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全て批評目的の引用であり、他意はありません
あらすじ
1149年3月、熊野詣の帰途に落馬した家盛(大東駿介)は、
そのまま帰らぬ人となった。
宗子(和久井映見)は悲しみのあまりとり乱し、
忠正(豊原功補)は家盛が死んだのは清盛(松山ケンイチ)が
神輿(しんよ)を射た報いであり、「お前が死ねばよかったのだ」と
罵声を浴びせる。
後日、清盛の館を弟の頼盛(西島隆弘)が訪ねると、
失意の清盛に家盛が落馬寸前に発した言葉を告げる。
「兄上」というひと言だった。また自分は清盛が苦手であること、
それでも伝えに来たのは、父母を同じくする唯一の兄・家盛のことを
第十四回「家盛決起」のラストで、熊野詣からの帰路落馬した家盛。
京の忠盛の屋敷に帰って来た彼は、既に現世の人ではありませんでした。
報せを聞いた清盛も駆けつけるのですが...
「触るでない家盛に触るでない
」
と家盛の母宗子に家盛の亡骸に触れることを拒否られ...
「お前じゃお前がこの家に禍を持ち込んだ
お前が神輿に矢を射たゆえ、
家盛に神罰がこうじたのじゃ
お前が~、お前が死ねば良かったのじゃ
家盛の代わりに、お前が死ねば良かったのじゃ」
家盛贔屓だった叔父忠正には「お前が死ねば良かった」
とまで言われる始末。
本当に第13回「祇園闘乱事件」で見せた良い叔父さんぶりは
何だったんでしょうかあれは無理やり平氏のターンは
良い話にしたいというプロデューサーや脚本家の妄想から生じた、
本当に余計なシーンだったと思います。
忠正が言った「神罰が家盛にこうじた」という台詞について
少し考えてみます。先日UPした記事
藤原師通は神罰で死んだのか?藤原師通Wikiの内容から検証してみた
で述べたした通り、
>「嘉保2年(1095年)に押し寄せてきた延暦寺・日吉社の強訴に対して、
要求を拒否して源頼治を派遣し、攻撃を命じた藤原師通
(もろみち。忠実の父、忠通&頼長の祖父)は、
承徳3年(1099年)師通は悪瘡を患い38歳で急死したため、
延暦寺は神罰が下ったと喧伝した」>
という史実があります。ドラマが展開されている時点から約50年前
のことではありますが、人々のメンタリティーには大した変化は
ありません。師通が死去した4年前の行いに対して「神罰が下った」
と当時の人々が思ったのであれば、この忠正の言うとおり
「清盛の神輿を射たという振る舞いの報いとして、清盛の弟である
家盛に神罰が下った」という考え方は決しておかしなものではありません。
まぁ現代を生きる我々から見れば、忠正の言い分は無茶苦茶
以外の何物でもありませんね。
叔父忠正に「お前が死ねば良かった」とまで言われても、
何も言い返せない清盛
再び泣き叫ぶ宗子。平氏一門を襲う嵐の始まりです。
場面変わって、清盛の屋敷に清盛の異母弟で家盛の同母弟
「落馬の寸前、家盛の兄上は確かに呟かれてございます」
『「兄上」と』
『思い違いをなさいませんよう。正直に申しまして、私は兄上、
あなたが苦手です。騒々しく何かをしでかし、そうしてクヨクヨ悩まれる。
「代わりに死ねば良かった」とまでは思いませんが、
家盛の兄上は私にとってただ一人、父と母を同じくする
心易い兄でした。家盛の兄上の最後の言葉、最後に伝えたかった
相手に伝えるは、私の務めにございましょう』
「清盛が苦手」と言いながらも、家盛の最後の言葉を伝えに来た頼盛。
「騒々しく何かをしでかし、クヨクヨ悩む清盛が苦手」という
言い分は尤もであります。だから松ケン清盛は「中二病」とか、
「清盛の出てないシーンは面白い」とか、ツイッターやブログで
意見を述べている人に言われてしまうのです。
私も主演の松ケンの演技云々より、気に入らないことは
何でもかんでも人のせいにして騒ぎ、怒鳴り散らし、伝説の剣と
化した服装に似合わない宋の剣を振り回し、服装も髪型も小汚い
というキャラ造形が受け入れられません。
これは明らかに主演俳優の責任というより、脚本家や美術的な
問題であります。
劇中では家盛の死は母宗子の嘆きに応えたいという家盛の
気持ちに悪左府頼長が付け込んだ結果、情緒不安定となった
家盛が鳥羽法皇の熊野詣の警護道中にて落馬し、それが原因で
落命したという話の流れになっていました。
ですが史実ではどうだったのでしょうか
部分抜粋した 平家盛Wiki
の記載をもとに事実関係をみてみます。
>久安3年(1147年)、正五位下。11月14日(12月8日)、常陸介となる。
25日(19日)の賀茂臨時祭では左兵衛佐として舞人を務め、
30日(24日)に鳥羽法皇が行った舎利講に出される
100種の杯の半分を負担。久安4年(1148年)正月に
右馬頭・従四位下に叙せられる。
久安3年(1147年)6月に祇園闘乱事件を起こした
兄・清盛に代わり、家盛が朝廷で重んじられるようになってくる。
しかし久安5年(1149年)2月、鳥羽法皇熊野詣に病を押して
同行していた家盛は、参詣の途中で病が悪化し、
都に戻る間もなく宇治川の落合辺りで死去した。
享年は20代半ば頃と推定される(『平治物語』では享年23)。>
祇園闘乱事件で清盛が停滞を余儀なくされ、代わって家盛が
重用されるようになったというのは事実です。
ドラマのように清盛に代わってのことかは書かれていませんが、
賀茂臨時祭で舞人を務めたのも事実のようです。
ですがその死因は病死であり、それも病をおして鳥羽法皇の
熊野詣に同行して病を悪化させたのが直接の理由とあります。
ドラマでの頼長に籠絡されて平氏一門を裏切る結果となってしまい、
それを気に病んでの落馬という筋書きはあくまでフィクションです。
ドラマですからある程度の創作が入るのは当然のことですが、
頼長の男色相手リストに平氏の一門の名は見当たらないので、
平家盛にはとんだ迷惑なわけですねぇ。
それもこれも、頼長が有名な男色家であり、清盛と家盛が
反目していたと思われる事実もあるので、ドラマで家盛が
頼長の毒牙にかかってしまったとされたのは、脚本家に
そんな想像をさせるネタがあったのも事実ですから、
仕方がない一面もあると言えるのですが...。
>家盛の死によって、清盛の後継者としての立場が確定した。
また家盛が存命であれば、保元の乱で平家一門が
分裂していた可能性もあったと言われる。>
という記載もありましたので、清盛と家盛の間で棟梁の座を巡る
バトルがあったのも十分に可能性のあることです。
後の「平治の乱」で源義朝の嫡男である頼朝の命乞いを
熱心に行ったのは池禅尼(宗子)とされていますが、その理由は
「頼朝がまだ13歳の若者であったうえに、家盛に似ていたからである」
といわれています。もしかしたら清盛は家盛に対して後ろ暗い
思いがあり、家盛の母である宗子に家盛の名前を出されたら、
「嫌だ」とは言えなかったのかもしれません。
しかし、この件に関して言えば別の見方もあります。
保元の乱で過酷な戦後処理を行った藤原信西は
既にこの世の人ではありませんでしたから、
単純に清盛は保元の乱以前の慣例に従い、
過酷な戦後処理をせずに寛大な処置をしただけかもしれません。
その清盛の寛大な処置で生き延びた頼朝を始めとする義朝の
子供達が、後年平氏を壇ノ浦で滅亡させるのですから、
その教訓から後年の武家社会では、敵対した者は一族郎党まで
滅ぼすのが当然のこととなります。そして
「平治の乱の清盛の寛大な戦後処理は、武家にとっては
してはならない悪い事例として語られるようになっていったのでは」
というのが、私の推理であります。あくまで私の推理であり、
史実として正しいかはまた別の話ではありますが...。
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