私にとって「放浪者」という言葉は、実に重要な意味を持つ。今回は私にとっての「放浪者」の位置付けを、様々な人物や性別の観点から説明していく。



1  3人の放浪者


 私にとって、宮沢賢治、車寅次郎、ホールデン・コールフィールドの3人は、非常に重要な意味を持っている。


 宮沢賢治は、明治時代の童話作家である。代表作は『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』などだ。


 車寅次郎は、山田洋次監督の映画『男はつらいよ』の主人公である。俳優・渥美清の名演技と、各作品を彩るマドンナたちが魅力だ。


 ホールデン・コールフィールドは、サリンジャー作の小説『ライ麦畑でつかまえて』の主人公である。ホールデンの鋭い視点と軽妙な語り口がクセになる。


 さて、先ほども述べたように、この3人は私にとって重要な存在である。では、その理由はなんだろうか。様々あるが、3人に共通するのは「放浪者」という点である。


 賢治は、父が営む質屋という家業を反対したことや、父が賢治の信仰する日蓮宗に理解を示さなかったことなどを理由に父と何度も衝突し、やがては家を出て行った。それからは、死ぬ直前までほぼ落ち着きのない人生だった。家出したことだけが理由ではなく、心が一定の場所に留まっていたことがほとんどないため、賢治は立派な放浪者である。


 寅さんは、中学時代に父と衝突して家出をし、何年も家に帰らなかった。やっと帰ってきたと思えば、今度は各地を訪ねて美女に失恋する放浪の旅が何度も繰り返される。


 ホールデンは、全寮制の高校を4度も退学となっており、そのせいか父ともあまり上手くいっていない。そんな彼がクリスマス直前に5度目の退学をするまでの3日間の放浪を、煌びやかな街ニューヨークを舞台に描いている。


 「父と上手くいっていない」という共通点もあるが、今回はそれには触れず、「放浪者としての彼ら」に焦点を当てていく。



2  放浪者への憧れ


 私は、放浪者に強い憧れを抱いている。一時期は各地を旅することばかり夢みていたし、これから進学する大学でも、フィールド調査を主とする研究をしたいと考えている。

 

 以前書いた記事『近況報告』に登場したSさんに憧れたのも、Sさんが世界各地を旅する「放浪者」だったからだ↓

 

 

 また、以前ブログに投稿した連続小説『キャンコロトンの森』のラストシーンで、私はヒロインであるフィーダに「恋人を捨て、家を出て行き、放浪者になる」という選択をさせた↓

 

 このラストシーンにも、いま考えれば、私の放浪者への憧れが如実に現れている。それに加えて、放浪者となるのが男主人公ではなく女主人公ということにも、いま考えれば大きな意味があった。それについては、4項で詳しく解説する。



3  「妹」という存在の大きさ


 次に、賢治、寅さん、ホールデンという3人の放浪者の、それぞれの妹の存在について述べる。その後、私 自身の妹についても述べ、放浪者や私にとっての「妹」という存在の大きさについて詳しく説明する。


 宮沢賢治はその生涯を通して、作家として成功することは1度もなく、死後に評価された人物だ。しかし賢治の妹トシは、無名の作家である兄の賢治を最期まで信じていた。


 寅さんは言うまでもなく「ダメな大人」だが、妹さくらの寅さんへの愛は変わらない。さくらもトシ同様、いつも兄の寅さんを信じている。


 ホールデンも「ダメな不良青年」である。しかし、妹フィービーは彼に純粋な愛を与え続け、傷付いた心を受け止め、スカした思春期男子のホールデンに「センスのある人なら誰だってあの子には参るだろう」とまで言わしめる。


 放浪者の兄にとって、なぜか妹」という存在は聖母のようなものらしい。そして私も、それは同じであった。放浪者ではないものの、いつも心がフラフラしており、家出をしたこともある。最近は修復されてきたものの、父との仲も良いとはまだ言えない。そんな中、妹は私を信じ、愛し、受け止めてくれるのである。妹が私と関わる瞬間、私は憧れの放浪者である賢治に、寅さんに、ホールデンに、なれる「気がする」のである。


 とはいえ、私は妹をトシやさくらやフィービーだとは思っていない。というよりも、思わないようにしている。なぜなら思った瞬間に、私は妹を記号化して見ることになるからだ。そしてその瞬間に、私から妹への愛はエゴへと変わる。妹に向けられているようで、自分自身に向いている感情となる。それが怖いため、私は妹を「違う妹」にはしない。そうすると、私も「違う兄(姉)」にはなれなくなる。それは賢治や寅さんやホールデンになれないということであり、要するに「私は放浪者にはなれない」という現実である。



4  自分自身への苛立ち


 前項を読んで、納得できない方もいるかもしれない。「なぜ放浪者になれないんだ」「賢治や寅さんにならなくても、まどか自身が放浪者になればいい話じゃないか」と。ところが、これがすんなり行かないのである。それはまさしく、私が女だからだ。



 女の放浪者というのは、男の放浪者とはやはり何か違う。何かが決定的に違う。

 

 例えば寅さんが女だったらどうだろうか。放浪者の寅さんは、べらんめえ口調で喋る四角い顔のオジサンだからこそ魅力がある。もちろんそれだけが魅力ではないが、寅さんがオバサンだった場合、魅力は半減するだろう。

 

 寅さんと同じ放浪者という立場のマドンナ・リリーの存在はあるものの、やはり男としての放浪者・寅さんとは違う。


 何がどう違うのか、いまの時点では上手く言語化できない。だがおそらく「女は家で男を待つもの」という概念が、まだ残っているのだと思う。

 

 これは仕方のないことである。女性の地位は、ずいぶん男性と等しくなった。それは事実だ。しかし、古い概念は人間の中から(あるいは私 1人の中から)どうしても消えないのである。



 私は、女であるゆえ魅力的な放浪者になれない自分に憤りを覚えた。そこで私は、おそらく自分自身への反発の意思を持って、小説『キャンコロトンの森』を書き上げたのだ(この小説に関しては、2項で詳しく触れている)。


 私はなぜ、ラストシーンで放浪者となる主人公を、男ではなく女にしたのか。それはまさしく「女としての放浪者」を、自分自身に認めさせるためであった。世に訴えたのでは決してない。「女」を認めない自分自身への怒りそのものだった。



 以上が、私にとっての「放浪者」という存在の説明である。今後は、賢治や寅さん、ホールデンの、それぞれの父親や妹の存在について、さらに詳しく掘り下げたいと考えている。そうすることで放浪者としての3人の姿がさらに鮮明に浮かび上がり、私にとっての「放浪者」の意味も明確に分かるかもしれないからだ。


 また、放浪者に対し憧憬の念を抱いているという私の性質を考えると、私が『ルパン三世』『荒野の七人』などの作品を好んでいるという事実にも合点がいく。『ルパン三世』は泥棒、つまり放浪者が主人公の物語であり、『荒野の七人』は放浪者と定住者の交流、放浪者の哀愁を描いた物語であるからだ。





追記・私は2023年6月上旬〜11月上旬まで、ある意味 放浪者であった。その約5ヶ月間、大学へ行くか行かないか、受かるか受からないかなどが全く分からず、宙に浮いたような状態で日々を過ごしていた。そんな日々を、私は苦しみながらも とても楽しんでいた。周囲の人間が思う倍は楽しんでいた。


 これは私がマゾヒストだからとかなんだとか言うのではなく、先行きが分からない状態が放浪者の姿と重なるということである。だから言うのだ。私はあの約5ヶ月間、ある意味では紛れもない放浪者であったと。