愛知、兵庫と巡回してきた『パウル・クレー展』

最終は静岡市美術館です。

 

ここが一番近いんじゃないかと狙っていましたが、連日の暑さにひるみつつ、やっぱり行ってまいりました。

 

 

 

 

抽象的でありながら、詩情豊かな物語性のある作品で知られるスイス・ベルン近郊生まれのパウル・クレー(1879-1940)。孤独に瞑想する芸術家としてのイメージが強いクレーですが、同時代の芸術家との交流や美術動向との関わりのなかで作品が生み出されてきたことはあまり知られていません。本展はベルンのパウル・クレー・センターの学術協力のもと、同センター、バーゼル美術館、日本各地の美術館から集めたクレー作品約60点を核に、カンディンスキー、ピカソ、ミロなどの作品を加え、クレーの生涯にわたる創造の軌跡を捉え直します。-展覧会公式ホームページより

 

 

1、詩と絵画

 

1879年、スイス・ベルン近郊で、音楽教師の父、声楽を学ぶ母のもとに生まれたパウル・クレー。ヴァイオリンの腕前はプロ級、文学の素養もありながら、絵の道を選びます。ミュンヘンの美術家学校に入学するも、学校にはなじめず1年で退学。

 

 

若いころの作品は線描が中心です。

 

 

1906年、リリー・シュトゥンプフと結婚。

収入はなく、家計はピアノ教師のリリーが支えていたそうです。

《リリー》1905年

パウル・クレー・センター、ベルン
 
 

クレーの父親、クレーとリリー


2 色彩の発見
 
1914年のチュニジア旅行をきっかけに色彩に目覚めます。
 

《競馬Ⅰ》1911 宮城県美術館

 

 

《チェニスの赤い家と黄色い家》1914年 パウル・クレー・センター、ベルン

 

 

《マホメットのモティーフについて》1914年 バーゼル美術館

 

 

《北方の森の神》1922年 パウル・クレー・センター、ベルン
 
神秘的な作品
じっと見ていると吸いこまれるような感覚を覚えます。
 
 
3 破壊と希望
 
戦争が始まると、クレー自身も従軍します。
 

《深刻な運命の前兆》《沈む世界を霧が覆う》
 
 
4 シュルレアリスム
 

《周辺に》1930年 バーゼル美術館
 
 

《熱帯の花》パウル・クレー・センター、ベルン
 
 
5 バウハウス
 
1921年、クレーはドイツ国立の造形学校であるバウハウスのマイスターとして招聘されます。
 

《窓のあるコンポジション》1919年 パウル・クレー・センター、ベルン
 
 

《女の館》1921年 愛知県美術館
 
これも、写真ではわからないけど、立体的でキラキラしたうっとりするような作品です。
 
キャプションには「薄青色のドレスをまとったふたりの女性が、舞台の幕を左右に開いているようだ」とあるけど、私にはそういうふうには見えなくて……
 
 
これに限らずキャプションは説明的な感じ。
 
 
《花ひらく木をめぐる抽象》1925年 東京国立近代美術館
 
 
6 新たな始まり
 
1933年、ナチス政権が樹立すると、クレーの作品は「幼児的で錯乱した精神の現れ」とみなされ、批判的な文脈で展示されていきます。1937年には、大規模な「退廃芸術展」が開かれ、この展覧会への出品を名目に134点のクレーの作品を含む、2万1000点の作品が没収されたそうです。
 
クレーは生まれ故郷のベルンに亡命。しかし、銀行口座が凍結され経済的な困難に陥り、さらには自己免疫疾患を発症してしまいます。
 
クレーの苦悩が伝わってくるような絵画が並びます。
 
《殉教者の頭部》1933年 パウル・クレー・センター、ベルン
 
それでも、クレーは創作の意志を持ち続け、1939年には1253点もの作品を制作します。
 
 
《腰かける子ども》1933年 宇都宮美術館
 
 

《イチジク》1934年 パウル・クレー・センター、ベルン
 
 
この絵はとても気に入ったので、滅多に買わないグッズを買ってきました。
 
 
クレーが亡くなったとき、アトリエに残されていた作品のひとつ
 

《無題(最後の静物画)》1940年
 
 

 
 
カンディンスキーやミロ、ピカソ、ブラックなど、クレーが影響を受けたであろう作品を含む全120点。
クレーの世界にどっぷりと浸れる貴重なひとときでした。
 
 
この世では、ついに私は理解されない。なぜならいまだ生を享けていないものたちのもとに、死者のもとに、私はいるのだからー墓石に刻まれたクレーの言葉

 

 
 

本日もおつき合いありがとうございます。