この日を書き綴ってきてから

何年が経つのだろう





7月10日は

親父の命日です




来年は
三十三回忌





(勝さんが俺の親父ではなく、親父は勝さん、そっくりだったのです、外見も生き方も)





ここでは

いろんなこと書いてきたし

プロフィールと題して
俺の生きてきた面も

一部ではありますが
書いてきたので

もう、書くこともないのですけどねぇ






同じことの
繰り返しにはなりますが





イメージ写真の
勝新太郎さんとは

俺も何度かお会いしていて
お話もさせてもらっています

よく
おしのびで、洞爺に来ていたもですから





親父の
そっくりぶりは、ご本人公認でした




小林亜星さんに
空港で
勝ちゃん、勝ちゃんって

声を掛けられて

違いますよ

って、伝えても

何また、冗談言ってみたいな

押し問答を
数分繰り広げられたお話は、何度もさせてもらってますよねぇ


その位

似ていたのです






勝さんが
お店にいらしたときに

親父が亡くなったことを告げると

たくさんのお客さんの前で
ここの親父には世話になったんだよと

座頭市の楽曲等
三曲も歌ってくれたんですよねぇ~


まるで
ディナーショーのようでした





親父は

よく

俺の人生は
太く短くだ

と、言っていて


何をやるにも
豪快でした

人の面倒もよくみる人で

騙されたりも
していたようです



俺と親父との付き合いは
21年です





親父とは
生まれてから
ずっと別居でしたし


まして
物心ついてから
親父の存在との付き合いとなると


多いときでも
一年に100日なんて会っていないので


実際
顔を合わせられた月日といったら

合計しても
10年にも満たないんだろうなぁ





親父の前では
常に正座でした

絶対的存在でしたからねぇ


そのおかげもあり

今でも
あぐらより、正座の方が長くいられます




俺が悔やむのは


あの豪快な親父と

酒を酌み交わして
遊んでみたかったなぁって


そりゃね
中学や、高校のときにも

クラブやキャバレーには
連れていってもらってましたけど

酒は飲めませんでしたからねぇ~


それでも
若い俺には
きちんと、若いホステスさんを
つけてくれていましたよぅ



若いだけで
モテてね

チークダンスとか
踊ったりして

思春期の俺には
たまらなかったですねぇ


そんな
モテてる俺を自慢して
楽しんでいたんでしょうねぇ




そんな親父と

酒が飲めるようになってから

飲みたかった
遊んでみたかったなぁって

それが

悔やまれますねぇ




そして




この年齢になったからこそのものってあるし



だからこそ

相談したいことや

話したいことや

酒を酌み交わして
みたかったなぁって





俺は

親父がいないできたので


そういう相談は
誰にもしないで来たなぁって



親父がいたら

違ったんだろうなぁ
 




まぁ、違うよな


親父を早くに亡くしたからこそ
今の俺があるんだよねぇ



じゃなかったら

天狗で
くそ生意気なまま

人の痛みなど
わかからぬ人間でいたかもしれない









今、俺が

歌ったりして
お客さんに喜んでもらったりしてる姿

想像できてないだろうなぁ


惠ちゃんや、みどりさんの
追っかけやってるなんてねぇ







親父の前では

おとなしい子供だったもんなぁ



それでも
大学のときには

初めての口ごたえや

大ゲンカもしたなぁ



今となっては

一回きりでも

ケンカができてて
良かったなぁって



親父も
初めて俺がさからったものだから

びっくりしていたよなぁ~







あんとき
あの年齢で

親父が亡くなるのは宿命で



だからこそ

今の俺がいる



あれから

揉まれるだけ、揉まれたもなぁ~



でもよ

親父


俺もよ

一応、お客さんに喜んでもらえる
そんな人間にはなれてるんだよ


そこだけは

初めて
親父に胸を張って言えるのかなぁって




今日は

天に向かって


乾杯しよう