現在東京は六本木の国立新美術館で開催中のハプスブルグ展。
http://www.habsburgs.jp/

年明けには場所を京都に移し、京都でも開催されるようです。

私が見に行ったのは先月の14日のことでしたので、

もう約一月が経とうとしていますが、東京での開催は

12月14日まであと一月ほどはありますので、
あえてその感想などをUPします。


今回こんなにUPするのが遅れたのは、ぶっちゃけ

カタログから画像データをスキャンするのが面倒だったから...ドクロ

普通この手の展示会などに行った際には、

お気に入りの絵のポストカードを購入して、

それをスキャンした画像を使用していましたが、

今回はあまりにも素晴らしい作品が多量にあり、

ポストカードの購入するにしても点数が多くなってしまう。

それならばカタログを購入してしまえ!ということに相成ったのでした。


しかし、結構画像スキャンって時間がかかるんですよねぇ。

更に枚数が多いと、なかなかやる気にならなかったりで...。
その上日光や諏訪への旅もありましたので、

この話題もやろうやろうと思いつつ棚上げ状態が続いていましたが、

やっと陽の目をみることができました。

分厚いカタログ本からスキャンした画像を使用していますので、

画像がちょっと曲がったりしている点はご容赦のほどを。

この美術展ではご紹介したい作品があまりにも多いため、

数回に分けてご紹介します。

まず第一回となる今回はハプスブルグ家の王や王妃達の
肖像画をお届けします。


Vamosの徒然な日々-ルドルフ2世

ルドルフ2世(1552~1612)


宮廷をウィーンからプラハに移し、今日まで残る

名高い美術品のコレクションを築いたルドルフ2世。

この肖像画では黒いスペイン風の衣装を纏っていますが、
この頃のヨーロッパは東にオーストリア、

西にスペインの2大強国の王室がハプスブルグ家という

まさにハプスブルグ帝国の絶頂期でした。



Vamosの徒然な日々-マリア・テレジア
マリア・テレジア(1717~1780)


オーストリアの生んだ偉大なる女帝マリア・テレジア。

日本ではベルばらで有名なフランス最後の王妃

「マリー・アントワネット」の母といったほうが、

通りがいいかもしれません。

この絵は彼女が11歳の頃の肖像画といわれています。
彼女は当時の王族としては珍しく恋愛結婚で夫と結ばれ、

最後の子供であるマリー・アントワネットを含めて

16人の子供を生んだといいます。
日本でも織田信長とか武田信玄とか、徳川将軍など

子沢山の人はいますが、

一人の女性が16人も生んだというのは凄いビックリマーク

それでいて国の統治能力も優れていたというのですから、

まさに女帝というに相応しい女性です。
そして「愛する夫の死後、彼女は喪服しか着なかった」

というのも、彼女の人柄を表すエピソードとして有名です。


Vamosの徒然な日々-ヨーゼフ2世
ヨーゼフ2世(1741~1790)


マリア・テレジアの長男にして、彼女の死後に

オーストリア王位に就く。彼は軍服を好み、

宮廷の儀礼的な服装を廃止した後は、

好んで軍服を着用したといいます。



Vamosの徒然な日々-フランツ1世

フランツ2世(1768~1835)


彼が即位した頃はフランス革命が進行中で、

その対処に苦慮したようです。
ナポレオン戦争中のアウステルリッツの戦いに敗北した
ことにより、

神聖ローマ帝国
(名目上のローマ帝国の後継国家。実質はドイツを中心とする国家連合体)
の皇位を返上し、神聖ローマ帝国は名実共に消滅。
しかしオーストリアとハンガリーを中心に国家再編をし、

後のオーストリア、ハンガリー帝国の元をつくりました。
ナポレオン戦争が終結した際の有名な「ウィーン会議」で活躍した

メッテルニヒなど、家臣に政治をほとんど任せきりだったようですが、

国民からの人気はあったようです。

Vamosの徒然な日々-フランツ・ヨーゼフ1世

フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)


実質的なオーストリア帝国最後の皇帝にして、

美貌の皇妃(カイザー・リン)エリザベートの夫として知られる

フランツ・ヨーゼフ1世。

実際はエリザベートの姉との見合いの席に同席した

彼女に一目惚れし、彼女に求婚したといいますから、

かなり情熱的なところはあったと思います。

しかし自分が帝位に就くにあたり、母のゾフィー大公妃の尽力が
大きかったせいで母親には終生頭が上がらず、

そのためエリザベート皇妃もゾフィー大公から

ずいぶんな嫌がらせを受けたともいいます。


彼は家庭的には恵まれたとはいえず、皇妃のエリザベートは

堅苦しい宮廷の生活を嫌って旅から旅を続ける生活をしており、

後に無政府主義者に暗殺されます。
長男のルドルフもある男爵令嬢と謎の心中を遂げており、

弟のマクシミリアンはフランス皇帝ナポレオン3世によって

傀儡のメキシコ皇帝に擁立された挙句、メキシコ共和国の

ベニート・フアレスによって逮捕され銃殺される...等々、

一個人としては幸せとは程遠い人生だったように見えます。


更に1914年にサラエヴォ事件でフランツ・フェルディナント大公夫妻が

暗殺され、この事件を発端にセルビアへ宣戦布告を行います。

それが第一次世界大戦の引き金となり、この戦争の敗者となった

オーストリア・ハンガリー2重帝国は崩壊。

長きに渡ってヨーロッパに君臨したハプスブルグ家の王朝は、

この世から消滅するのです。


フランツ・ヨーゼフ1世にとってせめてもの慰めとなったのは、

第一次大戦が敗北で終了する前にこの世を去り、

自らが守ろうとしたハプスブルグ帝国の崩壊を

目の当たりにしなくて済んだこと。
その生涯をみると、ロシア革命によって滅んだ

ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世と

似通った点が多いように思えます。



Vamosの徒然な日々-エリザベート皇妃    Vamosの徒然な日々-エリザベート

皇妃エリザベート(1837~1898)


私がこの美術展に足を運んだ理由は、彼女の肖像画と

ベラスケスの描いたマルガリータ王女の絵を観ることが目的でした。
この絵はあまりにも有名で、どこかで見かけたという方が

多いと思います。学生時代の私は、この絵がプリントされた

絵皿を部屋に飾って大事にしていたのですが、
引越しの際に割ってしまって、泣く泣く処分したという

悲しい思い出がある絵です。


フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃にして、その悲劇の生涯と

美貌で知られるエリザベート。

右の写真は エリーザベト (オーストリア皇后)Wiki  から

借用したものです。肖像画は決して美化されたものでなく、

名高い彼女の美貌は本物であったことのなによりの証明です。
「シシィ」という愛称で知られる彼女は、その美貌を維持するために

専用のトレーニングルームを設け、日夜トレーニングに励んだといいます。


エリーザベトは当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌と、

身長172cmと背が高く、ウエスト50センチで体重は50キロという

驚異の体形の持ち主でした。

痩身であることに執念を燃やし、過酷なダイエットや

美容方法でそれを維持していましたが、年を取るにつれて

皺とシミだらけになった顔を分厚い黒のベールと

革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、それが

彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。


とはWikiから抜粋した彼女の美貌についての記載ですが、

彼女の自らの美に対する執念は、私などには

理解しがたいレベルにあります。


もともと自由人であったエリザベートにとって、伝統ある

オーストリアの宮廷に身を置くことは窮屈であったようで、

姑のゾフィー大公妃がハンガリー嫌いだったことの反発もあってか、

彼女は熱心なハンガリー贔屓だったそうで、習得が難しいとされる
ハンガリー語を完璧にマスターして使いこなしたといいます。

その反面フランス語は苦手だったともいいますから、

典型的な自分の興味のあることにのみのめりこむタイプの人

だったのでしょう。そんな人が公人として生きるのは大変だ。


日本でも宝塚の舞台になっていたり、テレビ番組で紹介される

機会も多い皇妃エリザベート。その肖像画の実物を

思う存分見れた時間は、私にとって至福のひと時でした。

ハプスブルグ展 その② イタリア、ドイツ、ネーデルランドの絵画編

へ続きます




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