えーっと、長いので、赤字のとこだけ読んでくれれば大丈夫です。

 

 

 

 私は2006年、兵庫県出身の父と、福岡県出身の母の第一子として生まれた。

 

 第一志望の関西の大学に落ちた父は、親元を離れ、第二志望の北九州市の大学に進学する。大学生活の傍ら、カラオケでアルバイトをしていた父は、そこで同じくアルバイトとして働いていた母と出会う。

 

 母は高校卒業後、さまざまなアルバイトをしながら、ケーキ屋で働いていた。そんな母と父は何年かの交際の末、結婚して母の実家の近くに住み始めた。それから数年後、私が生まれた。

 

 私はその後、2歳になるまで福岡に住んでいたというのだが、まったく覚えていない。2歳の頃、父の転勤で東京へ引っ越すことになり、両親はまだ赤ん坊だった私を連れて、飛行機で東京都の府中市へと飛び立った。

 

 府中市の幼稚園に入園した私は、一人で空想ごっこをしたり、一人で人形遊びをしたり、一人でプリキュアごっこをしたり、母と一緒にディズニー映画を観たりと、呑気に過ごしていた。

 

 何度か「一人で」という言葉を使ったが、もしかすると重要かもしれないと思ったからである。18歳である現在の私は、とても幼稚で、親に依存していて、すぐに寂しがる性格である。そこに、子供時代によく一人で遊んでいたことが関係しているかもしれないのだ。

 

 幼稚園の思い出を振り返ってみると、そこに父はほとんどいない。いつも仕事で忙しくて、あまり会わなかった。だからいつも母と二人で家にいたが、留守番をする際などは一人になってしまう。そのときに、ただ待っているのが寂しいので、遊んでいたのだ。

 

 私は子供の頃から激しい空想癖があったので、20~30分くらいは、一人で大人しく遊べていたと思う。だが、子供の想像力にも限界がある。母の帰りが遅くなったときなど、想像力のメーターも0になって、もうパニックだ。もう暗くなってきたのに、お母さんがいない!! 一度は、帰ってきた母に飛びついて泣いたものである。

 

 父との思い出もあるにはあるが、あまりロクなものがない。怒られて、外に追い出された記憶がある。そのことを思い出すと、今でも心臓がうるさくなる。父と娘の関係に焦点を当てた映画なども、観ていると鼓動が速くなる。私は幼い頃、父を過剰に恐れていた

 

 しかし私の父は、キチガイなどではない。少々怒りっぽく、私を殴ることも多々あったが、それは全て私が反抗的な態度をとったときなのである。理不尽な暴力に訴えたことは一度もない。お酒も適量で済ませる人だ。

 

 ただ、なんというか––––私の父は、少しおかしなところがあると思う。子供の反抗を、あまり良いものだと思っていないのだ。子供のちょっとした悪口や反抗的な態度を真面目に捉え、全力で叱る。真面目で誠実な人なのだろうとは思うが、父はもう少し「適当に」子育てをすべきだったと思う。

 

 中学生の反抗期真っ只中のとき、父に「親に反抗的な態度をとることは禁止」と書かれた紙を渡されたことがある。あの頃は気づかなかったが、今は少し異常に思える。子供の反抗期なんて必ずあるもので、それを乗り越えて大人になっていくのに、わざわざ禁止令を紙に書いてまで子供に守らせようとするのは、おかしいと思うのだ。

 

 また、あとで知ったことだが、父はかつて私を慶應幼稚舎に入れようとしていた。幼い頃、どこかに連れていかれて、テストを受けたのを覚えている。あれがそうだったのか。それを知ったとき、私はショックを受けるとともに、父に対して激しい怒りを覚えた。なぜだ? なぜ勝手に産んで、勝手に進路まで決めようとした? 勝手にセックスして勝手に産んだら、あとはもうほっといてくれよ。今でもイライラする。しかし、周りから見れば「教育熱心な良い父親」なのだろう。私はそのことが苦しい。

 

 

 

 府中市の幼稚園を卒園した私は、その後すぐに、また父の転勤が理由で引っ越すことになった。今度は世田谷区だ。私は幼稚園で仲良しだった二人の友達と離れるのが嫌で、ずっと泣いていた。二人は、同じ小学校に入ったそうだ。

 

 世田谷区のアパートに引っ越して、近くの小学校に通い始めたが、最初は友達を作るのに苦労した。ほとんどの子たちは、幼稚園の頃から一緒の友達がいたのだが、私にはいなかった。しかし、その頃の私にはまだ吃音もなく(今の私にとって、吃音は大きなハンデである)、今より明るい性格だったので、数ヶ月も経てば仲良しの友達がたくさんいた。

 

 また、この頃にどうしたことか樋口一葉を好きになり、「一葉と同じ小説家になりたい!」と思うようになった。当時6歳だった私は、稚拙な小説をたくさん書き始めた。

 

 そして小学2年生、7~8歳のとき、おそらく、私にとって1つ目の人生の転機が訪れる。

 

 私は異常に母を恋しがるようになり、いつも泣くようになった。寝る直前に。家族で夕食を食べているときに。学校にいるときに。一度は、学校から帰るときに突然「お母さんが死んだらどうしよう!!」と思い、信号無視をしながら泣いて家まで走ったことがある。母からしたら、それこそ「娘が死んだらどうしよう!!」である。

 

 あのときは原因がまったく分からなかったのだが、最近、「母親のお腹に弟や妹がいるとき、上の子はそれを本能的に察知して、情緒不安定になることがある」と知った。あの頃の私の情緒は、母の妊娠が理由だったのである。

 

 そう、当時8歳だった私には、妹ができることになっていた

 

 そして2013年10月、妹が産まれた。長い間、私だけのものだったお母さんは、そうじゃなくなった。

 

 私の父への恨みは、このとき確立されたように思う。全然 一緒にいてくれなかったし、何度も怒られたし、「私だけのお母さん」を消した。はっきりとそう思ったわけじゃないけど、おそらく8歳の私が抱えていた言葉にできないモヤモヤは、そんなことだったと思う。

 

 妹がお腹にいる間、母が入院していたときも、忙しい父は私と一緒にいてくれなかった。東京駅までは送ってくれたけど、そこからは一人で兵庫県の祖父母(父方)の家に行って、何日か過ごした。

 

 父のことは死ぬほど恨んでいるが、妹のことはまったく恨んでいない。むしろ、愛している。「あんたも生まれてきちゃったかあ、大変だねえ」と、戦友(?)のような感情を勝手に抱いているのだ。

 

 さらに、妹が産まれてからすぐに、私たちは引っ越すことになった。部屋が狭くなるという理由もあったが、もう1つの理由は、父が自分の両親と一緒に住みたがったからだった。

 

 母は、引っ越しに反対したらしい。嫁姑問題もあるし、たぶんお母さんは、おばあちゃんと一緒に住みたくなかったんだと思う。でもパパは聞かなかったんだよなあ(そのあと、反省してくれるのだけど)。

 

 父いわく、引っ越すとき、私は「そのとき知っている言葉を全て使って」、引っ越しが嫌だと両親に訴えたと言う。私は覚えていない。でも、私がそう言っているのを聞いていたなら、そんなに必死なんだと気づいていたなら、どうして引っ越すのをやめてくれなかったの? そう考えて、とても苦しくなったのを覚えている。

 

「やっと慣れてきた街とも、やっと出来た友達とも、仲良くなったアパートの管理人さんとも、お別れ。これから、お母さんも妹に取られるんだ。パパのせいだ。パパのせいだ! パパのせいだ!!」

 

 自分のことながら、8歳の頃の自分が本当に可哀想になってしまう。なにも、あんなに幼い子供から、いきなり全てを取り上げてしまうことはないだろうに。

 

 最後に小学校に行った日、担任の先生が、新品の『星の王子さま』をプレゼントしてくれた。この本はすっかり黒ずんでしまったけれど、私の大事な大事な宝物だ。「大切なことは、目には見えない」。この小説のテーマは、私の心に深く刻まれた。

 

 まあそんなわけで、私は引っ越しが嫌いだ。今でも、引っ越しのシーンがある映画やTVなどを観ると、心臓がバクバクする。あの嫌な気持ちを鮮明に思い出す。

 

 私は変化が嫌いで、人やものに依存・執着しやすい性格である。おそらく、このときの体験が原因だと思われる。