不幸を書こうか幸福を書こうか、それが問題だ -3ページ目

もう何十年前のことなので、心では忘れているけど脳の中にこっそり眠っていた記憶が思い出される。


実家は田舎の農家。

昔ながらの家だったので

母は長男の嫁として扱われていた。



強くいじめれたとかではないけれど

長男の嫁だから、ということで

私達兄弟が小さい時でも

弟をおんぶして

私達の手を繋いでいる様な状態でも

長男の嫁の仕事は当たり前にするようになっていた。



たとえば、お正月の餅つきの杵と臼。


嫁が用意するものだ。



何十キロの杵と臼を

一人で滑車に乗せて運び


餅つきのためのもち米を蒸して運ぶ。



おじいちゃんが餅をつくときに

熱いもち米を素手でひっくり返す。


おばあちゃんも生きていたが

それは、嫁の仕事だった。



うちは、まだボットン便所だったので、今ではありえないが田んぼにトイレの中身を定期的に捨てていた。



それも、嫁の仕事だった。



父の兄弟が結婚する前は、どんな時間でも父の兄弟が帰ってくると、ご飯を作る家事も待っていた。


たとえ深夜でも。



長男の嫁の仕事は計り知れなく

いじめではないが、恨みみたいなものは募っていたと思う。




昔ながらの家庭の家長。私が子供の頃のおじいちゃんは強かった。




絶対権力のあったおじいちゃんが歳をとり弱くなった。



母屋は私達家族の住む場所になり


私達が昔住んでいた

敷地内のボロ小屋が、おじいちゃんの住む場所になった。



住む家をチャンジしたのだ。




そのころ、おばあちゃんはもう死んでいて

おじいちゃんは一人でボロ小屋にいた。




おじいちゃんをあまり良く思わない母は

おじいちゃんのご飯を作るのを嫌がった。




私が、家にいるときは、おじいちゃんのご飯を私が作った。



昔の人なので、食べるものが難しい。


なんでも、コンビニで売っているものを食べるような人ではなかった。



たいてい、うどんやラーメンに野菜と卵をいれると食べてくれる。


そういったものを作っていた。



父の兄弟も結婚して家を出ていたが


一人ぼっちになってしまったおじいちゃんを心配して

父の妹がよくおじいちゃんのところに来ていた。



二人の会話は庭にいてもよく聞こえた。



私がご飯を作ってくれることを話していたが


「まーずくって、食えたもんじゃない(笑)」



おじちゃんがそう言うと


父の妹も

「あの子は料理も下手だからね(笑)何をやらしてもだめだからね(笑)」


と声を出して笑った。






家って、そういう家だったんだよね。




褒めてもらおうなんて思ってない。



ただ、普通に良かれと思ってしたことを


影で笑われた。



不思議と私の役割っていつもそうで


私は、この家の子ではないのかもしれないとおもっていた。



思い出せばきりがないが、



そればっかりだったのかと言われればおそらくそうではない。





私の家は最寄りの駅まで5キロある。



高校生が行くには、山を越え

悪い噂のある地域を抜けていかないとならない。



いつからか、おじいちゃんが私の車での送迎係になっていた。



おじいちゃんが元気なうちは

私の送迎はおじいちゃん、そうなっていた。




車で迎えに来てもらい帰りに

どらやきなどを買って帰る。


コロッケの日もあった。


生菓子の日もあった。


一緒に食べた。



なので、

悪い思い出ばかりではない。



それは、父と母にたいしても同じ。



殴る蹴るのギャンブル大好きな父親

私を可愛いと思わない母親



でも



良かったこともある。




たいてい多かれ少なかれ差はあってもどこの家も誰でもそんなもんじゃないかな。




良い方を見て懐かしがるか、

悪い方を見て恨んでいくか、




どっちを向くかは


自分で決めていくんだよね。きっとね。




誰と付き合っても

誰との関係でも同じで。




わたしは、これまでもこれからも


幸せであり不幸であり



どっちも含めた日常で右往左往しながら生きて、そして、死んでいくんだろう。