ある僧侶のブログより
「現在(いま)のお前は、ただ甘ったれているだけで、ぜんぜん覚悟を持って生きていないではないか…」
葬儀を終え自坊へ戻る運転中、そんなメッセージが、いきなり頭の中で響きました。
それは、
〈特段の努力も鍛錬もせず漫然と日を送りながら、その当然の帰結である“停滞・閉塞状態の人生”への不満で鬱々とし、将来に対する不安で悶々とする私〉
に向けられた、指導霊からの叱咤のようでした。
言われてみれば誠にごもっともで、最近の私は、人生を自らの手で切り開く意欲に欠け、気に入らぬことがあるとすぐ他人(ひと)のせいにし、周囲から受け取ることばかり、を求めておりました。
雨上がりの薄日さす夕方、自坊に帰着し、(ふう…)とため息をひとつ。
僧衣を解き、しばし一人になる時間を作り、心地よい風が抜けるベッドに身を横たえました。
胃の辺りに両の手を置き、目を閉じて呼吸を整えていると、風が通り過ぎる音、鳥たちの囀る声が聞こえてきます。
ゆっくりと上下するお腹。
深く、静かに、落ち着いてゆく心に、慈愛に満ちた声が、また語りかけてくるのでした…
~お前はかつて、「人生は修行道場だ」と、自らに誓っていた。
その信念は今も変らぬ筈なのに、今のお前は、その覚悟を忘れてしまっている。
修行とは何か?それはどのように為されるのか?
思うままの、望む通りの人生。
イヤなことはせず、苦手な人を遠ざけて過ごす暮らし。
もしそれが実現するとして、魂はそこで、何を学ぶのだろうか。
幸せな時に微笑み、うまくいった時に感謝をする。
それは誰にもできる、当たり前のことだ。
思う通りに進まぬ人生、望み通りに運ばぬ暮らし。
勇気を出して事に当たり、怖れを押して苦手な人と対面する。
その中で、果たしてどれだけ、耐え忍び、微笑み、人に与え、感謝することができるか。
自動的な感情反応で生きるのではなく、意志の力を使って、“その時間”をいかに変えることができたか。
その一回、一回の成就の度に魂は磨かれ、その積み重ねの先で、人生は開けてゆくのではないだろうか。
誰かが与えてくれる幸福、思いがけず訪れる幸運、そんなものを待ち望んでいてはいけない。
それらは、もし現れたとしても、必ず何処かへ消えてなくなる。
追えば追う程、逃げてゆき、握りしめようとすればする程、手からすり抜けてゆく。
「常在道場=常に私は修行道場にいるのだ!」
その信念を、もう一度、しっかりと肝に銘じなさい。
お前が“そこ”を道場にするなら、仏は常に“そこ”に在(ましま)す。
耐え忍び、微笑む、お前の傍らに仏は寄り添い、人に与え、感謝するお前を、仏は背後から支えるのだ。
「仏が今、自分と共にいてくれる…」
「あぁ、今まさに、魂が磨かれてゆく…」
〈仏の守護〉と〈魂の琢磨〉を、そのように実感できる人生の、何と豊かなことであろうか!~