今回は、精神的に不安定な少女ナオミが主人公の日記体小説『ナオミ』の第7章です。

 第1章と、前回の第6章はコチラ↓

 

 

二千二十三年十一月十九日

 

 五月ごろの日記に、夏になるとオアシスが聴きたくなるって書いたんだけど、今はたぶん違うなと思う。

 

 この日記を書いたときの私はいつも悩んでて、いつも「死にたい」と思ってた。だからこの時期に、神様か誰かが私にオアシスを聴かせてくれたんじゃないかな。

 

 オアシスのノエルとリアムは超ポジティヴな性格で、「永遠に生きる」って歌ってる。「死にたい」って歌ったカート・コベイン(コバーン)とは対照的。

 

 私はギャラガー兄弟の、そういう前向きさが大好き。ノエルを敬愛しすぎて、「ノエル・ギャラガー」という文字を見ただけで涙が出てくる時期があったほどに。

 

 『リヴ・フォーエヴァー』には「Maybe I just wanna fly wanna live, I don't wanna die(たぶん俺は飛びたいだけ。そして生きたい、死ぬなんてゴメンだ)」っていう歌詞が出てくる。このフレーズが、そのとき悩んでいた私には良かった。ずっと、「ああ受験どうしよう、受験落ちる、私は何がしたいんだろう、もうヤダ死にたい…」って考えてた私にとって、「飛びたいだけ、そして生きたい」って力強く書いたノエルと、それを力強く歌ったリアムは、救世主に見えたんだと思う。

 

 私にとって「オアシス聴きたい」は、そのまま「生きたい」だったんだなあ。だから好きになったんだろう。なんだかんだ言っても死にたくなくて、永遠に生きたかったから。

 

 「Who wants to live forever?(誰が永遠に生きたいと思うだろう)」って歌ったフレディも、「It's better to burn out than to fade away(だんだん消えていくより燃え尽きた方がいい)」って遺書に書いたカートも大好き。だけど、やっぱり「You and I are gonna live forever(アンタと俺は永遠に生きるんだ)」って言ってくれたノエルとリアムが、そのときの私にとって必要な存在だった。

 

 『リヴ・フォーエヴァー』があるからこそ、オアシスの他の曲も聴きたくなる。「この人たちは永遠に生きたがってる人たちなんだ」って分かってるから、オアシスの曲は安心して聴ける。私にとって、ほんとに大事な一曲。ああ、それと、『サム・マイト・セイ』と『ステイ・ヤング』も好き。特に『ステイ・ヤング』を聴いてるときは、この曲を聴いてることと生きてることが嬉しくなって、スキップしたり走ったりしてしまう。オアシスほど聴いてて幸せになれるバンドは、私にとって存在しない。

 

 

 これで今日の日記は終わりの予定だったんだけど、また書きたいことが出てきたから書く。

 

 

 これまでみたいに子供として弾(はじ)けて、思いきり笑えるのは、これが最後だと思う(なんとなく。とにかく最近、子供時代の終わりを感じる)。

 

 そんな体験をさせてくれる最後の男が、ジャッキー・チェン。ジョージと一緒に観るジャッキー。最後に子供時代の私の心を支えてくれるヒーロー、ジャッキー。子供の頃にワクワクして映画を観て、色んな俳優に夢中になった。たぶん、ゆっくり落ち着いて映画を観て心の底から笑えるのは、ジャッキーの映画が最後。いままで、アラン・ドロンとか、ビートルズとか、フレディ・マーキュリーとか、スピルバーグとか、ノエルとか、あとトムとか、色んな人が私の心を支えてきてくれたけど、たぶん最後に子供の私の心を支えてくれるのは、ジャッキー。未来への不安をかき消してくれるのは、ジャッキー。ジャッキーの映画を観てるときだけは、全てを忘れられる。

 

 観てないときは、やっぱりこうやってぐるぐる考えてしまう。

 

 来年からは高校三年生だけど、進路はどうしよう? 私には、大学は合ってないかもしれない。大学で、今まで心の拠り所にしてきた文学や言語を本格的に学んだら、心の拠り所がなくなるかもしれない。文学や言語を嫌いになるかもしれない。そうなったらどうしよう。嫌だ、嫌いになりたくない。

 

 それにしてもあのときのお母さんはなんだったんだ。何回か進路に悩んだとき、私が「大学に行かない」って言ったら「ほんとにやりたいことあるの? 受験が嫌なだけじゃなくて?」って聞いてきて、「大学に行く」って言ったら、「大学でやりたいことあるの?」って聞いてきた。大学に行きたいって言ったとき、お父さんにも「とりあえずやなんとなくで行かせないからな」って言われた。だけどこれが「とりあえずやなんとなく」じゃないのかは分からない。だけど吃音になって言葉を上手く喋れなくなって逆に言葉や言語に興味を持ったのはほんとだ。

 

 それにしても吃音はほんとにつらい。中学の頃は、高校よりもっと人間関係がひどかったのに、相談にのってくれたり、愚痴を聞いてくれたりする同年代の友達が同じクラスに三、四人いるだけで、すごく心強くて、自分は一人じゃないって思えた。だけど高校で人間関係がひどくなったとき、中学よりマシだったかもしれないのに、不登校になった。やっぱり、同年代の子と話ができるって、人間にとってすごく大切なんだなって思った。

 

 吃音になると、自分が立ってるとこだけ切り取られて、遠くに押しやられるような感じがする。だけど私は文章が書けるから、その点で他の人より恵まれている。現実世界から断絶される代わりに、自分で世界を作れるんだもの。めちゃくちゃ恵まれてると思わない? だれも答えなくていい。一人でいい。

 

 だけどやっぱり一人は寂しいし、夜だから死にたくなってきた。で、仮に受験して受かって、大学の寮か何かに入ることになって、実際に寮に入って、卒業して家に帰ってきたら、もうなにもかも変わってるんじゃないかと思って怖くなる。両親はひどく老け込んで、白髪が増えているだろう。メグとジョージはすっかり大きくなって、いまよりもっと勉強するようになっているだろう。ポールは年をとって、散歩へ行く気力もなくなるかもしれない。

 

 それから何年かしたら、ポールは死ぬだろう。犬の寿命が十年だとしたら、ポールが死ぬのはちょうどメグが高校三年生のとき、もしかしたら大学受験をするかもしれないときだ。そんなときにポールが死んで、メグは絶望のどん底に叩き落とされないだろうか。どうして飼うときにそれを思わなかったのだろうか。それでつらい中で受験をして、もし落ちたらどうするのだろう。さらにつらい思いをすることになるだろう。どうして私がメグと変わってやれないだろう。ああ、疲れた。

 

 それにしても、大学かあ。大学で研究はしたいけど、大学に入ったことで不必要におだてられたくはない。私はいつも褒められたいけど、おだてられたいわけじゃないし、褒められるなら私そのものを褒められなくちゃ絶対にヤダ。

 

 ああ、立派な学歴が欲しくない。だって、褒められるときに絶対に学歴を褒められそうじゃん。私は学歴じゃなくて、私自身を褒めてほしい。だから私は、立派な大学を卒業した人より、大学を中退した人とか、中卒の人の方が輝いて見える。中退した人や中卒の人が有名人だと、もっと輝いて見える。だってそれは、学歴じゃなくて、本当にその人の魅力や才能だけが世間に認められてるってことだもん。その人が持ってる唯一無二の魅力だけが褒められてるってことだもん。だから大学に進学したら、私だけの魅力が失われて、もう二度と、誰も私自身を見てくれなくなるかもしれないと思う。それが怖い。

 

 だけどやっぱり、大学に行ったとしたら、中退したりせずに、ちゃんと四年間学ぼうって思った…当たり前かもしれないけど。そう思った理由の一つは、メグを見たから。メグは本当はバレエをやめたがってるんだけど、自分がやりたいって言って始めたバレエだから、通い続けるって言ってた。それを聞いたら、私はなんてグズグズしてる姉なんだろう、私もちゃんと最後までやり遂げなきゃって思った。

 

 メグといえば、家族でアスレチックに行ったときのメグが忘れられない。いつも姉の私よりしっかりしてて、両親からも頼りにされてるメグが、私を残してどんどん色んなアスレチックを遊びこなしていく。その後ろ姿が思ったより小さくて、私はなんだか混乱した。メグも周りの子供たちも、小さな身体で元気いっぱい楽しんでた。その光景を見ながら、私も子供の頃はこうだったろうかと考えた。だけどすぐに違うと思った。いまも昔も、私は楽しそうな家族やクラスメイトの後ろで「疲れたー」って文句を言いながら、「こんなことをするより、早く家に帰って本とか漫画を読みたい」って思ってる。私は大人になり始めてから、絶えず「なんでも楽しめていたあの頃に戻りたい、子供に戻りたい」と思ってきたというのに、その子供時代を楽しんではいなかった。むしろみんなをガキっぽいと見下し、早く大人になりたいと考えていたのではなかったか。そして私が自分の身体や年齢の成長についていけず、泣いて怒ってわめいている間に、その「ガキっぽい」みんなは自然に心も成長し、大きな変化を当たり前だと受け入れながら、受験だのなんだのを乗り越えて、大人になってきているのだ。私は大人になりたいだの子供になりたいだの言って、本当は別になににもなりたくなかったのだ。ただ、いつも目の前の現実に満足できずにいた。きっと私はこの先、どんな幸福を手に入れても満足できない。生きている限り満足できない。手に入らないものを求めてばっかり。その瞬間を生きてる間は文句タラタラなのに、あとから振り返って、過去になってしまったその瞬間を見つけると、一気に懐かしくなって戻りたいと思ってしまう(要するに、ないものねだり)。

 

 おかしな話だ。生きてるまさにその瞬間は、それがつらくてつらくて早く過ぎてほしいと思うのに、過去になったとたん、きらきら輝いて見えるのだから。そうして、過去が懐かしい、戻りたいと言っている間にも、時間はどんどんどんどん過ぎていって、また辛い瞬間がやってきて、たまに幸せな瞬間があって、いつか現在だったそれが過去になる。それがまた輝かしく見えるという恐ろしいループ。その瞬間を生きている間にそれが幸せだと気づけたら、どんなにかいいだろう。まあ気づけないバカだからこそ、いつも満足できないことの説明がつくわけだけど。

 

 それに気づいてから数日後、その瞬間の幸せに気づけないのはもったいないと思って、なんでその瞬間に幸せだと思えないのか考えた。そして、いつもなにかしら我慢しているからだと結論を出した。それからは、私は本当に何も我慢しなくなった。学校でみんなが死ぬ気で授業を受けたり自習したりしている間にさくらももこのエッセイを読みふけって笑いをこらえ(人は我慢が嫌いだけど、唯一笑いを我慢してる瞬間は幸せだって自負してる)、家では必要最低限のことしかやらずに好きなお菓子を食べ、家族が寝たら夜更かしをして音楽を聴いたりお笑いを観たりするようになった(まあ、夜更かしは中学生のときから我慢せずに継続しているけど)。

 

 こんなだらしない娘だからだろうけど、お母さんは私のことが嫌いなんだと思う。最近では何をやっても文句を言われる。いつも完璧でいなくちゃいけないことぐらい自分でも分かってる。だけど上手くいかない。なんだか完璧を目指そうとすればするほど、そこからどんどん遠のいていくようだ。それでも私はなるべく完璧になれるように完璧を目指して毎日生きてる。皿洗いとお風呂掃除は言われる前に必ずやる。お母さんが私やお兄ちゃんにお風呂を洗いなさいと言う前に必ずやる。皿洗いのときにちょっとでも水滴がシンクについたら絶対に拭く。私は水一つ残さない。残すもんか。だってそうすれば完璧でいられるし、そうすればお母さんが褒めてくれる。私はお母さんの笑顔が大好きだ。お母さんが笑顔になってくれるならどんなことでもする。だから私のやったことが的外れで、お母さんの顔が曇るとすごく悔しくなる。そういうときに自分を許せなくなる。私はいつも完璧で百点がいい。それ以外は絶対に認めない。

 

 そういえば、前にメグのバレエ教室に行ったときに、バレエの先生がこんなことを言ってた。

 

「バランスが取れる位置を探し続ける…探し続ける…探し続ける! プリエをしたときにちょっとでも身体がふらつくなと思ったら、自分で考えて微調整しながら完璧なバランスを探す! もう、ずーっとその繰り返し」

 

 私もバランスを探し続けて、いつか完璧の百点になりたい。バランスさえ見つけられれば、お母さんはきっと私を褒めてくれて、私もきっと私を認めてくれるんだ。それにメグは、先生のその言葉を聞きながら、すごく一生懸命バランスを探してた。先生に頭やら背中やらを押さえてもらいながら、自分が一番美しく立てるポーズを探してた。だから、私もメグみたいに頑張りたい。

 

 メグも大好きだけど、ジョージも大好き。ジョージは今日、お父さんと一緒に遊んでた。だけど私はお父さんは好きじゃない。お父さんは自分のエゴを押し通すばっかりで、私の気持ちを大切にはしてくれないから。

 

 例えば、いつかのクリスマスに「私はもう大人になったんだから、プレゼントは欲しくない。誕生日プレゼントもいらない。自分で選んだ、自分の好きなものを自分で買いたい」って言ったのに、次の年も、その次の年も、クリスマスだの誕生日だのにプレゼントをくれた。しかもそれは、私が自分でそろえたかった漫画全巻と、私が自分で買いたかった小説と、別に欲しくなかったイヤホン。

 

 違う、私はそういうのが欲しいんじゃない。自分のお金で自分の好きなものを一冊ずつ集めていく喜びが欲しかった。私が欲しいものは、いつも目には見えないし、お金で買えないもの。そういうことがなにより大事なの。それが分からないからお父さんは嫌いなの。私の気持ちを無視して、私の楽しみを潰して、色んな無駄なものを買って、それで私が喜ぶとでも思ったのかな。バカバカしい。

 

 私はお父さんが買った漫画全巻をすぐに売り飛ばして、小説は「面白そうだから読んでみたい」と言ったメグにあげた。でもイヤホンだけはとっておいた。今ではもうお父さんは勝手にプレゼントを買うのをやめてくれたし、たぶん悪気があったわけじゃなかったから、全部売るのはひどいかなと思ったの。それでも、あの頃のお父さんを思い出すたびにむかむかする。お父さんは、私がしてほしいことは何もしてくれないのに、余計なものはどんどんくれるし、余計なこともどんどんしてくれる。私はあんなものが欲しいわけじゃなかった。

 

 こんなふうにどんどん色んなことを考えるのは間違ってると、みんなは言う。だけど私はみんなが間違っていて私が正しいと思ってる。でも誰も私の気持ちを分かってくれないから、きっとみんなが合ってるんだと思う。私が間違っていてみんなが正しいんだと思う。だけどそれを認めたくない。認めたら、自分で自分の否定をすることになる。ただでさえ世の中から弾き出されたような人間なのに、自分すら自分を認めてあげなかったら可哀想だ。

 

 だから私は、きっと私が正しいんだろうと思いながら、みんなが間違っているという主張を必死に怒鳴る。きっと私が間違っているんだろうと思いながら、私が正しいという主張を泣きながらさけぶ。私の何が間違っているかまでは分からない。私のどこがおかしいのかも。だけど、私が何かを絶対に間違えていて、どこかが決定的におかしいことだけは分かる。でも、もはやそんなことは問題にもならない。私は自分が正しいと思っている間違ったことを信じ続け、自分が正常だと思っている狂った自分を信じ続けるだけ。それだけで、私はこの宇宙でただ独り、自分を認めてあげられる。その代わり、多くの人を傷つける。だけど、もうかまわない。正しいみんなにはたくさんの理解者がいる。彼らにはそれだけで充分だろう。

 

 そのことで大好きなメグやジョージを傷つけても、そんなことはちっとも問題にならないんだ。だって私が合っている。私が正しい。みんなはあらゆることを気にしなさすぎなのだ。どうして外から帰ったあとに、もっとていねいに手を洗わないのか。どうしてお風呂で身体を洗うときに、何も考えずに洗うのか。お風呂に入る目的、汚れが溜まりやすいポイントを忘れていやしないか。忘れたらお風呂に入る意味がない。意味がないことを、どうしてするだろう。ちゃんとやることにこそ意味がある。それに、どうしてお湯に浸かったときに、何も考えずにじっとしているだけなのか。どうして身体を温めるという本来の目的を忘れて、ぼうっとしているのか。どうして一番ちょうどよく身体が温まる時間や体勢を探そうとしないのか。どうしてそのことを指摘すると、メグとジョージは怒るのか。どうしてメグとジョージはそれを母に言いつけ、母は私を叱るのか。どうして母は「あんた、しつこいのよ」と言うのか。どうして父も「お前はしつこいんだ」と言うのか。おまけに「お前はいちいち細かくて、面倒くさいんだ」と言うのか。どうしてメグとジョージも「ナオミ姉ちゃん、しつこい」と言うのか。どうしてお兄ちゃんも「お前、しつこい」と言うのか。みんなはいい加減なんだ。大好きなメグとジョージだってそうだ。どうしてみんなは、ちゃんと生きようとしないんだ。どうしてもっと考えないんだ。どうして正しいことが分からないんだ。どうして適当にやってる方を慰め、一生懸命に生きてる方をしつこいと叱るのか。

 

 こうまでなって、どうして私には障がいがないのか。どうして私は病気じゃないのか。去年、父が私を異常に思って精神科に連れていったことがある(そこへ向かう車の中で、父が助手席の母に「この子の実際年齢は十五だけど、精神年齢はたったの五か六だよ」と言うのが聞こえた)。私も、絶対に私は病気だと思っていた。でも違った。何時間もかけてテストを受けたけど、私は極めて普通の人間だった。それに天才でもなかった。ただの変わり者だった。ただの、普通の人よりは生きづらい、だけど世間では「普通」に分類される方の人間。コミュ力ゴミで人の気持ち考えられなくて急に泣いて急に切れて急に夜死にたくなる、ただのメンヘラ女、ってか。

 

 それでも私は自分が大好きだ。それでも私はメグとジョージが大好きだ。誰が正しくても間違ってても、私の立場がものすごい不安定なものでも、私はメグとジョージを愛してる。ほんとは誰が正しくて誰が間違ってるかなんて簡単に決められるものじゃないんだから、私はなんにも気にせずメグとジョージを愛していいはずなんだ。ぴりぴりしないでメグとジョージを見守っていればいいはずなんだ。でもそれができないから私は自分がいとしい。全部が中途半端でよく分からなくてぐちゃぐちゃな自分がいとしい。もしかしたらメグとジョージ以上に自分のことがいとしいかもしれない。だから私は自分が憎い。それでも何かのためだけに私は何かを信じ続けて走り抜いてみせる。必ず。信じなくていいかもしれないものを一生信じてやる。ガラクタかもしれないものを一生大切に磨いてやる。他人にとってはナイフでも、私にとっては包帯なのだ。誰に分かるだろう。誰にも分からないだろう。分かるはずがない。私の世界が誰かに分かってたまるか。メグとジョージにも分からせない。私が普段どれだけ色々なことに気をつけて気を遣ってるかも、もう分からせるもんか。前までは分からせたくてしょうがなかったけど、もう分からせるもんか。何も分からないくせに。私がずっと大切な何かを大切にしてることを知らないくせに。臨機応変に生きてて優しいように見える奴より、ずっと根性が座ってるんだよ。ずっといい奴でずっと偉いんだよ。本当に優しい奴が、自分の世界を押し殺して作り笑いを浮かべてるような奴なわけがない。嫌われても憎まれても自分の世界を信じ続けて人に媚びない私こそが、私だけが、本当の本当に神様からの贈り物だ。私は天使の生まれ変わりだ。冷たい目をした堕天使だ。俗世にまみれた人間よりも、ずっとずっと神聖だ。私は愛するメグとジョージが神聖な堕天使でないことがつらい。だけど私と違うから私はメグとジョージを愛しているのだ。だからどちらとも両方を叶えることはできない。だから私はつらい。

 

 

 

 

 

二千二十三年十二月二十三日

 

 私は最低な人間。高三になっても受験するかしないか迷ってて、お父さんとお母さんは「大学に行かなくてもいいんだよ」って言ってくれたけど、自分で総合型で受験するって決めた。


 なのに、最近は大学に行くのが怖いとか、行きたくないとか思う。でも受験しなくても、「やっぱり受験すれば良かった。大学に行きたかった」と思ってたと思う。ないものねだりなの。


 お父さんとお母さんに申し訳ない。自分が嫌い。でも人に迷惑をかける自分が好き。私は性格がねじ曲がってる。


 大学に行きたくないと思い始めちゃったのは、たぶん何もかも変わってしまうのが怖いから。寮に引っ越す。家族と過ごす時間が減る。それに、中卒や高卒で成功してる人がかっこいいと思った。いい大学を卒業した人はもちろんすごいけど、その人たちには必ず「〇〇大学」っていう名前がついてくるわけだよね。いい大学を卒業した人は、その人自身と同時に、その大学も褒められるんだと思う。その人そのものを見られることは二度とないんだと思う。でも中卒や高卒の人が認められてると、「この人たちは、この人たちそのものを見てもらえてるんだな」と思う。


 高校でクラスの子に進路を聞かれて答えたら、「すごい…さすが」って言われた。そのときに苦しくなった。だって私はその子が考えてるような人間じゃなくて、ぐーたらするのが大好きで勉強が大嫌いな人間だから。自分の向かう先と、人が考える私の像が、理想の私の像とどんどんズレていく。私は普通の人間じゃないし、かといってすごい人間でもない。ただの、感受性豊かな特別な人間。



 お父さんとお母さんに「大学に行かなくてもいいんだよ」って言われたのに受験を選んだのは、みんなみたいになりたかったから。みんなは一度受験すると決めたら最後まで突っ走ったり、一度漫画家として売れると決めたら一日何時間も漫画を描いたりしてた。私は一度決めたことが続かないから、そんな自分が嫌で、みんなみたいになりたいと思った。だからお父さんとお母さんに「大学はナオミには合ってないよ」って言われたけど、それに反発して受験するって言った。そのときはなんでお父さんとお母さんが「大学はナオミには合ってない」って言うのか、なんとなくしか分かんなかったけど、今ははっきり分かる。実際に受験してみて、「ああ、確かにやっぱり、大学は私に合ってないのかもしれない」って思った。誰に何を言われても、自分でやってみるまで理解できないの。


 お父さんとお母さんに「大学はナオミには合ってないよ」って言われたとき、私は「みんなみたいに突っ走りたいから受験したい。私は何かが欲しくて、どこかに行きたい」って言った。「何か」とか「どこか」とか、すごく曖昧だった。そのときから、大学に行くことじゃなくて、努力することが目的になってた。最近読んだ本には、「努力すること自体が目的になると、本当にやりたいことを見失う」って書かれてた。本当にその通りだと思う。


 でも私には本当にやりたいことなんてないの。小説を書くのは好きだけど、小説家になりたいかは分からない。ただ小説家になって有名になって、みんなに認められたいとは思う。だけど、それはもう「小説家になりたい」んじゃなくて、「みんなに認められたい」っていうこと。それなら、たぶん「みんなに認められること」が私の本当にやりたいことだと思うんだけど、人の評価とか周りの目を気にして生きることほど、息苦しいことはないとも思う。


 実際、最後まで突っ走って大学に受かって、みんなに褒められたときはすごく嬉しかった。でも同時に、大学生の私が想像できなくて、ものすごく不安になって、あんまり素直に喜べなかった。


 「私は誰の目も気にしない自由な人だ」って思い込んで生きてきたけど、ほんとは誰より人の目を気にしてるの。だって、「ちゃんと誰の目も気にしない自由な人に見えてるかな?」って、いつも気にしてるんだから。


 とにかく矛盾だらけというか、みんなが持ってるような、しっかりした芯や筋がない。周りの目ばっかり気にしてるから。だから話がおかしくなる。


 受験すれば変われるって思った。でも本質は何も変わらなかった。変わることが怖いっていう気持ちもある。だけど変わりたい気持ちも本当。


 本当に周りの目を気にせずに突っ走れる、本当の「自由な人」に憧れてる。


 周りの目を気にせずに言うなら、私がほんとにしたいことは、「ダラダラして、無駄に時間を使うこと」。でも何かに打ち込みたいっていう思いも嘘じゃない。


 ずっと布団の中でゴロゴロしてスマホをいじりたい。だけど、「布団の中でゴロゴロしてスマホをいじってる自分」は嫌い。「努力してる風の自分」が好き。だけど努力そのものは嫌い。


 矛盾してるの。「〇〇をしたい」と、「〇〇な人間になりたい」が、まったく噛み合わない。何もしたくないけど、何かをしてる人間になりたい。死にたいけど、「生きたい」と思える人間になりたい。


 昔から、自分の中にある液体みたいなものがまったく混ざらなくて、いつも分離してる感じで、本当に気持ち悪い。こんなのは誰にも分からない。この気持ち悪さは言葉で伝えきれない。腹がムズムズしてくるような気持ち悪さ。


 それはやっぱり、努力すること自体が目的になってるから。



 私は文句を言っちゃダメなの(言っちゃうけど)。優しい家族がいて、家があって、お金があって、病気がないし、みんな私のワガママを見逃してくれる。こんなに恵まれてるんだから、死にたいなんて思いたくない。親不孝なことをしたくない。いつも幸せで、機嫌よくいたい。


 【追記 さっき、ストレスのせいか吐いてしまった。】