日本の「攘夷」、中国の「滅洋」 | 方丈随想録

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幕末期には、日本でも「尊王攘夷」が叫ばれていたが、「攘夷」が外国人排斥を意味する。「攘夷」の手段としては、長州藩のように海岸の砲台から外国船に発砲する戦争まがいの行為から暗殺するというテロ行為まで様々だ。ところが、日本ではある時点から「攘夷」が叫ばれなくなる。ある時点とは、生麦事件と薩英戦争だろうと思う。薩英戦争を機に「尊王攘夷」派がイギリスと提携し、倒幕の方向へ舵を切る。外国人との深刻なトラブルは戊辰戦争の時期に起こってはいるが、日本側の責任者の切腹で決着をつけている。

ここで考えてみたいのは、日本における「攘夷」と清朝末期における排外運動の違いである。中国において排外運動が高揚したのは1900年の義和団事件である。義和団のキャッチフレーズは「扶清滅洋」だった。日本の「攘夷」が中国では「滅洋」と表現されたのだ。この言葉の語感の違いに先ず注目すべきだろう。「攘」というのは「追い払う」ということで、外国人を殺害することが主目的なのではない。追い払えればいいわけだ。ところが、「滅洋」となると「絶滅させる」という意味だから「全滅させる」とか「虐殺する」という相当過激な意味合いを持つ。

義和団は山東省から反乱を起こし、宣教師とその家族を中心にした欧米人やキリスト教に改宗した中国人を男女の別なく、子どもまで殺していった。そして、山東省から北京に北上し、北京に居住する欧米人の皆殺しを図ったのだ。このことは、義和団と欧米諸国との武力紛争に発展するのだが、何と清朝政府は義和団に味方し、欧米諸国に宣戦したのだ。義和団と清朝は共に外国勢力に対する憎悪を共有していた。外国人であれば女でも子どもでも容赦しないという徹底性が注目される。「女、子どもは許してやろう。追い払うだけで十分だ。」という日本の「攘夷」とは異なる苛烈さを中国の「滅洋」は持っているのだ。

義和団事件は八か国連合軍によって鎮圧されたが、義和団が抱いていた外国人に対する憎悪はそれから100年以上たった今日でも存続している。その憎悪の炎は、中国共産党の「愛国主義教育」によって温存され、その憎悪の対象は日本と日本人なのだと考えられる。中国政府は、6月の蘇州のスクールバス襲撃事件を「偶発的」と表現し、深圳での少年殺害事件を「個別的」と表現して何かを胡麻化そうとしている。それは、日本人の子どもへの襲撃するという犯人の動機が、中国政府が意図的に作り上げた日本への憎悪に起因すると予想されるからだ。この予想が正しいかどうかは、犯人に対する尋問調査や身辺調査によって分かるだろう。中国政府は、いまだに蘇州事件の犯人についての情報を公開していないし、深圳の犯人についてもそうだ。氏名と住所すら不明なのだ。

義和団については清朝が公然と連携したが、蘇州と深圳の犯人たちと中国政府との関係性については、中国政府がばれないように隠蔽化工作をしていると疑われる。「火のないところに煙は立たぬ」というが、現在、「血煙」が立ってしまったのだ。「偶発的」とか「個別的」という説明で蓋をされて御仕舞いというわけにはいかないだろう。中国人の内心は、「滅日」であると予想しておいた方がいい。