今の政治は江戸幕府の足元にも及ばない | 錦鯉春助の冒険

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日常の恐ろしき風景

 僕は大の東京嫌いだ。今の東京は東京以外の日本を植民地化して食い散らかし、ぬくぬく太った醜い都市だ。


 だが徳川幕府には感心する。徳川も三代家光までは軍事独裁政権だった。これを武断政治と呼ぶ。


 まだ徳川政権が起動に乗る前だから軍事独裁政権も仕方がない。家光は武家諸法度を設定して外様大名に難癖をつけ改易、切腹などを申しつけた。


 また参勤交代で大名の経済力を削いだ。経済力は権力そのものだ。だが関ヶ原の石田三成の経済観は正しかった。


 全国の石高と大名の数が合わなくなっていた。こんな時に飢饉が起きると大変な事になる。フランス革命もロシア革命も国民の経済が困窮したからだ。


 大名達は自分の生活を守るために年貢を取る。餓死するしかない農民は決起する。これがキリシタン一揆に繋がったのが島原の乱だ。


 天草四郎時貞を党首に百姓やキリシタン3万5千が廃城である原城に籠もった。


 危機を感じた家光は九州の大名の連合軍13万で原城を攻め3万5千を根絶やしにする。天草四郎時貞の首は長い間、刑場に晒されたがその首は若い頃の沢田研二に似てたらしい


 この事件でキリシタン大名は全て処刑されキリシタンは地下に潜る。


 ここに家光の鎖国・キリスト教禁止の政策は完成するが幕府を批判する声は多かった。


 家光の息子、四代将軍の家綱は軍事独裁政権が脆いのを知っていた。転機は向こうからやってきた。明暦の大火だ。


 当時の江戸の人口は78万。とてつもなく巨大都市だ。まだ都市の整備が整わない内に全国から人が集まる


 林檎箱のようなバラックの家が密集して広場もなく道路は狭い。第一まともな消火組織もない。


 火事は江戸城の天守閣や本丸も焼き、江戸市中七割を焼き尽くした。死者10万以上と言われる。歴史上最大の火事だ。


 会津藩主でもあり家綱の参与であった保科正之は幕府の備蓄米を放出して炊出しを行なった。旗本にじゃぶじゃぶ軍用金を渡し米を買わせると江戸の米相場が暴落するのを防いだ。


 死体処理のため回向院を作り手厚く葬った。上野に火災よけの広場、広小路を作り、隅田川には千住大橋しかなかっが両國橋と永代橋を新設して逃げ場を作る。


 神田川や玉川上水を発削して江戸市民に豊富な飲料水と防火用水を用意した。


 これを武断政治に対して文治政治

と呼ばれ7代将軍まで続く。文治政治は武力に頼らす法による支配である。


 何故江戸は浪人が多く治安が悪いのか。それは大名を潰し改易するからだ。家綱の時代からよほどのことがない限り大名の改易はなくなる。


 また死罪でも残酷な火あぶりは禁止された。また戦国時代を思わせる君主の後を追う追腹切腹を硬く禁じた。


 90歳まで生きた老人はこれを祝い一日に玄米5合を支給した。これが日本の年金制度の始まりだと云われる。


 世襲で15代も続いたのは徳川幕府が単純な軍事独裁政権ではなかったからだ。


 勝海舟のおかげで江戸城は無血開城したから皇居として使う事が出来た。江戸市中は戦場にならず東京へ引き継いだ。


 その東京では国民の事を考えぬ岸田政権が続く。


🔴明暦の大火にはまだ後日談がある。水戸藩主・水戸光圀は大火の後に大日本史を編まねばならないと考えた。


 水戸光圀は水戸黄門である。勿論光圀は全国を漫遊してはいないが代わりに多数の学者を全国に走らせ資料集めをさせた。


 保科正之と水戸光圀が名君と呼ばれたのは、水戸光圀は自らと水戸藩士に質素倹約を課し城下の特産物を無税にしたからだ。今の政治家とは逆だ。


 また幕府は大火の後で「掛売り」を奨励した。掛売りとは現代の移動販売だ。昭和には豆腐売りがラッパを吹いて来たしロバのパン屋があった。


 何故掛売りを奨励したかは江戸は火事が多く店舗を構えても火事なら台無しだからだ。


 江戸は掛売りで溢れたが味噌、醤油、塩、酢など腐りにくい商品は、50歳以上の高齢者、15歳以下の子供、身体障害者にしか販売権利を与えなかった。これらの人々は中々普通の仕事につけぬ社会的弱者だからだ。


 こう云う事を書くたびに現在の政治家が悲しくなる。