つづき
オスマン帝国も、拡大期にはよくある英雄的な血なまぐさい戦争を行いましたが、アナトリアはビザンツ帝国が1000年、オスマン帝国も600年続いており、南のシリア、イラク、パレスチナや、北のロシア、西北のバルカン半島に囲まれているとは思えないほど安定してきました。
オスマン帝国は今日のイスラム国家からは考えられないほど宗教に寛容で、当時の大国としては世界最高水準でしょう。
ギリシャ正教にはローマ法による裁可権を与え、ヨーロッパが宗教戦争をしている間に、プロテスタントもカトリックも公認していました。ユダヤ人はヨーロッパから亡命してきています。
オスマン帝国におけるイスラム教徒は、アメリカにおけるプロテスタントとか、近代国家におけるの学歴信仰のようなもので、体制内で出世したければ、否定せず信仰しなさいといった慣習法のようなものです。
オスマン帝国はヨーロッパ化します。ヨーロッパ側もまた、オスマン帝国を列強の一つとして認識します。完全なヨーロッパではない(ロシア同様、神聖ローマ皇帝以外の皇帝を名乗っている)のですが、ロシアくらいか、もう少し近い距離に感じていたようです。 イスタンブール(コンスタンチノープル)が欧州文明を代表する都市であり、また旧ローマ領を多分に含んでいたためか、イスラム教ということを除けばヨーロッパ的だったといえます。 とにかくオスマンは欧州のパワーバランスに深く関与しており、フランスと同盟していました。
ルネッサンスから宗教改革、大航海時代にかけての近代前夜、ヨーロッパ最強の国は、フランス王国とハプスブルク帝国(オーストリアなど)でした。この2国は、伝統的な宿敵だったのです。のちにマリア・テレジアによってマリー・アントワネットがオーストリアからフランスのルイ16世に嫁ぎますが、ただの政略結婚ではなく、プロイセンが強大化したために起こった画期的な出来事だったのです。
ヴェネツィア、スペイン、ポルトガルは豊かでしたが海洋国家で、ヨーロッパの陸上の領土にはあまり興味がありません。ドイツはプロイセンが強国になる以前は領邦国家群にすぎず、隅っこに隔離されたイギリスも産業革命までは脇役です。 同じような強力な脇役がオスマンやロシアでした。
フランスにとって、オスマンは宿敵のオーストリアを挟める貴重な同盟相手でした。 三十年戦争でも、カトリックのフランスと組んだイスラムのオスマンが、フランスと同じくカトリックのオーストリアにプレッシャーをかけています。 スペインやイタリアの海軍が邪魔だったこともあり、この同盟関係は長く続きました。
十字軍の時代とは変貌しています。
オスマンにとって、宗教はヨーロッパにおけるそれほど重大事ではありません。 フランスも強い隣国が多く、宗教的名目よりも、国力のほうが大事になってきています。
オスマンのヨーロッパ情勢への参加は第一次世界大戦まで続き、オスマンは主要参戦国となります。
こうした成り行きは今日のEU加盟問題にも繋がってくるわけですが、地図だけを見て「トルコはアジアだ」「トルコはイスラム圏だ」というのは、現実的な認識に欠けるように思われます。 アナトリアは初めにアジアの語で呼ばれた土地なので、ややこしいかも知れませんが……。
「パクス・オトマニア」という語があるそうです。
パクス・ロマーナ(ローマの下の平和)を語源とし、パクス・ブリタニカ、パクス・アメリカーナという言い方をしたりしますが、ある強力な権力の下で、戦乱がなく安定している状態のことです。日本史だと、パクス・トクガワーナといったところでしょうか。
元オスマン帝国領だった地域は、現代と比べて遥かに秩序だっていたことに、反対する人はいないでしょう。
シリア、イラク、パレスチナ、イスラエル、コソボ、ボスニア、セルビア、キプロス、イエメン、スーダン、リビア、グルジア、南オセチアなど、ドロドロの戦乱地域がキラ星の如くです。僕が行ったことがある地域も、ボスニアとセルビアしかありません。
現代のトルコ人がパクス・オトマニアの語を使うそうですが、オスマンに好意的ということは、反原理主義、反民族主義であることを示します。ただし、周辺国からは警戒されるかもしれません。
オスマン帝国に関しては、旧支配地域のほとんどがオスマンから独立した国家となり、トルコ共和国も対オスマン革命により誕生しています。 オスマン時代を暗黒時代と否定する立場の国がほぼ全部で、トルコ共和国がオスマンの後継者を自認するまでは、ポジティブな評価をしようとする圧力はありませんでした。トルコ共和国はオスマンの遺産のうち、後述するアルメニアとの対立なども引き継ぎます。
またオスマンには、ヨーロッパが長いことネガティブキャンペーンを行っていました。
たとえばバーバリ海賊は、要するにオスマンの私掠船で、財宝を掠奪したり奴隷狩りを行うなど、普通に残虐だったのですが、話はかなり誇張されて伝わっています。 離島でもないところに丸見えの手漕ぎの帆船やってきて、当時の武器を振りかざして、元気な奴隷数千人を一度に拉致する話などは現実的ではありません。舷側に死体を吊るすとかは、臭いはあるし、自分が病気になりますし、何より無駄なので、よほどやらなかったでしょう。それらが現実だとしても、コロンブス達が中南米やアフリカにやっていたことに比べれば大分マシですし、海賊にはヨーロッパ人がかなり混じっていました。
これは一例ですが、オスマン帝国が他の権力に比べて、特別残虐だったわけではないのです。
ネガティブキャンペーンの主導者、英仏が世界大戦に連勝したため、一時大戦の戦争犯罪はあまり名誉回復されていません。 ラジオなど情報ツールが発達していた第二次大戦頃のプロパガンダは記録状態がよく、枢軸国の残虐性の誇張がかなり判明していますが、第一次大戦の前だと資料が風化してしまい、オスマン帝国の印象は悪いままです。しかし、大国として600年間維持されるだけの一般的な統治力はあったと考えるのが合理的です。
ちなみに、オスマン帝国とハプスブルク帝国とは積年のライバル関係でしたが、互いにイデオロギー要素は薄く、感情は悪くありませんでした。 この時代は国民戦争ではなく、傭兵同士が王家の勢力拡張のために戦い、主義主張はありません。平時には国境を越えて住民の移動や物流があったでしょう。
バルカンでは建国以来オスマンの攻勢でしたが、1683年にウィーン包囲に失敗した後、プリンツ・オイゲンらが活躍し、オーストリアが押します。しばらくして戦線がウィーンから離れると、トルコ趣味が流行しました。
まず、コーヒーが流行りました。モーツァルトの『トルコ行進曲』や、『後宮からの誘拐』 が有名です。 両者は20世紀初頭にも対立しましたが、第一次大戦ではロシア・イタリアを共通敵とする同盟国となります。
第一次世界大戦ごろから、バルカンや中東のブラック化が始まります。
国民国家の形成と共に民族主義が起こった時代です。
日本は民族主義社会なので、民族主義と国家主義は混同され、また民族主義者は国家主義化し、これらを混同させようとします。しかし民族主義は国家主義とは違い、スイスやベルギーやグレートブリテンやアメリカ大陸の国々は、民族主義をとると解体してしまいます。中国が民族国家を編成するなら、チベットや新疆を手放して、華人国家のシンガポールや台湾の漢民族居住地と国家を形成することになります。 大日本帝国の体制下では、満州国や大東亜共栄圏は、理念としては民族主義ではありません。
一般的に、近代国家と民族国家は強い相関性があり、主権のある国民を民族主義に染めることは、徴兵制と軍備強化とのセットです。
同盟国は、ドイツ帝国と、ハプスブルク帝国と、衰退して末期的となったオスマン帝国です。
リーダーのドイツが民族国家であるほかは、ハプスブルク帝国もオスマン帝国も多民族国家です。
ハプスブルク帝国はチェコの工業力とハンガリーの農業とオーストリアの政治力に依存し、ハンガリー貴族が実権を持っていました。ハイドンのスポンサーだった、エスターハージー家などが有名です。 先のオイゲン公は、フランス生まれのサヴォイア(ほぼイタリア)系の貴族でしたが、そうした各国の人材を登用していました。
ハプスブルク帝国の解体後に、復活運動が最も盛んだったのはハンガリーです。今も皇帝フランツ・ヨーゼフのビールがチェコやハンガリーで売っている関係で、オーストリアとこれらの国々は、日本と中国や韓国との関係ではありません。 極東は日本の攻撃的な占領政策と、朱子学の煽りと民族間の優劣の概念を持ち出す教義のため、かなりキテいます。 オスマンと旧占領地の関係は、前者のタイプです。
連合国の主力は英仏と、ロシアとイタリアでした。
英仏は、それぞれイングランド人、フランス人を核としたほぼ民族国家だったので、ハプスブルクとオスマンを潰すために、敵国内に民族主義を煽りました。
当時の民族自決が植民地を棚上げしたということが言われますが、当時としては、近代国家を作れないと見なされた地域を占領することは、欧州内のルールには則したことでした。
ロシア帝国は、民族自決などとは口が裂けてもいえません。 革命が起こって設計国家ソビエト連邦を成しますが、 やはり多民族国家となります。 レーニンは顔のとおりの混血も混血、ドイツ人、ロシア人、アジア人などが6つくらい混ざっていました。 トロツキーはウクライナ人、スターリンはグルジア人です。 粛清とシベリア送りによる思想統制を代償として、民族主義を超えます。 革命後、戦争からはさっさと撤退しました。
民族主義は、バルカンや中東、コーカサスに広まりました。
空に砲煙を轟かせ、地上を燃やし、地下には地雷を埋めます。
英仏の煽動は、取り返しの付かない失策となりました。
イギリスは半世紀後、多くの植民地を失います。 北アイルランドのIRAの一連のテロでツケを払い、スコットランドも高くつくかもしれません。 EU離脱に関しては相当揉めるでしょう。
フランスも後に植民地を失います。 ブルターニュでもケルト系のブルトン人が独立を模索し、ナチスに接近するといったことが起こります。 その後、フランスは旧植民地やそこからの移民と共に、自由・平等・博愛の革命理念を立てて多民族国家の道を歩みますが、難航しています。 革命記念日にテロがあったことは偶然ではなさそうです。
また、ドイツが極度の民族主義になり、次の大戦が起こったことも高くつきました。 ナチスはドイツ人の統一国家を名目に、オーストリアとズテーテンラント、そしてチェコを併合。 ドイツ人居住地だったポーランド回廊の向こうを目指し、大戦争となったのです。
今では多民族国家となった英仏がシリアに爆弾を落とし、民族国家のドイツがシリア難民を受け入れているのは皮肉な話です。 中東はさっさと英仏と縁を切って、ドイツと友好関係を握ったほうが、21世紀に対応できる安定した国家を築けるでしょう。 難しいとは思いますが、
英仏はオスマン領にもアラビアのロレンス(イラク)などで工作、オスマンからの独立を約束してアラブを煽ります。 戦後、これを反故にして分割占領。イラクをイギリス、シリアをフランスのものとし、それぞれ占領政策のためにクウェート、レバノンをさらに分割して利権を漁ります。
前者は湾岸戦争の直接の原因となり、フセインはクウェート領有の正当性を主張して攻め込みました。 レバノンはイスラエルだのヒズボラだのPLOなどが出てきてぐちゃぐちゃです。
今の日本の報道ではアメリカが表に出てくることが多いので、近現代史を通読していないと、ISの主的がアメリカだと思ってしまうことでしょう。 9.11の影響もあって、イスラム v.s. アメリカ率いる欧米という構図で報道されることが多いのです。
しかしシリアの主敵はフランス、イラクの主敵はイギリスです。
ISのテロがフランスに向けられるのは、理にかなったことです。
ファッション感覚や、平和を願う立派な人になりたいといった短絡的な欲望で、SNSでフランス国旗を貼るのは自殺行為です。
向こうには、奴隷にされるか爆弾で殺されるか選んでいいよwwww 文句があるならいつでもかかってこいやゴルァwwww
くらいに届いています。
自立した個人として本当に平和を願うなら、2時間くらいは時間を割いて、簡単な中東史くらいは押さえておかないと説得力に欠けるでしょう。
オスマン帝国は1918年に第一次大戦に敗北し、数年後の革命でオスマン帝政は滅びます。
オスマン帝国は、ハプスブルク帝国に敗戦した1700年ごろから衰え始めます。
制度疲弊が第一の原因で、非効率だったり、特権が重石になったりし始めます。 そして産業革命で西ほど強くなり、東のオスマンは相対的に弱くなったのです。
さらに19世紀になると、近代国家としてのドイツ帝国と統一イタリアが誕生し、いずれもすぐに強国となりました。 5つしかなかったヨーロッパの大国が、7つになったのです。 オスマンにとっては特に、イタリア海軍は地中海のパワーバランスを崩します。
近代には、オスマンはロシアやオーストリアと戦っては負けて、黒海沿岸やバルカンから駆逐されます。
ナイチンゲールで有名なクリミア戦争もその一つですが、英仏が味方付いたのでその時は勝ちました。でも基本的には負け続けます。
バルカンは同じような体制で持ち主が変わった感じで継承されました。 ロシアもそんな感じで、ソ連時代を経て火薬庫が誕生します。
オスマン帝国は、19世紀を費やしてゆっくりと近代化します。
法制度などのソフトウェアは進むのですが、既得権階級が抵抗するなど、バッサリとはいきません。産業革命は日本より少し遅れます。
第一次大戦では、敗れた同盟国のオーストリアやトルコの人々のほうが、精神面では進んでいたといえなくもありません。また、主にドイツですが、戦闘は敗北側のほうが強く、死者、負傷者いずれも連合国のほうが多かったのです。 連合国は体力と、独立煽動などの政略や諜報で勝利したのです。
英仏の士気は高く、一次大戦で学習するまではかなりの蛮族でした。国家と自分の名誉のためなら詐欺も殺人も強盗も自殺もやるという連中が多かったのです。同盟国やロシアでは、そんな殺人国家は建て替えようという人が多かったのですが、戦争なんて蛮族のほうが強いんです。
第二次大戦ではドイツとソ連が蛮族化し、英仏は文明化していました。アメリカは二次大戦の後に蛮族化し、中東に爆弾を降らせるようになります。
同盟国は、結局は支配地の離反や体力切れで敗北したのですが、オスマンも強く、ガリポリなどで英軍を撃退しました。 アナトリアに住んでいたオスマン人は蛮族化しませんでしたが、離反した新独立国はISすら生むようになりました。
オスマン帝国が敗戦したとき、伝統的な失地回復を目指してギリシャが侵攻しました。
これが講和条約までの間の時期で、停戦・降伏から講和のサインをするまでの間に、トルコ革命が起こったのです。
この革命軍が、ギリシャ軍を撃退します。もともと弱い軍隊ではなかったのに、今度は国民国家の軍隊ですから、士気も高かったのです。
これで、敗戦による領土縮小→革命→少し領土回復→講和という形になったため、トルコ共和国は、敗戦国にしては大きめの領土となりました。
こうしてトルコは、主要民族居住地より、国家領域が広い国家となりました。
これは世界宗教化、合理主義化、実力主義化しやすい条件です。 こうした国は、世界宗教化、合理主義化、実力主義化で揺れる傾向があります。 トルコには世界帝国だった経験があり、民族国家や地域国家の経験は600年間ありません。 特異性や個性や文化よりも、汎用性や普遍性、戦力や利益の追及が得意です。 すなわちイスラム主義化、共産主義や社会民主主義などの設計国家化、中華式のような官僚主義国家などを選択する政争が起こりやすいのです。
民族主義も薄い環境です。 オスマン人の性格や伝統、イスラムの教義などから、革命直後のトルコ共和国人にはトルコ民族としての認識が無かったようです。 たとえばアナトリアの歴史は知られていても、祖先の歴史は知られていなかったようです。
民族の認識が無いとは、中部地方人が中部地方人として固まって活動しない感じです。
ある日、東海地方で、名古屋人や東海人が、中部人としてのアイデンティティーを刺激される。 関西人、東北人、九州人は固まるのに、中部人は何故バラバラなのだ……。 そして北陸人や信州人を啓発し、帝国を作り……といった感じです。
トルコ共和国は、民族主義をいくらか採用します。 元オスマン人がトルコ人と名乗っている感じでしょうか。
この時以降、汎トルコ主義も生まれます。
今では極右扱いですが、一定の勢力を持っています。
汎トルコ主義では、トルクメニスタンや中華人民共和国内のウイグル自治区は同じ国に、トルコ共和国内のクルド人は独立させることになるはずです。 もし 「クルド人をトルコ化する」 という方向に行けば、血の雨が降ります。 革命の際、クルド人は帝政を支持していました。
現実的には、極めて広範囲に暮らす各国のトルコ人達が共同で活動することは難しいです。
“ウイグル人はトルコ人だがウイグル人ではなく、トルコ人はほとんどトルコ人ではない”
といったことが起こるからです。
これはトルコ人の定義が各地様々で、ややこしいから。
“(現代の)ウイグル(を名乗っている)人はトルコ(系の言語に属する言葉を話す)人だが(かつての)ウイグル人ではなく、トルコ(共和国のトルコ系の言語を話す)人はほとんど(血統的には)トルコ人ではない”
完全な近代国家となったトルコ共和国は、オスマンからも様々なものを継承しました。一つはヨーロッパ性です。
世俗主義、いわゆる政教分離を体制の基盤としています。
具体的に言えば、イスラムの教義に則ったシャリーアを基本とせず、ヨーロッパ式の近代法を採用したり、科学を教育したり、信仰の自由を認めたりして、国民全員参加の近代型国民国家をコンセプトとしています。ですので当時としてはワイマール並に進んでおり、婦人参政権なども当初から揃えていました。
アラビア文字をやめ、ヨーロッパ式のABC採用するなど、オスマン時代の遺産もあって、付け焼刃ではない近代国家を形成します。民度はかなり高く、EU化にあたって死刑も廃止。工業力にしては、国際的な地位はなかなかのものです。
ここで誤解してはならないのは、政教分離は国家の絶対的理想ではなく、キリスト教の教義ということです("カエサルのものはカエサルへ”。またはパウロの書簡類の記述など)。 “イスラム圏は正教一致ができていない” と考えるのは、砂糖は辛くないというようなナンセンスです。 また戦後の日本は、政教一致に近い体制です。
イスラムでは、正教一致が教義です。 コーランはある種の社会主義的な体制(ウンマ)を目指して書かれたもので、そこでは民族主義や貧富の差を認められません。 サウジなんかは王国で、違反しているわけです。 エジプトなどは、サウジの王制を批判しています。
イスラム主義者がイスラム主義国家を作ることは、民族主義者が民族主義国家を作ったり、経済主義者が経済主義国家を作ることと同レベルにあります。 従って、トルコ共和国は政教分離を採用したことでイスラム圏の戦乱に巻き込まれずにすんだ反面、原理主義者には敵国扱いされがちです。
外交関係においてもヨーロッパ寄りになっています。
トルコ共和国以降の近隣諸国との関係は、多少大きめの領土を維持したために、ギリシャとアルメニア、そしてクルド人からは恨みを買っています。
オスマン時代にアルメニア人を追い出した領土にクルド人が住んでいるため、地雷の殺傷力はかなり大きいです。
アナトリアとアルメニアとの対立は地理的宿命と思われ、ローマ時代からペルシャを交えて敵になったり味方になったりしてきました。オスマン帝国の頃にはアルメニアは孤立したキリスト教地域となっており、これも火種となります。 帝政末期には政府権力による追放、住民同士の争いによる虐殺といった事件が起こっています。
被害者数は不明で、最大100万とも言いますが、当時の武器の性能からすれば誇張でしょう。 トルコ側では、合法的な暴動の鎮圧や連合国の謀略などとして、虐殺を認めない説が公式のようです。 疑わしきは罰せずが原則ですし、オスマンの後継者を自称するものの、本質的にはオスマン人はオスマン人であり、トルコ人は虐殺事件に関係が無いこと、かといって負の遺産だけは受けないというのでは筋が通らないこと、そしてクルド人とのこと、等々があり簡単に認めるわけにはいかないのでしょうが、当時大勢のアルメニア人が亡命しているため、相当な被害は受けているはずです。
アルメニアはオスマンの後継者たるトルコに領土の返還や虐殺の謝罪を求め、70年代にはテロが起こっています。 しかし戦争には至っておらず、近年になってEUの風が吹き、国交を回復。 トルコの大統領が虐殺について初めて言及しています。
ギリシャは第一次大戦終了時にオスマン領のアナトリアに侵攻しました。 このとき沿岸部を得ていればイタリアやスペイン級の国になるはずだったのですが、トルコ革命軍に追い出されたことよって、伝統的ギリシャ地域の半分で国家を形成することになりました。
北のユーゴスラビアにマケドニアが加入しましたが、マケドニアを自国領と主張するギリシャと対立します(今日の独立も承認していません)。 マケドニアには正教徒が多いのですが、首都のスコピエにはトルコ地区があったり、コーヒーを頼むとトルコ式が出てきたりと、どうもトルコへの感情も悪くは無いようです。 こういうことがあって、単純な二国間対立ではありません。
地中海に浮かぶ英領キプロスでは、ギリシャ系住民とトルコ系が混在していました。 ここが60年代に独立問題やアメリカといった要素も含み、交戦状態となります。
バルカンやイスラム側、ソ連側では比較的うまくやったトルコですが、ギリシャとは戦火を止められませんでした。
革命後、トルコというアジア的な民族名を国名にして、首都もアンカラに東遷したものの、主都はやはりイスタンブールで、長年の外交関係や宗教関係は維持されました。
二次大戦はスルーしました。末期に枢軸側に宣戦布告をした程度です。
冷戦が始まり、スターリン時代のソ連という、極めて危険な政体と隣接していました。ソ連が強ければ、社会体制と外交関係と軍備を整えねばなりません。実学的な科学と工業が必要です。ヨーロッパ化は必然の流れで、冷戦期にはNATOに入りました。
アラブやイラクにはあまり深く突っ込まず、湾岸戦争では攻撃側に回りましたが、アラブvs欧米の印象が強かったブッシュ大量破壊兵器戦争は華麗にスルー。
しかしヨーロッパ一辺倒というわけでは在りません。
ソ連が崩壊してロシアと陸上で隣接しないようになり、南側が荒れればイスラム化する力学があります。
シリアのIS問題でも数年間は静観していましたが、2015年にテロを受け、米軍に基地を貸してからは、それなりに深くかかわっています。
しかし完全な英仏側ではなく、戦闘機撃墜を巡ってロシアと揉めたり、ISとクルド人との三つ巴の戦いを繰り広げています。 ISがトルコ領内で平和主義のクルド人をテロで殺したり、攻撃的なクルド人がトルコでテロを起こしたり、なかなか複雑で僕には捉えきれず、紹介を自粛します。
今までのトルコ共和国は、史上稀に見る外交上手な国家でした。
バルカン、中東、旧ソ連に囲まれているのです。
スルーが上手いというのが何よりの強みです。 2ch力も相当高いに違いありません。
冷戦が終わると、アメリカの強大化とヨーロッパの安定性が際立ってきます。 NATOに加盟したトルコが国家的焦点としているのが、ヨーロッパの基準に組み込まれること。 今ではEU加盟ということになります。 もっと極端に言えば、運営方法や経済力を含め、ドイツやフランス型の国家を目指しているということです。
とはいっても、宗教や経済格差の問題があります。 前者はテロ、後者は移民を示し、まさに今EUで最大の外交的問題となっている2点が課題なのです。 そこで、民族主義をどれだけとるか、イスラム主義をどれだけとるか、本当にヨーロッパに入るのかといった価値観が顕在化しています。 今回の反乱は、こうした背景によって起こっています。
EUから見れば、現政権は合法的に政権を獲得していますが、情報統制や言論弾圧などの政権運営は違法です。反乱軍は合法的な政権運営を謳っていましたが、政権獲得方法が違法でした。
EU側が、クーデターが成功していたとしても、市民を殺すという重大な違法行為で成立した軍事政権を入れることは、まずありません。 残虐性が垣間見え、発動数時間で市民を殺しているのに、政権奪取後に、旧権力者達への恐怖政治が行われないと考える人はいないでしょう。
しかし、大衆に支持されている現政権が理想的というわけではありません。 無教養な人のほうが、教養層よりも数が多いのです。 エルドアン政権がイスラム派に支持されている限り、やはりEU加盟は難題です。 EU加盟どころか、イスラム国家としてシャリーア化が進むことは、シリアやイラクの側に入ることを意味します。 ウンマは重大な教義ですから、孤立や静観すら許されないのです。 イスラムに正義を与えることは、「 シリアに介入しろ 」 と、アサド支持者とIS支持者と別の抵抗勢力支持者と、各方面の過激派からテロを食らいだすことを示すのです。 また、国是の一つである民族主義も許されません。
コトをややこしくしそうなのは、軍将校が上流層であり、軍が人材や予算をある程度自由にでき、また権威があったこと。
単細胞の陸軍が文民教養層を弾圧した戦前の日本と逆なのですが、文民(官僚や学者)や政治家層より、軍と医者がインテリという国家構造が世界的には割と多いのです。 途上国では当たり前の構造ですし、“伍長殿”と揶揄されていた大衆のリーダー、ヒトラーと、国防軍のエリート将校達との関係もそうでした。 ドイツの場合は、軍のヒトラー暗殺計画が成功していた場合のほうが戦争は早く終わり、死者は少なかったでしょう。
エルドアン政権はイスラム主義のポピュリズムに支持された開発独裁政権という性格が強く、教養層である司法や公務員とも仲が悪く、数千人をクビにしたとの報道があります。 こうしたことは、数十年の単位で見ると危険です。
大衆化、イスラム化が止まらない場合の救いは、今回の首謀者としてトルコ政府に名指しされたギュレン派です。 リーダーのギュレン氏は、イマーム(座主や枢機卿クラスの権威のある説教者)でありながらオープンな折衷派で、対話が主軸という根本的な安定性があります。 教育機関などを運営し、大勢の教養層がこのグループに属しているようです。 復員がないようならイスラム主義化が進みそうです。
フセインやアサドら、インテリ主導の権威主義的な汎アラブ主義が、欧米の後押しで、民衆のイスラム原理主義にとって代わられて、虐殺主義レベルの大惨事になっているというのがイスラム社会のこの10年の流れですから、これは警戒が必要です。
市民社会レベルの高いトルコですから、なかなか大勢が動くことはないとは思いますが、同じ構造が芽生えて対立が二極化すれば、テロなどが増えるでしょう。 対人テロ以外にも、たとえば今のトルコはビザンツ時代の遺跡を修復していますが、“民族”も宗旨も異にする遺跡なども標的にされそうです。
イスタンブールとアンカラについても触れておきましょう。
中学校の社会の時間に、地理で首都のアンカラ、歴史で主都のイスタンブール(コンスタンチノープル、ビザンチウム)の名を聞いていると思います。
イスタンブールは重要な都市で、トルコの都市というよりは、黒海やバルカンや東地中海の主都です。訪れた雰囲気としては、賑やかな明るい感じや、バザーや連絡線があったりして香港に似ています。香港が中国のなかで異色なように、イスラムの中でイスタンブールは異色で、西側の世界の窓口ともなっています。
人口は統計方法にもよりますが、概して1500万ほど。関西やソウル、ロサンゼルスや上海と同規模です。ロンドン、パリ、モスクワと並ぶ4大都市で、経済力ではビリかビリ2ですが人口では1位です。イスタンブールだけで他のバルカン諸国全部くらいの力があります。地図を見れば一目でわかるように、核が落ちない限りは一定の繁栄が宿命です。
アンカラは共和国になってから首都として発展した設計政治都市で、放っておいたら荒野の寒村に戻る場所です。歴史的には札幌、深セン、ブラジリアやキャンベラに近いです。
トルコにとってのイスタンブールは、日本にとっての東京と関西を足して、永田町を取った存在です。ですので、移動や治安や今後の動向を考える際に注視すべき場所です。 アンカラは有名ですが観光に向かず、危険ばかりなので、今の旅行はお勧めしません。
トルコ以外で影響があるかもしれないのは、ウイグルとキプロスあたりでしょうか。
中国領内のウイグル地区は、どこからどう見ても中国ではなく、中華人民共和国の占領状態ですが、パクス・チャイナと言える状態です。
チベットなどとは違い、地元民間の内乱の耐えなかった地域で、今の独立運動組織もウン十とあり、中国が退いたらさらに遠縁のロシアが入ってくるか、独立してオアシス間や部族間、イスラム諸派の抗争がはじまり、血の海となるでしょう。 潜在的なシリア・イラク地域やバルカン半島です。
トルコの件が民族問題になり、イスラムとトルコ民族のコンボとなれば、ウイグル地区も治安悪化の道を辿りそうです。現代ウイグル人は、本来のウイグル人とはあまり関係が無く、血脈としては白人や中国系も多いです。しかしロプノールの探検で有名なヘディンも彼らをトルコ人と記しているように、言語はトルコ系で、トルコ人同士という概念は成立しそうです。
中国はウイグル政策は比較的うまくやっていましたが、四川の漢族を移民として送り込むという一大失策をしており、また近年には、少数民族の特権であった一人っ子政策の除外も無くなりました。
日本は戦前、内蒙古に勢力を伸ばしていました。そこで外蒙古、今のモンゴル共和国辺りに手を伸ばしたり、中華民国の挟撃を目指して、ウイグルの独立運動を行っていました。そのため、今でも右派や民衆層に、ウイグル独立を煽ろうとする傾向があります。 日本語の情報は中立的意見が少ない環境なので、訪問経験やアジア史の基礎知識の無い方は、プチヒーロー感覚で対立を煽ったりしないよう、注意が必要です。
もう一つ荒れかねない場所を上げると、キプロスです。
キプロス島は古来、ギリシャ人が住んでいた島ですが、オスマン時代にトルコ人も住むようになり、2割か3割を占めるようになりました。
近代になりイギリスが奪取、お得意の分断政策をとります。
第二次大戦後、60年代から80年台に荒れます。
キプロス独立運動、ギリシャ併合運動が起こって、トルコが出兵するに至ります。
キプロスは独立しますが、諸々の運動や干渉は内乱に発展。キプロスの新政府が関係国に愛想を尽かし、どっちにもつかずに第三世界へと行こう……と決めたとき、アメリカが出てきて冷戦に巻き込まれ、出口無しとなります。
さらに追い討ちをかけるように、わざわざ石油を掘り出してしまい、ギリシャとトルコの対立が激化。 ギリシャがキプロスにクーデターを仕掛けます。そこにトルコ軍が侵入、戦争に。
結果、住民が民族別に移動。島を分断して、民族別に割拠する形に。 北部はトルコ系が実効支配し、トルコだけが承認しているそうです。 住民はギリシャ系のほうが多いのですが、政治経済はギリシャがダメなので余計複雑に。 EUに加盟して国境を薄くすることが解決の一つである地域でしょう。
地雷原と鉄条網が境界に敷かれているような所だったのが、ユーロ加入で対話が進むようになり、今は通行可能になっているということです。
長くなってしまいましたが、お出かけの際は充分にお気をつけて。
あまり縁のない僕のようなヒキは、危険を避けて自分の身を守るだけでなく、地雷を埋めたり、爆弾に火をつけたりしないことが平穏に暮らす道のようです。 概して、集団の帝国主義的な利益の奪い合いと、個人の正義の味方になりたいという煩悩が、混乱の主なのですから。