フランスで再度のテロ、トルコで動乱が起こりましたね。
トルコの動乱は、僕は全く想定していませんでした。
エルドアン政権もどうかと思いますが、反乱軍が市民を殺ったようなので、恐怖政治必須です。鎮圧されたほうが平和だったでしょう。
エルドアン政権もどうかと思いますが、反乱軍が市民を殺ったようなので、恐怖政治必須です。鎮圧されたほうが平和だったでしょう。
トルコの反乱の背景についてリクエストがあったので、ここに触れておきます。
フランスのテロも少し関連しているので、ついでに触れます。
フランスのテロも少し関連しているので、ついでに触れます。
専門家ではありません。訪問暦はフランスが各地を少々、トルコはイスタンブールのみ、バルカンは沢山といったところです。英独のニュースはいくらか把握していますが、現地語はわかりません。
トルコという国は、地名はアナトリアといいます。
住民は “ トルコ人 ” と言いますが、これはかなり大きな分類であることと、後述のように、かなり新しい計画的なアイデンティティであるため、“ トルコ共和国に住み公用トルコ語を話す人 ” という感じです。
この“トルコ人”は外来民族です。 ただし “ 民族 ” の枠が、日本で一般に定義されるほどには硬くなく、よそ者という感じではありません。
アナトリアは文明史の古い土地で、アナトリアの文明でビッグなのはヒッタイト。鉄器を発明したといわれ、鉄の車輪の軽戦車(チャリオット馬車)を用い、カデシュの戦いでは、ラムセス2世期のエジプトを破るほどの軍備を持っていました。
アナトリアはメソポタミア(太陰暦、煉瓦、楔形文字など)とエジプト(太陽暦、巨石、象形文字など)の間に位置しており、エーゲ文明も近く、様々な文明を取り入れていたでしょう。
複数の文明が入ってくることは、現代に至るまでこの地の宿命となります。
アナトリアは、かなり長いことギリシャ人の土地でした。
特に、ギリシャ人にとってのエーゲ海沿岸部は、日本人にとっての四国や九州みたいなものです。ギリシャは本来、我々がよくある国別色分け地図で見慣れているような、バルカン半島の先の国ではありません。
ギリシャは海洋社会で、その成り立ちは、ヤマトの文明史が本州、四国、九州といった単位ではなく、瀬戸内海で起こった感じです。イタリア人も近代までは半島単位では行動しておらず、アドリア海のヴェネツィア、西地中海のジェノヴァという単位で暮らしていました。
このように、ギリシャ人はエーゲ海の民族です。
このように、ギリシャ人はエーゲ海の民族です。
ホメロスやシュリーマンで有名なトロイはトルコ側にありましたが、ギリシャとトルコの戦争ではなく、ギリシャ人のポリス間の戦争でした。
ローマ時代、前半はイタリアのローマが栄えていました。しかし、ローマ帝国は建設や法制度や軍事といった実学的な科学技術は進んでいたものの、ある種の芸術や学問や思想は、かつてのギリシャ文明のほうが進んでいました。
次第にギリシャ文明の影響が大きくなっていき、たとえばローマ皇帝にゲイ、バイが多かったりするのはギリシャ産の男色の習慣や、男性賛美からくるゲイ(プラトニックラブに代表される)の影響と言われています。
そこに軍人皇帝時代という戦乱の時代があって、首都のローマは荒廃。 ラテン語よりギリシャ語が話されるなど、ギリシャ化していた帝国の東側のほうが,ローマやイタリアよりも国力が高くなります。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスは帝国を分割統治しましたが、アナトリアを含む最も栄えていた南東部を彼が取り、ほかの地域を、彼の子分の西ローマ皇帝と副帝らに治めさせました。
しばらくして、コンスタンティヌス1世がコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を建設し、キリスト教を公認します。
ギリシャ・ローマ世界がメソポタミアやエジプトに始まる西洋古代文明の集大成とされていますが、このローマ帝国は西から滅び、東ローマ帝国は1000年くらい存続します。
この東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国など)はギリシャ化しており、基本的にはギリシャ人の国でした。 ローマ帝国のブランドを用い、キリスト正教会の本拠となり、カトリックと対立したり、ギリシャ神話の神々への信仰を弾圧したりしていますが、生活形態はギリシャ人です。 世界帝国から、徐々に民族国家へと変質します。
海洋民族国家ですので、領土を広げても、アドリア海や黒海などの海沿いに多くなります。
これが、近東の一大火種である、トルコとギリシャとの対立の元です。
ビザンツ帝国の中期、西暦1000年ごろ(長命なので相当アバウトになります)、藤原道長のころですね。アナトリアに、トルコ系民族が大掛かりにやってきます。
ちょっと複雑ですが、“トルコ人”を整理しておきましょう。
トルコ人というのは大きな分類で、インド・ヨーロッパ語族とか、モンゴル系といったようなレベルの大分類です。 トルコ系の民族のうち、一番西に住んでいるのがアナトリアのトルコ人、つまりトルコ共和国のトルコ人です。
歴史的には遊牧民だったので、中国史を紐解くと、狄(てき)、突厥(とっけつ)、鉄勒(てつろく)、丁零(ていれい)などと言って、中国に侵入してきた異民族として様々な訛り方で記録されています。 彼らは今のモンゴルからカザフスタン、アラル海のあたりやペルシャ付近までを、カザフ、ウズベク、ウイグルといったトルコ系の各民族や、モンゴル系などと入れ替わり立ち替わりしていました。
トルクメニスタン(トルクメン人の土地)もそうした地域の一つです。
このようにトルコ系カザフ人、トルコ系ウズベク人、トルコ系ウイグル人といった民族がありますが、トルコのトルコ人は、歴史的経緯とその思想から、そういった国家や大部族レベルの単位における伝統的感覚や伝統的名称がありません。 便宜上、トルコ系トルコ人ということになります。
トルコにおいて民族とは、血統や生活習慣ではなく言語で定義されます。
血統や遺伝形質においては、トルコに暮らすトルコ人は、コーカソイドつまりヨーロッパの白人や、アラブ人となります。
宗教も関係なく、非ムスリムのトルコ人もトルコ人です。
宗教も関係なく、非ムスリムのトルコ人もトルコ人です。
1000年頃のトルコ人は、セルジューク朝の人々として、支配者層としていくらか入ってきただけのようです。 トルコ語といっても、文章はペルシャ語、アラブ語だったそうです。
アナトリアに入ってきた時点でかなり混血が進んでおり、元来の、我々と同じような東洋人顔はしていなかったようです。
また、イスラム化していました。
トルコ系の人々は、わりと後のほうにイスラム化したり、旧ソ連だった地域が多く、ゆるいイスラムが多いです。 トルコのこの性質は、現代まで継承されます。
セルジューク朝ではスーフィーが盛んで、権力や体制より、内向的な瞑想などを好みます。 ルバイヤートいう酒賛美の詩集が流行ったり、ガザーリーという研究の行き届いた達観系の思想家が出てきており、今日のスンニ派の原理主義体制なら皆殺しにされそうです。
セルジューク系は遊牧色が強く、数世紀の間、アナトリアの内陸部を勢力範囲とします。沿岸部はギリシャ系のビザンツ帝国が支配していました。
ギリシャが古来の活動を行っていたのはこの頃までです。 トルコとの間では、この頃の住み分けが、最も無難かつ正当性の高い国境と思われます。
セルジューク以降は、十字軍が残念だったり、モンゴルが来たり、小国群となっていたりして、次にオスマン帝国の時代となります。
オスマン帝国は、いわゆる世界帝国です。
領土はローマ帝国を東にずらしたような感じでした。
世界帝国の語は、いまいち意味が通じにくいと思いますが、今のアメリカやEUに近い存在です。 ローマ帝国や唐王朝やモンゴルがそれで、宗旨人種不問で高官を登用、混血が進み、複数の文明圏にまたがり文明が混ざるといった特徴があります。
面積が広くとも、大英帝国はエリートが固定的で、ソ連は思想信条に偏狭で、中華人民共和国は漢民族が多すぎ、日本が目指した大東亜共栄圏は民族主義が基盤なので、ちょっと違うと思います。 現代では、実現には難儀していますが、英仏が信仰の自由を保障して旧植民地人に参政権を与えたりと、世界国家を理想に掲げている感じはあります。
“オスマン・トルコ”は他称、また俗称で、実際には典型的な多民族国家でした。オスマンのトップはスルタンを名乗っていましたが、ローマ皇帝を名乗っていたこともあります。いずれも、秩序の覇者であるということです。
公用語はオスマン語。支配者層はこれを話していたそうです。
トルコ語系統の文法に、イスラム文明を多く残していたペルシャ語とアラブ語の語彙を使った人造語で、表記はアラブ文字といいます。現在の人造世界言語、ポーランド産のエスペラント語が、ヨーロッパ語を基礎にしているようなものです。
上流階級はこのオスマン語を話していたそうです。
イスラム体制を標榜しながら、公用語がアラブ語でないことには大きな意味があります。 イスラム教は反民族主義ですが、コーランを翻訳してはいけないなど、アラブ語は優位になっています。それで、エジプトなどはアラブ語化してしまいました。
後のトルコ人達がそうだったように、オスマン人達も汎イスラム主義は取らなかったのです。
現在でも、トルコがイスラムにどっぷりということにはなりにくく、イスラム原理主義(イスラム統一国家を作ろうという宗教的思想、草の根的、ゲリラ戦とテロリズム)とか、ナセルやフセインやカダフィが掲げた汎アラブ主義(アラブ統一国家を作ろうという合理主義的思想、エリート的、ソ連に接近)とは相容れないものがあります。 トルコは地域大国なんですが、イラクやエジプトのように、アラブの覇者に名乗りを上げることはありません。
オスマンの支配者層は様々な出身からなり、トルコ系、今日からトルコ系(今日からオスマン語話者になった人)をはじめとした多民族でしたが、オスマン人という帰属意識を持っていたそうです。アメリカ人が、アングロサクソンとかヒスパニックと思う前に、アメリカンと考えるようなものでしょうか。
オスマン帝国市民の感覚では、トルコ人とはギリシャ人やスラブ人、アラブ人たちと同列の被支配民で、“アナトリアの土着民”的な意味だったといい、よそと同じように反乱を起こしています。バルカンのスラブ人が、自分達のうち、カトリック教徒をクロアチア人、正教徒をセルビア人と呼びますが、ムスリムをトルコ人と呼ぶそうです。これはオスマン時代の意識の残滓でしょうか。
トルコ系の人達は、中央アジアの一部の遊牧帝国を除き、概して遺伝形質的な意味での血統を信仰していません。オスマン帝室もこれには極めて無頓着で、民族意識も薄かったため、皇妃はヨーロッパ人だらけ。1でハーフ、2代で75%、3代で87.5%になるので、中期には、スルタンの遺伝子はほぼ西洋人となっていました。
ヌール・バヌー、サフィエ・スルタンなどが有名ですが、ヴェネチアあたりの貴族の娘を誘拐してきて後宮に入れ、この女性達が皇帝を産んで、権勢を奮うというのが一時期の基本でした。
ちなみに、中期まではスルタンが即位すると、兄弟は皆殺しという慣習でした。皇帝一家は支配権と引き換えに、凄まじい義務を負っていたことになります。
こうして、スルタンほどではなかったでしょうが、オスマン人たちの顔は混ざって、東洋人的な顔立ちではなくなり、ヨーロッパ+少しアラブといった顔になっていきます。