日本経済新聞出版
2023年(令和5年)2月16日(木)
「成田で強制執行開始」という見出しが朝日新聞朝刊(千葉板)に載ったそうです。
本書の著者である牧さんは、思わず目を疑ったと言います。
私も驚きました。
令和の今、成田闘争は終わっていないのです。
著者は、日経新聞の社会部記者として、新空港の建設が決定してから「成田担当」を命じられ、以後、12年余り、空港開港問題をめぐって、対立・紛争があるたびに三里塚の現場に駆けつけ、取材に当たったそうです。
現役の記者時代、社会部以外を知らないという、日経の中では例外的な立ち位置。さらに、他社の記者は二、三年で人事異動するところ、彼だけはずっと成田を担当という、これまた異例の経歴です。
著者が長年疑問に思っていたのが、闘争の中心人物、戸村一作でした。
「暴力はダメだ」「暴力主義と一線を画すのだ」と農民や支援学生に呼びかけていたクリスチャンの彼が、一転、「角材を闘争のシンボルにせよ」と激しい闘争に踏み出していったのはどうしてか。
本書では、戸村一作の半生をたどり、闘争が激化していく様子が描写されます。
はじめ空港は隣の冨里町に建設予定でしたが、地元住民の反対に遭い、三里塚が候補にあがります。もともとこの地には御料牧場があり、そこを空港建設地として、周辺の農地は簡単に買収できるという目論見もあったようです。
しかし、地元農民にとって、この地は戦後、苦労して荒地を耕し、やっと収穫物を得ることができるようになった思い入れの強い土地でした。戦地から引き揚げてここに入植した人もいたようです。
全国から支援のために集まってきた学生たちにも、それぞれに思いがありました。農民の子女と家庭を持ち、農業者になった人もいました。
昭和52年、この地に住みついた、社会運動家の前田俊彦さんの言葉が、問題の根っこを端的に表しているように思います。
三里塚では、国家権力というものと百姓とが本当に対決しておる。これは、長期的なものになるに違いない、という予想があったし、典型的な農民に対するー当時、私が言うたことは、「国家権力が国外侵略というのではなくて、国内に対する侵略を開始した」ということです。開発ということは国内に対する侵略であると。
事態を話し合いで解決しようという動きが起こったのは、平成に入ってからです。
この間、多くの犠牲者を出し、禍根を残す成田空港。
今も空港内に残る横堀鉄塔。
戸村一作の墓は空港から1キロほど離れたところにあり、闘争の際に亡くなった3名の機動隊員の墓はグーグルマップで見つけることができます。
おつき合いありがとうございます。