母は、一言でいえば「頑張る人」だった。

 

母が亡くなった時にそう思った。

 

先のブログにも書いたように 私たちが子供の頃は、𠮟り方が少々ハードボイルドな母だったけれどニヤリ 単に子供が苦手だったのかも知れないし、自分の感情をコントロールする事が困難だっただけなんだろうと 私は思っている。

 

母は、自分の苦手なことや性格を考慮しないで、女学校とか 昭和時代にあった母親学級?で習ったように「親らしく振舞おう」としていたんじゃないかなぁ…

 

親は○○であるべき…子供には○○するべき…などなど。

 

それで 頑張りすぎちゃって…だから 思うような結果にならないと感情が爆発しちゃっていたのかも知れないな…。

 

母は 私たちが小さい頃、近所のお料理教室や パン作りの教室に通ったりしては、献立のバリエーションを増やす努力をしてくれていた。

 

習い事も、ピアノ・習字・クラシックバレエ・合唱団…と、母が積極的に探しては、私たちに通わせた。

 

たぶん「妻は○○であるべき」ってのにも、特に若い頃は囚われていたと思う。

 

母は、寝坊をしたことがなかったし、父の帰宅がどんなに遅くても 身なりを整えて軽く口紅をひいて出迎えていた。(これは母の主義?だったようだ)

 

私たちの前で「疲れた~」なんて言ったこともなかったな…

 

私なんて、親にはなったものの 朝が苦手なままだから、長男と次男の中学生時代に 各々1回 寝坊しているガーン

 

「疲れた~!」なんて しょっちゅう言ってるし、献立もヘビロテ爆  笑

 

そもそも 私は子供たちが大好きで、とにかく彼らがウチから出たくなるまでは一緒に居て たくさん話していたいだけだから 「良い母親」とは 程遠いてへぺろ

 

母は、やはりこれも どこかで聞いたんだろうけど「子育てがひと段落したら 母親は自分の趣味などにスイッチしないと焦燥感にかられる」ことを予防する為に「四十の手習い」と称して 着物の着付け師の学校に通った。

 

この決断は 母にとって大正解で、その後の人生を とても有意義なものにしたと思う。

 

母は それこそ全身全霊で学び 技を身に付け、その集大成として 花嫁の着付けを仕事にしつつ、後進の育成にも力を注いだ。

 

道具を使わない母の着付けは、1日中着物を着て過ごしても 全く苦しくなくて 乱れたりもしなかった。

 

成人式はもちろんのこと、バツイチの姉と 私の「初回」の結婚式は、いずれも母が 白無垢の着付けから お色直しの振袖やドレスまで取り仕切った。

 

 

私たちが高校生くらいになってからは、母は「応援団長」だったニコニコ

 

ちょうど 母が 大きな結婚式場で 花嫁の着付けの仕事を本格的に始めた頃からかな…。

 

私たちが 何か新たなチャレンジをする時、父は慎重派だから「そんなもの上手く行くはずがない」と 否定的な反応だったけど、母は「やってみなさいよ!」って 必ず応援してくれたニコニコ

 

母が亡くなってから「次にあちらで母に逢う時 ”幸せな人生だったよ”って 胸を張って言えるように生きなければ!」と思うようになった。

 

母のように「親らしくあること」を目指すこともなく、何か特別なスキルがあるわけでもなく、超マイペースで 只々子供たちのことが大好きなだけの私だけれど、ありがたいことに 今のところ けっこう幸せだ照れ