絶対自力のウルトラ五つの誓い | これでいいのだ

絶対自力のウルトラ五つの誓い

 

 

 

 

沖縄の反骨精神のひと  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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脚本家の上原正三さんが2020年1月2日、地上を離れられました。82歳でした。それを知ったのが1月9日のわたしの誕生日。それもなにかの巡り合わせなのでしょうか。本当におつかれさまでした。特撮番組、そしてアニメにと子ども番組だけに生涯を捧げた方でありました。すべての人の子供心に寄り添ってくれた生涯でした。

1966年『ウルトラQ』「宇宙指令M774」がデビュー作。年末の4K放送でたまたまその回を観ていました。それもなにか不思議です。とっても長い旅でありました。
昨年12月の円谷コンベンションで生ライブの合間に挿入された石坂浩二氏によるナレーション。その原稿を書かれてもいました。なぜかウルトラシリーズは初期から中期まで沖縄の人がメインになって物語がつづられます。その出自ゆえなのでしょうか、差別が生まれてくる社会の在り方に差別される側から向き合う姿勢を崩さぬ方でした。

子どもや弱者に寄りそうこと。許せないものと闘うこと。そして約束はどんな小さなこともいのちをかけて果たす。守る。そんなメッセージを発信し続けてくれた孤高の精神の方でありました。

手がけた作品は、ウルトラシリーズ、ロボコンやゴレンジャーやキャプテン・ハーロック等々。また上層部に猛反対されていた時期の仮面ライダーの企画にも説得する立場で関わっております。

逸話をひとつ挙げるなら『帰ってきたウルトラマン』ではメインライターという立場なのに差別問題を題材にした作品を書いて問題となり、その結果、それを放送する事と引き換えに番組から追放処分されてもおります。その作品が製作放送もされて未だに観賞できることも奇跡なのですが、そもそも同和問題に通じる作品をしかも子ども番組で書こうとする時点で、たいへんな反骨精神の持ち主であることがわかります。それは現在よりも規制が緩かった当時であっても当然タブーの領域だったのですから。

 

 

 

 

 

天涯孤独な次郎少年とあの頃の自分  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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昭和四六年四月、第二次怪獣ブームと呼ばれるさなか、私は小学六年でした。両親は不仲で会話もなく、暗い家庭環境のなかで、このままだと近いうちに離婚になるだろうと、不安に押しつぶされそうな時期でありました。そんなときに始まったのが、上原正三さんが始めてメインライターを務めた『帰ってきたウルトラマン』でした。

父に買ってもらった英語学習用の録音機で今録音したばかりの番組を何度も何度もリピートしながら、なんかこれまでのウルトラマンとはちがうという漠然とした違和感をかんじながらも、最初から両親不在の主人公の郷秀樹や坂田兄弟にどんどん感情移入していきました。この番組においてはウルトラマンや怪獣よりも人間側に自分を投影していたのは、製作者の目論み通りだったかもしれませんね。

番組後半になるにつれクオリティが落ちていくのですけれども、あきるどころか、ついにはたった二人の兄弟さえ失って天涯孤独となってしまう次郎少年の境遇と心情におそろしいまでにシンクロしていく自分がそこにおりました。ちょうどその頃に両親はついに離婚。わたしは父と離れて母と弟と住むことになります。それは一緒に暮らしていても意思疎通がほぼ不可能な生活の始まりでした。

ちなみに諸事情で番組を降板したヒロイン坂田あきにかわって登場するルミ子という女性も大好きでした。気の毒なことにあまり内面の性格が作品で描かれる機会が少なく類型的な存在感しかないのですが、それがかえって神秘性を与えているのか、身寄りのなくなった次郎少年にいつも寄りそうこの女子大生に対して聖母やシスターのようなイメージをもっておりました。

 

 

帰ってきた別世界のウルトラマン  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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上原正三さんは先輩格で同じ沖縄出身の金城哲夫さんがつくった前作までの神秘的なウルトラマンとは、あきらかに別のものにしてウルトラマンを登場させました。上原さんのウルトラマンは地球の平和と人類の自由のために「派遣された戦士」になっておりました。金城さんの時代のウルトラマンもウルトラセブンも、超越者が人類に干渉することから生まれる問題に配慮しております。超越者がやってきて人類が他力本願に陥る危険という問題です。だからどちらの最終回も人類の平和は人類自らの手によってとはっきりとセリフにして提示し、その問題に対処する結末にしておりました。

またそれまで名前がなかった扱いになっていて、地球人が外来者に名前を付けていた形にしていたものを、上原さんのウルトラマンは自らウルトラマンと名乗ります。

そしてもうひとつの決定的な違いは、前作のウルトラマンは超越者と人間が、一心同体になっている状態から、ふたたび分離して地球を去っています。それぞれ別の個体として。

ウルトラセブンははじめから人間と合体しておりません。

それに対して上原さんのウルトラマンは、超越者と人間が融合したまま、地球を去ります。かつてのウルトラマンを踏襲しなかったのです。なぜなのでしょうか。

それは精神がひとつになったということなのか。それはもう超越者ではなく、人間ウルトラマンになったということなのでしょうか。それとも人間が超越者になったのでしょうか。

そこにそれぞれが色んな思いを投影できると思いますけれども、この金城さんとは違うウルトラマンはそれ自体が子どもたちに向けたひとつのメッセージだと感じます。もうかつてのウルトラマンとは違うのだというメッセージです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウルトラ五つの誓いの意味するもの  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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『帰ってきたウルトラマン』の最終回のサブタイトルは「ウルトラ五つの誓い」です。

その誓いがなんであれ、上原さんのウルトラマンは「人類の自由と幸福を脅かすあらゆる敵と戦うこと」という決意表明で始まり、「いやなもの、許せないものとたたかえる勇気ある男になるといい」と次郎少年に決意をうながして結末を迎えます。

絶対自力の決意と誓いのウルトラマンなのです。

そしてどういうわけか次郎少年に決意を促すこの言葉はウルトラ五つの誓いには入っていないのです。

 

一つ、腹ペコのまま学校に行かぬこと
一つ、天気の良い日に布団をほすこと
一つ、道を歩く時には車に気をつけること
一つ、他人の力を頼りにしないこと
一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと

 

この五つというのは次回作に導入されるウルトラ五兄弟という設定にかけていて、そういう要請があったのかもしれません。他人の力を頼りにしないことというくだりが唯一、自力の決意に繋がりますけれども、この誓いとされる言葉の出典がなんであれ、当時テレビの前でずっこけたのはたしかです。これはウルトラと名付けるほど大層なものではないし、そもそも誓いというほど重いものでもない。生活上の約束事みたいなものでしかない。でもこれは上原さんが確信犯的にかかげているのであって、当時のウルトラQからみている子どもたちに向かって、もう卒業するときが来たのだよと促していたんじゃないかと、今にして思うとそう感じるのです。

だから最終回にかつてウルトラマンを倒した最強怪獣を登場させ、しかもむかしの映像を挿入することによって、かつてと現在の製作現場の落差を意識させるのも確信犯。君たちが望むような、もうあの頃のようなクオリティや気高い理想は維持できない。これが君たちの怪獣卒業式なんだよというメッセージを内側に込めているのかもしれないと思うようになりました。

 

光の国とウルトラの国  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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金城さんのウルトラマンは人間の上位者・超越者であり、その故郷は光の国でした。

そこはアンバランスゾーンとは対極にある光にみたされた理想郷といったイメージが漠然とありました。すべてが一体化したワンネスの世界でそれゆえに名前がないのでしょうか。

上原さんのウルトラマンは自ら名乗ります。誓いを立て決意し、証しを立てて初めてパワーを発揮するヒーローです。金城さんのウルトラマンの逆をやっているようです。人間の想像をこえた得体の知れないヒーローではなく、限りなく人間に近いウルトラマン像に翻訳し直しています。ウルトラマンの故郷はそれ以降、ウルトラの星とかウルトラの国と呼ばれるようになりました。

そして帰ってきたウルトラマンの最終回では、そのウルトラの星が戦争に巻き込まれ、その手助けをするために人間と一体になったウルトラマンは地球を去ることになります。科学文明は地球より発達しているかもしれませんが、もはや混乱した地球の情勢とさほど変わらぬイメージとなりました。そこには理想郷のイメージはかつてほどありません。人間と分離しないのは、やはり超越者から人間に近い存在へと変わったからだと解釈できそうです。

超越者から人間的な存在へとイメージの縮小がそこにありますが、わたしは『帰ってきたウルトラマン』の最終回を忘れることができません。ラストの別れのシーンは、次郎少年に自分を重ねていたあの頃を何度でも思い出させてくれます。

人間と一体となったまま帰っていくウルトラマンは、これからもここで闘っていくという上原さんの決意表明でもあるのでしょう。

沖縄と本土との架け橋にならんという理想を持つが故に葛藤された金城さんと、沖縄人のまま本土で闘い暮らしていく誓いを立てた上原さんの人生がそのままウルトラマン像に投影されているのかもしれません。

ニライカナイとは沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地に伝わる理想郷のことです。わたしはそれを光の国だと思っています。

金城さんが描いていたであろう調和された永遠が支配する理想の世界です。

上原正三さんの熱い闘いの決意表明はゾフィのバラードの作詞のなかにも込められました。

本当に最後まで子どもたちのために差別と向かい合い、弱きものによりそい闘い抜いた方でした。

どうか闘いの矛と盾をおさめて光の国というニライカナイでやすらかにと祈るばかりです。