「平清盛」第13話「祇園闘乱事件」で

清盛・忠盛の処罰を巡るシーンで忠実が発言した

>「この忠実、神に矢を射たてまつることの恐ろしさ、

誰よりも存じております。

神罰にて父師通(もろみち)を亡くしておりますゆえ」>


という内容について、忠実の父である藤原師通Wikiの

記載をみて検証してみます。 


藤原師通Wiki  より部分抜粋

>嘉保2年(1095年)美濃守・源義綱の流罪を求める

延暦寺・日吉社の強訴に対して、

要求を拒否して源頼治を派遣、攻撃を命じる。

矢が山僧・神人に当たり負傷者が出たことで、

延暦寺は堀河天皇・師通を呪詛した。>


の部分が示すとおり、またもや強訴をしてきたのは延暦寺。

しかし、師通は強訴側の要求を拒否して、

派遣した源頼治に対して強訴側への攻撃を命じています。

ドラマでは清盛が神輿を射抜いていましたが、

それは史実とは異なることは既出の記事で検証したとおりです。

しかし師通は自分が実行したわけではありませんが、

強訴側への攻撃を派遣した武士団に命じていますので、

迷信を信じずに行動した人物とは、忠実の父師通のことでありますビックリマーク

しかし、延暦寺側は報復行為として堀河天皇と師通を

呪詛したといいますから、恐ろしいものです。

師通はともかく、天皇まで呪詛したんですねぇ...。


>承徳3年(1099年)師通は悪瘡を患い38歳で急死したため、

延暦寺は神罰が下ったと喧伝した。>


強訴を武力で退けてから4年後、師通は38歳で急死しました。

これは今の感覚で考えれば単純に病気のせいであり、

神罰が下った結果と考える人などいないでしょう。

しかしとても迷信深かった平安時代のことですから、

「師通の急死は強訴側を攻撃して神人や山僧に

負傷させたことに対する神罰である」

と当時の人々は捉え、それが忠実の

「神罰にて父師通(もろみち)を

亡くしておりますゆえ」

という台詞になったのでしょう。そのために叡山側の荒法師達の

鼻息も荒くなり、あの絶対的な権力を握っていたハズの

タフマン白河法皇でさえ、

“強訴をする山法師は意のままにならん”

と嘆息していたわけです。そんな時代背景ですから、

ドラマで源為義やその配下である源氏の武士達が強訴を

する山法師に対して強気に出れないのは無理ないことで、

神輿に矢を射掛けるなんていう罰当たりな行為など

出来るはずがありませんでした。

そんな「神輿を射抜くという罰当たりな行為を颯爽と行ない、

その後も決して悪びれなかった清盛はとても凄いんだビックリマーク

というのが、ドラマでの清盛の描写でありました。

これはドラマを盛り上げる効果はありましたが、

あくまでフィクションであります。



>師通の政権は僅か5年で終焉することになったが、

後継者の忠実は22歳で政務の経験に乏しく、

引退していた師実にも忠実を支える余力は無かった。

師通が有能な人物だっただけにそれを喪った摂関家は

院に対する従属を余儀なくされ、

その勢力を大きく後退させることになる。>
有能な摂関家の氏長者であった師通の急死により、

22歳とまだまだ若かった忠実が後継者となったのですが、

忠実は経験不足であった上に先に見たとおり

白河法皇の怒りを何度も買うなど失態を繰り返すなど、

どうみても政治的センスがあるとは言えない人物でした。

祖父師実は存命でしたが、政治の舞台から引退していた

こともあって十分なフォローも出来なかったようです。

ですから、忠実の代になってからは白河法皇に対する

一方的な従属関係を余儀なくされ、藤原摂関家の勢力は

大きく後退していったと考えられます。


>日記に『後二条師通記』がある。

性格は剛直で気が強く、真面目で物事の道理を重視する

性格であったと伝えられている(『平家物語』)。

また体躯も立派であり、歴代天皇の御物である絃上という

琵琶を弾いた際、琵琶がまるで塵のように小さく見えた

との話が伝わっている(『今鏡』)。>


>性格は剛直で気が強く、真面目で物事の道理を重視する性格であった>

という箇所は、まるで頼長みたいです。頼長は祖父師通からの

隔世遺伝で多くの美点を受け継ぎ、それを感じた忠実は

頼長をより溺愛したのかもしれませんね。







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