最近産経のWebサイトを結構細かくチェックする機会の増えたワタシ。
理由は、今回も使っている記事引用機能があるから。
著作権の問題について色々と考えさせられることがありましたので、
「堂々とブログに転載できる記事引用機能がある
産経のWebは非常に使い勝手が良い」
という自分勝手な理由でありますが、折角産経さんが用意してくれている
機能なので、使わない手はありません。
まぁ他社も同様の機能を使えるようにしてくれれば、産経ばかりに
頼る必要も無くなりますが...。
さて、今回話題にするのは元東大教授・本村凌二氏が書かれた
西行についての記事です。この本村先生という方のご専門は
古代ローマ史のようですが、西行のこともこれだけ短いながらも
簡潔にお書きになれるということは、かなりの知識をお持ちなんでしょうね。
本村先生の書かれた記事は以下のものになります。
このなかから、気になった箇所を抜粋します。
記事からの一部抜粋
>高貴な女人とスキャンダル
もっとスキャンダラスなのが、さる高貴な女人への
忍びがたい恋心であったという。
今風に言えば佐藤義清はイケメンの美男子であった
というから、女御(にょうご)たちにも人気があったらしい。
「申すも恐れある上●(じょうろう)女房を
思ひ懸けまゐらせたりけるを」
(『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』)とほのめかされている。
しかも深い仲になりながら、「一度だけ」との仰せに、
重ねての逢瀬(おうせ)を思い切るために出家したという。
この女人が鳥羽上皇の中宮でありながら、
上皇の祖父の白河法皇の寵愛(ちょうあい)をうけていた
待賢門院(たいけんもんいん)璋子だったという説は根強くある。
嘆けとて月やはものを思はする
かこち顔なるわが涙かな
西行の歌にしてはそれほど傑出しているわけではない
一首だが、『小倉百人一首』に入選している。
秘められた悲恋の裏を知りつつも、世間の人々は
口に出すのをはばかっていたのかもしれない。
大河ドラマ『平清盛』はこの悲恋説をとっていたが、
賛否両論もだしがたいところだろう。>
部分抜粋終了
源平盛衰記の記載の引用から、出家前の西行(佐藤義清)と
待賢門院璋子の悲恋説を紹介されており、
その説を素に構成された大河ドラマ『平清盛』のドラマ展開については
>賛否両論もだしがたいところだろう。>
と書かれています。確かに火があるからこそ煙が立った
のですから、そのことまでは否定しません。
しかし、私がこの件について
平清盛第10話「義清散る」Vamos的解説 中編VOL.2(義清リア充崩壊編)
平清盛第10話「義清散る」Vamos的解説 後編(義清出家して西行法師へクラスチェンジ編)
といった記事で書いたとおり、ドラマにおける佐藤義清(西行)
の所業があまりにも鬼畜でありました
待賢門院に夢中になったのは佐藤義清(西行)の方であり、
彼女が自分の意のままにならぬと知るや、
キレた義清が待賢門院に襲い掛かり
こんな絞殺未遂事件を起こすという有様でした。
こんな事件をおこしておきながら、鳥羽院の温情ともいえる
処置によって罪に問われなかった義清。
しかし、在宅中に近くに寄ってきた自分の娘に唐突に蹴りを食らわせ、
唯一心を許せる友という設定である清盛に対して、
「出家する!(鳥羽)院が私をお許しになったのは、未だ
待賢門院様を愛しく思っているからだ。愛しいゆえ、突き放すのだ!」
「王家(皇室)の乱れの元は、人が人を愛しく思う気持ちだ!
手に入らぬなら、奪いたい!奪えぬなら、殺したい!
そんな醜い思いが渦巻いている!」
「美しく生きることが私の志だ!醜さにまみれて生きる覚悟はない」
などと自分の醜い心を棚に上げて王家(皇室)批判をしまくり、
「そんな王家(皇室)に愛想が尽きた」といわんばかりに
出家という流れで話が展開していました
もう呆れるばかりの西行の人格貶め&皇室への侮辱と
私などは思ってしまいましたので、
>賛否両論もだしがたいところだろう>
と書かれた本村先生のご意見には、正直ヌルさを感じます。
まぁ匿名で好き勝手書いている自分と、実名でご意見を
発表されている方を同列に見ること自体は間違いでありますので、
現在の言論状況を鑑みるに、本村先生は良く言ってくださった
ほうであると言わざるを得ないのが現状でありましょう。
本村先生の記事にはまだ続きがありますので、その部分を抜粋します。
記事からの抜粋
>聖人伝説に似つかわしい歌
ともあれ西行の魅力は、
晩年のみずみずしいほどの諦観にあるのではないだろうか。
西行のなかでも最も名高い歌なら、
何事のおはしますをば知らねども
かたじけなさに涙こぼるる (『元長参詣記』)
江戸期に「お伊勢参り」が流行した折に、人口に膾炙(かいしゃ)
したらしい。西行の歌でないことはほぼ間違いないというが、
世捨て人の聖人伝説にことさら似つかわしい。
英首相W・チャーチルは
「アーサー王が史実の人物ではなかったとしても、
アーサー王は実在すべき人物なのである」
といみじくも語っている。これにならえば、
人々の慣れ親しんだ西行の歌は、
聖人歌人の詠んだものであるべきなのだ。
(もとむら りょうじ)
【プロフィル】西行
さいぎょう 平安後期~鎌倉初期の歌人。
元永元(1118)年、検非違使(けびいし)の父の下に生まれる。
北面の武士として鳥羽上皇に仕え、保延6(1140)年に出家。
以後、生涯の大半を九州から奥州までの旅のうちに過ごす。
文治6(1190)年、死去。歌集に「山家集」など。>
抜粋終了
この部分は、素直に感服いたしました。
徳川家康の人生訓として名高い
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」や、
武田信玄(晴信)の
「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」
に近いものが、西行にもあったのですね。
「人の一生は~」の言葉は徳川家康自身の言葉では無いという
のが定説ですが、如何にも苦労人の家康っぽい言葉として
受け止めている人は多いと思われます。
また武田信玄の言葉も、彼の生きた時代の東国には
石垣を用いた城などありませんし、堀も空堀が主流。
如何にも大阪城以降の近世城郭に当てはまる発言内容から、
この言葉を信玄の言葉と信じるなど、到底ワタシには出来かねます。
しかし、その言わんとするところは信玄の生き方に通じるものがあり、
イメージに合うということまで否定するつもりも更々ありません。
そんな「自身の言葉ではないが、その人をイメージする
のに相応しい言葉」の西行バージョンが、
何事のおはしますをば知らねども
かたじけなさに涙こぼるる (『元長参詣記』)
という歌であると、この本村先生の記事を見て知ることが出来ました。
確かに出家後の人生の多くを旅に費やした西行法師のイメージに
ピッタリな内容の歌であると、素直に私も思います。
そんな謙虚な心を、私も持ちたいものだと思った次第でありました。
西行について、ちょっとでも知識が増えたなぁと思ってくだされた方、
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