※この記事で使用した画像は、平清盛公式HP 及び
録画映像からの抽出したものを使用しております。
大河ドラマ平清盛の内容検証記事を書くにあたり、
藤原摂関家の人間関係等についての説明が必要であると
感じたことと、自身のこの分野の知識の補充を兼ねてUPした記事です。
忠通と頼長兄弟の父である忠実(ただざね)ですが、忠通と頼長は
異母兄弟とはいえ、年が23も離れています。年齢から言えば
忠実=祖父、忠通=子、頼長=孫としたほうがしっくりきますが、事実は
忠実=父、忠通・頼長=子なんですよねぇ。
以下では、 藤原忠実Wiki からの部分抜粋記述によって、
忠実及びその息子である忠通と頼長のことを検証します。
忠実Wiki白河院政期よりの抜粋
>特に致命的であったのは康和4年(1102年)に大衆に対する
取締の不徹底を理由に、白河法皇が忠実の叔父である
興福寺別当・覚信を解任しようとした際、
これを取り成そうとして却って法皇の怒りを買ってしまい、
8月1日に法皇から政務関与への拒絶を通告された事件であった
(『中右記』)。
こうした一連の事件のために摂関家は完全に院政の
風下に立つ事になり、忠実は摂関家の「栄花」を
再び取り戻すという夢を生涯かけて追求する事になる。
(中略)
この頃、法皇により忠通と公実の娘・璋子の婚姻の話が
もちあがるが、璋子の素行に噂があったことや、
忠実が閑院流を快く思っていなかったこともあって、
破談になっていた。同時期、娘の勲子を鳥羽天皇に入内させるよう、
法皇に勧められるが固辞している。
ところが、永久5年(1117年)璋子は鳥羽天皇に入内する。
忠実は衝撃を受け、さらに鳥羽天皇の希望もあり、
保安元年(1120年)、勲子を入内させようと工作を始めた。
だが、以前入内の勧めを断りながら鳥羽天皇の希望を
受けて再度入内させようとしたことに法皇は激怒し、
ただちに忠実の内覧は停止された。
内覧は天皇に奏上される文書を見る職務であり、この職務を
剥奪されることは事実上関白を罷免される事に等しかった。
驚いて駆けつけてきた藤原宗忠に、
忠実はただ「運が尽きた」と語った(『中右記』)。
この時、法皇は忠実の叔父・藤原家忠を関白にするつもりだったが、
藤原顕隆の反対により翌保安2年(1121年)
長男忠通が関白となる。
忠実はこの後、宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。
なお、次男頼長が生まれたのはこの謹慎中のことである。>
>(白河)法皇により忠通と公実の娘・璋子の婚姻の話が
もちあがるが、璋子の素行に噂があったことや、忠実が
閑院流を快く思っていなかったこともあって、破談になっていた。>
という部分には驚きました。
もし忠実が白河法皇の申し出を承知していれば、
金麦璋子様が
忠実さんの長男である忠通さんの妻になってたんですねぇ
もしそうなっていたら、鳥羽院と璋子の宮中昼ドラも無かったし、
もちろん璋子が産んだ子である後白河院の存在も
確実に抹消されていたところです。
崇徳院に関してはビミョー。もし白河法皇との不義の子である
というのが事実であれば、璋子が忠実に嫁いでいたとしても
この世に生を受けたことは変わりません。
しかし、鳥羽院の子として育つのと、摂関家の忠通の子と
して育つのとではまるで話が違ってくるのは言うまでもありません。
崇徳院が白河法皇の皇子であったのが真実だったとしても、
璋子が鳥羽院に入内せずに忠実に嫁いでいたのであれば、
摂関家の子として別の生き方が出来たのかもしれませんね。
ある意味、「その時歴史は動いた」モノである
「息子(忠実)の嫁に不良少女璋子さんなんてお断り」
事件でありました。
多分璋子さんの素行問題とは、タフマン白河法皇と
デキてるという件でしょうね。
どこへ行っても人々をかき乱す、タフマン白河法皇でありました。
とはいえ、その白河法皇の怒りを買って忠実が苦境に
立たされたというのは、完全に彼の器量不足や判断ミスゆえのことです。
それに白河法皇からの忠実の娘勲子の鳥羽天皇への入内の要請を
固辞しておきながら、自分の息子忠通との婚姻話を断った
璋子が鳥羽天皇に入内したと聞くやいなや、一度は断った
勲子の入内話を再燃させるという白河法皇の面子を潰す
ことをやってしまったのですから、もう話になりません。
結果として白河法皇は激怒し、忠実は宇治にて10年もの
蟄居生活を余儀なくされます。そんな不遇の日々に生まれた
次男頼長がとても頭の良い子であったことが、
忠実の頼長に対する溺愛に繋がったのでしょうね。
藤原摂関家の栄華の象徴である宇治の平等院鳳凰堂。
現地を訪れた感想を書いた記事は 憧れの地 平等院
であります
忠実Wiki鳥羽院政期よりの抜粋
>忠実が再び内覧となり政務を執る一方で、
忠実が内覧となったことで名ばかりの関白となってしまった
とはいえ忠通にも関白としての矜持があり、
父子の関係は次第に悪化していく。
忠通に男子が生まれない事を危惧した忠実は、
忠通に頼長を養子にするように勧め、
天治2年(1125年)に頼長は忠通の養子となった。
しかし康治2年(1143年)に実子の基実が生まれると、
忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、
頼長との縁組を破棄する。
さらに久安6年(1150年)正月、頼長が養女・多子を近衛天皇に
入内させると、忠通も養女・呈子を入内させて頼長に対抗した。
忠実は忠通に対し摂政職を頼長に譲るよう要求するも
忠通が拒否したため、久安6年(1150年)9月、激怒した忠実は
摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、
氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶する。
仁平元年(1151年)には忠実の尽力により
頼長が内覧の宣旨を受け、関白と内覧が並立するという
異常事態となった。>
藤原摂関家でも、昼ドラじみた愛憎劇が繰り広げられていた
ことがわかる記述です。
忠実が内覧となってしまったために、名目ばかりの関白と
なってしまった忠通と、父忠実の仲は当然のごとく険悪化。
しかも忠通になかなか実子が出来なかったことから、
一度は頼長を忠通の養子(忠通は頼長より23歳も年長ですから、
兄弟というより親子というほうがしっくりきます)にしたのに、
その後で実子である基実(もとざね)が生まれたことから、
頼長との縁組を破棄。忠実は頼長を溺愛していたのですから、
忠通に対して激怒するのは当たり前です。こうして
忠実-忠通親子と、忠通-頼長兄弟の亀裂は一層深まったのでした。
本来なら喜ぶべき子供の誕生が争いの種になるとは、
なんとも恐ろしい話でございます。
>忠実は忠通に対し摂政職を頼長に譲るよう要求するも
忠通が拒否したため、久安6年(1150年)9月、激怒した忠実は
摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、
氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶する。>
この場面は、「平清盛」第16話「さらば父上」にて描かれていました。
ドラマでは摂関家に従う源氏の棟梁源為義に忠実が
長男忠通の下にあった朱器台盤を剥奪してくるように命じ、
為義はその命令を忠実に果たします。そのシーンを簡単に見てみましょう。
忠実の命令で、関白忠通の屋敷へ押し入った源為義。
為義配下の武士達は関白忠通邸で狼藉を働き、
忠通の父である忠実の依頼通り、藤原摂関家の
氏長者(うじのちょうじゃ。一族の当主を意味する)の証である
朱器台盤(しゅきだいばん)の剥奪に成功します。
為義配下の武士達の狼藉に怯える忠通
忠実は忠通から剥奪した朱器台盤を上機嫌で眺め、
溺愛する次男頼長に与えます。これは、藤原摂関家の
氏長者が忠通から頼長へ移ったということを意味します。
藤原摂関家に取り入ることで、源氏の勢力拡大を目指す為義。
源氏は代々摂関家と良好な関係だったとはいえ、
当時の摂関家は斜陽に差し掛かっていました。
だからこそ頼長はその状態を覆し、摂関家の栄華を取り戻すことに
血道をあげ、頼長を溺愛する忠実が頼長を全力でフォローする
という状態でした。
その摂関家も一枚岩ではなく、忠実-頼長ラインと、
忠実の長男である忠通は対立関係。
ですから、このように忠実の命で源氏の武士達が
関白忠通の屋敷で狼藉を働いたわけです。
完全に親子関係が崩壊している忠実と忠通。
為義という人物は正に忠実・頼長親子にこき使われていたのであり、
それを自覚しながらも方針転換が図れず、朱器台盤を献上した時の
為義は、摂関家親子の役に立てたことが嬉しいという
意味合いからか得意げな笑みを浮かべていました。
そういったドラマの描写は、為義という人物の小物ぶりを
見事に描いていたと私は思います。
話を保元の乱に移します。
忠実Wiki保元の乱より抜粋
>保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御すると
事態は急変する。7月5日、
「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」
という風聞に対応するため、検非違使が召集されて
京中の武士の動きを停止する措置が取られた
(『兵範記』7月5日条)。法皇の初七日の7月8日には、
忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する
後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、
蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して
邸宅を没官するに至った。
没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、
頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。
忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて
局面を打開する以外に道はなくなった。
謀反人の烙印を押された頼長は崇徳上皇とともに
白河北殿に立てこもるが、天皇方の夜襲により敗北する。
頼長の敗北を知った忠実は宇治から南都に逃れた。
重傷を負った頼長は忠実に対面を望むが、
忠実は拒み頼長は失意の内に死んだ。
これは、頼長に連座して罪人になる事を避けるための
苦渋の選択だった。15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、
朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥だった
忠実の管理する所領は膨大なものであり、
没収されることになれば摂関家の財政基盤は
崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。
しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と
名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。
17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、
公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、
18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から
没官することが命じられている。
20日になって、忠実から忠通に
「本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた所領」
と「高陽院領」百余所の荘園目録が送られる。
摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを
取ることで辛うじて没収を免れることができた。
『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して
忠通が激しく抵抗したという逸話があり、
摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする
忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。
27日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、
国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息
(兼長・師長・隆長・範長)や藤原教長らの貴族、
源為義・平忠正・平家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。
忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、
洛北知足院に幽閉の身となった。
この乱で摂関家は、武士・悪僧の預所改易で
荘園管理のための武力組織を解体され、
頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、
所領や人事についても天皇に決定権を握られることになる。
自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退し、
忠実の摂関家の「栄花」を再び取り戻すという夢は
叶わずに終わった。
こういった経緯のためか、忠通の息子慈円は
著書『愚管抄』の中で、祖父である忠実が
死後に怨霊となって自分達(忠通の子孫)に
祟りをなしていると記述している。>
「摂関家の栄華を取り戻す」という夢は挫折し、志半ばで死ぬことになる頼長。
今年の大河「平清盛」における功績のひとつは、今まであまり語られて
こなかったために知名度の低かった頼長が、ドラマでいくつもの
見せ場を造ったことで広く知れ渡ったことであることは間違いありません。
鳥羽法皇の死により、頼長は謀反人の烙印を押されます。
事態を打開するために頼長は挙兵。これが保元の乱なわけですが、
周知のとおり頼長と崇徳院側の敗北に終わり、崇徳院は讃岐に流罪。
頼長の敗北を聞いた忠実は南都(奈良)へ逃れますが、
面会に来た頼長と会うのを拒否して、頼長は失意の死を遂げます。
あれだけ溺愛していた頼長に対して随分冷たい忠実ですが、
謀反人かつ敗北者となった頼長と関わって、身を滅ぼす愚を
避けたのでしょう。それに摂関家の莫大な所領は、
まだ忠実名義であったようですので、頼長に肩入れして
それを没収されるのも避けようとしたのでしょう。
結局は父忠実と対立していた忠通が、忠実の所領を継承することで
落ち着きますが、この際に摂関家の勢力を削ろうとする信西と、
権益を守ろうと奔走する忠通との間でかなり熱いバトルが
繰り広げられた模様です。
結局保元の乱において藤原摂関家の斜陽は決定的となり、
その三年後に起こった平治の乱にて、独裁者となっていた
信西入道も死去したことから平清盛の昇進に拍車が掛かり、
清盛一代の短い期間でしたが、平氏全盛期を迎えることになるわけです。
何を根拠に「この男の欲深さが、貴族政治に終止符を打つ」と書かれているのか
イミフですが、忠通と父忠実&弟頼長の愛憎劇が藤原摂関家の落日に
拍車を掛け、変わって武士の台頭を許す原因となったのは事実です。
基実が生まれずに頼長に跡を譲っていたら、また歴史の歯車は
違った方向に動いたのかもしれません。
保元の乱の後は、あれだけ対立していた
父忠実の赦免を巡って奔走しますが、
それは親子の愛情というより、忠実が罪人となることで
忠実名義の摂関家の財産が没収されることへの
危惧からであったと思われます。
最後に「平清盛」第13話「祇園闘乱事件」で
清盛・忠盛の処罰を巡るシーンで忠実が発言した
>「この忠実、神に矢を射たてまつることの恐ろしさ、
誰よりも存じております
神罰にて父師通(もろみち)を亡くしておりますゆえ」>
という内容について、忠実の父である藤原師通Wikiの
記載をみて検証をこころみましたが、
「40000文字以内で収めなさい」エラーが出たため、
別記事扱いといたします。
「この記事が当時の藤原摂関家の立場の確認に役立った
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