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R-STORE BLOG

レトロ、改装自由、原状回復不要、リノベーション、眺望、ペット可、屋上付、シェアハウス、デザイナーズ、
木漏れ日、川沿い、桜・・・ 今までにない新しい切り口で不動産を再評価するR-STORE(アールストア)のblogです。

代表の浅井が中心に、色々と書き綴ります。

両足義足の400mランナー、南アフリカのピストリウスが「健常者」五輪の代表に選出されたとのこと。先天的な障害によって、両膝下を切断しなければならなかった彼が、ここまでの成果を得た事に、敬意を表したいし、本当に偉大なことだと思う。

しかし、彼が五輪に出る事について、否定的な見解を持つ人がいるらしい。どうやら、彼の着けているカーボン製の義足の反発力が強くアンフェアだ、ということだ。
自分は彼らのの思考回路がどうなっているのか不思議でならない。

彼らはどうやら、ピストリウスの義足をドーピングの一種だと思っているようだ。
百歩ゆずってピストリウスの義足が高性能だとしよう。でも、彼らにはピストリウスの義足にはない、繊細な動きをする、そして鍛えあげてその能力を伸ばすことすらできる、立派なふくらはぎと足があるはずだ。その2つをどうして比べる事ができて、しかもピストリウスの義足をずるいということができようか?彼の義足だって、何度もトライアルを重ねて、微調整をし、彼の体の能力の全てを引き出せるように、繊細につくられたもののはずだ。その過程はきっと過酷なトレーニングにも似たようなものではなかったか。

ふくらはぎの筋肉がないから、疲労が無いというのも違う。陸上は例外なく全身運動で、400mを走りきったあとは、太腿も、尻も背中も全身が疲労困憊になる。ピストリウスに膝下が無いからと言って、彼に有利になることなど何一つないはずなのに。

もし彼らが健常な五輪選手で、ピストリウスに負けたとしたら、義足が高性能だからピストリウスはずるい、と言うのだろうか。そのとき言ってやりたい。
「だったら君も脚を切断して高性能な義足にすれば?」と。

■R-STOREは義足のピストリウスを応援します■
前回のエントリーについて、追記。

要するに、どんな建築であれ建てることは須く「景観の私物化」だと私は思います。私物化しないということは、公共物化するということなんですが、一個人、一組織が建てる以上、私物化は免れられない建築の罪なわけです。
おそらく、どのような建築家もこの罪の存在に気付き、心を傷めながら建築しているはずだと思います(心を傷めてなかったら、相当傲慢です)。
20年くらい前から、風景に溶け込むような建築のデザインが評価されるようになりました。
例えばプリツカー賞を受賞したピーター・ズントー氏の自然素材を利用した建築。同じくプリツカー賞を受賞した日本人建築家ユニットSANAAの建築は、極細の柱とガラスを中心とし、まるで建築を消し去ろうとしているかのようです。
安藤忠雄さんのグラウンドゼロに対する提案は、すべてを地下に埋め、地上には何も建てないというものでした。
それらは、建築を建てるということ、風景を私物化するということの罪悪感の裏返しではないかと思ったりするわけです。

このように、贖罪はの手法は様々に開発されている(笑)わけですが、私として建築家に期待したいのは、100年後に公共の風景になっているような建築をぜひ建ててもらいたいということです。「時間に耐える」ということは簡単なようで、スクラップ&ビルドが常態化しているこの日本においては非常に難しい。ぜひ、そこに挑戦して欲しい、それこそが建築家であると、そう思います。

■R-STORE(アールストア)は建築家を応援しています■
たまたま、Facebookで以下の記事を目にしたのでコメント。
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僕は横浜は詳しくないけれど、要するに景観の美しい場所に、ハリボテの結婚式場はデザインとして問題あるのかどうか、と。
建築家の山本理顕さんは、「景観の私物化」だと痛烈に批判されている。
確かに事業者の提出しているパースを見ると「僕は」ひどいし、嫌いだと思うけど、「僕は」と書いたのは、これをひどいと思わない方もいらっしゃるだろうし、むしろ好きだと思う方もいらっしゃるかもしれないな、と。

そもそも、景観の善し悪し、デザインの好き嫌いなんて非常に個人的な趣味の世界であって、何が良くて何が悪いかなんてことは、誰かが判断するようなことでもないと思う。むしろ判断する事自体非常に傲慢だな、と。
もっと言えば、誰かが設計した建築を建てるという行為自体がすべて「風景の私物化」であり、どうやったって受け入れざるを得ないだろう?と思う。「風景の私物化」というのは、建築がそもそも持っている「罪」なんだから。
建築家が設計した建物なら良い、経済合理主義的な婚礼事業者の設計したものは俗悪だ、ということもないし、そういう考え方自体が非常に傲慢で嫌いだ。

フランク・ゲーリーの設計したグッゲンハイム・ビルバオは、建築界では非常に賞賛されたけれど、歴史的な街並のなかに突如として現れるチタンの塊は異様とも言える。快くおもわなかった地元の方も多くいらっしゃったのではないか?

都市の景観なんてものは、何十年、何百年かけてつくられていくもので、その結果でしか評価できない。槙文彦さんが設計した代官山のヒルサイドテラスは30年以上の歳月を経て代官山の風景になった。何も無い旧山手通りにモダンな建築が建ち始めた頃は異様だったに違いない。

一つだけ言えるのは、もし建てるのであれば、どんなデザインであろうと、50年後、100年後も、この場所に、この建物は在り続けるんだという強い信念をもって建てて欲しいということだ。もし、本当に50年、100年後にその建物が、その場所に存在したとすれば、それは見事にその場所の愛すべき風景となっているに違いない。

その瞬間のデザインではなく、その後100年をデザインして欲しい、それが建築家というものであって欲しい、そう思わずにはいられない。