岩波文庫
8月12日から14日にかけて、日経の朝刊に「帰還 創作者たちの証言」という記事が載った。戦後、大陸からの引揚げを経験した作家・五木寛之たちの証言を紹介するものだ。
映画監督の山田洋次は終戦時、13歳。大連で終戦を迎えた。「どの街でも日本人は現地の中国人を低く見ていた。貧富の差は明らか」だったが、それが「8月15日の正午を機に一気にひっくり返」った。
玉音放送を聞いた学校の帰り道、「中国人の貧しい家々の屋根に、国民党の「青天白日旗」が何百本もはためいていた」。それを見た山田さんは「復讐(ふくしゅう)されるのではないかという恐怖に襲われて、逃げるように自宅へ走って帰った」という。
その後の生活は困難を極め、親戚のいる山口県へ引き揚げたのは47年になってからだった。
戦争、あるいは内戦が終わって、敗者と勝者が入れ替わるとき、積年の恨みを晴らそうと思うのは人として普通の感覚なのだろうか。
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『死と乙女』はチリの作家、アリエル・ドルフマンによる戯曲です。
舞台でも上演され、映画化もされたというけれども、私は知らない。
ある夜、誰かの車で帰宅した夫。
車がパンクしてしまって、通りがかりの人に送ってもらったという。
その親切なサマリア人こそ、独裁政権下で自分を拷問した男だと確信した妻は、男を拘束する。
彼女が受けた仕打ちを考えれば、当然の報い、というかどう責めても責め足りないような気もする。
家庭では良き夫、良き父である男が拷問に手を染めていく過程も、人間という生き物の不気味さを浮かび上がらせる。この男を自らの手で裁くことに正義はあるのか。
だってどうして私?どうして私が、私が自分を犠牲にしなければならない側なの、どうして?言いたいことを飲み込み唇を嚙むべきなのはどうして私なの?なぜいつだって私たちなの?
チリの歴史なんて全然知らなかったけど、安定しない政情の原因はスペインによる占領までさかのぼれるのかもしれない。それでは、国が別の国を支配するとき、復讐の問題はどうなるのだろう。
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13日付の朝刊では、ちばてつやさんが終戦時、やはり旧満州にいて、現地の徐さんに助けてもらった話が紹介されています。
「あしたのジョーの矢吹丈、「紫電改のタカ」の滝城太郎。「ジョ」のつくキャラクターが多いのは徐さんの影響ではないかと問われたことがある。意識したことはなかったが、言われてみれば確かにそうだ。引き揚げの強烈な経験が私の中に染み込み、漫画に浮き出ているのだろう」
危険をおかしてまで助けてくれる異邦人もいれば、同胞を拷問にかける人もいるわけだ。
人間ってやっぱり不思議。
日経新聞といえば、ここへきて夕刊がペラペラです。
ステルス値上げか!
おつき合いありがとうございます。