※2011年1月21日にUPした記事ですが、2012年5月23日(水)に
同内容が再放送されること、及び2012年大河ドラマ「平清盛」
関連記事を書くにあたり藤原頼長に対する知識も増えたことから
多少情報を追加したこともあり、本日日付で再度UPしました。
関連記事
史実を基に検証する藤原摂関家の家庭の事情 忠実-忠通・頼長親子編
藤原頼長でした。といっても「誰それ?」というのが多くの人の
反応でしょう。興味のある方は 藤原頼長Wiki をご覧ください。
歴史秘話ヒストリア
タイトルの悪左府とは頼長の異名で、左府とは左大臣
のこと。つまり悪の左大臣ということですが、当時の悪という
言葉は今とは使い方が違います。
源義朝の子で頼朝、義経の兄にあたる義平のあだ名は
悪源太義平。これは彼の武勇を褒める意味合いがありました。
頼長の場合は「豪腕左大臣」とでもいった意味合いでしょうか?。
頼長は平安末期の摂関家の人で、学問に秀でた人でした。
しかし権力者となってからは強権をふるうことが多く人々から
恨まれ、ついには崇徳院を旗頭に保元の乱を引き起こします。
しかし源為朝(源為義の八男。義朝の弟で、頼朝や義経の叔父。
弓の名手で、当時最強の呼び声の高かった武人)の夜襲策を
とりあげなかったところ、逆に後白河天皇に味方する義朝から
夜襲を受けて敗北。頼長自身は流れ矢に当たって死ぬという
平安貴族らしからぬ最期を遂げました。
私がDVDを所持している
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などでは正直軽い扱いしかされてませんでしたが、この番組では
“非常に勉強熱心な人であり、入浴中に部下に
漢籍を朗読させて内容を暗記した”
といった向学心旺盛な人だったことを紹介してました。
頭脳も明晰だったようですが、それ故に他人を見下す
傾向があったようでして、後に破滅してしまったのでしょう。
当時の朝廷は乱れに乱れ、高官たちの会議も全然
開かれてなかったとか。まるで学級崩壊みたいですね。
それを正そうとした頼長は「会議には出席するように」とか、
当時形骸化していた勤務表の提出を義務づけるとか、
もっともな改革もしたそうです。
しかし皆が皆襟を正すわけもありません。そこで頼長が
とった行動はというと、違反者の家に火をかけて燃やして
しまったそうです。正義感が強いあまり、違反者に厳しい
というよりやり過ぎ。これでは周囲の人もひいてしまいます。
そういった記述があちこちにあるそうです。
腐女子やボーイズラブ大好きな方々にとってはまたとない
ターゲットです。しかし彼の男色には多分に政治的な
意図があったらしく、相手のほとんどが院の寵臣だったとか。
つまり院の威光を利用すべく、その近臣を男色の相手として
とりこんだということらしいです。
※その後頼長や院政のことを色々調べた結果、藤原摂関家の
忠実・頼長親子は鳥羽法皇とは対立関係にあったようですので、
院の近臣と男色関係を結んだ動機は院の勢力の切り崩しが
目的だったのではないかというふうに見解を変えております。
そんな頼長ですが、男色の相手であり寵愛する部下
であった者が亡くなった時は非常に悲しみ、その墓の前で
一昼夜泣き明かしたといったエピソードもあるとか。
色んな意味で叩けばほこりが出まくる、知れば知るほど
面白い人物であるようです。
そのうち彼に関する本でも読んで調べてみようかな?
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