとは別の要素がハッキネンの足を
ひっぱり、最終戦の鈴鹿を前に、フェラーリの
エディー・アーバインに4ポイント先行を許してしまう。
しかし、最終戦の鈴鹿にて優勝を果たし逆転で
2年連続のチャンピオンとなる。
00年は序盤2戦でリタイヤを喫するも
中盤までには表彰台、優勝と復調するものの
ライバルであるミハエルは開幕より順調にポイントを
重ねており、シーズン終盤までタイトル争いは続くが
3年連続チャンピオン獲得とはいかなかった・・・。
01年になると、前年より時折見せていた
疲れやモチベーションの低下が顕著に表れ
ついに翌シーズンは休養と発表される。
02年は家族と自身の休暇にあて
03年もヨーロッパラリー選手権に1戦出場するのみだった
04年はF1復帰がささやかれ、当時、敵なしの
ミハエルを倒せる唯一のドライバーでは??との
報道から、復帰を望む声が多く上がった。
しかし、本人はF1の殺人的なスケジュールは
望んでおらずメルセデスベンツとの付き合いから
05年よりDTMへと参戦を始める。
この年には1勝をあげ、06は未勝利に終わるが
07年にも2勝、DTMでは通産3勝をあげる
07年の11月にイベントにて
レーシングドライバー引退を発表し
このイベントにてチャンピオン獲得時の
マクラーレンをドライブする。
これはハッキネンには知らされておらず
メルセデスの粋な計らいだった。
ハッキネンはF1ドライバーの中でも
珍しい、おとなしく素朴な人柄で
有名であるが、時折、ジョークを
とばし、廻りの人間を笑わせることもあった
F1だけではなくスポーツの世界では
エゴ丸出しであったり、闘争心がないと
強さが目立たなかったりと言われがちだが
ある意味、内に秘めた闘争心が真の強さだったり
するのかもしれない。
ジェンソン・バトン
イギリス出身のイケメンドライバー
父がラリードライバーだった事もあり、幼い頃からカートを始め
18歳でカートからフォーミュラーフォードへステップアップし
たった1年のフォーミュラーカーの経験で
イギリスF3へと駆け上がります。
翌年、F1デビューのチャンスが舞い込みます
ウィリアムズがラルフ・シューマッハのチームメイトを
オーディションで決めるとの事でバトンとブラジル人の
ブルーノ・ジュンケイラに白羽の矢がたちます。
連日にわたり、ブルーノとバトンは走り、
見事にバトンが正ドライバーに決まります。
敗れたジュンケイラはアメリカへと渡りCART、チャンプカー
で一定の成功をあげます。
00年デビュー年としては、まずまずで2戦目で初ポイントを
獲得するなど、才能に疑いはなかったが、別のレースで
フォーメーションラップ時にアクセルオンと前の車との
車間距離を誤ったのかスタート前に前車を避けようとウォールに
車をぶつけ、一周もせずにリタイヤする事もあった。
ウィリアムズには翌年、コロンビア人の
ファン・パブロ・モントーヤが加入する事になりバトンはベネトンへと
レンタルされる、01年はマシンに競争力はなく、年間ランキングでも
下位に沈む。02年からはルノーがベントンを買収しワークスでの
参戦となった。マレーシアではファイナルラップで
3位走行中にトラブルで後退など、あと一歩のレースが続き
、初表彰台が幾度となく幻になった
シーズンだった。03年、02年のテストドライバーの
フェルナンド・アロンソのステップアップにより
またしても、バトンは他のドライバーの加入により
移籍を余儀なくされる。
結局、ホンダのワークスエンジンの供給を受けている
BARからの参戦となり最初の年はさして良い成績をあげては
いないが、翌04年はエースとしての自覚か?10度の表彰台を獲得し
目覚ましい活躍でドライバーズランキングもフェラーリの2人に続く
3位で終える。9月には翌年はウィリアムズから出ると発言し
BARからは契約が残っている為、無効との異議がだされ、
泥試合がはじまり、結局、05年度はBARで走り、06年度から
ウィリアムズで参戦という事に落ち着く。しかし・・・。
今度はウィリアムズからの参戦に対してワークスBMWエンジンが
供給を止めるとの事から、バトンが渋り、再度・・・。
結局06年以降もBARからの参戦となる。
05年は前年の活躍がウソのような走りでマシンも戦闘力不足で
シーズン通して低調な成績だった。
06年度はホンダがBARの買収し完全なホンダワークスとして
参戦をはじめる。この年も序盤は低調な成績しか残せず
今年もか・・・。とF1の日本人ファンホンダのファンが思い始めた
シーズン中盤のハンガリーGPで、参戦113戦目にして
ついに初優勝をあげる!!その後も順調にポイントを重ね
シーズンを6位の成績で終える。
08年も引き続きホンダからの参戦だったが、2年続けて
好成績の残す可能性が低いのがバトン・・・。
この年はチームメイトのバリチェロに負ける事が多く
シーズン成績も17位となる。そして
12月にはホンダがF1撤退を発表し、翌年のシートを
探す事となるが、トップチームは既にシートが埋まっており
残された選択は1年の浪人かホンダチームを買収する人を
待ち、そこで走るかの2つだけだった・・・。
チームの売却は幾度となく話は持ち上がるももの、正式な
アナウンスがなく、結局、チーム代表だった、ロス・ブラウンが
買い取り、ブラウンGPとして参戦する事となった
ドライバーとして、バトンは薄給を受け入れシーズン開幕を
迎える。蓋を開けてみれば、ブラウンGPは快進撃を続け
低予算で開発が進まない事もあり、シーズン中盤からは
他チームの熟成が進み、チャンピオンに黄色信号がでるが
見事09年度のシリーズチャンピオンとなる。
10年もブラウンGPからの参戦を希望していたが
交渉は難航し、最終的にはマクラーレンからの参戦となる
マクラーレンでも安定した走りを続けており、
バトンがもう一度どチャンピオンになるにはハミルトンを
レッドブルへと追いだし、ハミルトンとベッテルを
チーム内で戦わせ、その隙にチャンピオンになるというのが
僕の予想である。
バトンはデビュー2年目くらいから女遊びが盛んだったといわれ
記事にも幾度となく書かれている。しかし、日本人の若者を
見ていれば、そんな事当たり前なわけで、遊びたくて当然
むしろ顔が良い、お金持ってる、そりゃ女もよってくるはず
と考えるのが普通だと言える。
現在ではタレントでモデルの道端ジェシカと交際を続け
TVでも幾度となくジェシカが映っている。
優勝後、マシンから降りジェシカのもとへ行きヤッターと
日本語で言うなど彼女によりかなり日本びいきな
一面も見られる。今年の震災後にも、ヘルメットに
がんばれ日本とオンボードカメラからも確認でき
親日家であることは間違いない。
20歳の可愛い顔したひよっこがもう10年近く
F1に居続けている。その間に何人もの持参金
ドライバーを見てきた、やはり、お金だけではなく
純粋に速いドライバーたちの戦いを見たい
速ければやはり残り続けれる。
バトンがそれを証明している。
イギリス出身のイケメンドライバー
父がラリードライバーだった事もあり、幼い頃からカートを始め
18歳でカートからフォーミュラーフォードへステップアップし
たった1年のフォーミュラーカーの経験で
イギリスF3へと駆け上がります。
翌年、F1デビューのチャンスが舞い込みます
ウィリアムズがラルフ・シューマッハのチームメイトを
オーディションで決めるとの事でバトンとブラジル人の
ブルーノ・ジュンケイラに白羽の矢がたちます。
連日にわたり、ブルーノとバトンは走り、
見事にバトンが正ドライバーに決まります。
敗れたジュンケイラはアメリカへと渡りCART、チャンプカー
で一定の成功をあげます。
00年デビュー年としては、まずまずで2戦目で初ポイントを
獲得するなど、才能に疑いはなかったが、別のレースで
フォーメーションラップ時にアクセルオンと前の車との
車間距離を誤ったのかスタート前に前車を避けようとウォールに
車をぶつけ、一周もせずにリタイヤする事もあった。
ウィリアムズには翌年、コロンビア人の
ファン・パブロ・モントーヤが加入する事になりバトンはベネトンへと
レンタルされる、01年はマシンに競争力はなく、年間ランキングでも
下位に沈む。02年からはルノーがベントンを買収しワークスでの
参戦となった。マレーシアではファイナルラップで
3位走行中にトラブルで後退など、あと一歩のレースが続き
、初表彰台が幾度となく幻になった
シーズンだった。03年、02年のテストドライバーの
フェルナンド・アロンソのステップアップにより
またしても、バトンは他のドライバーの加入により
移籍を余儀なくされる。
結局、ホンダのワークスエンジンの供給を受けている
BARからの参戦となり最初の年はさして良い成績をあげては
いないが、翌04年はエースとしての自覚か?10度の表彰台を獲得し
目覚ましい活躍でドライバーズランキングもフェラーリの2人に続く
3位で終える。9月には翌年はウィリアムズから出ると発言し
BARからは契約が残っている為、無効との異議がだされ、
泥試合がはじまり、結局、05年度はBARで走り、06年度から
ウィリアムズで参戦という事に落ち着く。しかし・・・。
今度はウィリアムズからの参戦に対してワークスBMWエンジンが
供給を止めるとの事から、バトンが渋り、再度・・・。
結局06年以降もBARからの参戦となる。
05年は前年の活躍がウソのような走りでマシンも戦闘力不足で
シーズン通して低調な成績だった。
06年度はホンダがBARの買収し完全なホンダワークスとして
参戦をはじめる。この年も序盤は低調な成績しか残せず
今年もか・・・。とF1の日本人ファンホンダのファンが思い始めた
シーズン中盤のハンガリーGPで、参戦113戦目にして
ついに初優勝をあげる!!その後も順調にポイントを重ね
シーズンを6位の成績で終える。
08年も引き続きホンダからの参戦だったが、2年続けて
好成績の残す可能性が低いのがバトン・・・。
この年はチームメイトのバリチェロに負ける事が多く
シーズン成績も17位となる。そして
12月にはホンダがF1撤退を発表し、翌年のシートを
探す事となるが、トップチームは既にシートが埋まっており
残された選択は1年の浪人かホンダチームを買収する人を
待ち、そこで走るかの2つだけだった・・・。
チームの売却は幾度となく話は持ち上がるももの、正式な
アナウンスがなく、結局、チーム代表だった、ロス・ブラウンが
買い取り、ブラウンGPとして参戦する事となった
ドライバーとして、バトンは薄給を受け入れシーズン開幕を
迎える。蓋を開けてみれば、ブラウンGPは快進撃を続け
低予算で開発が進まない事もあり、シーズン中盤からは
他チームの熟成が進み、チャンピオンに黄色信号がでるが
見事09年度のシリーズチャンピオンとなる。
10年もブラウンGPからの参戦を希望していたが
交渉は難航し、最終的にはマクラーレンからの参戦となる
マクラーレンでも安定した走りを続けており、
バトンがもう一度どチャンピオンになるにはハミルトンを
レッドブルへと追いだし、ハミルトンとベッテルを
チーム内で戦わせ、その隙にチャンピオンになるというのが
僕の予想である。
バトンはデビュー2年目くらいから女遊びが盛んだったといわれ
記事にも幾度となく書かれている。しかし、日本人の若者を
見ていれば、そんな事当たり前なわけで、遊びたくて当然
むしろ顔が良い、お金持ってる、そりゃ女もよってくるはず
と考えるのが普通だと言える。
現在ではタレントでモデルの道端ジェシカと交際を続け
TVでも幾度となくジェシカが映っている。
優勝後、マシンから降りジェシカのもとへ行きヤッターと
日本語で言うなど彼女によりかなり日本びいきな
一面も見られる。今年の震災後にも、ヘルメットに
がんばれ日本とオンボードカメラからも確認でき
親日家であることは間違いない。
20歳の可愛い顔したひよっこがもう10年近く
F1に居続けている。その間に何人もの持参金
ドライバーを見てきた、やはり、お金だけではなく
純粋に速いドライバーたちの戦いを見たい
速ければやはり残り続けれる。
バトンがそれを証明している。
マールボロ。
たばこを吸う方なら、知らない人はいませんよね?
近年では喫煙者の方は土地によってはかなり、肩身の狭い
思いをされているはず??
私もその一人なのですが(ケント3m吸ってます)・・・。
そんなマールボロですが、スポンサー活動として
モータースポーツとは長い付き合いです。
まず、誰もが想像するのがアイルトン・セナやアラン・プロストが
ドライブしていたマクラーレンではないでしょうか?
もう、完全にパッケージがマルボロの箱じゃん!!
ちなみにアメリカではペンスキーに長年スポンサーとして付き
マルボロのカラ―リングで走っていました。
ちなみに、ペンスキーレーシングのオーナー、
ロジャー・ペンスキーはマルボロを製造、販売している
フィリップモリス社の役員でもあります。
90年代中盤からはマクラーレンからフェラーリへと
メインスポンサード先を変えます。そして、ここから
フェラーリとマルボロの蜜月きな関係が始まります。
08年より全面的にF1でタバコ広告が禁止となりますが
フィリップモリスはフェラーリとの関係を辞めません。
赤の車体、白の枠、そして黒いバーコードでサブリミナル効果
があるともいわれますが、バーコードは消しますが
それでもスポンサードはやめません!!
11年7月までは(7月途中からはチーム名からも削除の予定)、
チーム名のみで車体などには一切マルボロを
連想させるものはありません。それでも年間約120億円~
ものスポンサーフィーを支払うとされています
ちなみに、F1以外では、バイクのロードレース(現在のMotoGP)
WRC(三菱やプジョー)、上記したアメリカでのトップフォーミュラと
世界を股にかけスポンサー戦略をしていました。でも何故?
スポーツには喫煙はNGなのにスポンサーについたのでしょうか?
それは、一説によると昔、モータースポーツは男のイメージというのが
あるそうです。男のイメージ→酒・タバコ・女→モータースポーツ
なんとなく納得いきますね・・・。
女を連れて酒を飲みながらタバコをふかす・・・。
そんな連想もできなくはありません。
世の中が景気や災害、政治などたくさんの事に左右されながら
急な変化があるなかで、長年にわたって1つのスポーツへ
変わらずスポンサーを続けるというのは
賞賛にあたいすると思います。
僕には、モータスポーツでのタバコ広告がどれほど
喫煙を促すかはわかりませんが、現在の
喫煙者の肩身の狭い思い、医療関係などからの
喫煙での体への影響の情報量を考えれば
昔に比べたら、一人一人が吸うか吸わないかは
真剣に選べるわけで
今こそ、タバコ広告を再開しても良いのでは?と思います。
たばこを吸う方なら、知らない人はいませんよね?
近年では喫煙者の方は土地によってはかなり、肩身の狭い
思いをされているはず??
私もその一人なのですが(ケント3m吸ってます)・・・。
そんなマールボロですが、スポンサー活動として
モータースポーツとは長い付き合いです。
まず、誰もが想像するのがアイルトン・セナやアラン・プロストが
ドライブしていたマクラーレンではないでしょうか?
もう、完全にパッケージがマルボロの箱じゃん!!
ちなみにアメリカではペンスキーに長年スポンサーとして付き
マルボロのカラ―リングで走っていました。
ちなみに、ペンスキーレーシングのオーナー、
ロジャー・ペンスキーはマルボロを製造、販売している
フィリップモリス社の役員でもあります。
90年代中盤からはマクラーレンからフェラーリへと
メインスポンサード先を変えます。そして、ここから
フェラーリとマルボロの蜜月きな関係が始まります。
08年より全面的にF1でタバコ広告が禁止となりますが
フィリップモリスはフェラーリとの関係を辞めません。
赤の車体、白の枠、そして黒いバーコードでサブリミナル効果
があるともいわれますが、バーコードは消しますが
それでもスポンサードはやめません!!
11年7月までは(7月途中からはチーム名からも削除の予定)、
チーム名のみで車体などには一切マルボロを
連想させるものはありません。それでも年間約120億円~
ものスポンサーフィーを支払うとされています
ちなみに、F1以外では、バイクのロードレース(現在のMotoGP)
WRC(三菱やプジョー)、上記したアメリカでのトップフォーミュラと
世界を股にかけスポンサー戦略をしていました。でも何故?
スポーツには喫煙はNGなのにスポンサーについたのでしょうか?
それは、一説によると昔、モータースポーツは男のイメージというのが
あるそうです。男のイメージ→酒・タバコ・女→モータースポーツ
なんとなく納得いきますね・・・。
女を連れて酒を飲みながらタバコをふかす・・・。
そんな連想もできなくはありません。
世の中が景気や災害、政治などたくさんの事に左右されながら
急な変化があるなかで、長年にわたって1つのスポーツへ
変わらずスポンサーを続けるというのは
賞賛にあたいすると思います。
僕には、モータスポーツでのタバコ広告がどれほど
喫煙を促すかはわかりませんが、現在の
喫煙者の肩身の狭い思い、医療関係などからの
喫煙での体への影響の情報量を考えれば
昔に比べたら、一人一人が吸うか吸わないかは
真剣に選べるわけで
今こそ、タバコ広告を再開しても良いのでは?と思います。
カナダ出身の暴れん坊・・・。
カートを始めるのは16歳とレーシングドライバーとしては
遅い方、 しかしもとから才能があったのか?
16歳でカナダでのフォーミュラ・フォード (フォーミュラカーの入門カテゴリー)
チャンピオンに輝く。その後もステップアップを重ね
レース開始から4年後の20歳でインディ・ライツ
(北米でのトップフォーミュラの1つ下のカテゴリー)
で年間9勝をあげチャンピオンに輝やきます。
91年より北米においての当時のフォーミュラトップカテゴリーである
CART(後にチャンプカー・ワールド・シリーズ に改称)に参戦を開始
初年度はデイル・コインから参戦し、シーズン中盤からは
トップチームのひとつであるペンスキー・レーシング へと移籍
ペンスキー在籍の94年までにシーズン2~3回の優勝とポールポジションを獲得
93年には地元トロントで初優勝をあげます。
95年にはニューマン・ハース・レーシング へと移籍しますが
1年でペンスキーへと戻ります。
96年、97年とペンスキーで過ごし98年からは
チームKOOLグリーンへ移籍します。
このチームのKOOLとは、メンソールたばこのKOOLの事で
車体の色もパッケージと同じ白と緑の車です。
98年から02年までチームメイトは ダリオ・フランキッティ で
ダリオは後にインディカーシリーズでチャンピオンに輝きます。
このダリオとはチームメイトではありますが、レース中絡むことも多く
両者リタイヤになる事も数度見られました。
03年には同じカナダ人がオーナーであるフォーサイスへ移籍します。
そしてこの年、念願のシリーズチャンピオンに輝きますが・・・。
この年よりいくつかのトップチームとドライバーがライバルシリーズである
IRLに移籍してしまい。必ずしも真のチャンピオンとは言い難いと
僕は思います・・・。
07年まではフォーサイスに在籍しますが、自身とチームが参戦するシリーズが
08年よりIRLと合併が決まり、トレイシーは引き続きレース参戦を望みますが
チームはIRLへの参戦を見送ります。歳をとった事もあるのか?
ここからトレイシーは年間通しての参戦が難しくなり。ここ数年はインディ500を
中心に年間数戦のみの参加が多くなっています。
彼はとても大柄で最近では体を絞っているのかもしれませんが
KOOLグリーン在籍時はモータホームに炭酸飲料を
ケースで置いており、スポーツマンとしては
体力維持に無頓着な様子が見受けられました。
ブログの書き始めに「暴れん坊・・・。」と書きましたが
トレイシーは幾度となく他のドライバーとトラブルを
起こしています。チームメイトだろうが、だれだろうが。
お構いなしです(笑)
最も代表的なのは06年のサンノゼで同じカナダ人ドライバーの
タグリアーニと接触、その後ピットでつかみ合いのケンカを始めます。
もしF1にでていたら、フジテ○ビにあのくだらないキャッチコピーは
完全に壊し屋か暴れん坊か、なんかそんな類いでしょう。
そんなトレイシーですが、近年では前記のタグリアーニとも会話している姿も
見られますし、昨年は佐藤琢磨選手と数戦ではありますがチームメイトで
琢磨選手が初めて走るサーキットを詳しく教えている姿が見られました。
また、若い頃は綺麗でふさふさの金髪だったのですが、かなり
薄くなっており・・・。若干ではありますが丸くなったのかな~と
思います。日本人のファンの方からは番長とか兄貴などと
親しみをこめて呼ばれていますしどんなスポーツでも
悪役が盛り上がりに一役かいますから、それはそれでアリなのかなと
僕は思います。今年もスポットではありますが出ていますし
42歳なのでそろそろ引退もあるので、今一度トレイシーに
注目してレースを見てみようかなと思います。
カートを始めるのは16歳とレーシングドライバーとしては
遅い方、 しかしもとから才能があったのか?
16歳でカナダでのフォーミュラ・フォード (フォーミュラカーの入門カテゴリー)
チャンピオンに輝く。その後もステップアップを重ね
レース開始から4年後の20歳でインディ・ライツ
(北米でのトップフォーミュラの1つ下のカテゴリー)
で年間9勝をあげチャンピオンに輝やきます。
91年より北米においての当時のフォーミュラトップカテゴリーである
CART(後にチャンプカー・ワールド・シリーズ に改称)に参戦を開始
初年度はデイル・コインから参戦し、シーズン中盤からは
トップチームのひとつであるペンスキー・レーシング へと移籍
ペンスキー在籍の94年までにシーズン2~3回の優勝とポールポジションを獲得
93年には地元トロントで初優勝をあげます。
95年にはニューマン・ハース・レーシング へと移籍しますが
1年でペンスキーへと戻ります。
96年、97年とペンスキーで過ごし98年からは
チームKOOLグリーンへ移籍します。
このチームのKOOLとは、メンソールたばこのKOOLの事で
車体の色もパッケージと同じ白と緑の車です。
98年から02年までチームメイトは ダリオ・フランキッティ で
ダリオは後にインディカーシリーズでチャンピオンに輝きます。
このダリオとはチームメイトではありますが、レース中絡むことも多く
両者リタイヤになる事も数度見られました。
03年には同じカナダ人がオーナーであるフォーサイスへ移籍します。
そしてこの年、念願のシリーズチャンピオンに輝きますが・・・。
この年よりいくつかのトップチームとドライバーがライバルシリーズである
IRLに移籍してしまい。必ずしも真のチャンピオンとは言い難いと
僕は思います・・・。
07年まではフォーサイスに在籍しますが、自身とチームが参戦するシリーズが
08年よりIRLと合併が決まり、トレイシーは引き続きレース参戦を望みますが
チームはIRLへの参戦を見送ります。歳をとった事もあるのか?
ここからトレイシーは年間通しての参戦が難しくなり。ここ数年はインディ500を
中心に年間数戦のみの参加が多くなっています。
彼はとても大柄で最近では体を絞っているのかもしれませんが
KOOLグリーン在籍時はモータホームに炭酸飲料を
ケースで置いており、スポーツマンとしては
体力維持に無頓着な様子が見受けられました。
ブログの書き始めに「暴れん坊・・・。」と書きましたが
トレイシーは幾度となく他のドライバーとトラブルを
起こしています。チームメイトだろうが、だれだろうが。
お構いなしです(笑)
最も代表的なのは06年のサンノゼで同じカナダ人ドライバーの
タグリアーニと接触、その後ピットでつかみ合いのケンカを始めます。
もしF1にでていたら、フジテ○ビにあのくだらないキャッチコピーは
完全に壊し屋か暴れん坊か、なんかそんな類いでしょう。
そんなトレイシーですが、近年では前記のタグリアーニとも会話している姿も
見られますし、昨年は佐藤琢磨選手と数戦ではありますがチームメイトで
琢磨選手が初めて走るサーキットを詳しく教えている姿が見られました。
また、若い頃は綺麗でふさふさの金髪だったのですが、かなり
薄くなっており・・・。若干ではありますが丸くなったのかな~と
思います。日本人のファンの方からは番長とか兄貴などと
親しみをこめて呼ばれていますしどんなスポーツでも
悪役が盛り上がりに一役かいますから、それはそれでアリなのかなと
僕は思います。今年もスポットではありますが出ていますし
42歳なのでそろそろ引退もあるので、今一度トレイシーに
注目してレースを見てみようかなと思います。