平清盛第10話「義清散る」Vamos的解説 前編(義清リア充編)
平清盛第10話「義清散る」Vamos的解説 中編VOL.1(義清リア充崩壊序曲編)
の続編記事になります。
※使用した画像はNHKの公式HPや、録画したドラマのデータから
抽出して利用しております。
全て批評目的の引用であり、他意はありません。
雅仁親王の元服の儀の場面です。
育ての親たる高階通憲(信西)夫妻
※(通憲の妻が雅仁親王の乳母)も列席中。
通憲も「今日ばかりは雅仁様も雅に振舞っておられる」
と口にしますが...
良かったのはここまで
!
楽師達が現れ、今様を歌い始めます。
本当に徹底して雅仁親王(後白河帝)
を今様狂い
に描いてますねぇ..。
まぁそう描かれる根拠となる記録が残っているお方ですから、
仕方ない一面もありますケドねぇ
。
それに相応しき振舞いをせよ!」
さすがに鳥羽院もキレました
!
「はて?ふさわしき振る舞いとは?」
雅仁親王は、周囲の反応など関係ないとばかりに言い放ちます。
ある意味「全くブレない方」という感じで描かれてますね。
我が子の悪態に、ハラハラする待賢門院(璋子)様。
ここでナレーションが入ります
「雅仁様の奇行は、元服後も
酷くなるいっぽうであった」
確かに「今様の歌いすぎで喉をおかしくした」
なんて逸話を持つお方とはいえ、
さすがにやり過ぎ感が漂っています。
そんな「やり過ぎ度満点」である得子との対決シーン。
我が母(璋子)を蹴落とし、
国母になる日も近うございますな」
院(鳥羽院)のお子とは思えませぬ。
もしやそなた、先の院(白河法皇)
のお子なのでございまするか?」
傍でそのやり取りを目にしていた待賢門院(璋子)が、ここで乱入!
「雅仁はまごうことなく
(鳥羽)院のお子でございます!
取り消してくださいませ!」
一方、こちらは院に仕える北面の武士達の詰所。
ここでは待賢門院と得子のバトルの模様が、
噂話として飛び交っていました。
いつもは的の真ん中に的中していたのに、
気を取り直した義清、もう一度矢をつがえますが...
今度は的にカスリもしません!
「美しく生きる」という己の美学を、
「矢は的の中心を射抜くように」
としきりに語っていた、リア充にして
パーフェクト超人佐藤義清。
その俗人としての崩壊劇が、ここから始まります。
いてもたってもいられない義清。
清盛に対して「すまぬが、今日は帰らせてもらう!」
と言い残し、立ち去ります。
このあたりの演出は、「伏線が上手く回収されている」
という印象を受けました。
しかしここからの展開が、
あまりにも凄まじいのです![]()
呑気に水仙見物とは呆れます![]()
お帰りを待ち、一言お諌め申さねば
気が済みません
」
鳥羽院にお目通りが叶わず、院のお帰りを待つことにした頼長。
その頃、鳥羽院は水仙を眺めて
いらっしゃいました!
お花畑の鳥羽院、似合いすぎです!
その頃、「待賢門院様はオレが救う!」
と勘違いしまくってる義清が、
待賢門院(璋子)のもとを訪れます。
「あの日(義清との昼ドラ)
のことは忘れよ」
「ご自分でもお分かりになってるハズです!
あの日から、得子様に掴みかかるくらいの
熱きものが、心の内より湧き上がっているのです!」
待賢門院(璋子)、突然花壇に駆け寄ります
「咲いておったのじゃな、ここに!」
それは、待賢門院(璋子)が散々痛めつけてきた
鳥羽院が、こよなく愛する水仙の花でした!
その待賢門院(璋子)の様子をみた
義清が、ついに暴走
しました!
「許さぬ!」
「なんで分かってくださらぬ?
あなたをお救いできるのは、
私しかおらんのに!」
「なにゆえ私ではなく、あのような
酷いお方(鳥羽院)を
愛しく思われるのですか!」
完全に駄々っ子の理論。
お前は何がしたいんだ?
これが待賢門院(璋子)を救うための行為?
完全に義清(西行)の
一人相撲に他なりません!
そこへ(タイミング良すぎる!)清盛が現れ、
義清の暴挙を制止します。
清盛に制止され、ボー然とする佐藤義清。
倒れた待賢門院とお付きの堀川局。
「璋子様!一体何があったのです!」
恐怖の眉無しツートップの一角である、
堀川局が駆けつけます!
惚けている義清に対し、堀川局は訴えます。
「お逃げくださいませ!早う!」
実際に佐藤義清(西行)と待賢門院の間で
こんな昼ドラ的展開があったのでしょうか?
NHK側は何とも用意のいいことに、公式HP内にある
よくある質問 のコーナーでこう解説しています。
西行の出家の原因はハッキリとは分かってませんが、実際に
辛い恋があったことは事実のようです。若い平安貴族の男性が
出家する時って、「恋に破れて」という事例が実際に多いようです。しかし、
どこをどう脳内変換したら、
こんなにまで義清は基地外
ストーカーとなるんでしょうか?
理解に苦しみます!
それに待賢門院(璋子)は康和3年(1101年)生まれ。
対する佐藤義清(西行)は)、元永元年(1118年)生まれですから、
璋子の方が17歳も年上です!
更に言えば西行が出家したのは保延6年(1140年)であり、
その時は23歳(数え歳)であったそうです。となると、その時の
待賢門院(璋子)は40歳(数え歳)になります。
「人生50年」と信長が愛した「敦盛」の一節では歌われています
ので、その当時から言えば40歳は立派に老境に差し掛かった
年齢です。
もし義清‐待賢門院(璋子)密通説が成立するのであれば、
待賢門院(璋子)様はどれくらいの美魔女であったのでしょうか?
その頃水仙見物から帰った鳥羽院は、
頼長と会見しようとした矢先に
「待賢門院が曲者に襲われた」との報を聞き、
「出直してまいれ!」
と言って頼長との会見を中止。早々に退席します。
仕方がないこととはいえ、頼長にしてみれば
散々待たされた挙句にこの仕打ちです![]()
「物事を順序立てて進める
ということをご存知ないのか
」
と悪態を付くのも無理はありません![]()
ちょうどその時、外には慌てて走っている
清盛と佐藤義清(西行)の姿がありました。
頼長の鋭い眼光は、清盛と義清の二人を正確に捉えていたのでした...
平清盛第10話「義清散る」Vamos的解説 後編(義清出家して西行法師へクラスチェンジ編)
に続きます
「大河ドラマ平清盛」の佐藤義清(西行)の描き方が酷い![]()
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