正直に言えば、可能な限り楽しく仕事はしたい。そして、お堅いやり方をせずに、笑いの中で勝たせてあげたい。だから、ブログはなるべく軽い話を中心にしたいと思っている。


そうは言っても、それしか書かないと、この先生は飲み助で不真面目なだけだと知らない人間には思われるので、たまには真面目なことも書くことにしよう。


新高一になる女の子の面倒を先日よりみている。残念ながら、彼女は公立高校に落ちてしまい、某有名私立高校へ行くことになった。一生懸命受験勉強をやっていたことは、教えていてわかる。しかし、あまりにも無駄な勉強をさせられすぎていた。見せられた塾のプリントの数々。藤川に言わせれば、効率が悪く、無駄以外の何ものでもない。


では、藤川が彼女の面倒をみていれば合格させられたかというと、やや微妙なのは事実である。理由は、志望校と本人のポテンシャルの差を埋めきれたかは、やってみないとわからないというレベルだからである。ただ、受ける前からほぼ敗北が決まっているという悲壮な戦いにはさせずに済んだだろうとは言える。


何故か。彼女は力がある子なので、基礎を一通りやらせた後は、徹底的に思考をするという訓練をさせてやれば良かったのである。思考をさせ、それを説明させる。人に説明するためには、自分がきちんと理解していなければならないし、自分の思考プロセスを再確認することにもなる。宮城県の公立入試を暗記で戦い抜けると思う方が間違っている。そういえば、以前このエントリー を読んだときに、仕事をきちんとする人間は結局似たり寄ったりのことをしているのだなぁ、と感心したものである。この説明がきちんと出来るようになってくると、同じ誤答であっても明後日の方向のものから、正解まで後一歩に近づき、そして最終的には大化けする。


思考するためには、単純に数をこなせばよいというものではない。思考を要求されるものも、易しいものから難しいものまでバランス良く与えていかなければならない。


さて、ここで問題になるのは、彼女がこれから行く高校である。


藤川に言わせれば、無駄にスパルタ、無駄に難しい授業をやる迷惑この上ない学校の典型である。


勉強とは難しければ、量が多ければよいのではない。良質のものを、難易度のバランスをとり、そして出来れば量をやることが望ましい。悪問を100問やるよりは、良問を10問やった方が良い。そして、良問を100問やるならば、悪問100問解くときとは天と地ほどの差が出る。難しいこと=良問ではないのである。この点を、どうもこの学校の教師は勘違いしているのではないかと思うときがある。


三年時間があるので、学校が邪魔さえしなければ、相応のところで戦えるだけの力をつけさせてあげることは出来るはずである。問題は、絶対に学校のスパルタが、藤川の指導計画を邪魔することが火を見るより明らかなことにある。


とりあえず、頑張って脱出を目指そうな。先生も、あの無駄に難しい悪問を見たくないんだ。