今日は生きているが、死んでいる人について考えようと思う。
辺りを見回した時、一昔前なら当たり前のように目の前に社会的地位を無くした人が転がっていた。だが、今はどうだろうか?表立ったものたちはいない。試しによるの橋の下にでも行ってみるといい。昔は溜まり場となっていたのに、みる影もなく消えている。土地柄というのもあるかもしれないが、それでも、明らかに減っている。
しかし、私が挙げたいのはそういう人たちでは無い。もっと一般にあるものたちだ。
そもそも、死というものはどう定義するのかという、そもそも論になってしまう。死とは?肉体活動のその一切を止めてしまうこと?活動は続けていても、脳が死んだこと?四肢は切れ、光を失い、無音になったものは死ではない?差別のように聞こえるかもしれないが、冷静に考えてみよう。そのものは生きていると言えるのか?
身体的死はいくらでも存在する。私が、今、ここで言いたいのは精神的死についてだ。とある作品の登場人物に『死んだように生きる』という言葉を使った人がいる。私の偏見で語るのなら、そのような人々が増えた気がする。
管理化が進む一方で同時に進むのが、無知の推奨。昔の人々は己が何者かはどうでもよかった。村社会で、その中で生きて、毎日を農業に徹すればいい。しかし、いい意味で自由になったのち、人々は自分が何者かを探るようになった。そのために知識をつける人が増えた。急な近代化は若者の心を潰した。そこから100年以上たった今、人々に知をつけている錯覚をするように生きることが推奨される。
一度は聞いたことあると思うが、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」「みんな一緒でみんないい」
おかしくないか?同じになって、己がそこにあるのか?出る杭は打たれる。無知でいることは正義にもなった。そして、人々はゾンビ化した。何も知らずに、与えられたものに従事し、その目的も意味も見出せない。毎日を同じリズムで生きる。そのような人々が「生きていると」胸を張って言えるのだろうか?否、である。